エリシアーヌの家を出たあと、二人はオルディナの宿に部屋を取った。
そして翌朝。
ポックは椅子へ座らされていた。
「じっとしていたまえ」
「なんでおれまでなんだよ」
「髪を切ると決めただろう」
「決めたのセンセイだろ」
理髪師が笑いを堪えながら、ポックの前髪へ櫛を入れる。
向かいの椅子では、すでにルシアンの髪が整えられていた。
肩へ流れていた黒髪は長さをほとんど変えず、毛先だけが綺麗に揃っている。
本人の希望である。
「揃えただけでかなりよくなりましたね」
理髪師が言った。
「当然だよ。完璧な状態で維持されていた髪だからね」
「本当にしばらく、切ってなかったんですか?」
「ああ」
理髪師はもう一度、ルシアンの髪を見た。
「枝毛もありませんね」
ルシアンは満足そうに頷いた。
「古代文明にも、評価すべき点はあったらしい」
ポックの前髪が一房落ちた。
「あっ」
「動かないで」
「今、結構切っただろ」
「まさか。プロだぞこっちは」
理髪師がポックに反論するのをルシアンは鏡越しに見ながら言った。
「悪くない」
「センセイの感想は聞いてない」
さらに一房落ちる。
ポックは諦めたように椅子の背へ身体を預けた。
◇
店を出てからも、ルシアンは何度か窓へ映る自分を確認した。
石造りの家の窓。
磨かれた金属板。
店先に置かれた水瓶。
自分が映るものがあれば、とりあえず見る。
八か月分を取り戻しているらしい。
ポックは隣を歩いていた。
前髪が短くなり、目元が以前よりはっきり見える。
「似合っているよ」
「そう」
「もっと喜びたまえ」
「髪切っただけだろ」
ポックは通りの先を見た。
荷馬車が二台、並んで停まっている。
荷台には麻袋と木箱。
一台の車輪を、男がしゃがんで調べていた。
ポックの足が少し遅くなる。
ルシアンはその横顔を見た。
ポックは何も言わず、そのまま歩いた。
◇
昼を過ぎるころには、ルシアンの服も揃った。
深い青の上着。
白いシャツ。
細身の黒いズボン。
革靴。
すべて既製品だったが、仕立屋で少し手を入れてもらった。
鏡の前で袖を整える。
「やはり、服というものは大切だね」
ポックは店の壁際で待っていた。
「昨日まで着られなかったもんな」
「ああ。どれほど優れた服でも、あの外殻の上からでは台無しだ」
ルシアンは横を向く。
背中を見るために、もう一枚の鏡を店員に動かしてもらう。
八か月前と同じだった。
鏡を見る。
服を選ぶ。
自分に似合うか確かめる。
それだけで一日の半分が終わった。
以前なら、それを当然のことだと思っていた。
今日は妙に楽しかった。
店を出ると、ポックが一枚の紙を取り出した。
さきほどまで持っていなかったものだった。
「何だね、それは」
「荷馬車の値段」
ルシアンは紙を覗いた。
数字がいくつも並んでいる。
「買うのか?」
「まだ決めてない」
ポックは紙を折った。
「中古なら、今の金で余裕で買える。馬まで買ってもたっぷり余裕ある」
それだけ言って、紙を背負い袋へ入れた。
ルシアンは何も言わなかった。
◇
夕方。
二人は宿の食堂にいた。
ルシアンは椅子へ座っている。
普通の椅子だった。
座面が軋むこともない。
背もたれが折れる心配もない。
卓の上には、煮込んだ肉と豆。
焼いたパン。
薄い酒。
ルシアンは匙を取った。
自分の手で。
口へ運ぶ。
噛む。
「……悪くない」
ポックが向かいでパンをちぎっている。
「昨日も同じようなこと言ってなかった?」
「あれは姉上の料理だ。これは宿の料理だよ」
「味の話じゃないの?」
「食事という行為全体の話だね」
八か月の間も、食べようと思えば食べられた。
だが甲冑の口元を開き、外から入れる必要があった。
こうして好きなものを自分で取り、好きな順番で口へ運ぶ。
それだけでいい。
水を飲む。
杯がそのまま唇へ触れる。
誰かに持ってもらう必要もない。
ルシアンはしばらく黙って食べた。
食事を終えると、ポックはそのまま卓へ紙を広げた。
父親の手帳。
小さな帳面。
昼間もらってきた荷馬車の値段表。
銀貨の入った袋。
ルシアンは向かいからそれを眺めた。
「商売かね」
「ああ」
ポックは数字を書いている。
「荷馬車を買って、馬を一頭。最初は近いところだけ回る」
紙へ線を引く。
「オルディナからミルダ。ミルダからラドメル。魚と塩は道ができてるから、逆向きに進んだ時、何を運べば儲かるか考えないとな」
また数字を書く。
「いきなり親父と同じことはできないけど、これなら始められる」
「資金は足りるのかね」
「余裕ある」
ポックは銀貨の袋を端へ寄せた。
「転輪城の分があるから」
以前なら。
これだけの金を手にした時点で、ポックは父の商売を始め直せた。
それでも彼は、第四保全区を探す旅を続けた。
八か月。
ルシアンはそのことを口にはしなかった。
「よかったじゃないか」
「ああ」
ポックはしばらく帳面を見ていた。
「明日、もう一回荷馬車見てくる」
「そうしたまえ」
それで会話は終わった。
◇
部屋は二階だった。
階段を上る。
普通に。
途中で床板が悲鳴を上げることもない。
主人が慌てて飛んでくることもない。
廊下の一番奥で、二人の部屋は隣り合っていた。
ルシアンが自分の扉を開く。
寝台。
椅子。
小さな卓。
窓。
それだけの部屋だった。
だが、ルシアンには十分だった。
荷車置き場でもない。
馬小屋でもない。
倉庫でもない。
人間のための部屋だった。
隣では、ポックが荷物を整理している。
投索器。
長縄。
素材袋。
旅のために使い続けてきたものを床へ並べ、必要なものと、しばらく使わないものへ分けていた。
ルシアンは扉にもたれて、それを見ていた。
「ポックン」
「何?」
少し間が空いた。
「僕はもう、用心棒には向いていないな」
ポックが手を止める。
今の身体では、魔物の突進を受け止めることもできない。
岩背亀に噛まれれば、腕は無事では済まない。
城獅子に飛びかかられれば、立っていることすら難しいだろう。
「そうだな」
ポックが答えた。
ルシアンは頷いた。
「では、契約もここまでだね」
「ああ」
ポックは投索器を壁際へ立てかけた。
「最初の約束どおり、ちゃんと脱げたし」
「君が脱がせたわけではないけれど、ここまでの献身には感謝しているよ」
「一人じゃ辿り着けなかっただろ」
ルシアンは少し考えた。
「それは認めよう」
ポックは残った荷物を部屋へ運び込む。
ルシアンも自分の部屋へ戻った。
「おやすみ、センセイ」
「ああ。おやすみ、ポックン」
扉を閉める。
部屋には小さな鏡があった。
ルシアンはその前に立つ。
そこには、八か月探し続けた自分の顔が映っていた。
黒い外殻はない。
隣の部屋からは、荷物を動かす音がかすかに聞こえる。
やがてそれも止んだ。
ルシアンはしばらく鏡を眺めていた。
それから寝台へ腰を下ろす。
明日から。
二人とも、それぞれの生活へ戻る。