遠くから、何かを叩く音が続いていた。
硬いものを。
何度も。
間隔を空けて。
ルシアンは、開いた解除区画を振り返った。
白い台座。
左右へ収められた器具。
探し求めていたものだった。
《北側経路・構造損傷進行》
《通行者三名を検出》
《安全区画への退避未完了》
灯りが一度、大きく明滅する。
「三人いる」
ルシアンが言った。
ポックは北へ続く通路を見た。
「場所は?」
「ここから北側だ。それ以上は分からない」
また音がした。
今度は少し弱い。
ルシアンは解除台から目を離した。
「行こう」
そのまま歩き出す。
ポックも続いた。
◇
北側へ向かうにつれて、中央保全拠点の損傷はひどくなった。
床の亀裂。
傾いた壁。
天井から落ちた白い板が、通路の端へ何枚も積み重なっている。
青白い灯りも半分ほどしか点かない。
途中の分岐で、ルシアンの頭へ意味が流れ込んだ。
《北側第二経路・閉塞》
《第三経路への迂回を要求》
「こっちだ」
右の通路へ曲がる。
ポックは壁を見ながら歩いていた。
「音、近くなってるな」
先ほどまで遠く響いていた打音が、はっきり聞こえる。
こん。
こん。
少し間を置いて。
こん。
誰かが助けを求めている。
第三経路へ入ると、床に泥が現れた。
白い通路には似つかわしくない、茶色い土。
さらに進む。
小石。
折れた木の根。
最後には、人の足跡まであった。
ポックがしゃがむ。
「三人かな」
足跡の大きさが違う。
一つは大きい。
一つは細い。
もう一つは、その中間。
どれも泥を引きずりながら奥へ続いていた。
ルシアンは前を見る。
天井の一部が崩れ、岩肌が露出している。
「上から入ったのか」
「たぶん」
三峰峡のどこかと、この場所がつながってしまったらしい。
それ以上考えている暇はなかった。
奥から声がした。
「誰かいるのか!」
男の声だった。
ルシアンが足を速める。
「いるとも!」
一瞬、向こうが静かになった。
「……人か?」
「この世で一番美しい男さ」
ポックが横からルシアンを見たが、何も言わなかった。
奥で別の声が上がる。
「こっちだ! 壁の向こう!」
◇
三人は、崩れた通路の先にいた。
正確には、見えなかった。
白い壁の一部が大きく歪み、その手前へ天井材と岩が崩れ落ちている。
隙間の向こうから声だけが聞こえた。
「怪我は?」
ポックが尋ねる。
「一人、脚をやられてる! 俺たちは動ける!」
「重症か?」
「足を挟まれて動けないが、今すぐどうこうって状態じゃない!」
ポックは崩落の前まで行き、しゃがんだ。
岩の隙間から冷たい風が流れてくる。
「こっちから掘るのは無理だな」
崩れた岩は一つ一つが大きい。
ルシアンなら動かせる。
だが手前から順番に抜けば、上に載ったものまで落ちてくる。
ポックは少し離れた。
天井を見る。
壁を見る。
また崩落を見る。
「センセイ、これ持ち上げられる?」
指したのは、一番手前に斜めに倒れている白い梁だった。
ルシアンが両手をかける。
力を入れる。
わずかに浮いた。
上の瓦礫が、ざらりと動いた。
「下ろして」
ルシアンは戻した。
ポックは梁の向こうを覗き込む。
そこから数歩後ろへ下がった。
「これ一本だけなら抜ける。でも抜いたら上が落ちる」
「支えればいいかね」
「ずっと?」
「必要なら」
ポックは返事をせず、荷物を開いた。
縄を出す。
投索器も下ろした。
崩落の上部を見上げる。
「向こうに何か固定できるところある?」
壁の向こうで男が動く気配がした。
「柱が一本ある!」
「太い?」
「抱えても腕が回らないくらいだ!」
ポックは投索器を構えた。
「顔を出すなよ!」
「出せる隙間なんかない!」
射出管が開く。
崩落の上に、拳二つほどの隙間があった。
ポックはそこへ案内子を向ける。
射出。
案内子が隙間を抜けた。
左右の錘も岩の間へ消える。
少し遅れて、向こうで硬い音が二度した。
「柱の近くに落ちた!」
「縄を柱の後ろに回してくれ!」
向こう側で二人が動く。
主索が引かれる。
少し緩む。
また引かれる。
「回した!」
ポックは巻き上げを動かした。
索が張る。
「センセイ、こっち」
投索器の後端から伸びる短い索を、ルシアンの背負子の金輪へ繋ぐ。
かちん。
「引いて」
ルシアンが一歩下がった。
主索が強く張る。
崩落の向こうにある柱と、ルシアンの巨体が一本の線でつながった。
ポックはその張った索へ、持っていた長縄を何本か結びつける。
梁の上へ回す。
別の岩へ回す。
結び目を締める。
ルシアンは黙って見ていた。
やがてポックが立ち上がる。
「これで少しは上を支えられる」
「少し?」
「全部センセイに預けたら、柱が先に抜けるかもしれない」
「なるほど」
「梁を持ち上げて。ゆっくり」
ルシアンが両腕を差し込む。
持ち上げる。
白い梁が浮いた。
上の瓦礫が軋む。
縄が張った。
対岸の柱が耐える。
「そのまま」
ポックが隙間へ身体を寄せた。
「一人ずつ出られる?」
「怪我してない二人なら!」
最初に男が這い出してきた。
泥だらけの革鎧。
額から血が流れている。
続いて、弓を背負った女性。
二人とも外へ出ると、すぐに振り返った。
「もう一人は?」
「脚を挟まれてる!」
ポックが隙間を覗く。
「岩?」
「床の板みたいなのだ!」
ルシアンの腕に、さらに重みがかかった。
梁の上で何かが動いている。
《周辺構造物の変位を検出》
余計な報告だった。
「センセイ、まだ持つ?」
「ああ」
短く答える。
ポックは隙間へ入った。
「ポックン」
「見てくるだけ!」
止める間もなく、少年の身体が向こうへ消えた。
ルシアンは梁を支えたまま動けない。
しばらくして、ポックの声がする。
「壁の一部が倒れてる!」
「動かせるか?」
「無理!」
当然だろう。
ルシアンは自分の両手を見る。
塞がっている。
梁を離せば、上が崩れる。
「代われるか?」
最初に出てきた男が梁へ手をかけた。
「無理だと思うよ」
「やるだけ――」
ルシアンが少しだけ力を抜いた。
男の腕が一瞬で下がる。
「無理だな!」
すぐに手を離した。
ルシアンが再び持ち上げる。
奥でポックが何かを動かしている音がした。
「センセイ!」
「何だね!」
「後ろの縄、もう一本使える?」
ルシアンは背負子へ手を伸ばせない。
外に出た女がすぐに動いた。
「どれ?」
「右の束だ」
ポックの声を頼りに、女が縄を外す。
「それを中へ!」
隙間から縄が送られる。
しばらくして。
「センセイ、引ける?」
一本の縄が隙間から伸びてきた。
先端を男が受け取る。
ルシアンの腕へ巻きつけた。
「引くぞ」
梁を支えたまま、腕を曲げる。
縄が張る。
向こうで重いものが擦れた。
「もう少し!」
引く。
さらに。
ず、と大きな音がした。
「抜けた!」
ポックの声。
少しして、隙間から足が見えた。
男と女が手を伸ばす。
怪我人を引き出した。
最後にポックが這い出してくる。
「出た!」
「なら離れるよ」
全員が崩落から離れた。
ルシアンは梁を下ろした。
直後。
ごう、と音を立てて瓦礫が崩れた。
さきほどまで人が通っていた隙間が、完全に埋まる。
白い粉塵が通路へ広がった。
しばらく、誰も喋らなかった。
◇
怪我人は若い男だった。
脚を酷く腫らしているが、骨が飛び出している様子はない。
仲間の二人が肩を貸そうとする。
ルシアンがその前へしゃがんだ。
「乗りたまえ」
若い男が黒い背中を見る。
「……いいのか?」
「歩けないのだろう」
ポックが背負子の荷物を少し移動させる。
若い男を乗せ、縄で身体を支えた。
「重くないか?」
「質問の意味が分からないね」
ルシアンは立ち上がった。
若い男が大きく揺れる。
「うわっ」
「暴れないでもらいたい」
「す、すまん」
戻る方向へ歩き始める。
三人は三峰峡の西壁道を進んでいる途中、足場ごと崩れたらしい。
気がつけば、見たこともない白い通路の中にいた。
戻ろうとしたところでさらに崩れ、閉じ込められた。
それ以上のことは、本人たちにも分からなかった。
ルシアンも聞かなかった。
中央保全拠点へ戻るころには、異常を告げていた灯りも落ち着き始めていた。
《通行者三名・安全区画への移動を確認》
《緊急保全要求を解除》
ルシアンは意味をポックへ伝えた。
「ここまで来れば大丈夫そうだ」
ポックが三人を見る。
「搬送台まで送る。上に出たら三峰峡の入口まで戻れる」
負傷者を背負ったまま、ルシアンは歩いた。
途中。
解除区画へ続く分岐の前を通った。
青白い線は、まだ灯っていた。
円形の扉も開いたまま。
その奥には、白い解除台が見える。
ルシアンの足が一瞬だけ遅くなったが、そのまま歩き続けた。
負傷者を背負い直し、搬送台へ向かう。
まずは三人を外へ出す。
話は、そのあとだ。