鐘鳴り坑道の内部は、思ったよりも明るかった。
壁際には一定の間隔で鉱石灯が置かれ、淡い橙色の光が坑道を照らしている。天井はルシアンが腕を伸ばしても届かないほど高く、通路の幅も黒い甲冑が余裕をもって歩ける程度には広い。
「ここなら、壁へぶつかる心配はなさそうだな」
「ぶつからないのが普通なんだよ」
「昨日までの僕は、甲冑との距離感に慣れていなかっただけだ」
「今日から急に慣れてるといいけどな」
ポックは片手に灯りを持ち、もう一方の手で坑道の地図を広げていた。
地図には入口から浅層までの分岐と、危険な場所、魔物が出やすい区画が簡単に書き込まれている。
ルシアンの頭には、別の案内が流れ込んでいた。
《第一支線・共鳴導管の閉塞を除去せよ》
「私の鎧が第一支線とやらへ向かえと言っている」
「地図にはそんな名前、載ってないぞ」
「共鳴導管というものが詰まっているらしい」
「詰まりを取れって?」
「ああ」
ポックがルシアンを見上げる。
「便所掃除みたいだな」
「古代人は、僕の扱い方を根本から間違えている」
「でも、任務が終わらないと脱げないんだろ」
「だから困っているのだよ」
甲冑が伝える方向は、坑道の奥だった。
ただし、真っ直ぐ進めばよいという程度の曖昧な感覚しかない。
ルシアンは当然のように先頭へ立った。
「センセイ」
「何だね」
「おれの前に立つのは合ってる。でも、離れすぎるなよ」
ルシアンは振り返った。
「三歩ほどしか離れていないだろう」
「センセイの三歩は、おれの六歩なんだよ」
「歩幅まで美しいということだな」
「でかいだけだ」
ポックは地面へ視線を落としながら歩いていた。
やがて足を止め、灯りを低く掲げる。
湿った土の上に、小さな足跡がいくつも残っている。
「鉱牙鼠だ」
「鼠?」
「普通の鼠よりずっとでかい。前歯が硬くて、革鎧くらいなら噛み切る」
「僕の外殻には通用しないだろうね」
「たぶん三匹いる」
ルシアンは足跡を見た。
どれも同じように見える。
「なぜ数まで分かる?」
「大きさが違う。これと、これと、こっち」
「なるほど。優れた観察力だ」
「センセイの足跡なら、もっと簡単に見分けられるぞ」
「僕の歩みには、それほど特徴があるか」
「床がへこんでる」
ルシアンが後ろを振り返ると、柔らかい土に大きな足跡が並んでいた。
「力強さの表現だね」
「痕跡を残しすぎなんだよ」
坑道の奥から、石を引っ掻く音がした。
ポックが地図を畳み、腰の短刀へ手をかける。
「来るぞ」
暗がりから灰色の影が飛び出した。
犬ほどの大きさがある。
長い尾を引きずり、橙色の光を反射する前歯を剥き出しにしていた。
その後ろから、さらに二匹。
「ほう」
ルシアンは拳を握った。
「勝手に殴るなよ!」
「まだ何もしていない」
「殴る顔をしてる!」
「見えないだろう!」
先頭の鉱牙鼠が地面を蹴った。
ルシアンの腕へ飛びつき、黒い外殻へ前歯を立てる。
甲高い音がなった。
前歯が装甲の上を滑る。
「まったく効かないな」
「なら、そのまま止めろ!」
ルシアンは鼠を振り払おうと腕を上げた。
残りの二匹が左右へ分かれる。
一匹はルシアンの脚へ。
もう一匹は、その脇を抜けてポックへ向かおうとしていた。
「センセイ、戻れ!」
ポックの声に、ルシアンは反射的に身体を横へ動かした。
黒い巨体が坑道を塞ぐ。
鉱牙鼠は行く手を失い、そのままルシアンの脚へ激突した。
鈍い音。
鼠が地面へ転がる。
「ふむ。僕を避けて君を狙うとは、見る目がない魔物だ」
「しゃべってないで押さえろ!」
ルシアンは鉱牙鼠へ手を伸ばした。
逃げようとする胴体を太い指で掴む。
少し力を込めると、手の中から骨の軋む音がした。
「センセイ! 潰すな!」
「暴れるからだ」
「前歯が売れなくなる!」
「僕の安全より商品価値を優先したな?」
「センセイは安全だろ!」
否定できなかった。
ルシアンは慎重に力を緩め、鉱牙鼠を地面へ押さえつけた。
「これでいいか?」
「動かすなよ」
ポックが短刀を抜く。
手はわずかに震えていた。
それでも鼠の首元へ刃を入れ、素早く引いた。
鉱牙鼠の動きが止まる。
ルシアンの腕へ噛みついていた一匹が飛び降り、ポックへ向きを変えた。
「右だ!」
ルシアンは振り向かず、右腕だけを差し出した。
鉱牙鼠が噛みつく。
そのまま腕を持ち上げ、壁へ押しつけた。
「この程度なら――」
力を込めた瞬間、坑道の壁が鈍い音を立ててへこんだ。
鉱牙鼠は動かなくなった。
「……」
「センセイ」
「今のは壁が脆かった」
「魔物も潰れてるぞ」
「結果として討伐できた」
「前歯が欠けてないか確認するから動かすな」
三匹目は、仲間が倒されたのを見て身を翻した。
ルシアンは追おうと一歩踏み出す。
「追うな!」
「だが、逃げているぞ」
「深追いして、おれを一人にするな」
ルシアンの足が止まった。
坑道の奥へ消えていく灰色の尾を見送る。
「むー、惜しいな。倒せた相手だ」
「一匹追って、別の群れに囲まれたらどうする。センセイが戻るまで、おれは一人だぞ」
「……なるほど」
敵をすべて倒すことが、用心棒の仕事ではない。
ポックの前に立ち続ける。
その方が重要らしい。
「理解したよ、ポックン」
「本当に?」
「僕が君より前にいれば、君より先に傷つくのは僕だ」
「そのための鎧だろ」
「僕ほど美しい男が盾になる。君は自分がどれほど贅沢な立場にいるか、理解すべきだね」
「やっぱり分かってない気がする」
◇
ポックは二匹の鉱牙鼠から前歯を抜き取った。
一本ずつ布で汚れを拭い、欠けていないか灯りへ透かす。
「壁に挟んだ方も、片方は無事だ」
「僕の繊細な力加減のおかげだね」
「壁がへこんでたけどな」
回収した前歯を革袋へ入れる。
「これでいくらになる?」
「二匹分で、銅貨十枚くらい」
「初仕事としては?」
「上出来だよ、センセイ」
ルシアンは胸を張った。
「そうだろうとも。僕には冒険者としての才能も――」
「宿代が一枚。登録料の立て替え分。地図と灯りと食料。それから曲げた匙が銅貨二枚」
ポックは帳面を開き、何やら書き始めた。
「待ちたまえ」
「何だよ」
「僕の初収入が、すでに消えかけていないか?」
「まだ赤字だな」
「命を懸けたのだぞ!」
「懸かってないだろ」
「精神的には危険だった」
「それは買い取ってもらえない」
商売とは厳しいものらしい。
再び坑道を進む。
しばらくすると、甲冑から伝わる誘導が強くなった。
《閉塞箇所まで、残り僅少》
「近いらしい」
「何が?」
「管の詰まりだ」
「どこにある?」
ルシアンが示した先は、行き止まりだった。
坑道の壁が平らに削られ、それ以上進める場所はない。
ポックが地図を開く。
「ここは行き止まりで合ってる」
「だが、甲冑はこの先だと言っている」
「センセイ」
「何だね」
「殴るなよ」
「まだ何もしていないだろう」
「前科があるからな」
壁を調べると、土埃に隠れた小さな印が見つかった。
円の中に三本の線。
甲冑の肩に刻まれているものと、同じ印だった。
「やっぱり同じだ」
ポックが呟く。
ルシアンは黒い手を壁へ触れた。
その瞬間、甲冑の内部で振動が走る。
《保全従事者を確認》
壁の奥から、低い駆動音が響いた。
「下がれ、ポックン」
「壊すのか?」
「今回は僕ではない」
岩壁に一本の縦線が浮かび上がる。
線はゆっくりと左右へ開き、石だと思われていた面が壁の中へ沈んでいった。
その先に、白っぽい通路が現れる。
鐘鳴り坑道の荒い岩肌とはまるで違う。
壁も床も滑らかで、継ぎ目ひとつ見当たらない。天井には青白い光が細長く灯り、誰もいないはずの奥から低い機械音が聞こえていた。
ポックは地図と通路を何度も見比べた。
「こんな道、載ってない」
「当然だろう」
「なんでだよ」
「道を拓くのは、常に美しさと決まっているからだ」
ルシアンは胸を張った。
ポックは反論しかけ、肩の印と開いた壁を見比べた。
「……今回は、半分くらい合ってるかもな」
《管理通路を開放》
《閉塞物の除去を実施せよ》
ポックが灯りを掲げ、白い通路の中を照らす。
床には、何かを引きずったような黒い痕が続いていた。
幅はルシアンの胴体よりも太い。
奥から、硬いものが擦れ合う音が聞こえる。
ずるり。
ずるり。
「ポックン」
「なんだよ、センセイ」
ルシアンは暗い通路の先を見た。
「詰まっている物は、少々大きいかもしれない」