「右!」
ポックの声が飛んだ。
ルシアンは振り返らず、一歩だけ右へずれる。
直後、細長い影がその脇を抜けた。
人の腰ほどもある大きなトカゲだった。
四本の脚を広げ、岩壁から岩壁へ飛び移る。前脚と後脚の間には薄い皮膜が張られ、空中を滑るように進んでいた。
着地する前に、ポックが投索器を向ける。
左右の射出管が開いた。
乾いた音が三つ、ほとんど重なって響く。
二つの錘が左右へ広がり、その間を案内子が真っ直ぐ走った。
トカゲの胴を左右の錘が通り過ぎる。
索が腹へ当たり、そのまま身体へ巻きついた。
「かかった!」
着地したトカゲが走り出す。
巻胴から縄が勢いよく引き出された。
ポックの身体が前へ持っていかれる。
だが、もう以前のように慌てて踏ん張ることはなかった。
「センセイ!」
「ああ」
ルシアンがポックの後ろへ伸びている縄を掴んだ。
ぴん、と張る。
黒い巨体が、その場で止まった。
走っていたトカゲの身体が横へ振られ、脚をもつれさせて石床を転がる。
ポックがすぐに巻き上げを作動させた。
弛んだ縄が巻き取られていく。
「今!」
ルシアンが踏み込んだ。
起き上がろうとしたトカゲの背へ、黒い両手を置く。
押さえる。
それだけで、トカゲの身体は石床へ縫いつけられたように動かなくなった。
四本の脚が激しく床を引っ掻く。
「終わったかな?」
「まだ」
ポックが近づいた。
腰から短刀を抜き、前脚の付け根を探る。
鱗の薄い場所へ刃を差し込んだ。
しばらくして、トカゲの脚から力が抜けた。
「よし」
ポックが息を吐く。
ルシアンも手を離した。
「ずいぶん滑らかになったではないか」
「何が?」
「僕たちの連携だよ」
「八か月もやってりゃな」
ポックはしゃがみ込み、絡んだ索を解き始めた。
ルシアンの動きが止まる。
「……もう八か月か」
ポックは錘を一つ拾った。
「センセイ、そっち」
「ああ」
もう片方を拾って渡す。
左右の射出管へ錘を収め、中央には案内子を戻す。
最後に射出管を畳み、留め金を掛ける。
最初は二人がかりでも手間取っていた作業だった。
今では、会話をしながらでも終わる。
「これ、毎回センセイに持ってもらうの面倒だな」
ポックが縄を巻き取りながら言った。
「ようやく気づいたかね」
「前から思ってたよ」
ポックはルシアンの背負子を見る。
上部には、沈み庭へ行く前に付けさせた鉄輪が残っていた。
「ここにすぐ繋げられるようにできればな」
「僕としては、君自身が飛ばされない方が望ましいのだが」
「相手によるよ」
ポックは足元のトカゲを見た。
「こいつならまだいいけど、もっとでかいのに撃ったら、おれが先に飛ぶ」
「そのときは、僕へ繋いでから撃ちたまえ」
「だから、それを簡単にしたいんだよ」
「なるほど」
ルシアンは鉄輪へ目を向けた。
「では、次に町へ着いたら加工できる者を探そう」
「そうする」
それだけ決めて、ポックは素材袋を取り出した。
◇
転輪城を出てから、八か月が過ぎていた。
二人はその間ずっと、第四保全区を探し続けている。
ただ、探しているだけでは旅は続かない。
宿代がいる。
食料がいる。
道具も壊れる。
移動するだけでも金は減る。
だから町へ着けば仕事を探した。
採取。
護衛。
討伐。
そしてダンジョン。
春先には、石切場の奥へ続く洞穴へ潜った。
天井から落ちてくる石喰い虫をルシアンが受け止め、ポックがとどめを刺した。
持ち帰る部位を選んだのもポックだった。
初夏には、森の地下にある古い迷宮へ入った。
三日目に出口へ戻ったとき、ポックは二度と来ないと言った。
一月後には、別の入口から同じ迷宮へ入っていた。
前回持ち帰った青苔が、思ったより高く売れたからである。
湖沿いの洞窟では、投索器を使って長腕猿を捕らえた。
最初の一発は外した。
二発目は木へ絡んだ。
三発目でようやく猿へ巻きついたが、そのままポックが数歩引きずられた。
それからルシアンが縄を支えるようになった。
そんなことを繰り返した。
潜った。
戦った。
売った。
そのたびに地図も探した。
だが、第三保全中継所から持ち帰った図と一致する場所は、まだ見つかっていなかった。
◇
「そこの黒いの」
ダンジョンの受付所へ戻ったところで声をかけられた。
ルシアンが振り返る。
革鎧を着た若い冒険者が、こちらを見ていた。
「僕のことかね?」
「ああ。あんた、転輪城の――」
男は途中でポックへ目を移した。
「あ、そっちもいる」
「そっちって何だよ」
「いや、ほら。転輪庫を見つけた二人だろ?」
「六人だよ」
ポックは素材袋を受付台へ載せた。
中には、先ほど倒した滑空トカゲの皮膜と爪が入っている。
若い男がルシアンを見上げた。
「じゃあ、城獅子と戦ったってのも本当なんだ」
「ああ」
「黒い甲冑が押さえ込んで、他の連中が仕留めたって聞いた」
ポックが少しだけ眉を上げた。
「思ったよりちゃんと伝わってるんだな」
「何だよ」
「もっと変な話になってるかと思った」
男が笑う。
「変なのもあるぞ。転輪城から宝を山ほど背負って帰ったとか」
「それは、まあ……」
ポックがルシアンを見る。
男も見る。
背負子。
太い鉄輪。
何本もの固定用の革帯。
今も素材袋が二つ括りつけられている。
「……本当なのか?」
「山ほどという表現が、どの程度を指すかによるね」
ルシアンが胸を張った。
「少なくとも、僕がいなければ半分も持ち帰れなかったそうだよ」
「センセイ、それ自分で言うんだ」
「事実だからね」
若い冒険者は笑った。
「噂よりすげえな」
ポックは受付係へ向き直った。
「これ、査定お願い」
「ああ」
受付の男が袋を引き寄せる。
「皮膜は破れてないな。爪も三本か」
「右の二本は根元まである」
「分かった。少し待ってくれ」
横で若い冒険者が、まだルシアンを見ていた。
「……黒甲冑って、本当にずっとそのままなんだな」
「どういう意味かね」
「飯とか寝るときとか」
「僕にもいろいろ事情があるのだよ」
「へえ」
男はそれ以上追及せず、仲間のところへ戻っていった。
八か月も旅をしていれば、こういうことが増えた。
初めて見る人間が逃げることは、以前より少ない。
代わりに、どこかで聞いた話を持って近づいてくる。
ルシアン本人より先に、黒い甲冑の話だけが町へ着いていることもあった。
◇
素材を売ったあと、ポックは組合の二階へ上がった。
目的は討伐記録ではない。
古い地図だった。
「またか」
資料係の老人が、棚の前で言った。
「また」
「先月も来ただろう」
「先月見たのは新しい方」
「百年前の地図を新しいと言う奴は、お前くらいだ」
老人は呆れながら椅子へ座った。
ポックは第三保全中継所から持ち帰った板を机へ置く。
線と図形だけが刻まれている。
三つ並んだ山。
細長い水域。
曲がりくねった太い線。
「これより古い地図、まだない?」
「ここにはない」
「街道が変わる前のやつでもいい」
「それも見せただろ」
老人は板を覗き込んだ。
「そもそも、これが川なのか?」
「たぶん」
「たぶんで八か月探してるのか」
「だから見つからないんだよ」
「もっと分かりやすい地図を持ってくればいい」
「あるなら持ってきてる」
老人が鼻を鳴らした。
ルシアンは少し離れた壁際に立っていた。
「古代人には、地名を書くという発想がなかったのかね」
「書いてあっても読めないだろ」
ポックが言う。
「僕なら多少は読める」
「最初に鎧の説明を間違えて読んだ人が言う?」
「過去の失敗だけで人を評価するものではないよ」
老人が二人を見て笑った。
「その鎧、古代物なのか?」
「まあね」
ポックが板を引き寄せる。
「だから、できるだけ古い地図を探してる」
老人はしばらく黙っていた。
それから、もう一度板へ目を落とした。
「三つ山……」
「何か知ってる?」
「この辺じゃない」
老人は立ち上がり、棚の上段から大きな地方図を引き抜いた。
机へ広げる。
「もっと西へ行け」
太い指が街道をたどった。
今いる町から西へ。
二つの宿場を越えた先に、大きな町の印がある。
「オルディナだ」
「聞いたことないな」
「古い町だからな。今じゃ街道の中心でもない」
「古い地図は?」
「領主館に戦前の記録が残ってる。教会にも古文書庫があるはずだ」
ポックが顔を上げた。
「見せてもらえる?」
「俺に聞くな。頼んでみろ」
「行って駄目なら困るな」
「じゃあ行くな」
「行くよ」
ポックはもう地方図を見ていた。
老人が笑う。
「そう言うと思った」
その指が、オルディナからさらに西へ滑った。
「ついでに、この辺も見てこい」
三つの小さな山の印。
その南側には、細長い湖が描かれている。
ポックの目が止まった。
「……センセイ」
「ああ」
ルシアンも机へ近づいた。
第三保全中継所から持ち帰った板。
地方図。
二つを並べる。
完全には一致しない。
太い線の曲がり方が違う。
集落の位置も合わない。
八か月の間にも、似た場所はいくつか見つけた。
行ってみれば、どれも違った。
それでも。
「今までで一番近いな」
ポックが呟いた。
「そう見えるね」
老人が二人の顔を交互に見る。
「探してる場所か?」
「まだ分かんない」
ポックはすぐに答えた。
「でも、調べる」
地方図の位置を自分の地図へ書き写す。
町の名。
街道。
三つの山。
南の湖。
「明日出る?」
ルシアンが尋ねた。
「そのつもり」
「今日は?」
「宿探して、食料買って、さっきの金受け取る。縄も替えたい」
「忙しいな」
「いつもだろ」
ルシアンは少し考えた。
「では、金具の加工も今日のうちに頼めるか探そう」
ポックが顔を上げる。
「ああ。それもあったな」
八か月探して、ようやく見つけた。
二人は、西へ向かうことにした。