三峰峡へ着いたのは、翌朝だった。
馬を休ませる時間だけ取り、ほとんど夜通し走った。
入口近くには人が集まっている。
冒険者。
組合の者。
縄やつるはしを持った男たち。
その向こうに、ポックの荷馬車が見えた。
栗毛の牝馬もいる。
荷台には売れ残った商品が、そのまま積まれていた。
ルシアンは馬から降りた。
「ポック・トバルは?」
近くにいた男が振り返る。
「あんたがルシアンか?」
「ああ」
「こっちだ」
案内されたのは、入口から少し奥にある石造りの広場だった。
その中央。
大きく床が抜け落ちている。
周囲には縄が張られ、人が近づかないようになっていた。
ルシアンは縁まで行った。
「危ないぞ」
「分かっている」
穴の下を見る。
岩。
土。
折れた石柱。
そのさらに奥に。
白いものが見えた。
ルシアンの目が止まる。
「昨日の午後に落ちた」
後ろの男が言った。
「途中で何か撃って、しばらくぶら下がってた。声も返ってきた」
投索器だ。
「そのあと、また崩れた。横の穴へ入ったようには見えたが……」
今、その穴は完全に塞がれている。
「掘れないのか?」
「やってる。ただ、下から音がするたびに崩れる」
別の男が、少し離れた場所を指した。
岩の隙間に細い杭が立っている。
少しずつ傾いていた。
「無理に掘れば、残ってる床ごと落ちるかもしれん」
ルシアンは白い壁を見た。
円。
三本線。
ここからでは半分しか見えない。
「中へ入る別の道がある」
男たちがルシアンを見る。
「知ってるのか?」
「ああ」
ルシアンは穴から離れた。
「こっちは掘らないでくれ」
「待て。お前一人で行く気か?」
ルシアンは答えなかった。
◇
西壁道へ入る。
以前、ポックと二人で歩いた道だった。
三峰峡の地図は持っていない。
だが忘れてはいなかった。
落ちた第二吊橋。
迂回路。
半分土に埋もれた壁。
そこに残る、円と三本線。
壁はまだ開いていた。
白い通路も。
青白い灯りも。
そのままだった。
ルシアンは中へ入った。
以前なら。
一歩進むだけで何かが頭へ届いた。
今は何もない。
静かな通路を走る。
第四保全区。
壁面図のある広間。
中央降下路。
どれも一度通った道だ。
搬送台もまだ動いた。
白い床へ乗ると、ゆっくりと下降を始める。
何の通知もない。
ルシアンは縦穴の下を見た。
「待っていたまえ、ポックン」
声だけが暗い穴へ落ちていった。
◇
中央保全拠点へ着く。
北側へ向かった。
先日、三人を救出した経路。
あの崩落と、今回の事故がどこかでつながっているなら、ポックもこの先にいる可能性が高い。
最初の分岐は開いていた。
次も。
三つ目。
そこで止まった。
白い扉が閉じている。
中央には三本線。
ルシアンは触れた。
何も起こらない。
押す。
動かない。
隙間へ指を入れようとする。
入らない。
「開きたまえ」
返事はなかった。
当然だった。
ルシアンはもう一度、印へ手を置いた。
何もない。
あれほど鬱陶しかった意味の流入が。
今はどうしようもなく必要だった。
扉から離れる。
周囲を見る。
別の通路。
閉鎖。
さらに奥。
崩落。
人一人が通れる場所はない。
ルシアンはしばらくその場に立っていた。
そして。
来た道を戻った。
◇
解除区画の扉は、開いたままだった。
中へ入る。
白い解除台。
その前に。
黒い外殻が立っている。
背面を開いたまま。
長らく、自分が入っていたもの。
ルシアンは足を止めた。
何日も経っていない。
それなのに。
ずいぶん久しぶりに見る気がした。
丸い兜。
太い肩。
大きく膨らんだ胴。
背中には、背負子だけが残っている。
ポックが縄や荷物を外したときのままだ。
ルシアンは近づいた。
解除台の側面を見る。
細長い窓。
五つの窪み。
すべて空だった。
接続分離材。
最後の一回分は、自分を外すために使った。
補充経路は応答しなかった。
もう一度これへ入れば。
少なくとも、この場所では外せない。
ルシアンは窓から目を離した。
黒い外殻を見る。
数日前。
ここから出た。
風が顔へ当たった。
鏡を見た。
人が振り返った。
服を選んだ。
普通の椅子へ座った。
普通の寝台で眠った。
長い時間かけて取り戻したものだった。
ルシアンは自分の頬へ触れた。
指先に、肌が触れる。
そのまま少しだけ手を止めた。
やがて。
手を下ろした。
上着を脱ぐ。
畳む。
解除台の脇へ置いた。
シャツ。
靴。
残った衣服も外し、同じ場所へ重ねる。
一番上に、深い青の上着を置いた。
ほんの数日前に選んだばかりの服だった。
ルシアンは黒い外殻の背面へ回った。
中は暗い。
身体を収める空間。
針。
固定具。
すべて覚えている。
最初にこれを見つけたとき。
自分は迷わず入った。
美しくなれると思ったから。
今も。
迷う理由は十分にあった。
ルシアンは外殻へ片足を入れた。
もう片方も。
背中を預ける。
冷たい内壁が肌へ触れた。
しばらく。
何も起こらない。
「……動かないのかね」
ルシアンが内部を見回す。
手を置く位置を変えた。
足を少し奥へ入れる。
かち。
足首の近くで何かが動いた。
「おや」
細い器具が伸びてくる。
腰。
腕。
胸。
ルシアンはそれを見た。
「ああ」
小さく息を吐く。
「それでいい」
最初の針が背中へ触れた。
次の瞬間。
「ぎゃあああああああっ!」
白い区画に絶叫が響いた。
「痛い! 二度目なら少しは加減を覚えたまえ!」
針が次々に刺さる。
「待て! やはり一度出よう! いや、出ない! 出ないが痛いものは痛い!」
神経へ熱が走った。
視界の奥へ、懐かしい感覚が戻ってくる。
《生体接続を確認》
《緊急保全要員・仮登録を確認》
「確認したなら手早く済ませたまえ!」
《生体固定処理を継続》
「融通の利かなさまで変わっていないな!」
背面の装甲が動き始めた。
外の光が細くなる。
ルシアンは、脇に畳んだ青い上着を見た。
最後まで。
見ていた。
黒い装甲が閉じる。
光が消えた。
数秒後。
内部に青白い灯りがともる。
《生体固定完了》
《外殻駆動同期を開始》
ルシアンは右手を握った。
黒い指が動く。
左手。
脚。
一歩。
床が重く鳴った。
三百キロ近い身体。
怪力。
硬い外殻。
そして。
頭の奥へ、次の意味が流れ込んできた。
《保全従事者を確認》
《北側経路・通行許可》
ルシアンは解除区画を出た。
足元へ、青白い線が伸びる。
北へ。
閉じた扉の向こうへ。
黒い巨体が走り出した。