蛇王ザッハークの再臨。
その報せはパルス全土に駆け巡った。
郵政官長リョーツーンの起こした郵便事業が、その伝播を加速させたのが、吉と出るか凶と出るか、今の段階ではナルサスにも判断がつかない。
「そもそも、本当に蛇王が復活したのか、自分の目で確かめた者はひとりとしておりませぬ」
宮廷画家はパルス国王に落ち着き払って上奏した。
「それはそうだが、蛇王が復活していないという確証もなかろう」
同席していたダリューンは親友ほど泰然としていられない。
「せめて、パルスの民の不安を和らげることだけでもできないだろうか……」
アルスラーンは肩を落とす。
「状況を整理いたしましょう、陛下。デマヴァント山が噴火した。これは確かなことです。その噴煙は暗雲と化して日差しをさえぎり始めています。これが広がり、長く続くようであれば農作物の実りが激減するでしょう。降り積もる火山灰の被害も軽視できませぬ」
「だが、それらはわれわれ人の手でどうにかできる事のはずだ。そうであろう? ナルサス」
「その通りでございます。困難ではあっても、不可能ではありませぬ」
若き国王の言葉に、逆境にも希望と信頼を捨てぬ主君のもとで己が才を尽くす喜びを感じたナルサスは頼もしくわらった。
「デマヴァント山の噴火そのものに対しては対処できるということだな」
「その通りだ、ダリューン。まずは大陸公路の修復にザラーヴァントに骨を折ってもらうとしよう。そして、蛇王再臨についてだが」
そこでナルサスは言葉を切った。
アルスラーンとダリューン、そしてエラムは辛抱強く続きを待つ。
「アルスラーン陛下は宝剣ルクナバードを手にしておられます」
「剣もて彼の天命を継ぐ者は誰ぞ、か……!」
「そういうことだ、ダリューン。わが国王は英雄王カイ・ホスローの伝説を継ぐ者であらせられる。カイ・ホスローは聖賢王ジャム・シードの血を受け継かず、ルクナバードを手にし、ザッハークを封印した。アルスラーン陛下は英雄王カイ・ホスローの血を受け継がず、ルクナバードに宿る英雄王カイ・ホスローの英霊に選ばれたのだ。あとは、我ら臣下、臣民が割れることなく成すべきことを成せばよい。さすれば、蛇王が復活してもおそれることはない」
「成すべきこととはなんでしょうか」
「いくつかあるが、どれを優先すべきかはこれから考える。まずは情報を集めて精査せねばな。というか、エラムよ。われわれがなにを成すべきか、そろそろ、おまえにも自分の考えを持ってもらわねばならぬのだぞ」
パルス国王の親友は赤面した。
「やれやれ、とんでもないことになってきたぞ。ワシがチュルクかミスルの武将なら、蛇王の贋物を仕立て上げて、パルスを混乱させてるところだ。ヒルメスの贋物をでっちあげるより、よっぽど気が利いているぜ」
「縁起でもないことを言わないでくれよ、リョーツーンのダンナ」
馬を巧みに操ってチュルクへの山道を進みながら、リョーツーンとホンダードは軽口を叩きあっていた。
旅商人を装って、チュルクの現状を探りに来たのである。
「しかし、これって郵政官長の仕事なのか?」
「部下の郵政官たちの仕事ぶりを監督するついでに足を延ばしてるだけだ。郵便事業を周辺諸国に展開するときが来た時のための下調べというか、まあ、そういうやつだな」
「……そういうフワッとした名目で諸国漫遊する気じゃないだろうな」
「フワッとしてはおらんだろうが。……そうだ、肝心な用事があったんだ。副宰相どのが完成させた蜘蛛の矢、あれをチュルクに売り込むべきかどうか、見極めなきゃならん」
「それ、いま思いついただろう」
「そ、そんなことはない」
「なんでチュルクを有翼猿鬼が襲うんだよ? あの人妖どもを率いているのは魔将軍イルテリシュだ。そいつが襲うならパルスか、さもなきゃトゥラーン王宮だろう。トゥラーンの玉座はぜひとも奪い返したいだろうからな」
「だから、そのあたりをこの目で見極めるんだろうが」
「チュルク料理で一杯やるついでにかい?」
「そう、そう! チュルクじゃ、そろそろ秋の収穫祭だからな。豪快に切り分けられた肉料理にかぶりついて、今年の新酒をキュッと……て、コラ!」
笑顔になったり、怒鳴ったりと、リョーツーンはいそがしい。
「この坂を越えれば、ヘラートの階段宮殿が見えるはずだぜ、ダンナ」
角刈りの郵政官長の百面相を聞き流して、ホンダードは峠道を指さした。
坂の上に雲がある。
黒雲であった。
「うん?」
リョーツーンは太い繋がり眉毛の下の大きな目をすがめた。
「ああいう雲に、ワシは見覚えがあるぞ」
「奇遇だな、ダンナ。おれもだよ」
雲と見まごうばかりの人妖の大群を見上げて、旅商人を装う二人は全身に脂汗をにじませるのであった。
チュルクの国都ヘラートに着くと、そこは戦場であった。
諸国にも名を響かせた階段宮殿が、黒煙につつまれている。
いや、黒煙ではない。
チュルク王宮は、異形の怪物の大群に襲われているのだ。
「まぁた、この展開かよ! ここんとこ、いっつも後手後手にまわっちまうな」
悪態をつきながら、リョーツーンとホンダードは馬を走らせた。
「まいったな。こんなことなら、蜘蛛の矢とか芸香の汁の瓶を担いでくるんだった。高い税金と重い刑罰で鳴らしたカルハナ王が相手なら、心置きなくぼったくってやったのに」
階段宮殿にたどりついたが、王宮は門を内側から固く閉ざしている。
「これじゃ、どうにもならないな。逃げ出すことも、援軍をうけいれることも、チュルク宮廷のほうで拒絶してやがる。今のところ、チュルクの庶民に手を出すつもりはなさそうだし、少し離れて様子を見るか……」
リョーツーンたちは馬首をめぐらせた。
それから数日。
パルス方面への山道が封鎖されないか警戒しながらリョーツーンたちはヘラートの様子をうかがった。
「動きらしい動きはカルハナらしい首がさらされたぐらいか。階段宮殿のあるじが替わったことを示す布告が出されるまでは、ここで粘りたいところだな」
チュルク王宮を奇襲し陥落させたのが何者なのか。魔将軍イルテリシュなのか。蛇王ザッハークなのか。それともまったく別の人物なのか。それだけは把握しておきたかった。
それが、布告が出てもおらぬのにリョーツーンたちがパルスへの山道を疾走するに至ったのは、ヘラートの空に不吉な光景を見たからである。
階段宮殿に巣くっていた有翼猿鬼どもの、ほぼ半数が空に舞い上がり、パルスへ向けて移動を開始したのだ。
「こりゃまずい。はやくパルス軍に報せないと」
角刈りの郵政官長はホンダードを伴ってチュルクの山道を駆け抜け、ペシャワール城塞へ駆け込んだ。
クバードとトゥースに有翼猿鬼の動きを報せると、今度は大陸公路を西に進む。その先のエクバターナに急がねばならなかった。
デマヴァント山の噴火の影響で大陸公路はあちこちで寸断されている。
リョーツーンとホンダードは何度も足止めをくったが、二騎のみという身軽さを活かしてそれらを乗り越えてゆく。
大陸公路の要衝ソレイマニエで、リョーツーンたちは公路の修復工事を指揮するザラーヴァントに出会った。
「大変だ、ザラーヴァント卿! チュルクからパルスに向けて有翼猿鬼の大群が飛び立ったんだ!」
「ああ、あいつらはチュルクから来ていたのか。デマヴァント山よりも遠くから飛んできてたんだな。そりゃあ蜘蛛の矢を躱す元気もないはずだ。群れを指図していた魔道士もろとも全滅させといたぞ」
リョーツーンはすってんころりんと相成った。