「始めよう」
ルシアンが解除台へ上がった。
足を置く位置が青白く光る。
背中を湾曲した台座へ預けると、左右から白い器具が伸びてきた。
腕。
脚。
腰。
順番に固定される。
がちり。
最後に兜の左右へ細い器具が近づいた。
ルシアンの身体がわずかに強張る。
ポックは少し離れたところに立っていた。
「痛かったら言えよ」
「言ったところで止められるのかね」
「分かんない」
「では、痛くないことを祈ってくれたまえ」
ポックは解除台の脇に置いていた荷物を少し後ろへ退けた。
透明な窓の向こうで、最後の一本が青白く光っている。
《解除処理を開始》
《接続分離材を使用》
透明な筒の液体が減り始めた。
細い管を通って、解除台の内部へ吸い込まれていく。
ルシアンの背中に、冷たい感覚が走った。
「む」
「痛い?」
「いや」
冷たさは首から肩へ。
背骨に沿って腰へ。
そこから腕と脚へ広がっていく。
八か月もの間、ほとんど意識することのなかったものがあった。
甲冑の内側。
自分の皮膚へ刺さっている、生体針。
普段は存在を忘れている。
だが今は、その一本一本の周囲を冷たいものがなぞっているように感じた。
《神経接続分離処理》
指先が痺れた。
次に足。
胸。
ルシアンは息を吐く。
「センセイ?」
「問題ないよ」
解除台の内部で小さな音が続いた。
かち。
かち。
甲冑の関節が、今までとは違う動きをしている。
ルシアンが右手を動かそうとした。
黒い指が動く。
まだ自分の身体だ。
左手も。
脚も。
同じ。
《外殻駆動同期を解除》
次の瞬間。
右手を動かした。
黒い指は動かなかった。
「……おお」
「どうした?」
ルシアンはもう一度、手を握ろうとする。
甲冑は動かない。
だが。
中では、自分の指が動いている。
「僕の手が、甲冑の手ではなくなった」
ポックが黒い腕を見た。
外からは何も変わっていない。
それでもルシアンには分かった。
八か月ぶりだった。
腕を動かしても、三百キロ近い外殻がついてこない。
ほんの数本の指を曲げただけなのに、妙に軽い。
《生体固定を順次解除》
背中に小さな刺激。
一本。
また一本。
針が抜けている。
「……これは少々」
「痛い?」
「少々だ」
さらに抜ける。
ルシアンの眉が寄った。
「かなり少々だ」
「どっちだよ」
「静かにしてくれたまえ」
最後の数本が抜けた。
身体の奥に残っていた圧迫感が消える。
ルシアンは大きく息を吸った。
胸が膨らむ。
それだけのことに驚いた。
呼吸自体は、甲冑の中でもずっとしていた。
だが今は、自分の胸だけが動いている。
《生体接続解除を確認》
《従事者登録を――》
そこで。
途切れた。
ルシアンは目を瞬いた。
待つ。
何も来ない。
頭の中が静かだった。
「……センセイ?」
ルシアンは返事をしなかった。
もう一度待った。
何もない。
あの融通の利かない通知も。
勝手に生体状態を報告する意味も。
こちらが怒鳴っているのに同じ内容を繰り返す反応も。
何一つ来ない。
「聞こえなくなった」
「何が?」
「甲冑の声だよ」
ポックは黒い外殻を見た。
まだそこにある。
ルシアンの身体を覆ったまま。
だが、もうルシアンの一部ではなかった。
解除台から低い音が鳴る。
背中の装甲に一本の隙間が走った。
ルシアンが息を止める。
黒い外殻が開いていく。
背中。
肩。
頭部。
第一話で彼自身が入ったときとは、逆の順番で。
外の空気が入り込んだ。
首筋へ触れる。
冷たい。
ルシアンの喉が動いた。
「……寒いな」
ポックは何も言わなかった。
背面の装甲が完全に開く。
固定具も外れた。
ルシアンは片足を前へ出した。
黒い脚ではない。
自分の脚だった。
床へ下ろす。
身体が前へ飛びそうになった。
「うわっ」
ポックが反射的に腕を伸ばす。
ルシアンは解除台へ手をついて踏みとどまった。
「軽い」
三百キロ近い身体を八か月動かしていた。
そのつもりで一歩踏み出したのだ。
自分自身の身体が、信じられないほど軽かった。
もう一度。
今度は慎重に足を出す。
立てた。
黒い外殻から、一人の男が抜け出した。
長い黒髪。
白い肌。
細身だが、よく鍛えられた身体。
そして。
深い碧色の瞳。
ポックは黙っていた。
ルシアンは自分の両手を見た。
指を開く。
閉じる。
手の甲を裏返す。
その手を、ゆっくり自分の顔へ持っていった。
頬に触れる。
柔らかい。
鼻。
唇。
顎。
全部ある。
分かっていた。
甲冑はずっと、生体状態は良好だと言っていた。
鑑定でも、肉体は最適な状態に保たれていると分かっていた。
それでも。
自分の指で自分の頬に触れたのは、八か月ぶりだった。
「……ポックン」
「うん」
「僕の顔は?」
ポックはルシアンを見た。
上から下まで。
もう一度、顔へ戻る。
「変わってない……と思う。最後に見たのが結構前だからあんまり自信ないけどな」
ルシアンの口元が、ゆっくりと持ち上がった。
「そうか」
それだけ言った。
ポックは少し意外そうな顔をしたが、何も言わなかった。
解除台の脇。
透明な窓の中では、五つの窪みがすべて空になっていた。
ルシアンはまだ気づいていない。
自分の顔を両手で確かめるのに忙しかった。
やがて顔から手を離す。
いつものように胸を張った。
甲冑がないせいで、以前よりずっと小さく見える。
「さて」
ルシアン・イモターレは八か月ぶりに、自分自身の身体で立っていた。
「鏡を探そう」