The Amazing Spider-Man 5: Legacy of Oscorp 作:たきび/まもる
治療装置の前面カバーがゆっくりと開き、内部に充満していた薄い霧が床へ流れ落ちていった。
ハリーはすぐには外へ出なかった。背中を支持具に預けたまま、自分の呼吸が落ち着いていることを確かめるように何度か深く息を吸い、それから両手を持ち上げて指を開閉した。治療を始める前まで身体の奥にまとわりついていた重さも、神経を内側から締めつけるような不快感もない。胸いっぱいに空気を吸い込んでも苦しくならず、指先まで自分の意思どおりに動いている。
装置の表示には、何度確認しても同じ文字が残っていた。
ハリーは支持具から身体を離し、治療区画の床へ足を下ろした。最初の一歩だけは慎重だったが、足に力を入れても痛みはなく、膝が震えることもなかった。二歩、三歩と進むうちに、確かめるために歩いていたはずの足取りが自然なものへ変わっていく。
近くのガラスへ映った自分の姿を見て、ハリーは顔に触れた。
長い間、自分の身体は信用できるものではなかった。今日動いているからといって、明日も同じように動く保証はなく、父と同じ病気がいつ、どの程度まで自分を蝕むのかも分からない。どれだけ金があっても、どれだけオズコープという巨大企業を手にしても、それだけはどうすることもできなかった。
その恐怖が、消えている。
「……治った。」
口に出してみると、ようやく実感が追いついてきた。
ハリーはもう一度笑った。レイブンクロフトを出てからというもの、誰かに向ける笑みには必ず何かが混じっていた。苛立ちや皮肉、警戒、あるいは相手を見下す感情。しかし今だけは違った。自分の身体が自分のものとして戻ってきたことが、ただ嬉しかった。
「本当に、治ったんだ。」
治療区画を出るまでは、その気分が続いていた。
扉が開いた瞬間、ハリーの表情から笑みが消えた。
地下施設の空気が、入った時とはまるで違っている。一定の間隔で並んでいた緑色の照明はところどころ消え、代わりに赤い非常灯が明滅していた。壁面には亀裂が走り、天井から垂れ下がったケーブルが火花を散らしている。少し離れた場所では配管が破損したらしく、白い蒸気が通路を横切っていた。
さらに遠くからは、外気が流れ込んでくる音が聞こえる。
ハリーは治療区画から数歩出たところで立ち止まり、半壊した地下施設を見回した。
「……何だ、これは。」
自分が治療を受けている間に、何が起きたのか。
答えを探すまでもなく、さらに奥で爆発音が響いた。黒紫色の光が通路の壁へ反射し、直後に施設全体が小さく揺れる。
治ったばかりの身体を確かめていた時の高揚感が、一気に冷めていく。
ハリーは険しい表情で崩れた壁へ近づき、そこに残された破壊の跡へ手を触れた。単なる爆発ではない。金属板が内側から歪み、焼けたように変色している。その先にあった研究設備も、必要なものだけを持ち去ったという壊れ方ではなく、明らかに使えなくすることを目的として破壊されていた。
ハリーの眉間に皺が寄った。
自分がようやく治療を受けられた場所だった。父が何年もかけて研究させ、オズコープが莫大な金と人間を投入して作り上げた施設でもある。その価値をハリー自身がすべて理解しているわけではないが、少なくとも地下に眠っていた研究の中に、自分の病気を完全に治せる技術があったことだけは事実だった。
それを、誰かが壊している。
「ふざけるなよ……。」
ハリーは黒紫色の光が見えた方向へ向かおうとして、すぐに足を止めた。
治療を終えたばかりの自分が、何の装備も持たずにあの力を使う人間へ近づくほど無謀ではない。病気が治ったからといって、身体そのものが超人になったわけではなかった。
視線を治療区画へ戻すと、カプセルとは反対側の壁に収納設備があることに気づいた。治療対象者が処置後に着用するための衣服や補助装備が収められているらしく、その一つにオズコープのロゴが表示されている。
ハリーが認証パネルへ手を触れると、本人確認を終えた収納庫が自動的に開いた。
中に収められていたのは、治療後の身体を保護し、その状態を継続的に監視するためのスマートスーツだった。
戦闘用ではない。全身の筋肉や神経の状態を読み取り、動作を補助すると同時に、外部から受ける衝撃をある程度分散する機能を持っている。治療直後の患者が日常動作へ復帰するまでの間、身体へ過剰な負担がかからないようにするための装備だった。
ただし、一般の患者へ用意するものとしては明らかに過剰な性能を持っていた。
ハリーは表示された説明を読みながら、僅かに口元を歪めた。
「父さんらしいな。」
ノーマン・オズボーンが、自分自身と息子のために作らせた治療施設である。治療が成功した後に使うものまで、普通の医療用装具で済ませるつもりはなかったのだろう。
ハリーはスーツを取り出した。
身体へ合わせて着込むと、素材が各部へ密着し、センサーが自動的に装着者の状態を読み始める。治療直後であることを認識したシステムは筋肉への負担を補助するよう設定を変更し、動作に合わせて必要な部分だけを僅かに収縮させた。
ハリーは腕を曲げ、肩を回した。
身体が軽い。
もちろんスーツの補助もある。しかし、それ以前に自分の身体そのものが以前とは違っていた。
ハリーは治療区画を出ると、今度こそ破壊の痕跡を追って歩き始めた。
地下施設の別区画では、リーが研究設備の破壊を続けていた。
すでに仮面はつけていない。
記録保管区で自分に何が行われたのかを知ってから、リーには正体を隠す理由そのものがなくなっていた。直剣を握ったまま研究区画を進み、オズコープが残した設備を見つけるたびに、もう片方の手から黒紫色の力を放って破壊していく。
ただ怒りに任せて暴れているわけではなかった。
保存装置を壊し、実験設備を破壊し、研究データへ接続されている端末も使えなくする。自分や他の被験者を犠牲にして積み上げられた研究が、この場所から再び持ち出されることだけは許さない。その目的だけは一貫していた。
しかし、破壊される範囲は次第に広がっていた。
ネガティブパワーが制御端末を破壊した際に電源系統まで巻き込み、その先の設備が停止する。研究室の隔壁を壊せば隣接する区画にも損傷が広がり、警報に従って自動的に閉じようとした防火扉さえ、リーは剣で切り裂いて先へ進んだ。
夜叉会の構成員たちも、もはや積極的にはついてきていない。
リー自身、それを気にしていなかった。
この場所を消す。
今はそれだけでよかった。
ハリーが兵器保管区の近くまで来た時、最初に目へ入ったのは大きく開いた格納庫だった。
内部はすでに荒らされている。巨大な装備が固定されていたらしい台座は空になり、その周囲には工具や部品が散乱していた。少し離れたところには、四本の機械アームを収めていたと思われる固定装置も残されている。
何者かがここで装備を持ち出したらしい。
ハリーは格納庫の中へ入り、周囲を見回した。
そこで、一台のグライダーが目に留まった。
形状そのものには見覚えがある。
以前ハリーが使用したグライダーを基礎にしていることは、説明されなくても分かった。しかし、あの時の機体をそのまま保管していたわけではない。機体は全体的に再設計され、飛行制御系も更新されている。以前よりも各部が小型化されている一方で、推進装置そのものは強化されており、兵器としての完成度は明らかに上がっていた。
ハリーはゆっくり近づいた。
「これも残してたのか。」
機体へ足を乗せると、センサーがスマートスーツを認識した。本人認証が行われ、短い起動音とともにグライダーの各部が展開する。
同時に、搭載されている装備が表示された。
近接用の高周波振動ナイフと、指向性の衝撃波発生装置。どちらもグライダー側に搭載されており、飛行中でも使用できるよう制御系へ統合されている。
ハリーは操作表示を眺めた。
以前なら、こうした装備を見れば最初にスパイダーマンのことを考えていたかもしれない。
今は違う。
遠くで、また黒紫色の光が走った。
ハリーはそちらへ顔を向けた。
グライダーが床から浮き上がる。
低い天井の地下施設では自由に飛び回ることはできないが、床すれすれを滑るように移動するには十分だった。ハリーは推力を抑えながら破壊された通路へ入り、リーが残していった痕跡を追っていく。
進むほど被害は酷くなった。
研究設備が破壊され、保存装置が焼け、壁に埋め込まれていた端末まで使えなくなっている。ハリーはそれらを横目に見ながら進んでいたが、やがて完全に破壊された研究室の前でグライダーを止めた。
床には割れた保存容器が散らばっている。
壁面に残った表示から、それが遺伝子研究区画だったことが分かった。
ハリーの顔から、最後に残っていた余裕が消えた。
自分を治した技術と、無関係なはずがない。
「……何してるんだ、あいつ。」
その直後、通路の向こうから強い光が漏れた。
ハリーはグライダーを発進させた。
リーが次の研究区画へ剣を振り下ろした瞬間、背後から高速で何かが接近してきた。
振り返るより先に横へ跳ぶ。
直後、先ほどまでリーが立っていた場所をグライダーが通過し、そのまま広い研究区画の中央で急旋回した。床から数十センチの高さを滑っていた機体は円を描くように向きを変え、リーの正面で停止する。
その上にハリーが立っていた。
リーは驚かなかった。
ハリーが地下にいることは最初から知っている。
ただ、その姿が変わっていることには気づいた。地下へ入った時まで身体に残っていた病気の兆候がなくなり、顔色も呼吸も以前とは明らかに違っている。治療施設を見つけたのだと、それだけで理解できた。
「治療は成功したようだな。」
ハリーはグライダーから降りなかった。
「そうみたいだ。」
自分の身体について答える時だけ、僅かに機嫌の良さが戻った。しかし周囲の惨状へ視線を向けると、その表情はすぐに険しくなる。
「で、これは何だ。」
リーは答えず、剣を下げたままハリーを見る。
「何してるって聞いてるんだ。何で壊してる。」
「残しておく理由がない。」
ハリーは周囲を見回した。
「それを決めるのはお前じゃないだろ。」
「では誰が決める。」
「僕だ。」
リーの表情が僅かに変わった。
ハリーは気づかないまま続ける。
「ここはオズコープの施設だ。研究も設備も全部そうだ。何を残して、何を捨てるか決める権利がお前にあると思ってるのか?」
リーの手に握られた剣へ、黒紫色の光が少しずつまとわり始めた。
「君は、ここで何が行われていたのか知らない。」
「知る必要があるなら後で調べる。だから壊すな。」
「もう調べる必要はない。」
「何?」
リーは周囲に残った設備を見た。
「ここで行われていた研究は、人間を使って積み上げられたものだ。死んだ者もいる。身体を壊された者もいる。その結果だけが保存され、次の実験へ使われた。」
ハリーは黙って聞いていた。
「そして最後には、君たちオズボーン家の病気を治す技術になった。」
そこでハリーの表情が変わった。
リーは続ける。
「君が今、健康な身体でそこに立っていられるのは、その犠牲の上に作られた治療を受けたからだ。」
ハリーはしばらく何も言わなかった。
自分が受けた治療が、どうやって完成したのか。
そんなことは考えていなかった。
治療法がある。
自分は治る。
それで十分だった。
「……それで?」
リーの目が細くなった。
ハリーはグライダーの上から周囲を見渡した。
「昔ここで何があったか知らないし、今聞いた話だけで全部信じるつもりもない。でも、だからって今あるものを全部壊していい理由にはならないだろ。」
「君には分からない。」
「分かる必要もない。」
その言葉に、リーの剣を包む光が強くなった。
ハリーは苛立ったように続ける。
「少なくとも、ここにあるものは僕のものだ。」
リーの視線が止まった。
「何?」
「オズコープは僕の会社だ。この施設も、ここにある研究も、全部その一部だ。父が作ったものなら、なおさらそうだろ。」
リーの表情から、それまで残っていた僅かな冷静さが消えていく。
ハリーは気づかない。
「これは僕のものだ。」
そして、決定的な一言を口にした。
「オズボーンのものだ。」
黒紫色の光が、一気に膨れ上がった。
ハリーが反応した時には、リーはすでに目の前まで来ていた。
グライダーが警告を発し、ハリーは反射的に機体を後退させる。直後、ネガティブパワーをまとった剣が目の前を横切り、グライダーの先端を僅かに掠めた。装甲表面に深い傷が走り、警告表示が一斉に点灯する。
「おい!」
ハリーはグライダーを急上昇させ、リーとの距離を取った。
「いきなり何するんだ!」
リーは答えなかった。
先ほどまでの破壊活動とは違う。
今度は明確に、ハリーへ剣を向けている。
ハリーもようやく理解した。
話し合える状態ではない。
「……そうかよ。」
グライダーの兵装を起動する。
機体側面から高周波振動ナイフが展開し、低い振動音を立て始める。
「じゃあ止める。」
リーが床を蹴った。
ネガティブパワーによって強化された跳躍は、人間のものとは思えない高さまで身体を押し上げる。ハリーは正面から受けず、グライダーを横へ滑らせて剣をかわした。そのままリーの背後へ回り込み、機体側面の振動ナイフを振るう。
リーは着地と同時に身体を捻った。
直剣と振動ナイフが衝突する。
甲高い金属音が研究区画へ響き、ネガティブパワーと高周波振動がぶつかったことで、接触部分から火花が散った。
ハリーはグライダーの推力を上げ、力任せにリーを押し返そうとする。
リーは両足を床へ踏み込んだまま剣で受け止める。
数秒だけ拮抗した。
先に動いたのはハリーだった。
正面から押し切れないと判断すると、振動ナイフを引くと同時にグライダーを急後退させる。リーが追おうと一歩踏み出したところで、ハリーは機体を旋回させながら衝撃波発生装置の照準を合わせた。
「そこだ。」
圧縮された衝撃が放たれた。
空気そのものが歪み、正面からリーへ叩きつけられる。リーは剣を前へ出して受けようとしたが、斬撃で防げる種類の攻撃ではない。身体ごと後方へ押し飛ばされ、背中から研究設備へ突っ込んだ。
ハリーはその結果を見て、僅かに笑った。
「便利だな、これ。」
だが、倒れた設備の向こうから黒紫色の光が漏れたことで、その笑みはすぐに消えた。
リーが立ち上がる。
身体の周囲へまとわりつくネガティブパワーは、先ほどよりもさらに強くなっていた。
ハリーはグライダーの高度を上げながら、初めて相手を注意深く見た。
地下へ来るまで、リーが何者なのかを深く考えたことはなかった。今回の計画に加わった一人であり、オズコープに何らかの目的を持っている。それ以上を知る必要もないと思っていた。
しかし今、自分の目の前にいる男は、地下施設を半壊させてもまだ止まるつもりがない。
そしてリーにとっても、ハリーはもう単なるノーマン・オズボーンの息子ではなかった。
自分たちを犠牲にして完成した治療を受け、その成果を当然のように自分のものだと言った人間だった。
二人の間に残っていた会話の余地は、もうほとんどなかった。
リーは剣を構え直した。
ハリーもグライダーの機首を向ける。
今度は、互いに相手が来ることを分かった上で動いた。
黒紫色の光をまとったリーが床を蹴るのと、グライダーの推進装置が一気に出力を上げるのは、ほとんど同時だった。
ハリーは正面から迫るリーをぎりぎりまで引きつけ、剣が届く直前でグライダーを横へ滑らせた。リーの斬撃が機体のすぐ脇を通り過ぎ、その勢いのまま床へ叩き込まれる。黒紫色の力をまとった刃は金属製の床を深く切り裂いたが、ハリーはすでに背後へ回り込み、グライダーの側面から振動ナイフを展開していた。
リーは振り返らない。背後から迫る振動音を聞いた瞬間に身体を沈め、頭上を通過した刃をかわすと、そのまま片手を床へついた。掌から放たれたネガティブパワーが床を走り、グライダーの進行方向で一気に炸裂する。
ハリーは機首を上げた。
爆発する床の上を飛び越え、そのまま天井近くまで上昇する。地下施設はもともと飛行を想定した空間ではないため、それ以上の高度を取ることはできない。ハリーは配管を避けながら機体を旋回させ、反対側からリーへ向き直った。
「飛べない相手に付き合う必要ないな。」
衝撃波発生装置を起動する。
リーは正面から放たれた衝撃波を横へ跳んで避けた。背後にあった研究設備がまとめて吹き飛び、壁へ叩きつけられる。その破壊を見てもリーは足を止めず、壁面へ飛びつくように足をかけると、ネガティブパワーで身体を押し出して再び跳躍した。
ハリーが予想していたより遥かに高い。
リーの剣がグライダーの底面を掠めた。
「っ……!」
機体が大きく傾き、ハリーは片足を滑らせた。スマートスーツが姿勢の乱れを検知すると、腰と脚部の補助機能を即座に強める。ハリーはグライダーの縁を掴んで身体を戻し、そのまま推進装置を最大まで吹かした。
機体が通路の奥へ飛び出す。
リーも追った。
ハリーは崩れかけた地下施設の中を低空で飛びながら、進行方向を探した。外周通路の先にはトゥームズが破壊した壁があり、その向こうにはオズコープタワーを縦に貫く設備用の空間が開いている。先ほどまで地下にいた人間たちが脱出に使っていた場所だったが、すでに大半は地上へ向かったらしく、人影はほとんど残っていなかった。
ハリーは迷わずそこへ飛び込んだ。
狭い地下施設から解放されたグライダーが一気に加速し、無数の配管や保守用足場の間を縫いながら上昇していく。
リーは縦穴の縁で一度だけ足を止めた。
遥か上を見れば、グライダーの推進光が小さくなっていく。
普通の人間なら追えない。
リーは剣を握り直すと、壁面へ向かって跳んだ。ネガティブパワーをまとった足が壁を蹴り、その反動で反対側の保守用足場へ飛び移る。着地と同時に再び跳躍し、配管、梁、足場を次々と利用しながら上へ進んでいく。
ハリーは途中で振り返った。
「まだ来るのかよ……。」
下から黒紫色の光が追ってくる。
ハリーはグライダーを旋回させ、今度は上昇しながら衝撃波を放った。
リーのいる足場が吹き飛ぶ。
しかしリーは崩れる足場を蹴って別の梁へ飛び移り、そのまま上昇を続けた。ハリーが撃つたびに設備用空間の内部で配管や鉄骨が破壊され、その破片が遥か下へ落下していく。
このままでは埒が明かない。
ハリーは上を見る。
設備用空間の途中には、地上階へ接続する保守扉がいくつも並んでいた。
ハリーはその一つへグライダーを向けた。
減速するつもりはない。
機体先端の衝撃波発生装置を起動すると、閉じていた保守扉を正面から吹き飛ばし、その穴へグライダーごと突入した。
そこはオズコープタワーの中層階だった。
夜間のオフィスにはまだ一部の社員が残っていた。突然壁を破って飛び込んできたグライダーに悲鳴が上がり、机から立ち上がった人間たちが一斉に出口へ走り始める。
ハリーは彼らへ目を向けた。
「出ろ! ここから離れろ!」
社員たちは一瞬だけハリーの顔を見た。
オズコープの人間なら、その顔を知らない者の方が少ない。
「ハリー……?」
「いいから行け!」
ハリーが怒鳴ると、社員たちは非常階段へ向かって走り出した。
その直後だった。
先ほどハリーが破壊した保守扉から、黒紫色の光が飛び込んでくる。
ハリーはグライダーを急旋回させた。
ネガティブパワーが床を抉り、オフィスの机をまとめて吹き飛ばす。
「おい!」
ハリーは社員たちが逃げた方向を確認してから、リーを睨んだ。
「人がいるだろ!」
リーは縦穴から室内へ降り立った。
「なら、彼らを逃がせ。」
「お前が止まれば済む話だ!」
「私が止まれば、オズコープが残る。」
ハリーは苛立ったように息を吐いた。
「話が通じないな。」
「君にだけは言われたくない。」
ハリーはグライダーを発進させた。
今度は逃げるためではない。
リーへ向かって正面から加速し、直前で機体を傾ける。振動ナイフがリーの剣とぶつかり、その衝撃で二人の身体が左右へ離れる。ハリーはグライダーの機動力を利用してすぐに旋回したが、リーも机を蹴って跳躍し、空中から剣を振り下ろした。
ハリーは機体を急降下させてかわす。
剣が床へ叩き込まれた。
その瞬間を狙って衝撃波を放つ。
リーの身体が吹き飛び、ガラス張りの会議室へ突っ込んだ。壁一面のガラスが砕け、リーは机を巻き込みながら床を転がる。
ハリーは追撃しようとした。
しかしリーは倒れたまま片手を向けた。
黒紫色の力が放たれる。
ハリーはグライダーを傾けたものの完全には避けられず、機体後部に直撃を受けた。推進装置の出力が一瞬落ち、グライダーが床へ接触する。
そのまま数メートル滑った。
ハリーは機体から投げ出されそうになったが、スマートスーツの補助を受けながら片足で床へ着地し、もう片方の足をグライダーへ残したまま体勢を立て直した。
リーも立ち上がる。
二人とも、相手を倒し切れていない。
ハリーには飛行能力とオズコープの装備がある。リーにはそれを正面から破壊できる力がある。ハリーが距離を取ればリーは跳躍して詰め、リーが近づけばハリーはグライダーで離れる。どちらかが一方的に押しているように見えても、数秒後にはもう一方が優位を取り返していた。
戦いは、そのままオズコープタワーの内部を移動していった。
ハリーが上階へ逃れればリーが追い、リーが階段やエレベーターシャフトを利用して先回りすれば、ハリーは窓を破って外へ出て別の階から入り直す。二人が通過するたびに警報が鳴り、社員や警備員が避難していく。
下から上へ。
研究部門から管理部門へ。
管理部門から役員フロアへ。
上へ進むほど、ハリーにとって見覚えのある場所が増えていった。
幼い頃から何度も来た建物だった。父に連れられて歩いた廊下があり、何時間も待たされた会議室があり、父が仕事をしている間に一人で外を眺めていた窓もある。
リーにとっては、そのすべてがオズコープだった。
自分の人生を壊した研究を生み出し、それを何十年も地下へ隠し続けた組織の象徴だった。
そしてハリーにとっては、それこそが自分に残されたものだった。
二人はついに最上階へ辿り着いた。
役員フロアの廊下をグライダーが駆け抜ける。
ハリーは正面にある大きな扉を見ると、衝撃波を使わず、グライダーを急停止させて床へ降りた。
社長室だった。
扉を開ける。
誰もいない。
ノーマンが姿を消してからも、部屋の基本的な構造は変えられていなかった。大きなデスクがあり、その向こうにはマンハッタンを見渡す巨大な窓が広がっている。夜のニューヨークが眼下にあり、遠くには警察車両の赤と青の光がいくつも見えていた。
ハリーは室内へ入った。
その背後で、廊下から黒紫色の光が近づいてくる。
リーも社長室へ入った。
ハリーは振り返った。
「ここまで来るか。」
「ここだから来た。」
リーの視線が室内を巡る。
最後に、ノーマンのデスクで止まった。
ハリーはその視線に気づいた。
「何だよ。」
リーはデスクから目を離さなかった。
「ここから、どれだけの人間の人生を決めたんだろうな。」
「父さんの話か?」
「君の父親だけではない。」
リーはゆっくりハリーを見る。
「オズボーンの話だ。」
ハリーの表情が険しくなる。
「またそれか。」
「君が自分で言った。」
リーの剣に黒紫色の光が集まっていく。
「すべてオズボーンのものだと。」
ハリーはグライダーを自分の横へ呼び寄せた。
「そうだよ。」
機体が床すれすれで停止する。
「だから、お前には壊させない。」
リーが踏み込んだ。
ハリーもグライダーへ飛び乗る。
社長室の中央で、二人が再び激突した。
リーの剣を振動ナイフが受け止め、衝突した力が周囲へ広がる。デスクの上に残されていた書類が一斉に舞い上がり、窓ガラスが振動する。
ハリーは推力を上げてリーを押し返した。
リーは床を滑りながら踏み止まり、剣を横へ払ってグライダーの軌道を逸らす。ハリーはそのまま室内を大きく旋回し、反対側から衝撃波を放った。
リーが跳ぶ。
衝撃波は背後の壁へ直撃し、飾られていた調度品がまとめて吹き飛んだ。
「やめろ!」
ハリーの声に、リーは初めて僅かな笑みを浮かべた。
「自分で壊している。」
「お前が避けるからだろ!」
「それがオズボーンか。」
「何でもそれに繋げるな!」
ハリーは苛立ったままグライダーを加速させた。
リーも迎え撃つ。
二人が再び衝突しようとした、その瞬間だった。
社長室の大窓の外を、赤と青の影が横切った。
次の瞬間、窓の一部へウェブが張りつく。
ハリーが気づいて顔を向けるより早く、外から引かれた窓ガラスが大きく割れ、開いた隙間から一人の男が室内へ飛び込んできた。
床へ着地したスパイダーマンは、すぐには動かなかった。
目の前の状況を確認する。
グライダーに乗ったハリー。
剣を構えたリー。
そして、半壊した社長室。
「……。」
数秒だけ黙ったあと、スパイダーマンは両手を僅かに広げた。
「僕が来るまでに、もうちょっと状況が分かりやすくなってる予定だったんだけど。」
ハリーの表情が変わった。
リーもスパイダーマンを見る。
ピーターはまだ知らない。
仮面を外しているリーが、ミスター・ネガティブであることを。
しかし、リーが握っている剣には見覚えがあった。
F.E.A.S.T.のオフィスに飾られていた、あの直剣。
そして今、その刀身にはレイブンクロフトで何度も見た黒紫色の力がまとわりついている。
スパイダーマンの視線が、剣からリーの顔へゆっくり上がった。
今度は、冗談が出なかった。
「……リー?」