「鏡を探そう」
そう言って歩き出しかけたルシアンを、ポックが呼び止めた。
「センセイ」
「何だね」
ポックは解除台を指した。
黒い外殻が、背面を開いたまま残っている。
「あれ、どうする?」
「……そうだったね」
ルシアンは戻った。
外殻の腕を掴んでみる。
持ち上げようとする。
動かない。
両手を使った。
やはり動かない。
「重いな」
「今さら?」
「今まで重さを感じる側ではなかったからね」
動いていたころなら、自分の身体として歩かせることができた。
今は、ただの巨大な塊である。
ポックは背面へ回った。
八か月使い続けた背負子が、まだ外殻へ取りつけられている。
革帯を外す。
縄。
予備の金具。
残っていた保存食。
水袋。
少しずつ床へ下ろしていった。
「全部は持てないな」
「僕も持とう」
ルシアンが水袋と縄の束を取る。
いつものつもりでまとめて持ち上げた。
腕が下がった。
「……重いな」
ポックが顔を上げた。
ルシアンは縄を半分戻した。
「今の僕には、少々過剰だったようだ」
ポックは何も言わず、残りを自分の荷物へ括りつけた。
投索器も肩へ掛ける。
背負子だけは、その場へ残した。
ルシアンは黒い外殻を見た。
丸い頭。
太い腕。
大きく膨らんだ胴体。
八か月間、毎日見下ろしていた身体だった。
「置いていくしかないな」
「ああ」
解除台の周囲には、まだ青白い灯りが点いている。
扉も開いたままだ。
ここなら、三峰峡の岩壁へ放置するよりはずっとましだった。
ルシアンは外殻の胸へ手を置いた。
何も起こらない。
当然、頭の中にも何も届かなかった。
「では、しばらくここで待っていたまえ」
返事はない。
ルシアンは手を離した。
二人で解除区画を出た。
◇
中央保全拠点を歩いている間、ルシアンは何度か壁を見た。
灯りは点いている。
床の青白い線も残っている。
だが、それだけだった。
どの扉の前を通っても。
どの印へ近づいても。
何も頭へ入ってこない。
「静かだな」
ルシアンが呟いた。
ポックは少し前を歩いていた。
「さっきも言ってたな」
「あれほど鬱陶しかったのにね」
白い通路へ、二人分の足音だけが響く。
今までなら、その途中へ甲冑の通知が割り込んできた。
生体状態。
経路。
作業。
損傷。
聞いてもいないことまで、律儀に知らせてきた。
今は何もない。
ルシアンは少しだけ耳を澄ませた。
もちろん、聞こえるはずもなかった。
搬送台は動いた。
二人が乗っても、何の通知もないまま上昇を始める。
ルシアンは壁へ手をついた。
以前より揺れを強く感じた。
「これ、結構速かったんだな」
「今まで気づかなかったの?」
「あの頑丈な身体では、多少の揺れなど気にならなかった」
ポックは縦穴の上を見た。
「落ちるなよ」
「君は僕を何だと思っている」
搬送台が止まった。
第四保全区へ戻る。
そこから三峰峡へ出るまで、道は開いたままだった。
岩壁の隙間を抜ける。
外の光が差し込んできた。
ルシアンは目を細めた。
風が顔へ当たる。
髪が揺れる。
思わず手で押さえた。
「……風とは、こんなに直接的だったのか」
ポックは先へ出ていた。
谷には午後の光が差している。
対岸の岩肌。
遠くの三つの峰。
眼下を流れる川。
同じ景色を、ほんの数刻前にも見ていた。
だが今は、すべてが違って見えた。
ルシアンは顔へ触れる風をしばらく受けていた。
頭上を、大きな影が横切った。
反射的にポックの前へ出る。
次の瞬間。
自分の腕を見る。
黒くない。
硬くもない。
ポックがルシアンの袖を掴み、壁側へ引いた。
二人ともそのまま空を見た。
灰色の飛行魔物は、こちらへ降りてこなかった。
谷の向こうへ消えていく。
ポックは手を離した。
「西壁道で帰ろう」
「ああ」
今度はルシアンも異論がなかった。
◇
オルディナの西門が見えてきたころには、空が赤くなり始めていた。
門番の前を通る。
視線を感じた。
ルシアンは少しだけ背筋を伸ばした。
町へ入る。
また一人。
今度は正面から歩いてきた女性が、すれ違ったあとに振り返った。
少し先では、荷物を運んでいた男が一瞬手を止めた。
ルシアンの口元が緩む。
「ポックン」
「何?」
「世界が正常に戻りつつある」
ポックは前を歩いたままだった。
ルシアンは機嫌よく髪を整えた。
八か月ぶりだった。
人に見られる。
顔を。
自分自身を。
それだけのことが、こんなにも心地よい。
エリシアーヌの家へ着く。
低い石壁。
白い花。
数日前と何も変わっていない。
変わったのはルシアンの方だった。
門を開ける。
玄関まで歩く。
そこで足が止まった。
「センセイ?」
「いや」
扉を見る。
前に来たときは、肩がつかえて入れなかった。
庭へ回るしかなかった。
ルシアンは取っ手へ手をかけた。
扉を開ける。
そのまま入った。
何にも当たらない。
身体を斜めにする必要もない。
ただ歩くだけで、家の中へ入れた。
「……普通だな」
奥から足音がした。
「どなた?」
エリシアーヌが廊下へ出てくる。
ルシアンを見た。
止まった。
しばらく、そのままだった。
「姉上」
エリシアーヌの目が大きくなる。
「ルシアン」
「ええ」
彼女はすぐ近くまで来た。
顔を見る。
髪を見る。
頬へ手を伸ばす。
指先が触れた。
「外れたのね」
「外れました」
それだけだった。
エリシアーヌはルシアンを抱きしめた。
黒い甲冑が間にない。
腕が、そのまま身体へ回る。
ルシアンも姉の背中へ手を置いた。
「ただいま、姉上」
「おかえりなさい」
少し離れたところで、ポックが荷物を床へ下ろした。
◇
エリシアーヌの家には、鏡があった。
寝室へ置くような大きな姿見ではない。
居間の壁へ掛けられた、上半身が映る程度の鏡だった。
それでも十分だった。
ルシアンは、その前に立った。
黒髪。
碧い目。
白い肌。
鼻梁。
口元。
見慣れていたはずの顔。
八か月前までは、毎朝見ていた顔。
ルシアンは鏡へ近づいた。
右を向く。
左を向く。
前髪を持ち上げる。
頬へ触れる。
目元を見る。
「……」
ポックは椅子へ座り、エリシアーヌから渡された水を飲んでいた。
ルシアンはまだ鏡を見ている。
「どう?」
エリシアーヌが聞いた。
「問題ありません」
ルシアンは少しだけ顎を上げた。
「完璧です」
エリシアーヌが笑った。
ポックは水を飲み続けていた。
鏡の中。
ルシアンの後ろには、椅子へ座るポックが映っている。
その横には姉。
黒い甲冑は、どこにもない。
ルシアンはしばらく自分の顔を眺めていた。
やがて。
鏡の中のポックへ目を向けた。
「ポックン」
「何?」
「明日は髪を整えに行こう」
「勝手に行けば?」
「君もだよ」
ポックが顔を上げた。
「なんでおれまで?」
ルシアンは鏡へ向き直った。
「隣を歩く者にも、多少の品格は必要だからね」
「行かない」
「費用は僕が出そう」
「……いくら?」
ルシアンは笑った。
鏡の中でも、やはりその笑顔は美しかった。