「今こそ、わたしのとっておきの策を用いるときです」
絶望の底にいたテュニプに、フィトナがささやきかけた。
「策だと。こんな状況で、どんな策が役に立つというのだ」
「こんな時こそ役に立つ策でございます」
テュニプのいらただしげな声にも臆することなく、フィトナは妖艶にほほえんだ。
「おもしろい。ならば申してみよ」
「わたしをミスルの女王にするのです」
「………………」
テュニプは絶句した。彼は決して愚鈍な人物ではなかったが、それでもフィトナの真意をはかりかねた。
「お忘れですか。わたしはアンドラゴラス三世の実の娘。アルスラーンとやらいう僭王から見れば主筋にもあたる存在です。そのわたしが治めるミスル国を攻めるなど、パルスの神々がゆるさぬでしょう。いえ、パルスの民も黙ってはいますまい。アルスラーンめも即座に兵を引くことでしょう」
「……………………」
「なんなら、わたしがアルスラーンめを婿にむかえてもよろしい。パルス王家の正統を継ぐわたしの夫になれるのです。アルスラーンめも望外の喜びに打ち震えるでしょう」
テュニプたちの乗る船は、あまりに多くの者が乗船しているため、重みで均衡をくずし、大きく傾きつつあった。
傾いていく船室のなかで、テュニプは思った。
こやつの精神も傾き、ひっくり返りつつある、と。
「アルスラーン王を婿に、だと? しかし、そなたは予の妃ではないか」
夫の指摘にも、フィトナは心を動かした様子はない。
「生命を全うできるのだ。些事にこだわるでない。離縁したあと、食うには困らぬようにしてやるゆえ」
これまでフィトナは、パルス、ナバタイ、ミスルと少なくとも三か国を渡ってきたはずであった。だが、彼女自身の世界はとても小さく、その視界はもっと狭かったことをテュニプはさとった。
自分にとってだけ都合のいい理屈を他人が無条件に尊重すると思い込んでいる。
これまで他人の都合のもとで生きてきた反動かも知れぬが、その結果がこの肥大しきった自尊心だというのだろうか。
「それが、そなたの本当の姿なのだな」
「ようやくわかったようじゃな」
もはやテュニプに対するフィトナの態度は、王に対するものでも夫に対するものでもなくなっていた。
「おれは、以前から思っていたことがある」
「ほう、なんじゃ?」
テュニプの一人称が「予」から「おれ」に変わったのを、フィトナは自分に屈した証と受け取り、鷹揚にこたえた。
自分の勝利を確信して笑みを浮かべるフィトナの美しい顔のすぐ下を、テュニプの抜き打ちの斬撃が一瞬で通過した。
傾きを大きくしてゆく船室の床を転がるフィトナの頭部の髪をつかんだミスル国王は、妃の生首を自分の目の高さに持ち上げた。
「そなたは、もうすこし口を慎んだほうが佳い女になれるぞ」
無言の笑顔に向かっての哄笑は、突然の中断を余儀なくされた。
テュニプの脇腹に短剣を突き立てた宦官ヌンガノの身体を、衛兵たちの長剣が何本も貫いた。
ミスル国王の無駄に飾り立てられた船は、ついに転覆し、ワニの群れが生者と死者を貪るべく殺到してゆく。
ミスル国のパルス国への降伏文書には、宰相グーリィが調印することとなった。
「なんだ、ワシが寝ているあいだに勝敗は決まってしまったようだな」
兵糧を運ぶ荷車の上で寝ぼけまなこをこすりながら、リョーツーンはぼやいた。
アクミーム奇襲の成功をアルスラーンへ伝えた直後、そのままひっくり返って寝てしまったのである。
「どうやら、パルスの勝利みたいだね」
隣で横になっていたホンダードが喜びの声をあげた。手綱を握っていないとき、この男は、どうも少しばかり気が弱く見える。
「とりあえず、本営に顔を出しておくか」
荷車に並走していた愛馬にまたがり、リョーツーンはアルスラーンのもとへ向かった。
「おお、元気を取り戻したようだな、よかった。われわれが勝利したぞ。おぬしの働きのおかげだ」
若き国王はリョーツーンを機嫌よく迎えた。
今回の戦いでは、アルスラーンたちパルス本軍とグラーゼ率いる別動隊との連携が肝要であった。グラーゼがディジレ河西岸を北上する前に本軍が攻勢に出れば、ただの力押しになってしまう。逆に、グラーゼがアクミームを制圧したのに本軍が後退を続けていては、引き返したミスル軍にグラーゼたちが急襲されてしまう。
「と、いうわけでな。リョーツーン卿、おぬしにはアクミームが陥落し次第に、それをパルス軍本営に報せてほしいのだ」
パルス王宮で、ナルサスは気軽そうに言ったものである。
「こたびの勝利、祝着至極にござる。ワシは副宰相どのの指示にしたがっただけで……そういえば、ナルサス卿の姿が見えぬようですが」
「ああ、ナルサスなら三百の兵を連れてザーブル城へ赴いている」
「へ? あんな所になにをしに行ったのでござるか。新妻をほっぽって」
「いや、アルフリードも一緒だ」
「……ほほう」
リョーツーンの、繋がり眉毛の下の小さな瞳が不穏に輝いた。