希結理たちの戦闘訓練があったその日の晩、希結理は実に半年ぶりにその場所に赴いていた。周囲の建物は古代ヨーロッパを思わせるものが立ち並んでおり、今希結理の目の前にはチェスの盤面がある。その対戦相手は空色の髪を持ち、青を基調とした服を着ており、背丈は希結理と張り合えるくらいに小さい。そして何よりも特筆すべきはその頭に乗っかっている炎を抱えた王冠だろう。
「再び僕に挑みに来たか。英雄を志す者よ」
「ええ、今度こそ試練を乗り越えるわ。カイザー」
『炎冠』、『独裁官』、『女皇』、『総帥』、『カイザー』……オンパロスの人々は様々な異名で彼女を呼ぶ。確固たる信念と野心、帝王学を秘めた尊大な性格を持つ、タイタン・タレンタムの神権を受け継いだ『法』の半神・ケリュドラだ。希結理は現在、ケリュドラの試練を受けている真っ最中であった。
試練の突破条件はいたって単純。『チェスでケリュドラに実力を見せること』だ。しかしケリュドラはカイザー、すなわち皇帝と呼ばれるだけあって人を率いるカリスマと、自分自身をも盤上の駒と見立てるその戦術眼は本物だ。ましてや彼女は人の寿命を超越した半神。個性の中に眠るその黄金裔たちが本物でも偽物でも、それだけは紛れもない事実。15年しか生きていない希結理などケリュドラにとっては幼子も同然だ。頭脳戦のチェスで”勝つ”ことは難しいだろう。
そしてこの空間は現実世界とは時間の流れが異なる。言うなれば個性に由来する希結理の精神世界のため、こちらで何年チェスを繰り広げようが現実では一分も経っていない。もちろん、精神的疲労は変わらず蓄積されるし、試練以外の用途で希結理の意思でこの世界に来ることは基本的に不可能だ。
希結理が初めてケリュドラに挑んだのは中3に進学した直後だった。丁度この時期は雄英受験を見据えて勉強しつつ、個性を伸ばすために着々と試練を受けていた。その中でも突破できなかった試練が『海洋』、『死』、『世負い』、そして『法』の4つだ。当時ケリュドラに挑んだ希結理はチェスでボコボコにされた。それはもう悲惨なほどにだ。
希結理はケリュドラに勝つために受験勉強と並行してチェスに関して勉強した。基本的なルールや考え方、戦術など。だが半年後にもう一度挑んでも希結理は勝てなかった。結局希結理は今の今まで『法』の試練を先延ばしにしてきたのだ。そんな希結理が今晩ケリュドラに挑んだのは、少し焦っていたからだ。
オールマイトの戦闘訓練で戦術や連携の重要性を知った。その面で劣っていたから、希結理は最終的に轟たちに負けた。選択肢が増えることは戦術の多さに直結する。
そしてもう一つの焦りの要因は、『歳月』によって緑谷に対して下された予言についてだった。
(あの予言がいつ、どのような形で起こるのかは分からない。けれど、どんな形であろうと予言は当たる。ならできるときに力をつけておいたほうがいい)
「手が止まっているぞ。もう諦めたとは言うまい?」
「ふふっ、まさか♪」
希結理はいつも通りの態度を取り繕っているが、チェスの方は芳しくない。一見膠着状態に見える盤面だが、少しずつ、しかし確実に希結理が追い詰められていた。
一方ケリュドラは常に“希結理が勝てる”道筋を一つだけ残していた。もちろん、その勝ち筋から逆転できるルートを構築した上での話だが。ケリュドラが見ているのはあくまでも希結理の実力、盤上の駒をいかにして扱うかの戦術眼であり、このチェスの勝負に勝てるかどうかではない。故に、その勝ち筋を見つけられたなら、勝敗に関わらず火種を継承するつもりだった。
だがしかし、生半可な状態で火種を受け継がせるほどケリュドラは甘くない。だからこそ、希結理の思考を増やす。そして、その覚悟を問う。
「ヴィランが蔓延り、ヒーローが対処する個性社会。貴様はどう思う?」
「随分と唐突な質問ね、カイザー」
「何、僕の居た地以外の法についても知っておかねばと思ってな」
チェスの手は止めない。二人の声と、チェスの駒が動く音だけが聞こえる。
「人類の八割が超常の力を持つ世界。ただの民が力に魅せられ暴挙を起こすのも無理はない」
「でもだからこそ、人を守る存在が一際輝く、でしょう?」
「だったら貴様は、輝くために人を助けるのか?」
「まさか。私はただ、あなたたちのような英雄に憧れたのよ。その力を以て世界を救わんとする姿に」
希結理は盤面を見渡した。一見すれば、あまりにも危険な一手。だが、その先にある僅かな可能性を彼女は見逃さなかった。それを見たケリュドラの口角が僅かに上がる。
「オールマイト、エンデヴァー……貴様の脳内の情報を見るだけでもこれだけのヒーローとやらが活躍する世界だ。普通はそちらに憧れるものではないのか?」
「そうかもしれないわね。けれど私が憧れたのはあの日、幼いころに夢見たオンパロスの物語なの。黄金裔たちのように、とはいかないかもしれないけれど、この力に恥じない生き方を選ぶつもりよ」
ケリュドラはその言葉を聞いて、しばし沈黙した。彼女は分かっている。自分はあくまでも希結理の個性因子に眠るケリュドラに似た“何か”であり、本人ではない。それでも、彼女と同じ野望を抱いているのは事実だ。
──オンパロスの天外への進出。
人々を導くことは叶わないが、
(オールマイト、平和の象徴、か。僕には彼のように象徴になることなど出来なかった。結局僕に出来たのは、火追いの旅の行く末を信じて暴君「カイザー」を貫くことだけだった)
ケリュドラがもたらしたのは統治であって平和ではない。ケリュドラは未来のために統治者として率い、罰し、最後には最も信頼する者に自身を討たせた。
(……オクヘイマにもかのような存在がいたら、少しは変わったのだろうか?いや、僕らの元にも訪れたか。「壊滅」を書き換え、新世界への道を築いた「救世主」が)
「ふっ。その覚悟、ゆめゆめ忘れるな。……チェックメイト」
「はぁ、やっぱり一筋縄じゃいかないわね」
そこから数手をかけてケリュドラは逆転し詰みの盤面まで持って行った。どれほどの長い時間チェスに興じていただろうか。少なくとも、前回よりも長く続いたのは事実だ。そしてケリュドラの意思はもう、決まっていた。
「お前はまだ未熟だ。だが、未熟であることを自覚し、それでも前へ進もうとする者ならば、火種を託す価値はある」
「あら、いいの?私は負けたのに?」
「言っただろう、“実力を見せろ”と。“僕に勝て”、とまでは言っていない。それに、勝負とは単純な勝ち負けではない。たとえ敗北したとしても、貴様は敗北から学び、前回よりも大きな成長を見せた。今はそれで十分だ」
「ふふっ、カイザーの寛大な決定に感謝を」
希結理はケリュドラに対して微笑み返した。
「その調子なら、剣旗卿の試練を突破する日も近いかもしれない。烈日卿と花海卿については……はぁ、試練を受けさせてもらえるかどうか、か」
「ええ。だからあの二人を安心させられるくらい、力をつけなくちゃ」
ファイノンとキャストリス…ケリュドラが烈日卿と花海卿と呼ぶ二人は、希結理が試練を受けること自体を拒んでいる。『世負い』と『死』の神権を司る二人は単純に自身の運命を苛んだ力を授けることに抵抗を感じているのだ。希結理としてもその気持ちは分からないではないのだが、せめて試練くらいは素直に受けさせてくれてもいいのに、と密かに思っている。
「精々励むといい。ではな、愛乃希結理」
そして希結理の意識はあっという間に現実に帰還した。ベッドの上に座り、自分の手のひらを見つめる。自分の個性が抱える力が増えていることを確かに感じていた。
チェスはよう分からんので盤面の描写はしません。