最初の商いは、思っていたより普通だった。
「これ、もう少し安くならない?」
「ならんよ」
「三つ買う」
「三つでも同じだ」
「五つ」
ミルダの雑貨屋の主人が、ポックを見る。
少し考えた。
「五つなら、こっちを二つ付ける」
差し出されたのは、小さな革紐だった。
ポックは手に取り、縫い目を見る。
「じゃあ、それで」
銀貨ではない。
もっと細かな金が卓の上を行き来する。
大金が一度に動く転輪城の戦利品とは違う。
一つ仕入れて。
少し高く売って。
宿代を払い。
馬へ餌を買う。
壊れた荷台の留め具を一つ交換する。
帳面へ書けば、残る金は多くはない。
だが、堅実に利益を積み重ねていた。
ポックは帳面の一番下をもう一度確かめた。
「……よし」
◇
オルディナを出てから十日ほど。
荷馬車は再び同じ町へ戻ってきた。
行きに積んでいた布はほとんどない。
陶器も半分以上売れた。
代わりに荷台には、ミルダで仕入れた燻製魚と、ラドメルで安く手に入れた金具や革製品が積まれている。
馬も最初よりは、ポックの手綱に素直に従うようになっていた。
「止まれ」
門の前で手綱を引く。
栗毛の牝馬が止まる。
「よし」
ポックは御者台から降りた。
門番が荷台を覗く。
「行商か?」
「ああ」
「一人で?」
「今は」
積み荷の確認が終わる。
荷馬車を町へ入れた。
それだけだった。
冒険者になったときとは違う。
巨大な黒い甲冑もいない。
誰も振り返らない。
ポックは少しだけ辺りを見た。
それから馬を引いて、市場へ向かった。
◇
宿へ入る前に、帳面を開いた。
まだ荷台に残っている商品の仕入れ額も分けて考える。
計算し直す。
もう一度。
数字は同じだった。
儲かっている。
大した額ではない。
転輪城で手にした金と比べれば、誤差のようなものだった。
だが。
これは宝物庫から持ち帰った金ではない。
魔物を倒して得た金でもない。
自分で買って。
運んで。
売った金だった。
ポックは帳面を閉じた。
少しだけ笑った。
◇
次に目をつけたのは、三峰峡だった。
ダンジョンへ入るつもりはない。
入口へ来る冒険者相手に物を売る。
八か月も潜っていれば、何が足りなくなるのかは分かる。
縄、灯りの油。包帯は必ず使うし、保存食。
水袋。
留め具。
安い手袋。
靴底へ打つ鋲。
オルディナで仕入れた方が安いものを選び、荷台へ積んだ。
三峰峡へ着いたのは、二日後の昼前だった。
入口近くには、以前と同じように冒険者が集まっていた。
壁際へ荷物を置いて準備する者。
戻ってきたばかりで座り込んでいる者。
傷んだ縄を捨て、新しいものを探している者。
ポックは荷馬車を止めた。
小さな板を荷台へ立てかける。
値段を書く。
しばらく待つ。
最初に売れたのは水袋だった。
次が包帯。
その次に縄。
「もう少し長いのない?」
「あるよ」
荷台の奥から出す。
「こっちは?」
「細い。荷物吊るすならいいけど、人には使わない方がいい」
「じゃあ太い方」
銅貨を受け取る。
次の客が来る。
ポックは帳面へ印をつけた。
昼を過ぎるころには、持ってきた縄の半分近くがなくなっていた。
「もっと持ってくればよかったな」
誰に言うでもなく呟く。
次に来るなら、太縄を増やす。
油ももう少し。
保存食は思ったほど動かない。
冒険者は町で買ってから来るらしい。
帳面へ小さく書き足した。
◇
午後になって、荷馬車を入口脇の預かり場へ移した。
売れ残った荷をそのまま置いておく。
ポックは小さな袋だけ肩へ掛けた。
中には水。
少しの保存食。
帳面。
それから投索器。
三峰峡へ入るつもりはない。
入口から少し奥にある広場まで見に行くだけだった。
戻ってくる冒険者がどこで休むのか。
何を捨てているのか。
何が壊れているのか。
見れば、次に持ってくる物が分かる。
入口から続く石道には、まだ人が多かった。
武器を持たない荷運び人もいる。
ポックはその流れに混じった。
崖沿いの道へ入る前。
古い石造りの広場がある。
壁際には壊れた木箱。
使い切った油壺。
切れた革紐。
ポックはしゃがみ込んだ。
「靴紐もいるな」
帳面へ書く。
立ち上がった。
そのとき。
足元で、小さな音がした。
ぱき。
ポックが下を見る。
石板に細い亀裂が走っていた。
「……え」
亀裂が伸びた。
一気に。
「下がれ!」
誰かが叫んだ。
石床が落ちた。
◇
身体が浮いた。
視界が回る。
ポックは投索器を掴んだ。
考えるより先だった。
上へ向ける。
引き金を引く。
空気を叩く音。
中央から案内子。
左右から二つの錘。
崩れ残った石縁の向こうへ飛んだ。
左右の錘が石柱へ巻きつく。
主索が張った。
「ぐっ!」
腕が抜けるかと思った。
落下が止まる。
そのまま身体が横へ振られた。
壁へ叩きつけられる。
「うっ……!」
右肩。
息が詰まった。
投索器を離さなかった。
上ではまだ石が崩れている。
小石が頭や背中へ降ってくる。
ポックは壁へ足をついた。
止まれない。
身体が滑る。
「……っ」
息を吸う。
肩が痛い。
だが動く。
上を見る。
穴の縁から何人かが覗き込んでいた。
「おい! 無事か!」
「生きてる!」
返した直後。
また音がした。
ごき。
上で、石柱が傾いた。
錘が巻きついている柱だった。
「まずい」
主索が緩む。
ポックは周囲を見る。
すぐ横。
壁の一部が崩れ、奥へ続く穴が露出していた。
白い。
石ではない。
ポックは鉤を外した。
壁へ身体を寄せる。
足を掛ける。
穴の縁へ手を伸ばした。
背後で石柱が倒れた。
主索が一気に落ちてくる。
ポックは身体を穴の中へ投げ込んだ。
直後。
轟音がした。
入口が石と土で塞がった。
◇
しばらく、動かなかった。
砂埃が落ち着くのを待つ。
肩を回す。
痛い。
だが折れてはいないと思う。
膝も擦りむいている。
頭は打っていない。
投索器もある。
ポックは立ち上がった。
白い壁。
継ぎ目の少ない床。
天井には、ところどころ青白い灯り。
「……ここか」
見覚えがあった。
中央保全拠点。
あるいは、そのどこかにつながる経路。
ポックは壁へ近づいた。
円。
その中に三本の線。
触れる。
何も起きない。
もう一度。
やはり何も起きない。
ポックは手を離した。
背負い袋から白墨を出す。
壁にはつかない。
「そうだった」
しまう。
代わりに帳面を開いた。
歩いた分だけ、線を書く。
分岐があれば印をつける。
一つ目。
右。
二つ目。
行き止まり。
戻る。
左。
灯りの消えた広間。
さらに奥。
そして。
扉があった。
円の中に三本線。
ポックは取っ手を探した。
ない。
隙間へ短刀を入れようとする。
入らない。
投索器の鉤を掛けられる場所もない。
押す。
叩く。
何も起きなかった。
ポックは扉の前へ座った。
水袋を開ける。
一口だけ飲む。
頭上のどこかで、かすかに石の落ちる音がした。
外では、誰かが助けを呼びに走っているはずだ。
それまでは。
できることをする。
ポックは帳面を開き直した。
◇
翌日の午後。
イモターレ家の玄関が激しく叩かれた。
ルシアンは二階にいた。
久しぶりに開いた自室。
久しぶりの姿見。
八か月放置していた屋敷は、思ったよりひどい状態ではなかった。
今朝は屋根の修理を頼み。
昼には畑を任せていた男から話を聞いた。
そして今は、古い衣装箱を開けていたところだった。
もう一度、扉が叩かれる。
ルシアンは階段を下りた。
玄関を開ける。
馬を飛ばしてきたらしい男が立っていた。
「ルシアン・イモターレさんですか」
「ああ」
「オルディナから急ぎの知らせです」
男が息を整える。
「ポック・トバルという少年を、ご存じですか」
ルシアンの表情が消えた。
「何があった」
「三峰峡で崩落に巻き込まれました」
男は続けた。
「落ちたところまでは見た者がいます。生きていたそうです。ただ、救助に入れない」
「場所は?」
「入口から少し入った石広場です。崩れた下に――」
男が言葉を探した。
「白い壁が見えた、と」
ルシアンは何も言わなかった。
玄関を出る。
「馬を借りるよ」
「え?」
「三峰峡へ行く」
上着の前は、まだ留めていなかった。
ルシアンはそのことに気づかなかった。