The Amazing Spider-Man 5: Legacy of Oscorp 作:たきび/まもる
地下へ向かうエレベーターの中で、スパイダーマンは扉の上に浮かんだ PROCEED TO SPECIAL PROJECTS の文字を見つめていた。
通常の階数表示はとうに消えており、今どれほどの深さまで降りているのかも分からない。途中からスマートフォンの電波も完全に途切れ、地上に残したヒルとの通信もできなくなっていた。ここから先は、自分の目で状況を確かめるしかない。
スパイダーマンはスマートフォンをしまうと、両手首のウェブシューターを確認した。通常のウェブに加えて、夜叉会との再戦を想定して粘度を上げたカートリッジも用意してある。レイブンクロフトでは、構成員が力を使う直前に手首や肘を封じることで、ネガティブパワーの出力をある程度崩すことができた。ただし、その方法がミスター・ネガティブ本人にはほとんど通じなかったことも覚えている。
同じ力を使っているように見えて、構成員たちとあの仮面の男では明らかに何かが違う。構成員たちが借り物の力を扱っているのだとすれば、あの男こそが大元なのかもしれない。
それだけでも厄介なのに、地下に何人いるのかさえ分かっていなかった。
オットーとトゥームズは、おそらくここにいる。ブラックキャットが見つけたという、顔を自在に変える男も今回の襲撃に関わっている可能性が高い。レイブンクロフトを襲ったミスター・ネガティブと夜叉会、州立刑務所を襲った武装集団まで同じ場所へ集まっているのなら、二つの脱走事件は最初からオズコープへ辿り着くための準備だったことになる。
そして、もう一つ気になることがあった。
F.E.A.S.T.で偶然耳にしたリーの電話では、確かにハリーの名前が出ていた。あの時点では意味の分からない会話だったし、それだけでリーとハリーを結びつける理由もなかった。しかし今になって、二重脱走とオズコープ襲撃、そのすべてが一つの計画だったと考えると、あの電話だけが妙に引っかかる。
確証はない。それでも嫌な予感は消えなかった。
やがて、エレベーターの速度がゆっくりと落ち始めた。
スパイダーマンは壁から背を離し、扉が開いた瞬間に何が飛んできても対応できるよう重心を落とす。低い電子音が鳴り、左右へ開いた扉の向こうから、地上のオズコープでは見たことのない薄暗い緑色の光が流れ込んできた。
中央のエレベーターを中心として、低い天井の通路が円形に広がっている。巨大な空洞を深く掘り下げたというより、一定の高さを保ったまま横へ横へと秘密区画を押し広げていったような構造で、外周へ向かう複数の通路から、さらに研究区画や保管庫へ枝分かれしていた。
金属質の床と壁には一定間隔で緑色の照明が埋め込まれ、ガラスケースや研究設備の内部からも同じ色の光が漏れている。施設全体が暗い緑色に染まっているため、ここだけが地上のオズコープから切り離された別世界のように見えた。
スパイダーマンはエレベーターを降り、周囲を見回した。
人の気配はある。遠くでは断続的に銃声が聞こえ、別の方向からは何か重量物を動かしているような金属音も響いていた。それなのに、これだけの騒ぎが起きている地下施設の中央で、目の前の円形通路だけは不自然なほど静かだった。
「……嫌な静かさだな。」
一歩踏み出したところで、スパイダーセンスが反応した。
スパイダーマンは考えるより先に上体を反らし、鼻先を通過した一本のナイフをかわした。刃はそのまま背後のエレベーター扉へ突き刺さる。振り返る暇もなく横へ跳ぶと、今度は足元を別の刃が掠め、その先に張られていた細いワイヤーが緑色の光を一瞬だけ反射した。
スパイダーマンは着地せず、そのまま壁へ張りついた。
通路の奥から、一人の男が歩いてくる。
大柄な体格で、夜叉会の構成員とは装備がまるで違う。銃器を中心にした近代的な戦闘装備とも異なり、腰には複数のナイフがあり、背には折り畳まれた槍が固定されている。男はスパイダーマンが最初に着地しようとした場所ではなく、最初から壁へ逃れるところまで予想していたように、その動きをじっと見ていた。
「……今の、当てる気だった?」
男は答えなかった。
代わりに、スパイダーマンの身体を上から下まで観察する。筋肉の付き方や手足の長さだけでなく、壁へ張りついている姿勢まで確認してから、ようやく口を開いた。
「思っていたより細い。」
「初対面の人にナイフ投げた後で言うことじゃないと思うけど。」
「セルゲイ・クラヴィノフ。」
スパイダーマンは壁に張りついたまま首を傾げた。
「……何?」
「俺の名だ。クレイヴンと呼べ。」
「呼び方まで指定するんだ。」
「お前にも名があるだろう。」
スパイダーマンは壁から床へ降りた。
「スパイダーマン。」
クレイヴンの口元に笑みが浮かぶ。
「知っている。」
「じゃあ自己紹介いらなかったじゃん。」
そう返しながらも、スパイダーマンは視線だけで周囲を確認していた。
最初のナイフも、二本目の刃も、足元のワイヤーも、偶然あの位置に置かれていたわけではない。こちらが最初の攻撃をどう避けるのかを見たうえで、次の動作へ繋げている。
この男は、ただ攻撃しているのではない。
こちらの動きを観察している。
「悪いけど、僕は君に会いに来たわけじゃないんだ。ここで何してるのか知らないけど、話なら後で――」
「お前を待っていた。」
「……僕を?」
「そうだ。」
クレイヴンは腰からナイフを一本抜いた。
「お前を狩るために来た。蜘蛛。」
スパイダーマンは数秒、何も言わなかった。
「……今日そういう人、多くない?」
クレイヴンが踏み込んだ。
大柄な身体からは想像できない速度だった。スパイダーマンが横へ逃れると、クレイヴンは途中で拳の軌道を変える。最初から命中させるつもりではなく、回避先を見ていたのだと気づいた時には、反対側から振られた腕が肩へ掠めていた。
まともに受けたわけではない。それでも身体が横へ流される。
「……強っ。」
スパイダーマンは床へ手をついて回転し、その勢いのままクレイヴンの足元へウェブを撃った。両足をまとめて固定し、さらに胸元へ一本撃ち込んで壁へ引き寄せる。
普通の人間なら、それで終わる。
しかしクレイヴンは踏み止まった。
ウェブに引かれながら逆に前へ踏み込み、張った糸を掴んで強く引く。スパイダーマンの身体が前へ飛び、待ち構えていた拳が迫る。
「ちょ――」
スパイダーマンは空中で身体を捻って拳をかわし、そのままクレイヴンの肩へ片手をついて背後へ飛び越えた。着地と同時に振り返ると、クレイヴンもすでにこちらを向いている。
しかも、笑っていた。
「いい。」
「僕は全然良くない。」
再び二人が距離を詰めようとした、その時だった。
地下のどこかで巨大な爆発が起きた。
音より先に床が揺れ、続いて腹の底まで響くような轟音が施設全体を貫いた。天井から細かな埃が落ち、緑色の照明が一斉に明滅する。
スパイダーマンもクレイヴンも動きを止めた。
数秒遅れて、空気が変わる。
これまで閉鎖空間特有の淀んだ空気しかなかった地下施設へ、明らかな風が流れ込み始めた。
スパイダーマンは風の来る方向へ顔を向ける。
「……何した?」
「俺ではない。」
「そこだけは信じる。」
風は徐々に強くなっていた。
どこかで、地下と地上が繋がった。
少し前。
兵器研究区では、トゥームズがすでに新型ウイングを装着していた。
左右へ広がる金属翼は、かつて彼が使っていた飛行装備とは比較にならないほど洗練されている。背部の推進装置と翼の可動部は神経信号を直接読み取り、トゥームズが身体を動かそうと考えた時点で、その意図を機体側が先回りして処理していた。
その数メートル後方にはオットーがいる。彼の腰にも四本の機械アームが装着されていた。
以前使っていたアームそのものではない。オズコープが保管していた研究データをもとに再設計された試作機で、関節構造も制御系も改良されている。それでもオットーにとっては、自分の研究が何へ変えられたのかを否応なく見せつける装置だった。
トゥームズがわずかに肩を傾けると、それだけで巨大な右翼が滑らかに動いた。装着してからほとんど時間が経っていないにもかかわらず、機体はすでにトゥームズの身体の一部であるかのように反応している。
それを見ているオットーの表情は険しかった。
「やめろ、トゥームズ。」
「もう遅いよ。」
トゥームズは前方の壁を見ていた。
兵器研究区の外周を塞いでいる厚い構造壁。その向こうには、オズコープタワー内部を縦方向に貫く設備用空間があることを、ウイングの内部データからすでに確認している。
「正規の出口へ戻れ。今ならまだ――」
「正規の出口?」
トゥームズは振り返った。
「警察が待ってるところへ?」
「だからといって建物を破壊する理由にはならない!」
「俺にはなる。」
ウイングの兵装システムが起動し、それを見たオットーの表情が変わった。
「待て!」
ミサイルが発射された。
爆発が兵器研究区を揺らし、厚い金属板とコンクリートがまとめて吹き飛ぶ。爆煙の向こうに現れたのは、無数の配管やケーブル、保守用の足場が遥か上まで続く巨大な縦坑だった。その先からは、夜のニューヨークの光が僅かに差し込んでいる。
開いた穴から、地下施設へ風が流れ込んだ。
トゥームズは満足そうに縦坑を見上げる。
「ほら。出口だ。」
オットーは崩れた壁を見てから、トゥームズを見た。
「君は本当に……!」
「説教なら後で聞くよ。」
推進装置が点火し、トゥームズの身体が浮き上がる。巨大な翼が姿勢を整えた。
「捕まえられたらな。」
次の瞬間、トゥームズは縦坑へ飛び込んだ。
翼は一気に加速し、途中の保守床を避けながら上昇していく。慣熟飛行すらしていないはずなのに、機体側の補正によってその動きにはすでに迷いがない。
オットーは四本のアームで床を掴んだ。
自分がこの装備を使う理由は一つしかない。
あのウイングには自分の研究が使われている。
ならば、自分で止める。
四本のアームが一斉に床を押し、オットーの身体が宙へ持ち上がった。そのまま縦坑へ飛び込むと、二本のアームで左右の壁を交互に掴み、残る二本で上方の構造物を引き寄せながら、トゥームズを追って急速に上昇していった。
認証技術区画では、カメレオンが小型の金属ケースを閉じようとしていた。
その手には、薄い装置が握られている。
顔認証、指紋、声紋、社員番号、アクセス権限。複数の個人認証情報を、別人の身体情報へ対応づけるための試作装置だった。
顔を変えることはできる。声も変えられる。相手をよく観察すれば、仕草や歩き方まで似せることができる。それでも、機械だけは騙せなかった。
目の前の人間が社員本人にしか見えなくても、指紋が違えば扉は開かない。顔を完璧に真似ても社員証がなければ止められる。複数の認証方式を組み合わせたシステムの前では、どれほど完璧に人間を騙しても、最後には偽物だと判定される。
だが、この装置があれば違う。
カメレオンは試験端末へ指を置いた。
自分の指紋で、別人として認証されている。
表示を見ながら、カメレオンは笑った。
「これだ。」
装置をポケットへ入れようとした瞬間、細いワイヤーが飛んできた。
カメレオンは反射的に手を引く。ワイヤーの先端は装置のすぐ横を通り、金属ケースへ突き刺さった。
「それ、置いて。」
聞き覚えのある声だった。
カメレオンが振り返る。
そこにいたのは、先ほどまでオズコープの社員として施設内を動いていたフェリシア・ハーディではなかった。
黒を基調としたスーツが身体へ沿っている。身体の線こそ分かるものの、露出や装飾を目的にしたものではなく、特殊部隊の戦闘服から動きを妨げる厚みや余分な装備を削ぎ落とし、より軽量に、より身体へ密着するよう仕立て直したような印象だった。前腕と腰には小型の装備が収められ、目元も黒いマスクで隠されている。
ブラックキャットはワイヤーガンを構えたまま、カメレオンの手元を見ていた。
「それを持って行かせるわけにはいかない。」
カメレオンはすぐには答えなかった。
ブラックキャットの姿を頭から足元まで眺め、それからもう一度顔を見る。
「……何それ。」
「何って?」
「さっきまで社員の中に紛れてた人間が、今度は一目で普通じゃないって分かる格好してる。」
ブラックキャットは眉を上げた。
「だから?」
「目立たないために目立つ格好をするのって、非効率じゃない?」
「今は目立たない必要がないの。」
カメレオンは納得したような、していないような顔をした。
「じゃあ、スパイダーマンの真似?」
ブラックキャットの目が少し細くなる。
「もう一回言ってみて。」
「コスプレ?」
「そっちじゃない。」
カメレオンが小さく笑った。
「ほら。そういうところまで似てる。」
「言いたいことはそれだけ?」
「名前もあるの?」
ブラックキャットはワイヤーガンを僅かに上げた。
「ブラックキャット。」
カメレオンは数秒、本当に何と返せばいいのか考えるように黙った。
「……本当に?」
「何か問題ある?」
「いや。蜘蛛の次が猫なんだなと思って。」
「その蜘蛛とセットみたいに言うのやめてくれる?」
「違うの?」
「違う。」
返事と同時にブラックキャットが踏み込んだ。
会話を続けるつもりなど最初からなかった。カメレオンが装置を持つ右手を狙い、手首を蹴り上げる。カメレオンは腕を引いてかわしたが、その時にはブラックキャットが身体を回転させ、反対側から肘を打ち込んでいた。
カメレオンは両腕で受け、衝撃に押されて数歩後退する。
「やっぱり、話し合う気ない?」
「人の顔盗んで会社に入った相手と何を話すの?」
「君だって今、顔隠してるけど。」
「意味が違うでしょ。」
再びブラックキャットが距離を詰めると、カメレオンは拳をかわし、近くの机を蹴って二人の間へ滑らせた。ブラックキャットは机へ片手をつき、そのまま身体を浮かせて飛び越える。
しかし、着地した時にはカメレオンは出口へ向かっていた。
ブラックキャットがワイヤーを撃つ。
カメレオンは身体を伏せ、頭上を通過させた。
「逃げるの?」
「勝てない相手と戦う趣味はない。」
「そこは賢いのね。」
「褒め言葉として受け取っておく。」
カメレオンが円形通路へ飛び出し、ブラックキャットもすぐに追う。
正面から戦えば自分の方が上だということは、ブラックキャットにも分かっていた。カメレオン自身もそれを理解しているからこそ、殴り合いを選ばず、曲がり角や遮蔽物、人間のいる場所を探しながら逃げている。
顔を変える時間を作るためだ。
ブラックキャットは中央側の手すりへワイヤーを撃ち込み、巻き取り装置を作動させた。円形通路の内側を一気に飛び越え、外周を走るカメレオンの進路へ先回りする。
カメレオンが顔を上げた。
「それ反則じゃない?」
「顔変える人に言われたくない。」
ブラックキャットが着地し、カメレオンが進路を変えようとした、その瞬間だった。
地下施設全体が大きく揺れた。
轟音が遅れて響き、天井から埃が落ち、緑色の照明が一斉に明滅する。
ブラックキャットもカメレオンも足を止めた。
「……何?」
続いて、風が流れてきた。
閉鎖されていた地下施設にはあり得ないほど強い空気の流れだった。遠くから人の声が聞こえ始め、警報音に混じって、誰かが外壁が破られたと叫んでいる。
カメレオンが風の方向を見る。
ブラックキャットもすぐに状況を理解した。
「まずい。」
研究員や警備員が一斉に通路へ出てきた。さらに夜叉会の構成員やクレイヴンの部下たちまで、同じ方向へ移動し始めている。そこに統制はなく、地下に閉じ込められる前に、開いた出口から地上へ出ようとしているだけだった。
カメレオンにとっては、これ以上ない状況だった。
ブラックキャットが彼を見る。
カメレオンも彼女を見る。
「じゃあね、ブラックキャット。」
「待っ――」
カメレオンは逃げてきた研究員の一人へ自分からぶつかった。
二人の身体が重なり、周囲の人間がブラックキャットの進路を塞ぐ。横へ回り込んだ時には、すでに白衣の研究員や負傷した警備員、作業服姿の技術者、夜叉会の構成員まで十数人の人間が一斉に同じ方向へ動いており、そのどこにも、さっきまで追っていたカメレオンの顔はなかった。
ブラックキャットは足を止め、流れていく人々の背中を見回した。
「……面倒。」
それでも諦めず、人の流れを追う。
顔が使えないなら、別の方法で探すしかない。
記録保管区では、リーによる破壊が始まっていた。
すでに仮面は外されている。
自分が何のために実験へ使われ、その結果が何へ繋がったのかは、もう知っていた。自分の人生を壊した出来事がオズコープにとっては一つの研究記録でしかなく、その後も別の人間を使った実験が繰り返され、最終的にはオズボーン家の遺伝病を治療するための研究へ組み込まれていったことも理解している。
だから、残す理由がなかった。
リーが手を伸ばすたび、黒紫色の力が研究設備を走った。端末が破裂し、記録媒体が焼け、ガラス越しに並んでいた実験機器が内側から砕けていく。夜叉会の構成員たちは最初こそ周囲を警戒していたが、破壊が記録保管区だけに収まらなくなるにつれ、次第にリーから距離を取るようになっていた。
「リー、このまま続ければ地下全体に影響が出ます。」
構成員の一人が声を上げた。
リーは振り返らない。
「それでいい。」
「ですが、まだこちらの人間も――」
「地上へ戻れ。」
怒鳴っているわけではない。むしろ、感情を押し殺したように静かな声だった。
構成員はしばらくその背中を見ていたが、やがて他の者たちへ撤退を指示した。リーを止められないことは、もう分かっている。
リーの足元から黒紫色の光が床を走り、壁面の電源設備へ到達した。激しい火花とともに区画の照明が落ち、数秒後には非常電源へ切り替わる。
その時、遠くから巨大な爆発音が届いた。
続いて、施設内の空気が動き始める。
リーは破壊を止め、風の流れてくる方向へ顔を向けた。
地下から地上へ、新しい道が開いた。
それなら都合がいい。
ここだけを壊して終わるつもりは、もうなかった。
リーは直剣を手に取り、記録保管区を後にした。
治療区画の最深部では、ハリーが巨大なカプセルの中にいた。
透明な前面カバーの向こうで複数の投薬・観測用アームが動き、彼の全身状態を監視しながら治療を続けている。
外で何が起きているのか、ハリーには分からない。
爆発による振動も、カプセル内部では鈍い衝撃としてしか伝わらず、警報が鳴っていることさえ厚いカバーによって遠く聞こえるだけだった。
操作パネルには治療の進行状況が表示され続けている。遺伝子異常の補正、細胞修復、神経症状の抑制、損傷組織の再生が並行して進み、異常を示していた数値が少しずつ正常域へ近づいていた。
ハリーの額には汗が浮かび、時折苦しそうに眉が動く。
それでも、治療はまだ終わっていない。
彼は目を閉じたまま、カプセルの中にいた。
地下施設が崩れ始めていることも、自分の父が残した研究をリーが破壊していることも、そのリーと自分がやがて同じ場所へ辿り着くことも、まだ何も知らなかった。
スパイダーマンとクレイヴンの小競り合いは、爆発のあとも続いていた。
ただし、スパイダーマンの意識はすでにクレイヴンだけには向いていない。
施設内を流れる風、避難を始めた人々、遠くで続く破壊音。これだけの異常が同時に起きている以上、この男一人にいつまでも付き合っている場合ではなかった。
クレイヴンがナイフを投げる。
スパイダーマンは頭を振ってかわし、そのまま壁を蹴ってクレイヴンの頭上を越えた。今度は振り返って攻撃せず、風の流れてくる方向へ走る。
「逃げるのか、蜘蛛!」
背後から声が飛んでくる。
「そう見えるならそういうことでいい!」
当然、クレイヴンも追ってきた。
スパイダーマンが円形通路へ出ると、研究員や警備員だけでなく、夜叉会や見覚えのない武装集団までが同じ方向へ走っていた。その人の流れに沿って進むと、やがて爆発によって開いた穴の正体が見えてくる。
崩れた外壁の向こうには巨大な縦坑があり、遥か上からニューヨークの夜の光が差し込んでいた。
「……これ、誰がやったんだよ。」
答えはすぐに見つかった。
上方から爆発音が聞こえ、続いて巨大な金属翼が一瞬だけ縦坑を横切る。その後を、四本の機械アームを使って壁面を駆け上がる人影が追っていた。
スパイダーマンは目を見開く。
「オットー……?」
見間違えるはずがない。
だが、以前とは違う。
オットーは逃げているのではなく、翼の男を追っている。
さらに金属翼の形を見て、もう一人にも気づいた。
「トゥームズまで……。」
二人はすでに地上へ向かっている。
その瞬間、背後からクレイヴンが飛びかかってきた。
スパイダーセンスに従って身を沈めると、クレイヴンは頭上を越えて着地する。
「よそ見をするな。」
「いや、するでしょ! 今の見た!?」
「俺には関係ない。」
「さっきも聞いたよ、それ!」
スパイダーマンは拳をかわしながら、縦坑を見上げた。
ここでクレイヴンを倒そうとすれば時間がかかる。しかし地下でこのまま戦い続ける必要もない。地上へ出れば状況を確認でき、ヒルとの通信も戻る。何より、クレイヴンが自分だけを狙っているのなら、こちらが移動すれば追ってくるはずだった。
「分かった。」
突然そう言われ、クレイヴンの動きが僅かに止まる。
「何がだ。」
「君、僕と戦いたいんだよね?」
「ああ。」
「じゃあ来れば。」
スパイダーマンは縦坑の上を指した。
「ただし、ここじゃない。」
クレイヴンの表情が変わる。
「逃げるつもりか。」
「追えるなら追ってきて。」
言い終わるより先に、スパイダーマンは上方へウェブを撃った。
糸が保守足場へ張りつき、巻き取りによって身体が一気に縦坑を上昇する。
クレイヴンはその姿を見上げ、そして笑った。
「いいだろう。」
近くに残されていた昇降用ワイヤーを掴む。
「狩り場は広い方がいい。」
二人は地下を離れた。
スパイダーマンが縦坑から地上へ飛び出すと、夜のマンハッタンが一気に視界へ戻ってきた。
オズコープ周辺では今も警察と襲撃者たちの混乱が続いており、パトカーの赤と青の光が道路を染め、建物の上ではサーチライトが動き、遠くから複数のサイレンが重なって聞こえている。
さらに上空では、巨大な金属翼が高層ビルの間を抜けていった。
トゥームズだ。
その後をオットーが追っている。四本のアームをビルの外壁や屋上へ次々と突き立て、飛行するトゥームズから離されまいとミッドタウンの高層ビル群へ向かっていた。
スパイダーマンは一瞬、そちらへ向かおうとした。
しかし、背後から聞こえてきた金属音で思い直す。
クレイヴンが地上へ出てきた。
この男を放置したままオットーたちを追えば、今度は市街地のどこで襲ってくるか分からない。しかも地下でわずかに戦っただけでも、クレイヴンがこちらの回避行動を分析し始めていることは分かっていた。
まず、この男を人の少ない場所へ引き離す。
スパイダーマンはウェブを放ち、建物の間へ飛び出した。
クレイヴンもすぐに追跡を始める。
スイングしながら、スパイダーマンはマンハッタンの地理を頭の中で組み立てた。クレイヴンを人の多い場所へ連れて行くわけにはいかない。あの男は銃やナイフだけで戦う人間ではなく、ワイヤーや罠まで使い、こちらの反応そのものを利用しようとしている。
必要なのは、広く、人を遠ざけやすく、高層建築への被害も出にくい場所だった。
スパイダーマンは北へ向かう。
やがてビルの隙間から夜のセントラルパークが見えてくると、迷わず進路をそちらへ変えた。
同じ頃、縦坑から地上へ脱出した人々は、オズコープ周辺から次々とマンハッタンの街へ散っていた。
その流れを、ブラックキャットは屋上から追っていた。
地下でカメレオンの顔は見失ったが、消えたわけではない。あの装置を手に入れた以上、警察に囲まれているオズコープ周辺へ留まる理由もなく、人の多い場所へ入り、別人になって、そのまま何事もなかったように街へ消えるはずだった。
ブラックキャットは地上を流れる群衆を一人ずつ目で追う。
顔そのものではなく、歩き方や周囲を見るタイミングを見ていた。
警察官を避けるのか、それとも逆に近づくのか。誰かに見られていることを気にしているのか。地下から逃げてきた人間なら、普通はオズコープから離れることを優先する。それなのに必要以上に周囲の人間を観察している者がいれば、それは別の目的で群衆を使っている可能性がある。
その時だった。
交差点の向こうを歩いていた一人の男が、何気なく鼻の横へ指を当てた。
ほんの一瞬だった。
ブラックキャットの視線が止まる。
地下でカメレオンと対峙した時にも見た仕草だった。会話の途中や、次の行動を考えている時、無意識に鼻のあたりへ指を持っていく。
顔も違えば、髪型も服装も違う。
それでも、その仕草だけは同じだった。
ブラックキャットは屋上の縁へ近づいた。
「……見つけた。」
男が角を曲がる。
ブラックキャットはワイヤーを向かいの建物へ撃ち込み、地上へ向かって飛び出した。
ブラックキャットとカメレオンの戦いもまた、地下からマンハッタンへ移ろうとしていた。
セントラルパークへ入ったスパイダーマンは、木々の間を低く抜けながら背後を確認した。
クレイヴンはまだ追ってきている。
それを確認すると、スパイダーマンは速度を落とした。
街灯の光が届く場所は限られ、少し奥へ入るだけで周囲は急に暗くなる。遠くにはマンハッタンの高層ビルが見えているのに、木々に囲まれたこの一帯だけは街の中心から切り離されたように静かだった。
ここなら、市街地の真ん中で戦うよりは被害を抑えられる。
スパイダーマンは地面へ降り、振り返った。
「よし。ここなら――」
スパイダーセンスが反応した。
身体を横へ投げる。
直後、それまで立っていた場所へ一本のクロスボウの矢が突き刺さった。
スパイダーマンは矢が飛んできた方向を見るが、誰もいない。背後から物音がして振り返ると、今度は木と木の間に細いワイヤーが張られていることに気づいた。
さっきまではなかった。
いや、違う。
暗くて見えなかっただけだ。
スパイダーマンはゆっくり周囲を見回した。
木々の間や茂みの奥、地面、頭上の枝。注意して見れば、ワイヤーや小型の発射装置、木の幹へ偽装された機構がいくつも配置されており、地面の一部には落ち葉で隠された仕掛けまである。
「……嘘でしょ。」
背後から足音が聞こえた。
クレイヴンがゆっくり歩いてくる。息はほとんど乱れていない。
スパイダーマンは周囲の罠を見てから、クレイヴンを見る。
「これ、今作ったわけじゃないよね。」
「当然だ。」
「僕がここに来るって知ってた?」
「知らない。」
クレイヴンは木の幹へ手を触れた。
「だから、来る可能性のある場所には用意しておく。」
スパイダーマンはしばらく何も言わなかった。
「……君、怖いよ。」
クレイヴンは腰からナイフを抜いた。
地下で見せていた笑みとは違う。ここでは、自分の周囲に何があるのかを完全に把握している。
「さあ。」
クレイヴンが構える。
「狩りを始めよう。」
スパイダーマンは周囲の罠をもう一度見た。
自分から人の少ない場所へ誘導したつもりだった。
だが、結果として入ったのは、クレイヴンがあらかじめ作り上げていた狩り場だった。
ここから先は、地下での小競り合いとは違う。
少なくとも今のところは、狩人と獲物の立場がはっきりしている。
クレイヴンが最初に動いた。
正面から距離を詰めるのではなく、右手を軽く上げる。その合図に呼応するようにスパイダーマンの左後方で小さな作動音が鳴り、スパイダーセンスが反応した。
スパイダーマンは反射的に右へ跳ぶ。
直後、木の幹に固定されていたクロスボウから矢が放たれ、さっきまで立っていた場所を通過した。しかし着地しようとした先でも、今度は地面の下から別の危険を感じる。
スパイダーマンは足をつける寸前で身体を捻り、近くの枝へウェブを撃って軌道を変えた。直後、落ち葉に隠されていた仕掛けが作動し、地面からワイヤーが跳ね上がる。
「……なるほど。」
枝へ逆さに張りついたまま、スパイダーマンは下を見た。
最初の矢そのものが目的ではない。
あれを避ける方向まで計算されている。
クレイヴンは少し離れた場所から、その様子を静かに見ていた。
「地下で確かめた。」
「何を?」
「お前は危険が来る前に動く。だが、それは自由に動いているわけではない。」
クレイヴンは地面へ突き刺さった矢を顎で示した。
「危険から遠ざかろうとする。」
スパイダーマンは枝から降りた。
「それ、人間ならだいたいそうじゃない?」
「普通の人間は、危険を知った後で動く。」
クレイヴンがゆっくり歩き出す。
「お前は違う。身体が先に答えを出す。」
次の瞬間、クレイヴンがナイフを投げた。
スパイダーマンは左へ避ける。
そこへ二本目が飛んでくる。
今度は上からだった。
スパイダーマンは身体を低く沈めるが、その先で再びスパイダーセンスが強く反応し、身体を後ろへ引いた。足元を細いワイヤーが走り、その数メートル先で木と木の間へ巨大な網が落下する。
三つの攻撃が、それぞれ別の罠へ誘導していた。
「そういうことか。」
スパイダーマンはようやく理解した。
「僕に当てようとしてないんだ。」
クレイヴンが笑う。
「今頃気づいたか。」
「いや、初対面からこんなことする人の思考を理解するのに時間かかっただけ。」
スパイダーマンはクレイヴンから目を離さず、周囲を確認した。
罠の位置、ワイヤーの角度、発射装置の向き、地面に残された足跡。
地下で相手を観察していたのは、クレイヴンだけではない。
スパイダーマンもまた、この男がどう戦うのかを見始めていた。
クレイヴンは自分の力を信用している。
それ以上に、自分が準備した狩り場を信用している。
だからスパイダーマンへ攻撃するとき、罠の位置を確認しない。
全部覚えているからだ。
「……だったら。」
スパイダーマンは小さく呟いた。
「最初にやることは決まったな。」
クレイヴンが踏み込む。
スパイダーマンも正面から走った。
クレイヴンの拳にスパイダーセンスが反応する。しかし今度は、その感覚に任せて最も安全な方向へ逃げなかった。
ぎりぎりまで引きつけてから身体を低くし、クレイヴンの腕の下へ潜り込む。そのまま背後へ抜けると、近くの木へ固定されていたクロスボウへウェブを撃った。
クレイヴンが振り返る。
「何を――」
スパイダーマンはクロスボウ本体を強く引いた。
固定具が外れ、発射装置の向きが大きく変わる。
照準の先に立っていたのは、クレイヴンだった。
「君、自分の罠の位置は全部覚えてるんだよね?」
スパイダーマンは笑った。
「じゃあ、向きが変わったら困るでしょ。」
ウェブをもう一本撃ち、起動用ワイヤーを引く。
矢が発射された。
クレイヴンは反射的に身体を横へ投げる。
矢は頬のすぐ横を通り抜け、背後の木へ深く突き刺さった。
スパイダーマンはその動きを見逃さない。
クレイヴンが、自分の罠を避けた。
初めてだった。
「ほら。」
スパイダーマンはクロスボウをウェブで巻き上げ、そのまま高い枝へ吊るした。
「今度は君が避ける番。」
クレイヴンの笑みが消えた。
ミッドタウンでは、トゥームズとオットーの戦闘がさらに激しくなっていた。
トゥームズは高層ビルの間を自由に飛び回り、オットーが外壁を伝って距離を縮めるたびに高度を変えていく。単純な速度だけなら勝負にならない。オットーは建物がある場所でしか移動できず、トゥームズは空そのものを足場にできる。
それでもオットーは追い続けた。
四本のアームを同時に使うのではなく、一本ずつ役割を変えながら移動している。二本で身体を支え、一方を次の建物へ伸ばし、残る一本をトゥームズへの牽制に使う。以前アームに振り回されていた時とは違い、今はすべての動きがオットー自身の判断に従っていた。
トゥームズはそれを空中から見下ろし、少し苛立ったように翼を傾けた。
「本当にしつこいな!」
「君が止まれば、すぐ終わる!」
「その翼が欲しいなら自分で作れよ!」
「そんな話をしているんじゃない!」
トゥームズは右翼を開き、機銃をオットーへ向けた。
オットーは攻撃の軌道を読んで横へ移動する。しかし銃弾は彼自身ではなく、その足場となっている建物の外壁へ集中した。
ガラスと外装材が大きく崩れる。
オットーは追跡を止めた。
落下する瓦礫の下には、道路を封鎖していたNYPDと避難途中の市民がいる。
一本のアームを外壁へ残したまま、残る三本を一斉に下へ伸ばした。最も大きな金属板を受け止め、二本目で割れた看板を掴み、三本目で落下する窓枠を道路から逸らす。
それでも細かな破片までは止められない。
一人の警官が上を見たまま動きを止めていた。
オットーは機械アームではなく、自分の腕を伸ばした。警官の襟を掴んで身体ごと横へ引き倒す。
直後、その場所へガラス片が降り注いだ。
警官は地面へ転がりながら、目の前にいるオットーを見る。
「……助けたのか?」
「今は質問するな。」
オットーはすぐに上を見る。
トゥームズはすでに距離を取っていた。
「追えば逃げる。止まれば撃つ。」
小さく息を吐く。
「実に性格の悪い戦い方だ。」
その時、周囲の警官が一斉に銃を向けた。
「オクタビアス! 動くな!」
オットーは顔だけをそちらへ向けた。
「今それをやるのか?」
「両手を上げろ!」
「見れば分かるだろう! 私は今、彼を――」
上空から新たな攻撃音が聞こえた。
オットーは言葉を切り、警官たちの方へアームを伸ばした。
警官が反射的に発砲する。
だが、アームは彼らを攻撃しなかった。
道路脇にあった大型の金属製案内板を掴み、そのまま警官たちの頭上へ掲げる。
直後、トゥームズの銃撃が案内板へ集中した。
金属板が大きくへこみ、火花が散る。
オットーは腕に伝わる衝撃に耐えながら叫んだ。
「撃つ相手を間違えるな!」
少し離れた場所で、その一部始終をヒルが見ていた。
地下施設襲撃への対応で現場は混乱していたが、オットーの行動だけは明確だった。
逃げていない。
警察を攻撃していない。
トゥームズを追いながら、巻き込まれた市民と警官を守っている。
ヒルは無線を取った。
「全員聞け。オクトパスへの攻撃を止めろ。」
部下が聞き返す。
『警部?』
「聞こえなかったのか。攻撃を止めろ。」
ヒルは上空を飛ぶトゥームズを見た。
「飛んでる方を狙え。翼と推進装置だ。オクトパスは今、市民を守ってる。」
オットーが少し離れた場所からヒルを見る。
「随分思い切った判断をするな。」
ヒルは即座に返した。
「勘違いするな。終わったらお前も逮捕だ。」
オットーは僅かに笑った。
「それなら分かりやすい。」
上空でトゥームズが旋回する。
その瞬間、NYPDの射線が一斉に彼へ向いた。
今度は、オットー一人ではない。
ダウンタウンでは、ブラックキャットが地上へ降りていた。
先ほど鼻へ触れた男は、人の流れを利用しながら歩道を南へ進んでいる。こちらに気づいている様子はない。
ブラックキャットはすぐには捕まえなかった。
癖が手掛かりになっている以上、相手にそれを悟らせるのはできるだけ遅い方がいい。
建物の陰から距離を保って追い、男が交差点を渡る途中で後ろを見れば、その前に物陰へ隠れる。次の瞬間には屋上へ上がり、別の角度から追跡を再開する。
カメレオンは顔を変えている。
だが、追うべきものは顔ではない。
歩きながら周囲を確認する癖や、信号が変わる直前に少しだけ速度を上げる歩き方、そして何かを考える時に鼻の横へ指を持っていく仕草を、ブラックキャットは追っていた。
男が再びその動きを見せた。
今度は確信した。
ブラックキャットはワイヤーガンを構えた。
細いワイヤーが男の右手首へ巻きつく。
「見つけた。」
男が振り返る。
見知らぬ顔だった。
「何のことです?」
ブラックキャットはワイヤーを引き、逃げられない程度に距離を詰めた。
「その顔じゃない。」
「だったら人違いだ。」
「鼻。」
男の表情が僅かに止まる。
ブラックキャットは自分の鼻の横を指で示した。
「考える時、そこ触るでしょ。」
短い沈黙のあと、男の顔が変わった。
カメレオンが元の顔へ戻る。
「……なるほど。」
ブラックキャットは少し笑った。
「顔は上手に変えられるのにね。」
「これは勉強になった。」
カメレオンは拘束された手首を見る。
ブラックキャットが警戒を強める。
「反省会は警察でして。」
「それは嫌だな。」
カメレオンは近くを通った男の肩へ体当たりした。
突然押された男がブラックキャットの方へ倒れ込み、周囲の人間が驚いて立ち止まる。ブラックキャットはワイヤーを保持したまま男を避けようとした。
その一瞬だった。
カメレオンは拘束された手首を自分からワイヤーの方向へ強く押し込み、できた僅かな緩みから手を抜いた。
そのまま人混みへ入る。
ブラックキャットはすぐに追った。
「待ちなさい!」
カメレオンは走りながら角を曲がる。
数秒遅れてブラックキャットが同じ場所へ入ると、その先にはスーツ姿の会社員や観光客、配達員、警官まで大勢の人間がいた。
カメレオンの顔はもうない。
ブラックキャットは周囲を見回し、今度は鼻へ触る人間を探した。
しかし、誰もいない。
少し離れたところで警官がこちらを見ている。その横を若い男が通り過ぎ、その後ろを女性が歩いていくが、誰も鼻へ触れない。
ブラックキャットは眉を寄せた。
「……気づいたか。」
カメレオンはもう、その癖を使わない。
一つ目の手掛かりは潰された。
セントラルパークでは、クレイヴンの狩り場が少しずつ崩れ始めていた。
スパイダーマンは正面からクレイヴンを倒そうとするのをやめている。
罠を見つけるたびに壊すのではなく、その位置や向きを変える。木に固定されたクロスボウへウェブを撃ち、射線を別の場所へ向ける。ワイヤーを切らずに別の木へ張り替え、クレイヴンが覚えている位置と実際の位置をずらしていく。
最初は小さな変更だった。
だが、その数が増えるほどクレイヴンの動きにも迷いが生まれていった。
彼は罠を目で確認せずに動く。
自分が作った狩り場を覚えているからだ。
その記憶を、スパイダーマンは一つずつ無意味にしていく。
クレイヴンがナイフを投げる。
スパイダーマンは避けた。
本来なら、その先にあるワイヤーが足を取るはずだった。しかしワイヤーの位置は変わっている。
代わりに、それを避けるつもりで踏み込んだクレイヴンの足元へ別の罠が作動し、地面から網が跳ね上がった。
クレイヴンは寸前で身体を横へ投げてかわす。
立ち上がった時、スパイダーマンは少し離れた木の上にいた。
「どう?」
クレイヴンは網を見る。
「何がだ。」
「自分の罠に追いかけられる気分。」
クレイヴンの表情が険しくなる。
「小細工だ。」
「それ、君が言う?」
スパイダーマンは別のクロスボウへウェブを撃った。
本体を引き剥がし、自分の方へ飛ばす。
クレイヴンが警戒する。
しかしスパイダーマンはそれを武器として使わず、ウェブでぐるぐる巻きにして高い枝へ吊るした。
「一個回収。」
次に地面に隠されていた刃をウェブで引き抜き、同じ場所へまとめる。
「二個目。」
クレイヴンが接近する。
スパイダーマンは戦うより先に距離を取り、その途中で別のナイフとワイヤーを回収した。
「三個、四個。」
「逃げるだけか。」
「片付けてるんだよ。」
スパイダーマンは高い位置に出来上がり始めた武器の塊を見る。
「公園に危ないもの置きっぱなしにするなって習わなかった?」
クレイヴンが一気に距離を詰めた。
今度は罠を使わない。
拳、肘、膝を連続して繰り出し、近距離でスパイダーマンを追い込んでくる。
スパイダーマンも避け続けるが、地下で一度見た時より動きが速い。クレイヴン自身もこちらの反応速度へ慣れ始めている。
拳を避けた直後、肘が来る。
スパイダーマンは両腕で受け、衝撃で木の幹へ叩きつけられた。
クレイヴンが追う。
スパイダーマンは幹へ張りついたまま、上へ走った。
「罠が使えないなら殴るって、急にシンプルになったね!」
「狩人が罠だけで獲物を殺すと思うな!」
クレイヴンも木へ飛びつき、スパイダーマンの脚を掴もうとする。
スパイダーマンは枝へウェブを撃ち、自分の身体を横へ振った。
クレイヴンの手が空を掴む。
そのまま別の木へ着地した瞬間、スパイダーセンスが強く反応した。
スパイダーマンはその場から跳ぶ。
地面で複数の発射音が重なり、四方向から矢が飛んできた。
一本目を避け、二本目もかわす。三本目を身体を捻ってやり過ごした瞬間、四本目が進路上に入った。
スパイダーマンはウェブを撃った。
矢の柄へ糸が絡む。
空中で強く引く。
矢の向きが変わり、クレイヴンへ向かって飛んだ。
クレイヴンの目が僅かに見開かれる。
直撃する寸前に身体を横へ投げるが、矢は肩を掠め、そのまま背後の木へ突き刺さった。
スパイダーマンは着地する。
クレイヴンは自分の肩を見る。
浅く切れた傷から血が流れていた。
スパイダーマンは息を整えながら言った。
「今のは君の矢。」
クレイヴンが顔を上げる。
「つまり。」
スパイダーマンは周囲を見回した。
「もうここ、君だけの狩り場じゃないよ。」
その瞬間から、立場が変わった。
クレイヴンが一歩動くたび、周囲を確認するようになる。
どのワイヤーが残っているのか、どのクロスボウがまだ自分の設定通りなのか、どの罠がスパイダーマンに触られているのか、自分の記憶を信じられない。
スパイダーマンはそれを見ていた。
「やっと慎重になった。」
クレイヴンは答えない。
「でも。」
スパイダーマンは腰へ手を伸ばし、小型のウェブボムを取り出した。
「ちょっと遅かった。」
一つ目を茂みへ投げる。
二つ目は木の枝へ。
三つ目は地面へ。
クレイヴンはその位置を目で追った。
「見えているぞ。」
「うん。」
四つ目を少し離れた岩場へ投げる。
「見せてるから。」
クレイヴンがスパイダーマンを見る。
その言葉の意味を理解するより先に、スパイダーマンが走り出した。
クレイヴンも追う。
今度はスパイダーマンが逃げる方向を選んでいる。
一つ目のウェブボムの近くを通る。
起動しない。
二つ目も何も起きない。
クレイヴンは笑った。
「不発か。」
「まだ。」
スパイダーマンは走り続け、クレイヴンをさらに奥へ引き込む。
自分が設置した罠を避けながら。
いや、クレイヴンにはもう、それが自分の罠なのかスパイダーマンが変更した罠なのか分からない。
足が僅かに遅れる。
スパイダーマンはその瞬間を待っていた。
指を動かす。
最初のウェブボムが炸裂した。
クレイヴンが避ける。
その回避方向に合わせて二つ目が起動する。
身体を反対へ捻る。
三つ目は足元だった。
クレイヴンは前へ飛ぶしかない。
そこが、スパイダーマンが最初から選んでいた場所だった。
四つ目のウェブボムが正面で炸裂する。
白いウェブがクレイヴンの胸と両腕へまとわりつく。
クレイヴンは力任せに引き裂こうとする。
スパイダーマンはその時間を与えない。
左右からウェブを撃ち、腕、脚、胴体を近くの木々へ次々と固定する。クレイヴンの身体が複数方向から引かれ、動きを封じられていく。
「こんなもの――!」
クレイヴンが力を込める。
ウェブが軋み、一本が切れた。
スパイダーマンはすぐに二本追加する。
「君、強いから。」
さらに撃つ。
「一本で止めるつもりないよ。」
クレイヴンの片膝が地面へつく。
ウェブボムから広がった糸も地面へ張りつき、身体全体を巨大な網の中へ固定していく。
それでもクレイヴンは止まらない。
腕を引き、脚を動かし、力任せに抜け出そうとする。
スパイダーマンは最後に、周囲から回収して高い枝へ吊っていたクレイヴンの武器へウェブを撃った。
束ねられた槍、ナイフ、クロスボウがさらに高い位置へ引き上げられ、完全に手の届かない場所まで遠ざかる。
「これで終わり。」
クレイヴンは顔を上げた。
「終わっていない。」
「うん、君はそう言うと思った。」
スパイダーマンは呼吸を整えながら、腰の残りのウェブボムを確認した。
「でも僕は行く。」
「どこへ。」
「オズコープ。」
その名前を聞いた瞬間、クレイヴンがさらに強くウェブを引いた。
「待て。」
スパイダーマンはマスク越しに彼を見る。
「蜘蛛!」
スパイダーマンは返事をしなかった。
木へウェブを撃つ。
「どこへ行く!」
身体が持ち上がる。
クレイヴンの声が背後から響く。
「戻れ!」
スパイダーマンはそのまま木々の間を抜けた。
「俺を殺せ!」
その言葉で、一瞬だけ動きが止まる。
だが、振り返らない。
クレイヴンはウェブの中でもがきながら叫ぶ。
「聞こえないのか!」
スパイダーマンはもう一度ウェブを放った。
「殺せ!」
声が遠くなる。
「殺せぇぇぇぇ!!」
スパイダーマンは完全に無視した。
クレイヴンにとっては、それが何より耐え難かった。
敗北したことでも、捕まったことでも、命を奪われなかったことでもない。
狩りの相手としてすら、最後まで自分が最優先ではなかった。
スパイダーマンは戦いが終われば、当然のように次に助けるべき誰かのところへ行った。
クレイヴンは自分を拘束する白いウェブを睨んだ。
そして初めて、スパイダーマンという存在そのものへ、狩人としての興味とは違う感情を抱いた。
ミッドタウンでは、戦いが決着へ近づいていた。
NYPDが加わったことで、トゥームズは以前ほど自由に飛べなくなっている。警官たちは本人を撃ち落とすのではなく、翼と推進装置へ狙いを集中させていた。
装甲に弾丸が当たり、火花が散る。
トゥームズは急上昇して射線から逃れる。
その先をオットーが読んでいた。
屋上の縁から身体を大きく振り、アーム一本をトゥームズへ伸ばす。
トゥームズはかわす。
二本目も翼で弾く。
だが、三本目が左翼の付け根を掴んだ。
「捕まえたぞ!」
トゥームズは即座に推力を上げた。
オットーの身体が屋上から引っ張られる。
二本のアームが建物を掴み、どうにか踏み止まる。
トゥームズは振り返った。
「離せ!」
「断る!」
推進出力がさらに上がり、オットーのアームが外壁へ深く食い込む。コンクリートに亀裂が入り、一本が少しずつ抜け始め、もう一本も支えを失いかけていた。
このまま耐えても、どちらにしても引き剥がされる。
オットーは下を見た。
遥か下に道路がある。
それから、トゥームズを見る。
「……なら。」
建物を掴んでいたアームを離した。
トゥームズの表情が変わる。
「何してる!」
支えを失ったオットーの身体が、一気に空中へ投げ出される。
しかし、それによって二本のアームが自由になった。
一本が右翼を掴み、もう一本がトゥームズの胴体へ巻きつく。すでに左翼を掴んでいた一本と合わせ、三本が飛行装備を固定した。
最後の一本も推進装置へ伸びる。
四本すべて。
オットーはもう、どこにも掴まっていない。
二人が空中で絡み合う。
「飛べるから厄介なんだ!」
オットーが叫んだ。
四本のアームがそれぞれ逆方向へ力を加える。
翼の基部が軋む。
トゥームズが必死に姿勢を維持しようとするが、左右の翼を別方向へ引かれては制御できない。
「やめろ!」
「君が先にやめろ!」
左翼の接続部が破損し、機体が大きく傾く。
片側の推力を失い、トゥームズの身体が回転を始める。
オットーは離さない。
右翼も引く。
金属が裂ける。
推進装置が停止した。
二人はそのまま落下し始める。
地上からヒルたちが見上げる。
オットーは落ちながら周囲の建物を探した。
一度トゥームズからアームを離せば、また翼が動く可能性がある。
なら、ぎりぎりまで拘束する。
高度が下がる。
三十メートル、二十メートルと地面が近づいたところで、オットーは初めて一本を離した。
近くのビルの外壁へ伸ばす。
先端が掴む。
二人の落下軌道が変わる。
もう一本を別の構造物へ伸ばし、さらに速度を落とす。
オットーは残った二本でトゥームズを自分より上へ押し上げた。
地面へ近づく。
最後の瞬間、四本のアームを下へ叩きつける。
衝撃をすべて機械へ逃がす。
アームが大きく曲がり、関節部から火花が噴き出した。
オットー自身も道路へ転がる。
そのすぐ横へ、翼を失ったトゥームズが落下した。
数秒、誰も動かない。
やがてトゥームズが身体を起こそうとした。
曲がったアームが先に動く。
両腕と両脚を道路へ固定し、逃げられないよう押さえ込む。
トゥームズが抵抗する。
だが、翼はもう動かない。
「終わりだ。」
オットーは荒い呼吸を整えながら言った。
トゥームズは少し笑った。
「……あんた、本当にやったな。」
「私も驚いている。」
周囲からNYPDが近づいてくる。
オットーはトゥームズを固定したまま、腰の接続部へ手を伸ばした。
ロックを解除する。
四本のアームが身体から切り離された。
オットーはそれ以上触れなかった。
ゆっくり両手を上げる。
「抵抗しない。」
ヒルが近づいてくる。
「オットー・オクタビアス。逃亡、器物損壊、その他山ほど聞くことがある。」
オットーは苦笑した。
「今回は随分増えたな。」
「笑い事じゃない。」
「そうだな。」
オットーは一度だけ、外したアームを見る。
以前は自分から離せなかった。
スパイダーマンに止められるまで、あれを手放せなかった。
今は違う。
自分で使い、自分で止めた。
「行こう。」
ヒルが手錠を出す。
オットーは素直に両手を差し出した。
ダウンタウンでは、ブラックキャットが再び一人の男を追っていた。
鼻を触る癖はもう使えない。
だから今度は、違う手掛かりを探している。
カメレオンは装置を手に入れた。ならば、ただ逃げるだけでは終わらない。偽造した身元情報を利用するには、どこかで警察や交通網の認証システムへ接触する必要がある。それに、顔を変えられるとはいえ、装置そのものは物理的に持ち歩かなければならない。
誰に化けるかではない。
何をするか。
ブラックキャットは、そう考え始めていた。
その時、背後から声がかかった。
「止まりなさい。」
振り返ると、NYPDの制服を着た警官が二人いた。
片方が銃を構えている。
「両手を見えるところへ。」
ブラックキャットは少し眉をひそめた。
「私?」
「そうだ。」
「何の容疑?」
「オズコープ襲撃への関与。」
ブラックキャットは一瞬だけ考えた。
否定しても意味がない。
実際、地下へ入っていた。
ゆっくり両手を上げる。
警官が近づき、右手、左手の順に手錠を掛ける。
ブラックキャットは抵抗しなかった。
だが、手錠を掛け終えた警官が、ほんの少しだけ笑った。
「やっと捕まえた。」
声が違った。
ブラックキャットの表情が変わる。
警官の顔が歪み、別の顔へ変わった。
カメレオンだった。
「……そういうこと。」
「君が顔を探さなくなったからさ。」
カメレオンはブラックキャットの腰からワイヤーガンを抜き取った。
「だったら、こっちから警察になればいい。」
ブラックキャットは手錠を見た。
それから、カメレオンの制服を見る。
「でも。」
「何?」
ブラックキャットは周囲を見回した。
本物のNYPD車両、検問、警官、通信、無線。
カメレオンは一人の警官にはなれる。
だが、本物の組織には入れない。
「その格好で、どこまで行くつもり?」
カメレオンの目が僅かに動く。
「警察署には入れない。」
「……。」
「無線で呼び出されたら答えられない。所属を聞かれたら困る。パトカーに乗ろうとしても、自分の車両番号が分からない。」
ブラックキャットは少し笑った。
「顔だけじゃ、組織にはなれないのよ。」
カメレオンの表情が変わった。
その一瞬。
ブラックキャットが動く。
拘束された両手を前へ出し、手錠の鎖をカメレオンの手首へ引っかける。
強く引く。
体勢が崩れたところへ、膝を腹へ叩き込む。
カメレオンが息を詰まらせる。
ブラックキャットは彼の腰から鍵を奪い、自分の手錠を外した。
カメレオンは立ち上がる。
だが、ブラックキャットは追わない。
逃げる方向を見る。
人の多い場所。
また群衆へ入りたい。
ならば、そちらへ行かせなければいい。
ブラックキャットはあえて正面から追い詰めず、カメレオンが避けたくなる方向へ回り込んだ。
一度、二度と道を塞ぐ。
追うというより、誘導する。
カメレオンは少しずつ人通りの少ない裏通りへ追い込まれていく。
気づいた時には遅かった。
周囲には、もう誰もいない。
ブラックキャットが立ち止まる。
「これなら。」
カメレオンも止まった。
「顔を変えても意味ないでしょ。」
カメレオンは周囲を見る。
変装できる相手がいないわけではない。
だが、誰になっても同じだった。
ブラックキャットは最初から、目の前の一人を追っている。
顔が変わっても、別人にはならない。
「なるほど。」
カメレオンは小さく笑った。
「君も学習するんだな。」
「猫だからね。」
ブラックキャットが踏み込んだ。
今度は逃げ道がない。
カメレオンも反撃したが、身体能力でも格闘技術でも差がある。拳をかわされ、腕を取られ、そのまま身体を壁へ叩きつけられた。
ブラックキャットはワイヤーを回収し、両腕を背中側へ固定する。
さらに両足も縛り、最後に壁の配管へ巻きつけた。
カメレオンは動こうとした。
しかし、動けない。
「今度こそ。」
ブラックキャットは一歩離れた。
「捕まえた。」
カメレオンは拘束されたまま、少しだけ笑った。
「それはどうかな。」
ブラックキャットの目が細くなる。
その言葉の意味は、まだ分からなかった。
スパイダーマンがミッドタウンへ戻った時には、戦闘はすでに終わっていた。
遠くからでも分かる。
道路が封鎖され、NYPDが破壊された金属翼を囲んでいる。その少し離れたところには拘束されたトゥームズがおり、さらにその近くで、オットーも手錠を掛けられていた。
スパイダーマンはビルの壁へ着地し、そこから道路へ降りる。
オットーが気づいた。
スパイダーマンはまだマスクをつけている。
何も言わない。
だが、オットーには分かった。
スパイダーマンの視線が、外されたアーム、拘束されたトゥームズ、そして手錠を掛けられた自分へ順番に移っていく。
オットーは小さく笑った。
「そんな顔をするな、スパイダーマン。」
スパイダーマンは何も言わなかった。
「今回は。」
オットーは地面に置かれたアームを見る。
「ちゃんと自分で止まれた。」
スパイダーマンの肩から、僅かに力が抜ける。
オットーは続けた。
「君にはまだ、やることがあるんだろう。」
スパイダーマンはオズコープの方向を見る。
遠くで黒紫色の光が夜空を照らしていた。
ミスター・ネガティブ。
そして地下には、ハリーがいる可能性がある。
「……うん。」
オットーはヒルを見る。
「私はここにいる。」
ヒルが少し嫌そうな顔をする。
「勝手に私へ話を振るな。」
「だが、逃げない。」
「それは今見た。」
スパイダーマンは二人を見る。
もう任せていい。
少なくとも、ここは。
「じゃあ。」
オットーが静かに頷く。
「行け。」
スパイダーマンはウェブを撃った。
そのままオズコープへ向かって飛び立つ。
オットーはその背中を見送った。
その頃、オズコープ地下施設では、破壊音が絶えず響いていた。
リーはもう記録保管区にはいない。
破壊は周辺の研究区画へ広がり、電源設備やサーバー、実験装置が次々と機能を失っている。地下を満たしていた緑色の照明も多くが消え、赤い非常灯と黒紫色の光だけが通路を照らしていた。
それでも、最深部の治療区画だけは動いていた。
独立電源と隔離された制御系によって、外部の設備が停止しても治療を中断しないよう設計されている。
巨大なカプセルの内部で、ハリーはまだ横たわっていた。
画面上の数値が少しずつ変化する。
異常を示していた項目が、一つ、また一つと正常へ近づいていく。
治療進行率が最後の領域へ入る。
外で何かが爆発する。
カプセルのガラスが僅かに震える。
それでも装置は止まらない。
98%
ハリーの指が僅かに動く。
99%
呼吸が安定する。
心拍、神経活動、細胞反応のすべてが正常域へ近づいていく。
そして、ついに表示が切り替わった。
100%
薬剤供給が停止する。
カプセル内部の霧が少しずつ抜けていき、身体を支えていた固定具が一つずつ解除されていく。
ハリーの目が、ゆっくりと開いた。
最初に見えたのは、治療装置内部の緑色の光だった。
外から、何か巨大なものが壊れる音が聞こえる。
ハリーはまだ、その意味を知らない。