The Amazing Spider-Man 5: Legacy of Oscorp 作:たきび/まもる
翌朝。
マンハッタンの高層ビル群の中でも、オズコープタワーはひときわ目立っていた。ガラス張りの外壁には朝の光が反射し、その上部には巨大な企業ロゴが掲げられている。正面玄関では社員たちが次々と警備ゲートを通過し、搬入口には研究資材を積んだ車両が絶えず出入りしていた。
ノーマン・オズボーンはもういない。
ハリー・オズボーンも、今は会社にはいない。
それでも、オズコープという企業そのものは止まらなかった。
何千人もの社員が働き、無数の研究が進み、企業との契約や行政との取引も続いている。トップにいた人間が姿を消しても、巨大企業としての日常は、それまでとほとんど変わらない速度で動き続けていた。
オズコープタワー内部では、朝の出勤時間を迎えたエレベーターが次々と各階へ社員を運んでいる。
そのうちの一台が開き、人の流れに混じってフェリシア・ハーディが降りてきた。
片手にはタブレット、もう片方にはコーヒーを持っている。
「おはようございます。」
すれ違う社員へ軽く挨拶をすると、相手も歩きながら返事をした。
「おはよう、ハーディ。」
別の社員が声をかける。
「例の資料、午後までにお願い。」
「分かってます。」
フェリシアは足を止めず、タブレットへ視線を落とした。
研究開発部門からの確認依頼。法務からの差し戻し。経理からの通知。警備部門からの照会。画面には複数の部署から送られてきた案件が並び、それぞれに違う締切が表示されている。
フェリシアは小さくため息をついた。
「相変わらず人使い荒いなぁ。」
そのままエレベーターホールを抜けようとしたところで、一人の警備部門の社員とすれ違った。
四十代ほどの男だった。
短く整えた髪に、目立たない濃色のスーツ。胸元には正規の社員証が下がっている。
男が軽く会釈する。
フェリシアも何気なく会釈を返した。
二人はそのまま通り過ぎる。
男は数歩進んだところで立ち止まると、鼻の横を軽く指で擦った。
周囲を歩く社員たちは、誰一人としてその仕草に気を留めなかった。
数時間後。
警備部門の一角で、先ほどフェリシアとすれ違った男が端末を操作していた。
画面には、過去数年間にわたる施設の入退室記録が表示されている。
検索欄へ入力されている名前は一つだった。
HARRY OSBORN
表示された記録には、役員フロアや研究開発部門への入室履歴が残っている。その中には、スペシャルプロジェクトに関連する一部資料の閲覧記録もあった。
しかし、それ以降の情報は急激に減っていた。
CEO権限停止。
アクセス資格失効。
そこから先は、断片的な記録しか残っていない。
男は画面を見つめながら、さらに検索条件を変えていく。
その時、隣の席にいた社員が立ち上がった。
「昼行くけど、どうする?」
男は顔を上げる。
「先に行ってくれ。」
「了解。」
社員がそのまま部署を出ていく。
男は視線を端末へ戻した。
数分後、必要な情報を確認し終えると、何事もなかったように席を立った。
午後。
経理部門では、別の男がデスクへ座っていた。
先ほど警備部門にいた社員とは年齢も違えば、髪型も違う。眼鏡をかけ、服装も経理らしい落ち着いたものへ変わっている。
だが、端末の検索欄に入力されている名前は同じだった。
ハリー・オズボーン。
今度は人の動きではなく、金の流れを追っている。
オズボーン家の私有資産。法務費用。医療費。警備費。高額な支払いが並ぶ一覧を、男は一件ずつ確認していった。
ハリーがオズコープCEOを退任した後の記録。
レイブンクロフトへの収監。
法的代理人への高額な支払い。
精神鑑定。
医療鑑定。
遺伝性疾患に関する診断書。
裁判所へ提出された複数の申請。
そこまでは追うことができた。
しかし、その後から記録の密度が急激に薄くなっている。
男の指が止まった。
「……消してるな。」
小さく呟く。
レイブンクロフトの正式な収容記録は途中までは残っている。だが、ある時点を境に詳細が見えなくなっていた。
それでも、金は動いている。
外部の医療機関。
私人警備会社。
専門医。
薬剤。
さらに、オズボーン家が所有する特定の不動産へ継続的な維持費が支払われている。
男はその住所を開いた。
ニューヨーク市内ではない。
郊外にある、オズボーン家所有の別荘だった。
男の口元が僅かに緩む。
「なるほど。」
その横を別の社員が通りかかった。
「何か見つかった?」
男はすぐに画面を切り替えた。
表示されたのは、何の変哲もない経費一覧だった。
「いや。ただの入力ミスだ。」
「そう。」
社員はそれ以上興味を示さず、そのまま通り過ぎていく。
男は無意識に鼻の横へ指を持っていきかけた。
途中で動きを止める。
少し考えてから、そのまま手を下ろした。
翌日。
研究部門では、一人の女性研究員が複数の古いデータベースへアクセスしていた。
白衣を着て、長い髪を後ろでまとめ、胸元には研究員用のIDカードを下げている。
検索している内容は、これまでとは少し違っていた。
ハリーの病状。
ノーマン・オズボーンが関与していた医療研究。
遺伝性疾患。
オズコープ内部で進められていた治療技術。
古い記録を遡るほど、通常のデータベースから見つかる情報は減っていった。
やがて、画面へ赤い警告が表示される。
女性は僅かに眉を寄せた。
別の経路を試す。
今度は異なるアカウント。
それでも結果は同じだった。
「ここから先は無理か。」
小さく呟いたところで、廊下から足音が近づいてくる。
女性はすぐに画面を閉じた。
ほとんど同時に研究室のドアが開き、フェリシアが入ってきた。
「失礼します。」
女性が振り返る。
「何か?」
「先週の試験データについて確認したいことがあって。」
「担当は私じゃないです。」
「そう?」
フェリシアはタブレットを確認した。
「名前、ここになってるけど。」
女性はタブレットの画面を覗き込んだ。
ほんの一瞬だけ間があった。
「引き継ぎ前のデータですね。」
「ああ。」
フェリシアは納得したように頷く。
「じゃあ担当者に聞く。」
「すみません。」
「いいえ。」
フェリシアはそれ以上気にせず、研究室を出ていった。
ドアが閉まる。
女性はその背中が完全に見えなくなるまで静かに待った。
ほんの少しだけ、口元が緩んだ。
その日の夜。
オズコープタワーの外にある、人通りの少ない路地へ一人の男が出てきた。
建物から少し離れ、防犯カメラの死角へ入ったところで足を止める。
周囲に人がいないことを確認すると、男はゆっくり顔へ手を当てた。
皮膚が僅かに波打つ。
顔の輪郭が変わり、鼻や頬、顎の形が少しずつ別のものへ移っていく。髪の色と長さまで変化し、数秒後には、先ほどまでオズコープ社員だった男の面影は完全に消えていた。
そこに立っていたのは、ドミトリ・スメルジャコフだった。
カメレオンは耳につけていたイヤホンを外し、スマートフォンを取り出した。
画面には、ハリー・オズボーンの現在地候補が表示されている。その下には担当医師や関係者と思われる複数の名前も並んでいた。
カメレオンはしばらくその情報を眺める。
「ずいぶん念入りに隠したもんだ。」
スマートフォンをしまう。
「でも、金は嘘をつかない。」
そのまま路地を抜け、夜の人混みへ紛れ込んでいった。
数日後。
ニューヨーク郊外。
木々に囲まれた広大な敷地の奥に、オズボーン家所有の別荘が建っていた。
屋敷と呼ぶには意外なほど装飾は控えめだったが、普通の住宅とは明らかに違う。敷地を囲む高い塀には複数の監視カメラが設置され、正門には警備員と電子ゲートが置かれている。
建物の脇には医療車両も停まっており、ここで定期的な治療が行われていることが分かった。
やがて、一台の車が正門へ到着した。
運転席には医師。
助手席には看護師。
後部座席には複数の医療器具が積まれている。
警備員が車へ近づいた。
「身分証を。」
医師がカードを差し出す。
続いて助手席の看護師も身分証を提示した。
照会結果に問題はない。
ゲートが開き、車が敷地内へ入っていく。
助手席の看護師は、窓の外を静かに見ていた。
監視カメラの位置。
警備員の人数。
正面以外の出入口。
建物の構造。
視線を動かすたびに、それらを一つずつ確認していく。
屋敷の内部は、病院ほど無機質ではなかった。
白を基調とした静かな廊下には家具や絵画も置かれているが、その一方で、複数の医療機器や薬品棚、治療スタッフの姿が目につく。一般家庭というには明らかに医療設備が多すぎた。
医師が診察室へ入る。
看護師もその後へ続いた。
室内のソファには、一人の青年が座っていた。
ハリー・オズボーン。
以前よりも痩せている。
顔色も完全に良いとは言えない。
それでも、レイブンクロフトにいた頃と比べれば、少なくとも精神的には落ち着いているように見えた。
テーブルの上には複数の薬が並んでいる。
医師が向かい側の椅子へ座った。
「調子はどうです?」
ハリーが億劫そうに視線を向ける。
「昨日と同じだ。」
「痛みは?」
「ある。」
「どこに?」
ハリーは苛立ったように答えた。
「全部だよ。」
医師は慣れているのか、表情を変えない。
「検査します。」
横にいた看護師が器具を準備する。
ハリーはその看護師を一度だけ見た。
それだけだった。
何の違和感も持っていない。
カメレオンは看護師の顔を保ったまま、静かに周囲を観察していた。
ハリーの手には僅かな震えがある。
皮膚や爪の状態。
服用している薬。
テーブル脇の端末。
部屋の隅に置かれた古いケース。
そして、棚の上にある小型の金属製端末。
ただの箱のようにも見えるが、そのデザインには見覚えがあった。
オズコープ製。
カメレオンの視線が一瞬だけ止まる。
ハリーが顔を上げた。
「何だ?」
カメレオンはすぐに視線を器具へ戻した。
「失礼しました。」
ハリーもそれ以上は気にしなかった。
診察が終わると、医師と看護師は廊下へ出た。
「次は一週間後ですね。」
医師はカルテを確認しながら歩いていく。
看護師はその少し後ろをついていたが、廊下の途中で足を止めた。
「すみません。」
医師が振り返る。
「忘れ物です。」
「先に車へ戻っていてください。」
「分かりました。」
医師がそのまま歩いていく。
看護師は少し待ってから、来た道を戻った。
廊下を抜け、階段を上がる。
途中からさりげなく別の通路へ入る。
人影はない。
壁には、オズボーン家の古い肖像画がいくつか飾られている。在りし日のノーマンと、まだ幼いハリーが描かれたものもあった。
さらに奥へ進むと、書斎らしい部屋が見えた。
ドアは半開きだった。
看護師は中を覗き、人がいないことを確認してから静かに入った。
机の上には古い書類と、オズコープ関連の資料が置かれている。
引き出し。
鍵がかかっている。
看護師がそこへ手を伸ばそうとした。
「それは君の仕事ではないだろう。」
背後から声がした。
看護師の手が止まった。
ゆっくり振り返る。
部屋の入口に、一人の細身の老人が立っていた。
杖を持ち、服装は整っている。照明の位置のせいで顔の一部は影に隠れているが、立ち姿に弱々しさはなかった。
カメレオンは看護師の顔のまま答える。
「患者さんの資料を――」
「必要ない。」
老人は途中で遮った。
カメレオンは黙る。
老人はゆっくり部屋へ入ってきた。
「君は誰だ?」
「担当医の補助です。」
「それは知っている。」
老人は看護師の顔をじっと見た。
「厳密には、その顔の持ち主のことだが。」
カメレオンの目が僅かに細くなる。
老人はその変化にも動じなかった。
「だが、君は違う。」
少しの沈黙が落ちる。
カメレオンは老人を見る。
「……面白いな。」
老人は近くの椅子へ腰を下ろした。
「そうでもない。」
「人間は顔だけで他人を覚えているわけじゃない。」
カメレオンが少し笑う。
「じゃあ何で分かった?」
「歩き方。」
老人は即答した。
「呼吸。視線。それに、君は屋敷へ入ってから一度も患者を見ていなかった。」
カメレオンの笑みが僅かに消える。
老人は続ける。
「見ていたのは扉と監視カメラと警備員だけだ。」
一瞬、カメレオンは何も言わなかった。
やがて、ゆっくりと顔へ手を当てる。
看護師の顔が変形し始めた。
輪郭が変わり、髪が縮み、皮膚の形が元へ戻っていく。
数秒後、そこにはドミトリ・スメルジャコフの顔があった。
老人はそれを見ても驚かなかった。
「やはり。」
カメレオンは少し眉を上げる。
「驚かないんだな。」
「驚いて何になる。」
「警備を呼ばないのか?」
「必要なら、とっくに呼んでいる。」
老人は杖の上へ両手を置いた。
カメレオンは改めて相手を見る。
「アンタ、誰だ?」
老人は静かに答えた。
「グスタフ・フィアーズ。」
カメレオンの目が僅かに変わった。
その名前には聞き覚えがある。
ノーマン・オズボーンの周辺を調べれば、必ずどこかで見つかる名前だった。表舞台へ出ることはほとんどないが、古いオズコープの記録を遡れば、何度も姿を現す。
「ミスター・フィアーズ。」
「そう呼ばれていたこともある。」
カメレオンは机へ軽く腰を預けた。
「ハリーの後見人?」
「似たようなものだ。」
「ずいぶん大物が看病してるんだな。」
「私は看病をしているわけではない。」
フィアーズは平然としていた。
「ノーマンから預かったものを、最後まで見ているだけだ。」
カメレオンの視線が僅かに動く。
「預かったもの。」
フィアーズはその反応を見る。
「君はハリーを探していた。」
「どうしてそう思う?」
「そうでなければ、ここまで来る理由がない。」
カメレオンは答えなかった。
フィアーズが続ける。
「誰に頼まれた。」
「それを話すと思うか?」
「いや。」
即答だった。
カメレオンが少し笑う。
「気にしないのか?」
「別に。」
「ハリーを殺しに来たかもしれない。」
「君は殺し屋ではない。」
「買いかぶりすぎだ。」
「いいや。」
フィアーズは淡々と答える。
「君は情報を盗みに来た。人を殺すだけなら、こんなに時間はかけない。」
カメレオンは黙った。
フィアーズは椅子の背へ身体を預ける。
「何を探している?」
カメレオンは少し考えてから答えた。
「オズコープの地下。」
フィアーズの表情は変わらない。
カメレオンはその反応を見逃さなかった。
「……知ってるな。」
「地下など、どんな建物にもある。」
「そういう地下じゃない。」
沈黙が落ちる。
カメレオンは続けた。
「ハリーの記録を追ってる途中で、妙なところにぶつかった。消えてる研究に、行き先のない設備。存在してるのに、どこにも置かれてない資産だ。」
フィアーズは何も言わない。
「オズコープの中に、通常の管理から切り離された場所があるな。違うか?」
少し間を置いて、フィアーズが答えた。
「スペシャルプロジェクト。」
カメレオンの目が僅かに開く。
「……やっぱりあるのか。」
「ある。」
あまりにも簡単に答えられたため、逆にカメレオンの方が拍子抜けした。
「随分あっさり教えるな。」
「隠す必要がないからだ。」
「場所は?」
「それは教えない。」
カメレオンが笑う。
「そこは隠すのか。」
「君が自力で辿り着けるか見たい。」
「試してる?」
「暇つぶしだ。」
カメレオンは少しだけフィアーズを睨んだが、老人は本当にどうでもよさそうだった。
フィアーズは続ける。
「スペシャルプロジェクトには、オズコープが長年、表へ出せなかった研究が集められている。兵器、医療、人体実験、軍事技術。それに失敗作もある。」
そこで一度言葉を切る。
「……成功作も。」
カメレオンの表情が少し変わった。
「成功作?」
「そうだ。」
フィアーズはハリーのいる方角へ目を向ける。
「ノーマンが最後まで求めたものも、そこにある。」
カメレオンが静かに尋ねた。
「オズボーン家の病気か。」
フィアーズは頷きもしなかった。
ただ、そのまま答えた。
「完全な治療法が完成している。」
カメレオンの顔から笑みが消えた。
今度は、本気で驚いていた。
「完成してる?」
「ハリーがレイブンクロフトに収監されている間にな。」
「本人は?」
「知らない。」
カメレオンは数秒、何も言えなかった。
やがて、ゆっくり笑い始める。
「それは……。」
フィアーズが見る。
「面白い。」
今までよりも明らかな熱が、カメレオンの声に混じっていた。
フィアーズは何も返さない。
カメレオンはさらに聞く。
「他には?」
「随分欲張るな。」
「ここまで聞かされて止まれるわけないだろ。」
フィアーズは机の上にある古い端末へ目を向けた。
「君自身が欲しがりそうなものもある。」
カメレオンの笑みが止まる。
「何だ?」
「認証技術。」
フィアーズは淡々と話し始めた。
「顔。指紋。社員資格。アクセス権。監視記録。システム上の本人情報。」
カメレオンは動かなかった。
「対象の認証情報へ、一時的に自分を重ねる。物理的に他人へ化けるだけではない。」
フィアーズはカメレオンを見る。
「システムにも、別人だと信じ込ませる。」
カメレオンの呼吸が僅かに変わった。
「……そんなものが。」
「ある。」
「使えるのか?」
「試作段階だ。」
「十分だ。」
即答だった。
フィアーズが少しだけ目を細める。
カメレオンはもう興味を隠せなくなっていた。
頭の中で、すでに何かを組み立て始めている。
「場所は?」
「さっき言っただろう。」
フィアーズは平然と答える。
「自分で探せ。」
カメレオンは小さく笑った。
「アンタ、性格悪いな。」
「よく言われる。」
フィアーズは少し間を置いてから続けた。
「それと。」
カメレオンが顔を向ける。
「まだあるのか?」
「昔、ノーマンと一つの構想を立てていた。」
フィアーズは机の引き出しから、古いファイルを一冊取り出した。
カメレオンがそれを受け取る。
ページを開くと、中には複数の人物に関する記録や特殊装備、研究計画がまとめられていた。
「何だ、これ。」
「スパイダーマンへの対抗手段。」
カメレオンの指が止まる。
フィアーズはそのまま続けた。
「一人で勝てないなら、力を合わせる。」
ページをめくる。
特殊な飛行装備。
機械アーム。
強化兵器。
それぞれ別の研究として進められていた計画が、一つのファイルへまとめられている。
カメレオンが尋ねた。
「何人?」
フィアーズは静かに答えた。
「六人。」
カメレオンが顔を上げる。
フィアーズの表情は変わらない。
穏やかで、静かで、それを今さらどうしようという期待も感じられなかった。
「シニスター・シックス。我々はそう呼んでいた」
カメレオンはその名前を口の中で転がすように繰り返した。
「……悪くない。」
フィアーズは杖を軽く動かした。
「好きに使えばいい。」
カメレオンが少し驚く。
「いいのか?」
「何が。」
「アンタの計画だろ。」
「昔の話だ。」
フィアーズは冷静に答える。
「君がやってもいいし、やらなくてもいい。私はどちらでも構わない。」
カメレオンは老人を見る。
本当に何の感情もなかった。
自分がこの情報を利用しようが、無視しようが、フィアーズには直接的な損も得もない。
ただ知っている。
だから話した。
それだけのように見える。
カメレオンは逆に、その無関心さへ僅かな不気味さを感じた。
「……変な爺さんだ。」
フィアーズは何も言わなかった。
カメレオンはファイルを閉じる。
もう、この場所でじっとしている気にはなれなかった。
「じゃあ、今日はこれで。」
出口へ向かう。
フィアーズは止めない。
カメレオンがドアへ手をかけたところで、一度だけ振り返った。
「アンタ、僕がこれを本当にやると思ってる?」
フィアーズは少し考えた。
「知らん。」
カメレオンが眉を上げる。
フィアーズは続けた。
「興味もない。」
カメレオンは笑った。
「最高だよ。」
そのまま部屋を出ていく。
足音が廊下の奥へ遠ざかっていった。
フィアーズは椅子に座ったまま、一度も表情を変えなかった。
やがて窓の外へ視線を向ける。
木々の向こう、さらに遠くにはニューヨークがある。
カメレオンが何をするのか。
誰を集めるのか。
計画が成功するのか、それとも失敗するのか。
本当に興味がない。
グスタフ・フィアーズは、ただ静かにそこへ座っていた。