「自分の口だろ!」
ポックの至極もっともな言葉に、ルシアンは答えなかった。
正確には、自分の口がどこにあるかは分かっている。
兜の内側。黒い外殻に覆われた、いつもどおり完璧な顔の下半分にある。
問題は、外から食べ物を入れる入口が見当たらないことだった。
「まずは寝床を探すぞ」
「食事の問題を先送りにするのか?」
「道端で鎧を調べてたら、また人が集まるだろ」
すでに通行人が何人も、巨大な黒い甲虫と、その口元を見上げる少年を遠巻きに眺めていた。
「僕を鑑賞したい気持ちは理解できるが、今の姿を作品として評価されるのは不本意だな」
「誰も鑑賞してない。警戒してるんだ」
◇
一軒目の宿では、ルシアンの肩が入口につかえた。
「無理だな」
宿の主人が即答した。
「身体を斜めにすれば通れる」
「扉が壊れる」
「壊さないよう努力しよう」
「努力が必要な客は泊められん」
二軒目では扉を通れたものの、床板が一歩ごとに大きく軋んだ。
「部屋へ上がらないでくれ!」
主人が悲鳴を上げた。
「まだ何も壊していない」
「壊してからでは遅い!」
三軒目では、主人が腕を組んで黒い巨体を見上げた。
「馬小屋なら空いてるぞ」
「僕を馬と同列に扱うつもりか」
「馬は宿代を払う客の財産だ。丁寧に扱ってる」
「僕も宿代を払う」
「金はおれが持ってる」
「ポックン!」
結局、宿の裏にある荷車置き場を借りることになった。
屋根はあるが壁は半分しかなく、壊れた樽や車輪の外れた荷車が積まれている。床は板張りですらなく、硬い土の上に小石が散らばっていた。
宿代は銅貨一枚。
「絶世の美男子が、初めて訪れた町で得た寝床が物置とはね」
「寝られるだけありがたいだろ」
「寝られるかどうかも、まだ分からない」
「横になってみれば?」
ルシアンは地面を見下ろした。
尖った小石。
乾いた泥。
荷車から落ちたらしい木屑。
「僕の身体を、この上へ置けと?」
「今はその鎧しか地面に触れないだろ」
「中にいる僕の心は地面へ触れる」
「面倒くさいな」
ポックは背負い袋を置き、食事を買いに出ていった。
◇
戻ってきたポックは、湯気の立つ木椀と、二本の匙を持っていた。
「麦粥だ。肉も少し入ってる」
「香りは悪くない」
「腹は?」
「減っていない」
「昨日から食べてないのに?」
「この甲冑が、空腹を感じないよう調整しているのだろう」
「食わなくても平気だとは言ってないだろ」
ポックは木椀を樽の上へ置き、兜から突き出した口吻を調べ始めた。
横から覗く。
下から覗く。
指で押す。
軽く引っ張る。
「ポックン。僕の顔を玩具のように扱うのはやめたまえ」
「これは顔じゃなくて鎧だろ」
「僕の身体の一部だと神官が言っていた」
「じゃあ、センセイの口を引っ張ってることになるな」
「なおさらやめたまえ!」
ポックは手を離した。
「センセイ。口を開けろって命令してみろ」
「先ほどから命じている」
「もう一回」
ルシアンは姿勢を正した。
「経口摂取のため、頭部外殻を開放したまえ」
反応はない。
「顔を出したまえ」
反応はない。
「せめて口だけでも開けろ!」
やはり何も起こらなかった。
「聞いてないな」
「この装置には礼儀が欠けている」
ポックは匙で麦粥を掬った。
冷ますように息を吹きかけ、口吻の先へ近づける。
小さな駆動音がした。
「うわっ」
口吻の下面が左右へ割れた。
ただし開いたのは、指二本ほどの細い穴だけである。奥には黒い筒のようなものが続き、ルシアンの顔はまったく見えない。
同時に、頭の内側へ意味が流れ込む。
《経口補給経路を開放》
「開いたぞ、センセイ」
「僕が見せたいのは口の中ではない!」
「顔は見えないな」
「分かっている。わざわざ確認するな」
ルシアンは自分で匙を持とうとした。
太い指先で柄を挟む。
少し力を入れた。
金属製の柄が曲がった。
「……」
「一本、銅貨二枚だからな」
「思ったより繊細な道具だった」
「センセイが雑なんだよ」
残った匙を使い、もう一度試す。
今度は壊さずに持てた。
しかし胸部装甲が張り出しているため、補給口の位置が見えない。匙は口吻の横へ当たり、麦粥が黒い外殻をゆっくり流れ落ちた。
ポックが無言で見ている。
「今のは練習だ」
「食べ物を無駄にするな」
「では、補給口をもっと見やすい場所へ移動させたまえ」
《経口補給経路を開放中》
「そうではない!」
甲冑は定型通知を返すだけだった。
ポックがため息をつき、ルシアンの手から匙を取り上げた。
「おれがやる」
「十三歳の少年に食事を運ばせるなど、僕の威厳に関わる」
「食わないなら片づけるぞ」
「待ちたまえ」
ルシアンは荷車置き場の中央へ座った。
ポックが匙を補給口へ差し入れる。
「口を開けてくれ」
「すでに開いている」
「鎧じゃなくて、センセイの口だよ」
「その言い方は、僕が巨大な虫に食べられているように聞こえるな」
「早くしろ。冷めるだろ」
ルシアンは渋々、口を開いた。
筒の奥から匙が滑り込み、正確に口元へ運ばれる。
甲冑の内部で何かが匙を導いているらしい。
麦粥を飲み込む。
「どうだ?」
「……塩が足りない」
「食わせてもらって最初に言うことがそれか!」
「感想を求めたのは君だろう」
「もう一口いくぞ」
「肉を多めにしたまえ」
「自分で食えない奴が注文をつけるな」
文句を言いながらも、ポックは肉の入った部分を掬った。
一椀を食べ終えるころ、ルシアンの頭へ新たな意味が届いた。
《栄養状態の改善を確認》
「何か言ったか?」
「栄養状態が改善したそうだ」
ポックの手が止まった。
「やっぱり足りてなかったんじゃねえか」
「危険な水準だったとは言っていない」
「空腹を感じなくして、消耗を抑えてただけなんじゃないか?」
「その可能性はあるな」
「今後はちゃんと食え」
「では、毎回君が食べさせる必要がある」
「自分で食えるよう練習しろ!」
補給口から匙が抜かれると、黒い外殻は隙間なく閉じた。
ルシアンは口吻を指で押した。
再び開く気配はない。
「食事中しか開かないのか」
「顔を出すのは無理そうだな」
「なんてことだ!」
◇
夜が深くなると、ポックは丁寧に小石をすべて取り除いて、荷車の脇へ毛布を敷いた。
ルシアンも、おおざっぱに小石を取り除いた後、少し離れた地面へ横になる。
背中の装甲が、取り切れなかった小石へ触れた。
ごつごつとした感触が来ると思ったが、内側で何かが緩やかに動いた。
身体を支える部分が形を変え、背中から腰、首へかかる圧力を均等に分散していく。
《休止姿勢への移行を補助》
「どうした、センセイ」
「いや……」
硬い土の上に寝ているはずだった。
しかし身体には、柔らかな寝台へ横たわっているような感触しかない。
冷えた夜気も、背中の小石も甲冑の内側までは届かなかった。
「悪くない」
「そこ、小石だらけだぞ」
「僕には羽毛の寝台のように感じる」
「じゃあ宿代がいらないな」
「君は僕の尊厳をすべて経費削減へ換算するつもりか?」
「嵐でも寝られそうだな」
「おそらくね。雨も風も、この外殻には通じないだろう」
世界最高の寝台を得た。
ただし、その外見は黒い甲虫である。
物事とは、なかなか完璧にはいかないらしい。
ポックは毛布に包まり、すぐに目を閉じた。
「もう眠るのか?」
「明日は早いからな」
「ずいぶん疲れたようだね」
「誰のせいだよ……」
返事は、すぐに小さな寝息へ変わった。
眠ってしまえば、商人ぶった口調も警戒心も消える。
毛布へ丸まった姿は、まだ十三歳の少年だった。
荷車置き場の半分だけ開いた壁から、冷たい風が吹き込んでくる。
ルシアンは一度起き上がり、ポックと風の間へ横たわり直した。
黒い巨体が、隙間を塞ぐ。
契約相手が風邪をひけば、翌日の探索に支障が出る。
それだけのことだった。
◇
翌朝。
ポックは地図、白墨、縄、灯り、水筒、素材袋を買い揃えた。
ほとんどは中古品である。
「僕の武器は?」
「ない」
「用心棒を素手で働かせる気か」
「昨日のセンセイに武器を持たせたら、魔物より坑道の崩落の方が危ない」
「己の肉体のみで戦う姿も、野性的な美しさがあるか」
「勝手に戦わないでくれよな」
ポックは指を折りながら、昨日決めたことを確認する。
「おれの前に立つ。離れない。魔物を追わない。勝手に殴らない」
「僕を信用していないように聞こえるな」
「昨日、壁に突っ込んだばかりだからな」
「壁との距離感については、すでに学習した」
「今日も学習することになる気がする」
◇
鐘鳴り坑道は、ラドメルから北へ一刻ほど歩いた丘陵地にあった。
岩肌に開いた大きな坑口を、古びた石造りの門が囲んでいる。周辺には使われなくなった滑車や錆びた軌道が残り、冒険者組合の詰所だけが新しく建て直されていた。
坑道の奥から冷たい風が吹く。
そのたびに、地下のどこかで金属音が響いた。
かあん――。
「これが名前の由来か」
「奥にある古い金属柱へ、風が当たって鳴るらしい」
「誰が作った柱だ?」
「分かってない。ダンジョンなんて、分かってないものばかりだ」
二人は詰所で登録札を見せた。
係員はルシアンを見て顔をしかめたが、組合からの活動許可を確認すると、浅層から出ないよう念を押した。
「行くぞ、センセイ」
「ようやくだね」
ルシアンが坑口を越える。
その瞬間、甲冑の内側で微かな振動が走った。
耳で聞く音ではない。
神経の奥へ、装置の意味だけが流れ込んでくる。
《外部保全区画を検出》
ルシアンは足を止めた。
「どうした?」
次の通知が届く。
《未処理の保全指示を確認》
《作業指示の取得を開始》
暗い坑道の奥から、もう一度鐘が鳴った。
かあん――。
「何か分かったのか、センセイ」
「ああ」
ルシアンは闇の先を見つめた。
この甲冑を外す手掛かりがあるかもしれない場所。
そして古代の装置が、彼を待っていた場所。
「どうやら僕は、この中で働かされるらしい」