しかし、そこで知ったのは実は祖父がかつては異世界の勇者であったというとんでもない事実だった。
眩いばかりの陽光が、入道雲の白さをいっそう際立たせていた。
セミの声が、まるで耳の奥を突き刺すような暴力的な音量で降り注ぐ、真夏の昼下がり。一也は、汗ばんだTシャツの襟元をパタパタと扇ぎながら、緩やかな坂道を登っていた。足元に広がる緑の匂いと、どこか懐かしい土の香り。田舎へと続くこの道は、彼にとって、かつての親友との再会を約束した聖域でもあった。
祖父母の家は、村の歴史を物語るような古めかしい佇まいを見せていた。重厚な門をくぐり、縁側に腰を下ろすと、ふう、と深い溜息が漏れる。
「……暑いな」
一也は独り言ち、額の汗を拭った。祖父母の源蔵と静香は、どうやら買い出しのために出かけており、家の中には自分一人しかいない。静まり返った室内には、どこか不思議な緊張感が漂っていた。
ふと、居間の奥にある床の間に目を向ける。そこには、村の守り神として代々伝わっているという、古めかしい一振りの剣が飾られていた。装飾は控えめだが、刃文には不思議な艶があり、まるで意志を持っているかのように、一也の視線を吸い寄せる。
その時だった。
不意に、蝉の声が止んだ。
まるで世界から音が奪われたかのような、不自然な静寂。一也は、背筋に走る奇妙な悪寒を感じて立ち上がった。
見上げれば、青空が、まるで布が裂けるように歪んでいた。
「……なんだ、あれ……?」
空の裂け目から、漆黒の影が舞い降りた。それは鳥とも獣ともつかぬ、異形の生物だった。節くれ立った長い四肢、不規則に蠢く触手、そして粘着質な光沢を放つ皮膚。その異形は、一也の頭上へ、音もなく、しかし圧倒的な威圧感を持って着地した。
胸の内で、心臓が騒がしい音を立てて暴れている。
「うわああああっ!」
突進してくる異形の爪を避け、一也は反射的に居間へと飛び込んだ。手当たり次第に何かを掴もうとして、指先が床の間の剣に触れた。
重い。しかし、その柄を握った瞬間、指先に熱い電流が走ったかのような感覚があった。
一也は、震える足で異形へと立ち向かった。未熟な少年の、必死の抵抗。剣を振るうたびに、異形の粘液が飛び散り、一也の白いTシャツを汚していく。だが、相手の力はあまりにも強大だった。一撃を繰り出すたびに、腕が痺れ、膝が折れそうになる。
「くそっ……、なんでこんなことに……!」
異形の鋭い爪が、一也の肩を掠めた。熱い痛みが走り、視界が揺れる。圧倒的な力の差。死の予感に、一也の瞳に絶望が滲んだその時だった。
「――そこまでだ!」
雷鳴のような怒号が、家全体を震わせた。
庭の境界から、藍色の甚平を纏った男が、風のように飛び込んできた。源蔵だった。
その眼光は、普段の穏やかな祖父のものとは一変し、獲物を射抜く猛禽のような鋭さを帯びていた。源蔵の手には、いつの間にか、あの床の間にあったはずの剣が握られている。
源蔵の動きは、もはや人間のそれとは思えなかった。一瞬の閃光。
銀色の軌跡が空を切り、異形の巨体を真っ二つに断ち切った。
「が、あ……っ!」
断末魔すら上げさせぬ、完璧な一撃。異形の体は霧のように霧散し、夏の熱気の中に溶けて消えた。
静寂が戻った庭で、源蔵は静かに剣を鞘に収めた。
一也は、荒い呼吸を整えながら、呆然とその背中を見つめていた。
「じい、ちゃん……? 今の、一体……」
源蔵は、ゆっくりと振り返った。その表情には、孫を案じる慈愛と、隠し続けてきた宿命の重みが混在していた。
「驚かせてすまなかったな、一也。……お前は、知らねばならん時期に来たのだ」
源蔵は、日焼けした逞しい腕を組み、真っ直ぐに孫を見据えた。
「この剣は、ただの飾りではない。そして、俺もただの爺ではない。……俺はかつて、異世界を救った英雄だ」
一也の思考は停止した。
蝉の声が、再び、先ほどよりも一層激しく響き始める。
夏の午後の静寂は、一也の日常が完全に崩れ去ったことを告げる、残酷な序曲に過ぎなかったのだ。
「――もっと腰を落とせ! そんな程度で、勇者の末裔を名乗るつもりか!」
真夏の突き刺すような太陽が、容赦なく地面を焼き焦がしている。
一也は、荒い呼吸を繰り返しながら、泥にまみれた地面に膝をついた。額から流れる汗が目に入り、焼けるように痛む。全身の筋肉が悲鳴を上げ、まるで鉛のように重い。
「はぁ、はぁ……っ、まだ、いけます……!」
一也は震える足に力を込め、再び立ち上がった。目の前には、藍色の甚平を纏い、鋭い眼光を放つ源蔵が立っている。かつて異世界を救った英雄の威厳は、日焼けした逞しい肉体と、一切の妥協を許さない厳しい声に宿っていた。
「ほう、その意気だ。だが、精神だけでは剣は振れんぞ」
源蔵の言葉は峻烈だった。修行は数日間に及び、一也の体力は限界を超えつつあった。しかし、あの異形の生物に圧倒された時の無力感が、一也の胸に深く刻まれている。自分の中に眠る「勇者の血」を呼び覚まさなければならない。その一心で、一也は泥臭い修行に身を投じていた。
夕暮れ時、ようやく今日の修行が終わりを告げた。
泥だらけの体を洗い流し、一也は少しだけ晴れやかな気持ちで、源蔵の家を後にした。
ふと、胸の内にあった記憶が蘇る。
(そうだ……ルイに、会わなきゃな)
数年前、この村で共に泥遊びをし、転げまわった少年。一也にとって、彼はかけがえのない親友だった。久しぶりに再会できれば、この修行の話もできるかもしれない。
一也は、かつての遊び場であった、村外れの古い屋敷へと急いだ。
「おい、ルイ! いるんだろ? 久しぶりだぞ!」
懐かしい記憶を頼りに、一也は屋敷の門を潜った。夕闇が迫る中、屋敷の周囲には静寂が漂っている。いつもなら、悪戯っぽく笑いながら駆け寄ってくる少年の姿を期待していた。
しかし、返事はない。
「なんだよ、留守か? せっかく来たのに……」
一也が少し肩を落とし、ふと開いていた勝手口の方へ目をやった時だった。
パタン、と軽い音がして、脱衣所らしき場所から扉が開いた。
「あ……」
一也の思考が、真っ白に凍りついた。
そこにいたのは、少年ではなかった。
湯気を纏い、濡れた栗色の髪を肩に流した、透き通るような肌を持つ少女だった。風呂上がりなのか、彼女は一糸纏わぬ姿で、その華奢な肢体を露わにしていた。
「…………っ!?」
一也は顔を真っ赤にし、慌てて視線を泳がせた。心臓が、これまでの修行中とは比較にならないほど激しく鼓動を打つ。
「な、ななな、何なんだよ!?」
一也が絶叫に近い声を上げると、少女は一瞬、呆然とした表情を見せた後、みるみるうちに顔を赤く染めた。
「な、ななな……何よ、あんた! どこから入ってきたのよ、この変態!」
彼女は慌てて近くにあったタオルを手に取り、その豊かな胸元を隠した。凛とした、しかしどこか震えている鋭い声。その瞳に宿る強気な光に、一也は思わず言葉を失う。
「変態じゃないよ! 俺は、ルイに会いに来たんだ! 昔の、親友の……」
「……一也?」
少女の動きが止まった。
彼女は、潤んだ瞳で一也をじっと見つめた。その瞳には、驚きと、困惑と、そして隠しきれない懐かしさが混じり合っていた。
「……お前、本当に一也なのか? あの、いつも後ろをついてきてばかりいた、泣き虫の……」
「泣き虫って言うな! 今はもう、これでも修行してるんだ!」
一也は精一杯の虚勢を張って言い返した。少女――ルイは、タオルを胸に抱えたまま、複雑な表情で唇を噛んだ。
「……そう。あんた、随分と逞しくなったじゃない」
ルイはふう、と小さく溜息をつき、少しだけ視線を逸らした。その耳たぶが赤くなっているのが、夕闇の中でもよく分かった。
「ルイ……お前、男じゃなかったのかよ?」
「当たり前でしょ! いつから私が男だなんて勘違いしてたのよ!」
ルイは憤慨したように言い放った。一也は頭を抱えた。幼い頃の記憶が、あまりにも「少年」としてのイメージに固執していたのだ。
しかし、再会の喜びも束の間、屋敷の中に重苦しい空気が流れた。ルイの表情から、先ほどまでの少女らしさが消え、どこか高貴で、近寄りがたい雰囲気へと変わったのだ。
「……一也。あんた、源蔵さんの孫よね。あの『元勇者』の」
「あ、ああ。……どうしてそれを」
「私、両親から聞いてしまったの」
ルイは一歩、一歩と一也に歩み寄った。タオル一枚の危うい姿でありながら、その立ち振る舞いは、まるで戦場に立つ騎士のようだった。
「私の家系はね、魔王の血を引いていたのよ」
一也の心臓が跳ねた。魔王。源蔵が戦った、あの強大な悪の象徴。
「魔王の……血?」
「ええ」
ルイは、どこか悲しげに、しかし誇り高く言い切った。
「勇者の末裔と、魔王の末裔。相容れない宿命。私たちは、いつか戦わなければならない敵同士なのよ」
突きつけられた事実に、一也は言葉を失った。
再会の喜びは、一瞬にして重い宿命の鎖へと変わった。夕闇の中、再会を夢見て駆けつけた少年の前に現れたのは、あまりにも残酷で、あまりにも美しい、宿敵の少女だった。
「勇者の末裔と、魔王の末裔……」
一也は、夕暮れに染まる空を見上げながら、己の血筋が背負うあまりにも重い宿命に、押し潰されそうな思いでいた。
あの日、ルイが見せたあの瞳。凛としていながらも、どこか悲しげに、しかし断固とした拒絶を込めて放たれた言葉が、胸の奥に棘のように刺さって抜けない。
『私たちは、敵になる運命なのよ』
彼女は、魔王の血を引く少女だ。そして自分は、かつて世界を救った伝説の勇者の末裔。正反対の属性を持つ二人が、どのようにして手を取り合い、あるいは激しく衝突し合うのか。その答えが出せないまま、一也の心は深い霧の中に迷い込んでいた。
そんな葛藤を抱えたまま、一也は修行の合間の休息として、源蔵の家の裏手にある小川へと足を向けていた。しかし、その静寂を破ったのは、聞き慣れた、しかしあまりにも場違いな激しい怒号と、地響きのような衝撃音だった。
「ぐわああああっ!?」
一也は心臓が跳ね上がるのを感じた。あの声は、間違いなく祖父の源蔵だ。世界最強の勇者として恐れられ、その一撃で山をも砕くと謳われる男が、これほどまでに無様な悲鳴を上げるなど、普通では考えられない。
一也はなりふり構わず、音のする方へと走り出した。
「じいちゃん! どうしたんだ!?」
荒れ狂う土煙の向こう側。一也が目にした光景は、彼の常識を根底から覆すものだった。
そこには、伝説の勇者たる源蔵が、地面に這いつくばり、肩で激しく息を切らしていた。その逞しい肉体は、まるで見えない力に押さえつけられているかのように、力なく震えている。
そして、その源蔵を支配しているのは、一体どんな強大な魔物でも、恐ろしい敵でもなかった。
「あらあら、源蔵さん。またそんなに大きな声を出して。近所迷惑ですよ?」
穏やかに、まるでお茶の時間を楽しむかのような優雅な声。
そこに立っていたのは、一也の祖母、静香だった。
艶のある長い銀髪を夜風にたなびかせ、落ち着いた色の着物を纏った彼女は、戦いの最中とは思えないほど、しなやかで上品な佇まいを見せている。その瞳には、激闘の形跡など微塵も感じられず、ただ慈愛に満ちた、しかし底知れない深淵を感じさせる静謐さが宿っていた。
「し、静香……やりおるわい……」
源蔵が、屈辱に顔を赤らめながら呻く。一也は呆然と立ち尽くした。
「じいちゃん、これは一体どういうことだよ!? 敵が攻めてきたのか!?」
一也の問いに、源蔵は力なく首を振った。
「敵……ではない。ただの、……妻との、日常だ……」
一也の脳内はパニックに陥った。最強の勇者が、祖母に完敗している。それも、戦いというよりは、圧倒的な格の違いを見せつけられているような、そんな光景だった。
困惑する一也を見て、静香はふふっ、と小さく、鈴を転がすような声で笑った。
「一也さん、そんなに驚かないで。驚かせてしまったなら、ごめんなさいね」
彼女は、まるで子供をあやすような口調で続けた。
「実はね、私はこの世界の住人ではないの。元は異世界の王女なのですよ」
一也は耳を疑った。王女? 異世界の?
「じゃあ、じいちゃんの勇者の力は……」
「ええ、全く効きませんわ」
静香は、淀みのない動作で銀髪を耳にかけた。その細身でしなやかなシルエットは、年齢を感じさせないほどに美しく、気高く、そして恐ろしいほどに強大だった。
「勇者の力というのは、この世界の理に基づいたもの。けれど、異世界の高貴な血を引く私にとっては、ただの子供の遊びのようなものなのです」
源蔵は、観念したように地面に座り込んだ。一也は、混乱する頭を必死に整理しようとした。祖母が異世界の王女で、勇者の力すら通用しない。その二人は今、夫婦になっている。
「魔王との争いについては、もう解決済みです」
静香は、淡々と、しかしどこか楽しげに告げた。
「魔王が、世界の半分を要求してきたことがありましたわね。けれど、私は彼にこう言ったのです。『私がこの世界のすべてを治めます。気に入らないなら、勇者を差し向けますよ、どうします?』と」
一也は絶句した。魔王に対して、そんな無茶苦茶な条件を突きつけたというのか。
「……それで、魔王は?」
「彼は、あまりにも理不尽で強大な私の提案に、戦うよりも交渉に応じる方が賢明だと判断したようですわ。こうして、和睦が成立したのです。争う必要なんて、最初からなかったのですよ」
静香の言葉は、一也の心に、一筋の光を投げかけた。
宿命。血筋。相容れない運命。
それらは、強大な力を持つ者たちの意志によって、容易に書き換えられてしまうものなのかもしれない。
魔王と、異世界の王女。それらが対立するのではなく、交渉と理屈によって平和を築いているのだとしたら――。
(ルイと、僕も……)
一也の胸の中に、確かな希望が芽生え始めていた。
宿命に抗うのではなく、新しい形を見つけ出すことは、決して不可能ではないはずだ。
夕闇が深まる中、一也は、静かに微笑む祖母の横顔を見つめながら、次なる目的地へと走り出すための力を、その内に蓄えていた。
「敵同士ではないんだ、ルイ!」
一也は、肺が焼けるような熱さを感じながら、必死に足を動かしていた。
祖母、静香の言葉が、耳の奥で何度もリフレインしている。最強の勇者であったはずの祖父が、祖母、静香に完膚なきまでに叩きのめされたという衝撃。そして、魔王と異世界の王女が既に和睦しているという、これまでの常識を根底から覆す事実。
宿命という名の呪縛から解き放たれた喜びと、それをルイに伝えなければならないという焦燥感。一也の心臓は、全力疾走による鼓動だけでなく、未知の希望への期待で激しく波打っていた。
「待ってくれ、ルイ! 全部誤解なんだ!」
彼女の住む森の奥の離れへと続く小道を、一也はなりふり構わず駆け抜ける。白いTシャツは汗で肌に張り付き、デニムの短パンも動きにくさを増していたが、そんなことはどうでもよかった。彼女に、この真実を伝えなければならない。自分たちの血筋が、決して争うためにあるのではないのだと、あの凛とした瞳に伝えたいのだ。
ようやく、彼女の住居が見えてきた。夕暮れ時が近づき、森がオレンジ色の影に沈みかけている。
一也は、ルイの家に飛び込んだ。呼吸を整えようとしたその時、廊下の奥から、ふわりと温かな湯気が立ち上っているのが見えた。
「……ルイ?」
誰かがいる。一也は、もしかしたら彼女がそこにいるのではないかと、直感的に感じ取った。
その時だった。
戸が開き、一人の少女が姿を現した。
「……っ!」
一也の言葉は、喉の奥で凍りついた。
そこにいたのは、湯上がりであろうルイだった。
栗色の髪は水滴を纏って艶やかに光り、透き通るような白い肌は、湯気によって桃色に上気している。彼女は、白いタオルを体に巻いているだけだった。
「あ……」
一也の視線は、固まってしまった。
「な……ななな、何を、ボーッとしているのよ!」
ルイの鋭い声が、一也の思考を断ち切った。
彼女の顔は、湯気のせいだけではない、真っ赤な熱を帯びていた。
彼女は、一也の視線がどこに向いているのか、痛いほど理解していた。
羞恥心と、それ以上に、自分の最も無防備な姿を見られたことへの憤りが、彼女のプライドを激しく揺さぶっている。
「あ、いや、これは……その……」
一也は慌てて言葉を探したが、視線は無意識に、タオルの隙間から覗く、あの繊細な曲線へと戻ってしまう。
「見ないでって言ってるでしょう! この、天然ボケ一也!」
ルイは、震える手でタオルを強く握りしめた。
彼女の瞳には、涙すら浮かんでいる。それは、強気な彼女が唯一見せる、剥き出しの照れ隠しだった。
「違うんだ、ルイ! 俺はただ、君に伝えたいことがあって……」
「言い訳はいいわ! この前も風呂上りに来て!二度目は絶対に許さないんだから!」
ルイの叫びとともに、一也の視界が大きく揺れた。
彼女の細い、しかし鍛えられた脚から放たれた一撃が、一也の腹部を正確に捉えたのだ。
「ぐふっ……!」
衝撃が全身を駆け巡る。
一也は、地面に膝をつき、悶絶した。腹部の痛みよりも、目の前で顔を真っ赤にして、肩を上下させているルイの、あのあまりにも愛らしい姿が、脳裏に焼き付いて離れなかった。
「……あ……」
痛みの中で、一也は小さく、溜息のような声を漏らした。
たとえ腹を殴られようとも、今の彼は、あの慎ましやかな美しさを、一生忘れることはないだろうと確信していた。