「イルテリシュという名を聞いたことがあるか、クシャースフ」
「聞き覚えのある名ではあるな。……ああ、思い出したぞ。たしかトゥラーンの先王ではなかったか。言い訳のしようもない大敗をしたあと、どこかで野垂れ死んだと聞いているぞ。それがどうしたというのだ、リョーツーン」
突然の来客の、だしぬけな質問に、トゥラーンの客将は怪訝な顔をした。
トゥラーンの王都サマンガーンでのことである。
「イルテリシュがパルス北方で目撃された」
「故国に戻れず、自裁も出来ず、いまだに彷徨っていたか」
侮蔑とも同情ともつかぬ響きがクシャースフの声にこもる。自分自身も似たような境遇であったのだ。今は違う。客将という待遇ではあるが、実質的にはトゥラーンの軍事を担い、トゥラーン国王ザッツンマーナブの信頼も厚い。ザンデがその補佐を務めていた。
「村がひとつ、有翼猿鬼の群れに襲われたのだ。村人は少女ひとりを残して皆殺しにされた。有翼猿鬼どもを指揮していたのがイルテリシュらしい。デマヴァント山周辺を哨戒していたジムサ卿からの報告だから、人違いとも思えん」
「ジムサか。アルスラーンに仕えるトゥラーン人だったな」
「ああ。トゥラーン傭兵団を率いて忙しくしている」
「そのうち、会ってみたいところだが、今はそれどころではなさそうだな。トゥラーンの狂戦士と蛇王の眷属か。吉事を呼ぶ取り合わせとは、とうてい思えぬ」
「それでだな、イルテリシュには、暗灰色の衣をまとった魔道士が同行していたらしい」
「なんだと。それは確かか」
「ああ。しかも、イルテリシュと魔道士は、うやうやしくザッハークの名を口にしたそうだ」
リョーツーンのこの言葉は、クシャースフ……かつてパルス王族ヒルメスを名乗っていた男の精神に衝撃をあたえた。
「……! では、あやつら魔道士はザッハークの一党だというのか! おれとしたことが、そんな連中と手を組んでいたとは! 英雄王カイ・ホスローの御霊に申し開きのしようもない!」
「ならば話してくれるだろうな。魔道士どもについて、知る限りのことを」
「無論だ。やつらの居場所を地上からも地下からもなくしてくれる! そのためならば、アルスラーンとでも手を組もうぞ!」
「……悪魔とであろうと手を組むぞ、みたいに言うな!」
「これでザッハークの魔道士について、ヒルメ……クシャースフ卿と情報のすりあわせが終わったわけだが。ナルサス、なにか新たにわかったことはあるか?」
「我々が摘発した魔術師の根城のひとつがクシャースフ卿の知る魔術師の根城と完全に一致した。つまり、ルシタニア戦役は蛇王の手の者が一枚かんでいた、ということだ。アトロパテネの大敗にいたっては、ザッハークがパルスをルシタニアに破れるように仕組んだ、といってもよいかも知れぬ」
エクバターナのダリューン邸にて、パルスの剛勇と智謀をそれぞれ象徴するふたりが話し込んでいた。
「しかし、魔道士どもの暗躍とおぼしき件が確認されたのは、アトロパテネ、エクバターナ、ペシャワール、オクサス、そしてデマヴァント山周辺ぐらいだ。おぬしが魔道士退治をしたのもペシャワール周辺の村だし、案外、魔道士どもの手はそれほど長くはないのではないか」
「そう決めつけるのも危険ではあるが、ダリューンよ、おれがとくに疑問視しているのは、デマヴァント山そのものに魔道士どもの痕跡が見られないことだ。アルスラーン陛下がわれわれと共に英雄王の墓に赴いたときでさえ、やつらは何もしてこなかった」
「いわれてみれば……」
「デマヴァント山には、魔道士どもを遠ざけるなにかがあるのかも知れぬ」
「なにか、といっても、あそこにあったのは墓と……ルクナバードか!」
「うむ。宝剣ルクナバードは蛇王の魔力となにか相反するものを帯びているのやも知れぬ」
「思えば、ルクナバードを魔道士が盗み出そうとしたことがあったが、そのやりようは強引で、不手際が目立ったな。もしや、ルクナバードの霊気に妨げられて、さまざまな魔道を駆使する余裕がなかったのだろうか。だとすると、蛇王の復活を防ぐためには、ルクナバードはデマヴァント山にあるべきなのではないか」
「ルクナバードをこのまま陛下の手元に置いておくべきか、それともデマヴァント山に戻すべきか、おれにも判断がつかぬ。焦って下手を打てば、かえって蛇王の封印を弱めることになりかねないからな……」
「少なくともルクナバードが陛下の手元にあったほうがザッハークにとって都合がいいなら、魔道士がそれを盗み出そうとしたのは筋が通らぬ」
「どうも、考えをめぐらすための材料がたりていないようだ」
「リョーツーンはペシャワールへと向かったそうだが、王都に戻ってくるときには、またなにかあたらしい情報を携えているかも知れぬな」
「あたらしい頭痛の種をまき散らす可能性のほうがでかそうだがな」
そう言ってからナルサスは、自分の言葉の不吉さに思い至り、親友とともに厄払いの杯を飲み乾すのだった。