「副宰相どのは、どさくさまぎれに国庫で新婚旅行と洒落込みやがったらしい。人を使いっ走りにしておいて、いい御身分だな。嫌がらせのひとつもしてやらないと腹の虫がおさまらん!」
リョーツーンは胸の内で毒づいた。
そして、ぬけぬけとアルスラーンに進言した。
「ザーブル城はマルヤムとの国境近くの要害です。マルヤムのギスカール王は油断ならぬ御仁ゆえ、ミスルと戦うわれわれの後背を衝こうとするやも知れません。メルレイン卿と、メルレイン卿の率いるゾット族五百騎とともにザーブル城へ増援として赴きたく存じます」
「うむ、おぬしの言いよう、一理あるな」
アルスラーンはうなずき、リョーツーンはナルサスの義兄一族とともにザーブル城へと向かったのであった。
新妻の実家、親類縁者が新婚旅行に押しかけてきたと知ったときのナルサスの顔を楽しみにしながら。
これは幸運と呼ぶべきか。
それとも悪運と呼ぶべきか。
ザーブル城の北、冬の山岳地帯を乗り越えて進む軍隊がある。
マルヤム国王ギスカール率いるマルヤム軍であった。
ナルサスにちょっとばかり痛い目をみせてやれ。そんな思惑でリョーツーンが口にした危惧が現実のものとなったのである。
その先鋒の指揮を務めるのは黄金仮面卿の異名を持つパルス人シャガードであった。
アルスラーン、そしてナルサスへの復讐心だけを支えにこの男はミスル国王ホサイン三世に取り入り、ホサイン三世に取って代わり、テュニプに躓き、マルヤムへと逃れ、そして今、ギスカールを使嗾してパルス侵攻に踏み切らせたのである。
シャガードの傍らにはセビュック、フラマンタスという名のパルス人が付き従っていた。
二人ともミスル以来の部下である。
この両名の、ザーブル城についての知識を組み合わせると、ザーブル城に潜入できる秘密の通路の存在が浮かび上がってくるのにシャガードは気付いていた。
ザーブル城を陥落してマルヤム軍の橋頭保とすれば、ギスカール陣営においてシャガードの立場は確固たるものとなるであろう。
ザーブル城を眼下に望める岩山にシャガードは登った。城の内情を把握できれば、秘密の通路を用いてザーブル城を攻め落とす自信が、彼にはある。
「……!」
城の中庭をのぞきこんだシャガードは息を呑んだ。
忘れようのない男の姿が、そこにあった。
矢も届かぬ距離であったが、間違えようがなかった。すくなくともシャガードにとっては。
「ナルサス……!」
漏れ出た声に籠っていたのは、憤怒か、怨嗟か、歓喜か。
かつて自分と同じ理想を語り合い、目指した男。
理想に疲れ、挫折し、悪事に走った自分を糾弾し、破滅に追い込んだ男。
自分の抱いていた理想を今も掲げ、実現しつつある男。
「ナルサス! あの日から、貴様はおれのことを思い出したこともあるまい。もう忘れているだろう。だがな、おれは一日たりとも忘れたことはなかったぞ!」
ザーブル城中庭の葡萄棚の下でナルサスは書き物をしていた。
その傍らには新妻のアルフリードが夫の仕事ぶりを幸せそうにみつめていた。
「気が散る」
などと無粋なことは、さすがのナルサスも口にしない。
新婚夫婦の邪魔は野暮とばかりにパルス兵たちもゾット族たちも遠巻きにしている。
ふいに、鈴が鳴った。アルフリードの腰に下げられた、ファランギースに借りた鈴である。
危険が近づくと鳴るというそれは、エクバターナに無事にもどったときに正式にファランギースから贈られることになっていた。
「ナルサス、気を付けて!」
夫に注意を呼びかけ、ザーブル城までついてきていたゾット族に烽火をあげさせた。
「ザーブル城から烽火が!」
雪道を駆けるリョーツーンが声をあげた。
「間に合わせる。急ぐぞ」
メルレインが愛馬を駆りたてた。
黄金の仮面を被った男がザーブル城の中庭に騎乗のまま駈け込んできた。
それを迎え撃つナルサスは、既に愛馬にまたがっている。
「ナルサス! おれがわかるか! わかるまい!」
黄金仮面はナルサスに向かって突進した。長剣を振りかぶる。
ナルサスは涼やかに告げた。
「ひさしいな、シャガード」
「……! おお!」
思いもよらぬ返答に、シャガードの動きが硬直した。致命的な隙であった。
「さらばだ、シャガード」
ナルサスの振るった剣先はシャガードの咽喉を切り裂き、だが首を切断はしなかった。
鮮血をふりまきながら、シャガードは永遠に落馬した。
落馬の衝撃で仮面が外れ、右半面の焼けただれた素顔が露わになる。
馬から降りたナルサスが、そこへ歩み寄る。
その顔を見上げたシャガードの唇が動いた。
咽喉を裂かれたので声は出せない。
だが、唇の動きから、ナルサスはシャガードの、かつての友の最後の言葉を読み取った。
「おれに勝ったのだ。すこしはうれしそうな顔をしろ」
ナルサスは悲痛な響きの声でこたえた。
「シャガード。おれはおまえに勝ちたかったのではない。おれはおまえと共に……」
それ以上はこみ上げる思いが邪魔をしてつづけられなかった。
シャガードの瞳は冬の空を映し、そして、もう何も見ていない。
「ナルサスきょお~! これはいったいなにごとだあ~」
場にそぐわぬ大声が、城のすぐそばから聞こえていた。