オルディナへ着いたのは、町を出てから四日目の午後だった。
入場門は、長い歳月を風雪に耐えてきた凄みを感じさせる、歴史ある佇まいだった。
灰色の石を積んだ城壁には補修の跡がいくつもあり、門柱の上に刻まれた紋章も角が削れている。
町の中へ入っても、新しい建物より古い石造りの家の方が多かった。
街路は緩やかに曲がりながら坂を上り、その途中から細い路地が何本も枝分かれしている。
ポックは歩きながら町図を何度か確かめていた。
「この道、地図にないな」
紙へ一本、線を書き足す。
それからしばらく進んだところで、ルシアンの足が遅くなった。
右手の路地を見る。
少し進んでは、またそちらを見る。
「センセイ、どうかしたか?」
「ああ……」
ルシアンは坂の上へ目を向けた。
「姉上が、この町に住んでいる」
ポックが地図から顔を上げた。
「そうなのか?」
「以前、手紙に住所が書いてあった。まだ変わっていなければ、この辺りのはずだ」
「じゃあ行こうぜ」
「……うむ」
返事のわりに、ルシアンの歩みは速くならなかった。
ポックは少しだけ横目で見たが、何も言わなかった。
◇
イモターレ家の長女エリシアーヌの嫁いだ家は、町の西側にあった。
大通りから一本入った静かな場所だった。
低い石壁に囲まれた小さな庭。
古いが、きれいに手入れされた二階建ての家。
門の脇には白い花が咲いている。
ルシアンは門の前で立ち止まった。
ポックも隣で止まる。
門の向こうには誰もいない。
「ここ?」
「ああ」
ルシアンは答えた。
それきりだった。
門へ手を伸ばす様子もない。
ポックはしばらく待ってから、家を見た。
「おれが呼んでこようか?」
「いや」
ルシアンが門の金具へ手を伸ばしかけた。
そのとき、庭の向こうで玄関の扉が開いた。
籠を持った女性が出てくる。
淡い栗色の髪を後ろでまとめ、落ち着いた色の長衣を着ていた。
門の前に立つ黒い巨体を見て、足を止める。
ルシアンも動かなかった。
「姉上」
兜越しの声が、静かな通りへ響いた。
女性の表情が変わった。
「まあ」
籠を置き、すぐにこちらへ歩いてくる。
「ルシアン」
門が開いた。
エリシアーヌは迷いなく黒い甲冑の前まで来た。
しばらく見上げる。
頭部。
胸。
腕。
背中の荷物。
「本当に大きいのね」
「姉上」
「手紙を読んでも、どんなものか想像できなかったの」
エリシアーヌは腕の装甲へそっと触れた。
黒い表面を指先でなぞる。
「痛くない?」
「今はまったく」
「そう」
それだけ聞くと、張っていた表情が少し緩んだ。
ルシアンは、そんな姉を見下ろしていた。
「……よく僕だと分かりましたね」
エリシアーヌが不思議そうに見上げる。
「声でわかるわ」
あまりにも簡単に言われた。
「ルシアンの声でしょう?」
ルシアンは黙った。
エリシアーヌは、もう甲冑の形を確かめてはいなかった。
そこに弟が立っていることを疑っていない。
やがて彼女の目が、隣にいたポックへ向いた。
「あなたがポックね」
ポックが少し姿勢を正した。
「はい。ポック・トバルです」
「エリシアーヌです。弟がお世話になっています」
「いや、おれもかなり世話になってるから」
「ポックン」
「本当だろ」
エリシアーヌが笑った。
「手紙にも、頼りにしているって書いてあったわ」
ポックがルシアンを見る。
ルシアンは庭の花へ顔を向けた。
「姉上。いつの手紙の話でしょう」
「夏の初めくらいだったかしら」
「ずいぶん昔のことですね」
「そうね」
それ以上、エリシアーヌは追及しなかった。
「中でお茶にしましょう」
◇
ルシアンは玄関を通れなかった。
肩の装甲が両側の枠へ当たり、身体を斜めにすると背負子が壁へ触れた。
二度試したところで諦めた。
結局、庭で休むことになった。
エリシアーヌとポックが小さな卓と椅子を運び出す。
ルシアンは庭の端にある低い石台へ腰を下ろした。
「それ、昔からあるらしいわ」
「僕が座るために残されていたのかもしれません」
「昔のあなたは、そんなに重くなかったわ」
エリシアーヌは卓へ茶を置いた。
焼き菓子の皿も添える。
ポックが礼を言って椅子へ座った。
もう一つ杯を用意しかけたところで、エリシアーヌの手が止まった。
「そういえば、食事はどうしているの?」
「この甲冑が自動的に身体を維持しているようです。空腹もありません」
エリシアーヌは少し眉を寄せた。
「鐘鳴り坑道で調べてもらってから、ずっと状態は変わっていません。身体にも異常はないそうです」
「眠れるの?」
「問題なく。もっとも宿の寝台には載れませんが」
「今はどこで寝てるの?」
「荷車小屋とか、倉庫とか」
ポックが答えた。
「屋根があればセンセイはだいたい平気」
エリシアーヌが弟を見た。
「ずいぶん逞しくなったのね」
「望んで獲得した逞しさではありません」
そう答える声には、以前ほど深刻さがなかった。
エリシアーヌもそれに気づいたのかもしれない。
何も言わず、ポックへ菓子の皿を寄せた。
「食べてね」
「ありがとうございます」
ポックが一つ取る。
少しして、もう一つ取った。
ルシアンはその様子を見ていた。
「おいしい?」
エリシアーヌが尋ねる。
「うん。これ、木の実?」
「胡桃と蜂蜜よ」
「へえ」
ポックは割った菓子の中を見た。
「保存できそうだな」
「ポックンは、食事中まで商売のことを考えているのかね」
「旅に持ってけそうだと思っただけだよ」
「作り方も教えましょうか?」
「いいの?」
「もちろん」
ポックはすぐに荷物から帳面を取り出した。
エリシアーヌは楽しそうに作り方を説明し始める。
ルシアンは二人を見ていた。
いつの間にか、姉とポックが自分を置いて話を進めている。
少しだけ面白くない。
「姉上」
「なあに?」
「僕も八か月の間に、かなりの経験を積んだのですが」
「ええ。聞かせて」
ルシアンは満足した。
◇
話し始めれば、八か月は長かった。
鐘鳴り坑道。
沈み庭。
転輪城。
そのあとに潜った小さなダンジョン。
全部を話したわけではない。
それでも日が傾くころまで話は続いた。
ポックが横から補うこともあった。
ルシアンの記憶と違うところを訂正することもあった。
転輪庫から持ち帰った宝の金額を聞いたときだけ、エリシアーヌは目を丸くした。
「そんなに?」
「六人で分けましたがね」
「それでも十分すごいわ」
「当然です」
ポックが茶を飲みながら笑った。
今まで何度も見てきた光景だった。
褒められると、甲冑で顔が見えなくてもルシアンが機嫌を良くしたことは分かる。
「それで、今はその……第四保全区というところを探しているのね」
「ええ」
ルシアンが答えた。
「この町に古い地図が残っていると聞きました。明日は教会へ行くつもりです」
「教会なら、昔の記録を保管している部屋があるわ」
ポックが顔を上げる。
「入ったことある?」
「私はないけれど、町の古い土地の記録を調べる人が使うと聞いたことがあるの。神父様には知り合いがいるから、紹介くらいならできると思うわ」
「助かります」
「明日の朝、一緒に行きましょうか」
「姉上にそこまでしていただかなくとも」
ルシアンが言った。
「私が行った方が話が早いでしょう?」
ルシアンは少し考えた。
「……では、お願いします」
ポックは黙って茶を飲んでいた。
◇
夕方。
ポックは家の中で、エリシアーヌから町周辺の古い道について聞いていた。
庭には姉弟だけが残った。
白い花の向こうへ、橙色の光が落ちている。
「姉上」
「なあに?」
「僕の顔を、見たくはありませんか」
エリシアーヌはすぐに答えた。
「見たいわ」
「……そうでしょう」
「だって、とても綺麗だったもの」
「だった、ではありません。今もです」
「あら。そうね」
エリシアーヌは笑った。
「甲冑がきれいに保ってくれているのでしょう?」
「ああ。そこだけは非常に優秀です」
「なら安心ね」
ルシアンは少し黙った。
「この姿のままでも?」
エリシアーヌの笑みは変わらなかった。
「顔が見えないのは寂しいわよ」
黒い腕へ手を置く。
「でも、今日ルシアンに会えたでしょう?」
その言葉に、ルシアンは返事をしなかった。
エリシアーヌも、答えを求めなかった。
夕日の中で、黒い外殻だけが鈍く光っていた。