「なに、チュルクがイルテリシュ王を喪い、混迷を極めているだと! それはいかんな。平和と秩序を愛するおれとしては見過ごせぬ事態だ。チュルクの南半分だけでも、シンドゥラのもとでの平和と秩序を回復させてやろうではないか。デマヴァント山とやらが火を噴いているパルスに、当分は手を出せそうになくなっていたことだしな! わはは!」
チュルク軍がペシャワールの戦にて殲滅され、イルテリシュ新王も戦死した。
その報せを聞いて、シンドゥラで一番のお調子者は満面の笑顔になった。
「今頃、ラジェンドラ王は喜び勇んでチュルクへの侵攻の準備をすすめていることでしょう」
パルス王宮にて、ナルサスは淡々と言葉をつむいだ。
「さぞかし腹の立つ笑顔をしているでしょうな。想像したくもないのに、ありありと思い浮かびます」
ダリューンは渋面になった。
「チュルクの兵たちを故国に返してやることはできなかったのだろうか……」
アルスラーンは沈痛な表情を浮かべた。
ペシャワール城塞に攻め寄せてきたチュルク兵は、文字通り皆殺しになったのである。
ナルサスは静かに頭をふった。
「チュルク兵たちをザッハークの呪縛から解き放つ方法もわからぬうえ、彼らは最後の一兵になっても戦いをやめようとしませんでした。今のわれわれには彼らを救うすべがありませぬ」
「では、ザッハークを斃せば、ザッハークの眷属も解放されるのだろうか」
「それに関して申しあげられる確かなことは、蛇王を封印しても、ザッハークの魔道士も眷属どもも消滅などはしなかったことぐらいでございます」
「英雄王カイ・ホスローは、なぜザッハークを斃さずに封印したのだろう……」
懊悩するアルスラーンに、パルス西方より報せが届いた。
ミスル軍がディジレ河を渡ったというのである。
「涼しくなった途端にこれだ。ミスルだけ常夏にならんもんかね」
悪態をつくリョーツーンに声がかけられた。
「おぬしにやってもらいたいことがある」
「ワシにですか?」
気乗りしない表情で、角刈りの郵政官長は副宰相の顔を見返した。
ディジレ河を越えたミスル軍の進軍は、慎重にすすめられた。
はじめのうちは。
迎撃に出てきたパルス軍は二万。率いるのはイスファーン、ザラーヴァント、トゥースの三人の武将である。
彼らのとった戦法はひとつだけであった。
素早く接近してきては一撃を加え、さらに素早く逃げ去るのである。
これをイスファーンの軍、ザラーヴァントの軍、トゥースの軍が順繰りに繰り返し、波状攻撃を構成していた。
当初は、パルス軍が攻勢をかけるたびにミスル軍は必死になって防御をかためていたのだが、すぐに慣れてしまった。
「なんだ、あやつら、近づいてきたと思ったら矢を射かけては逃げてゆくだけではないか」
「イスファーン? ザラーヴァント? トゥース? 誰だ? 聞いたこともないぞ、そんなやつら」
「むっつりすけべのトゥースなら聞いたことがあるぜ」
「やはり、パルスは東方のチュルクの相手で手一杯なのだ」
「ならば、今が好機。パルス西方が手薄なうちに、進めるだけ進んでしまえ」
「エクバターナを陥落させるのも夢ではないぞ」
パルス軍に怯えていた反動もあったのだろう、ミスル軍は事態を楽観視しはじめた。
「次にパルス軍が近づいてきたら、逃げだすのを追撃してやれ」
ついには、前線指揮官たちもそう考えるようになった。
そして実際に追撃すると、パルス軍は追いかければ追いかけるほど逃げていくのである。
ミスル兵たちは思った。
「この戦争、勝てるな」
と。
逆に焦り始めたのがミスル国王テュニプである。
パルス軍と一戦したあとに後退し、ディジレ河の西岸まで兵を引く。それを追撃してくるパルス軍がディジレ河を渡河している最中に兵を返して、これを撃つ。
そういう絵図を描いていたのだ。
ところが、実際に後退しているのはミスル軍ではなくパルス軍なのである。
テュニプはディジレ河西岸に陣を張っている。ミスル軍先頭は前進をつづけている。
当然、ミスル軍の陣形は細長くなってしまう。横撃を喰らえば、ミスル軍はたやすく分断されてしまうであろう。
「いっそ、陛下もディジレ河の東岸に渡ってはいかが」
吐息とともに進言をテュニプの耳に注ぎ込んだものがいる。
ミスル王妃フィトナであった。
「しかし、パルスに追撃されたときに西岸に戻れる保証はないではないか」
「パルス軍が予想外に弱腰だったからといって、どうして陛下まで弱気になる必要があるのですか。これはエクバターナをも手中にできる千載一遇の好機かも知れぬものを」
テュニプは悩んだ。
そして決断した。
渡河中のパルス軍を攻撃する案は、もともとパルス軍に手痛い損害をあたえるためのものだったのだ。
そんな小細工を弄するまでもなくパルスを征服できるなら、そのほうがよいに決まっている。
「よし、予もパルスに攻め入ってやろうではないか。……フィトナよ。当然、おぬしも来てくれるであろうな?」
「もちろんですわ、陛下」
見るものを蕩かせるような笑顔をフィトナはうかべた……。