僕の美しさが見せられない!   作:柿木杮

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第40話 ただいま

「鏡を探そう」

 

 そう言って歩き出しかけたルシアンを、ポックが呼び止めた。

 

「センセイ」

 

「何だね」

 

 ポックは解除台を指した。

 

 黒い外殻が、背面を開いたまま残っている。

 

「あれ、どうする?」

 

「……そうだったね」

 

 ルシアンは戻った。

 

 外殻の腕を掴んでみる。

 

 持ち上げようとする。

 

 動かない。

 

 両手を使った。

 

 やはり動かない。

 

「重いな」

 

「今さら?」

 

「今まで重さを感じる側ではなかったからね」

 

 動いていたころなら、自分の身体として歩かせることができた。

 

 今は、ただの巨大な塊である。

 

 ポックは背面へ回った。

 

 八か月使い続けた背負子が、まだ外殻へ取りつけられている。

 

 革帯を外す。

 

 縄。

 

 予備の金具。

 

 残っていた保存食。

 

 水袋。

 

 少しずつ床へ下ろしていった。

 

「全部は持てないな」

 

「僕も持とう」

 

 ルシアンが水袋と縄の束を取る。

 

 いつものつもりでまとめて持ち上げた。

 

 腕が下がった。

 

「……重いな」

 

 ポックが顔を上げた。

 

 ルシアンは縄を半分戻した。

 

「今の僕には、少々過剰だったようだ」

 

 ポックは何も言わず、残りを自分の荷物へ括りつけた。

 

 投索器も肩へ掛ける。

 

 背負子だけは、その場へ残した。

 

 ルシアンは黒い外殻を見た。

 

 丸い頭。

 

 太い腕。

 

 大きく膨らんだ胴体。

 

 八か月間、毎日見下ろしていた身体だった。

 

「置いていくしかないな」

 

「ああ」

 

 解除台の周囲には、まだ青白い灯りが点いている。

 

 扉も開いたままだ。

 

 ここなら、三峰峡の岩壁へ放置するよりはずっとましだった。

 

 ルシアンは外殻の胸へ手を置いた。

 

 何も起こらない。

 

 当然、頭の中にも何も届かなかった。

 

「では、しばらくここで待っていたまえ」

 

 返事はない。

 

 ルシアンは手を離した。

 

 二人で解除区画を出た。

 

     ◇

 

 中央保全拠点を歩いている間、ルシアンは何度か壁を見た。

 

 灯りは点いている。

 

 床の青白い線も残っている。

 

 だが、それだけだった。

 

 どの扉の前を通っても。

 

 どの印へ近づいても。

 

 何も頭へ入ってこない。

 

「静かだな」

 

 ルシアンが呟いた。

 

 ポックは少し前を歩いていた。

 

「さっきも言ってたな」

 

「あれほど鬱陶しかったのにね」

 

 白い通路へ、二人分の足音だけが響く。

 

 今までなら、その途中へ甲冑の通知が割り込んできた。

 

 生体状態。

 

 経路。

 

 作業。

 

 損傷。

 

 聞いてもいないことまで、律儀に知らせてきた。

 

 今は何もない。

 

 ルシアンは少しだけ耳を澄ませた。

 

 もちろん、聞こえるはずもなかった。

 

 搬送台は動いた。

 

 二人が乗っても、何の通知もないまま上昇を始める。

 

 ルシアンは壁へ手をついた。

 

 以前より揺れを強く感じた。

 

「これ、結構速かったんだな」

 

「今まで気づかなかったの?」

 

「あの頑丈な身体では、多少の揺れなど気にならなかった」

 

 ポックは縦穴の上を見た。

 

「落ちるなよ」

 

「君は僕を何だと思っている」

 

 搬送台が止まった。

 

 第四保全区へ戻る。

 

 そこから三峰峡へ出るまで、道は開いたままだった。

 

 岩壁の隙間を抜ける。

 

 外の光が差し込んできた。

 

 ルシアンは目を細めた。

 

 風が顔へ当たる。

 

 髪が揺れる。

 

 思わず手で押さえた。

 

「……風とは、こんなに直接的だったのか」

 

 ポックは先へ出ていた。

 

 谷には午後の光が差している。

 

 対岸の岩肌。

 

 遠くの三つの峰。

 

 眼下を流れる川。

 

 同じ景色を、ほんの数刻前にも見ていた。

 

 だが今は、すべてが違って見えた。

 

 ルシアンは顔へ触れる風をしばらく受けていた。

 

 頭上を、大きな影が横切った。

 

 反射的にポックの前へ出る。

 

 次の瞬間。

 

 自分の腕を見る。

 

 黒くない。

 

 硬くもない。

 

 ポックがルシアンの袖を掴み、壁側へ引いた。

 

 二人ともそのまま空を見た。

 

 灰色の飛行魔物は、こちらへ降りてこなかった。

 

 谷の向こうへ消えていく。

 

 ポックは手を離した。

 

「西壁道で帰ろう」

 

「ああ」

 

 今度はルシアンも異論がなかった。

 

     ◇

 

 オルディナの西門が見えてきたころには、空が赤くなり始めていた。

 

 門番の前を通る。

 

 視線を感じた。

 

 ルシアンは少しだけ背筋を伸ばした。

 

 町へ入る。

 

 また一人。

 

 今度は正面から歩いてきた女性が、すれ違ったあとに振り返った。

 

 少し先では、荷物を運んでいた男が一瞬手を止めた。

 

 ルシアンの口元が緩む。

 

「ポックン」

 

「何?」

 

「世界が正常に戻りつつある」

 

 ポックは前を歩いたままだった。

 

 ルシアンは機嫌よく髪を整えた。

 

 八か月ぶりだった。

 

 人に見られる。

 

 顔を。

 

 自分自身を。

 

 それだけのことが、こんなにも心地よい。

 

 エリシアーヌの家へ着く。

 

 低い石壁。

 

 白い花。

 

 数日前と何も変わっていない。

 

 変わったのはルシアンの方だった。

 

 門を開ける。

 

 玄関まで歩く。

 

 そこで足が止まった。

 

「センセイ?」

 

「いや」

 

 扉を見る。

 

 前に来たときは、肩がつかえて入れなかった。

 

 庭へ回るしかなかった。

 

 ルシアンは取っ手へ手をかけた。

 

 扉を開ける。

 

 そのまま入った。

 

 何にも当たらない。

 

 身体を斜めにする必要もない。

 

 ただ歩くだけで、家の中へ入れた。

 

「……普通だな」

 

 奥から足音がした。

 

「どなた?」

 

 エリシアーヌが廊下へ出てくる。

 

 ルシアンを見た。

 

 止まった。

 

 しばらく、そのままだった。

 

「姉上」

 

 エリシアーヌの目が大きくなる。

 

「ルシアン」

 

「ええ」

 

 彼女はすぐ近くまで来た。

 

 顔を見る。

 

 髪を見る。

 

 頬へ手を伸ばす。

 

 指先が触れた。

 

「外れたのね」

 

「外れました」

 

 それだけだった。

 

 エリシアーヌはルシアンを抱きしめた。

 

 黒い甲冑が間にない。

 

 腕が、そのまま身体へ回る。

 

 ルシアンも姉の背中へ手を置いた。

 

「ただいま、姉上」

 

「おかえりなさい」

 

 少し離れたところで、ポックが荷物を床へ下ろした。

 

     ◇

 

 エリシアーヌの家には、鏡があった。

 

 寝室へ置くような大きな姿見ではない。

 

 居間の壁へ掛けられた、上半身が映る程度の鏡だった。

 

 それでも十分だった。

 

 ルシアンは、その前に立った。

 

 黒髪。

 

 碧い目。

 

 白い肌。

 

 鼻梁。

 

 口元。

 

 見慣れていたはずの顔。

 

 八か月前までは、毎朝見ていた顔。

 

 ルシアンは鏡へ近づいた。

 

 右を向く。

 

 左を向く。

 

 前髪を持ち上げる。

 

 頬へ触れる。

 

 目元を見る。

 

「……」

 

 ポックは椅子へ座り、エリシアーヌから渡された水を飲んでいた。

 

 ルシアンはまだ鏡を見ている。

 

「どう?」

 

 エリシアーヌが聞いた。

 

「問題ありません」

 

 ルシアンは少しだけ顎を上げた。

 

「完璧です」

 

 エリシアーヌが笑った。

 

 ポックは水を飲み続けていた。

 

 鏡の中。

 

 ルシアンの後ろには、椅子へ座るポックが映っている。

 

 その横には姉。

 

 黒い甲冑は、どこにもない。

 

 ルシアンはしばらく自分の顔を眺めていた。

 

 やがて。

 

 鏡の中のポックへ目を向けた。

 

「ポックン」

 

「何?」

 

「明日は髪を整えに行こう」

 

「勝手に行けば?」

 

「君もだよ」

 

 ポックが顔を上げた。

 

「なんでおれまで?」

 

 ルシアンは鏡へ向き直った。

 

「隣を歩く者にも、多少の品格は必要だからね」

 

「行かない」

 

「費用は僕が出そう」

 

「……いくら?」

 

 ルシアンは笑った。

 

 鏡の中でも、やはりその笑顔は美しかった。

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