The Amazing Spider-Man 5: Legacy of Oscorp 作:たきび/まもる
午後。
オズボーン家の別荘は、よく手入れされた芝生と木々に囲まれ、外から見れば静かな大邸宅にしか見えなかった。風が庭を抜け、木の葉を揺らしている。だが、その穏やかな外観とは裏腹に、建物の内部には医療機器や薬品が並び、警備員が常駐し、医師や看護師が定期的に出入りしていた。
そして、その中には自由に外へ出ることのできない一人の青年がいる。
二階の広い部屋で、ハリー・オズボーンは窓際の椅子へ座っていた。
テーブルの上には薬と水、それに何枚もの医療記録が置かれている。手元のタブレットにはオズコープに関するニュースが表示され、新しい経営陣の発表、研究成果、企業提携、株価の推移といった情報が絶えず更新されていた。
自分がいなくなっても、会社は何事もなかったように動き続けている。
ハリーはしばらく画面を眺めていたが、やがて無言で電源を落とした。タブレットを机へ放るように置いたところで、部屋のドアがノックされる。
「どうぞ。」
入ってきたのは、四十代ほどのスーツ姿の男だった。片手には書類ケースを持っているが、ハリーには見覚えのない顔だった。
一度だけ相手を見る。
「誰だ?」
男は部屋へ入りながら答えた。
「君の法務関係者から話を聞いた。オズコープについて少し伝えておきたいことがある。」
その名前を聞いただけで、ハリーの表情が冷えた。
「だったら帰ってくれ。僕はもうオズコープとは関係ない。少なくとも、あいつらはそういう扱いをしてる。」
「会社を追い出されても、君の名前まで消えたわけじゃない。君は今でもハリー・オズボーンだし、ノーマン・オズボーンの息子だ。」
ハリーは男を睨んだ。
「だから何だ。用があるなら、さっさと話せ。」
男はその態度を気にする様子もなく、テーブルの前まで来ると書類ケースを置いた。
「その方が話は早い。」
ケースを開き、中から一枚の資料を取り出してハリーの前へ滑らせる。
ハリーは視線を落とした。
オズコープ内部の研究資料だった。
遺伝性疾患。細胞変異。遺伝子修復。そして、オズボーン家。
その文字を見たところで、ハリーの指が止まった。
「……どこでこれを手に入れた?」
「それより、続きを見た方がいい。」
男は別の資料を重ねた。
ハリーは受け取ってページをめくる。
途中までは見覚えがあった。
ノーマンが生涯追い続け、自分自身も救いを求めて縋った研究だった。だが、そこから先に記されていたものは、ハリーの知らない内容だった。
研究進捗。
臨床試験。
治療成功率。
ページを進めるほど、ハリーの表情が変わっていく。
最後の資料には、大きく一つの単語が記されていた。
COMPLETE
ハリーは動かなくなった。
数秒間、その文字だけを見つめる。
それからゆっくり顔を上げた。
「……これは何だ。」
男は淡々と答える。
「君の病気に対する治療法だ。研究は完成している。」
ハリーの目が細くなる。
「完全な治療法?」
「そうだ。」
「嘘だな。」
答えは即座だった。
ただし、その声にあったのは確信よりも警戒だった。
「そんなものが完成してるなら、僕が知らないはずがない。父が何を研究してたかも、オズコープがこの病気にどれだけ金を使ってたかも知ってる。」
男は少しだけ眉を上げた。
「おっと、勘違いするな。教えなかったんじゃない。君が収監中に完成したんだ。」
ハリーの動きが止まった。
「……何?」
「君がレイブンクロフトにいる間も研究は続いていた。そして完成した。君が会社から切り離された後にな。」
今度は、すぐに言葉が返ってこなかった。
ハリーの視線が資料へ戻る。
紙を持つ指に、少しずつ力が入っていく。
「僕が……あそこにいる間に?」
「そうだ。」
ハリーはしばらく黙っていた。
やがて、低い声で話し始める。
「僕は毎日、病気が進んでいくのを感じながら閉じ込められてたんだ。医者には経過を見るしかないと言われて、薬を飲んで、検査をして……その間に、あいつらはこれを完成させてた?」
男は答えなかった。
ハリーの呼吸が少しずつ速くなる。
「それで、誰も僕に知らせなかった?」
「君はもう経営陣ではない。」
その一言で、ハリーの表情が変わった。
「……そうか。」
椅子から立ち上がる。
「そういうことか。」
男は静かに見ていた。
「僕を追い出した時点で、全部終わったことにしたんだ。僕が病気でも、死んでも、もう関係ない。会社にとって僕は、ただの厄介な元経営者でしかない。」
ハリーは拳をテーブルへ叩きつけた。
鈍い音が部屋へ響き、厚い天板に亀裂が走る。
男の視線が僅かに動いた。
ハリー自身も一瞬だけ、自分の拳を見た。
だが、怒りは収まらなかった。
「僕の父親が始めた研究だ。オズボーン家の病気を治すために、あれだけの金と時間を使った! それを完成させておいて、僕には何もないだと!?」
近くの椅子を掴む。
そのまま壁へ投げつけると、椅子は大きく砕けて床へ散った。
「僕から会社を取り上げて、名前だけ利用して、研究成果まで全部自分たちのものにしたつもりか!」
棚の上にあった物を腕で薙ぎ払う。
ガラスが割れ、破片が床へ飛び散る。
続けて壁を殴る。
表面が砕けた。
もう一度拳を振り上げる。
しかし、今度は振り下ろす前に身体が止まった。
「……っ。」
ハリーは胸元を押さえた。
急に呼吸が乱れ、膝から力が抜ける。
近くのソファへ手をつき、どうにか身体を支えた。
「……はぁ……はぁ……。」
さっきまで見せていた異常な力が嘘のように消えていた。
額には大粒の汗が浮かび、指先も震えている。
男は駆け寄らなかった。
声もかけない。
ただ、少し離れたところから静かに待っていた。
しばらくして呼吸が落ち着くと、ハリーは椅子へ腰を下ろした。
テーブルの水を手に取り、一口飲む。
少ししてから、改めて男を見る。
「……で。君は誰なんだ。」
男は少し笑った。
「ようやくそこに戻った。」
「ふざけるな。どこの弁護士でもない。こんな資料を持って来られるような人間なら、最初から名前くらい言えるだろ。」
男は少し考えるように間を置いた。
それから、ゆっくり顔へ手を当てる。
ハリーが眉をひそめた。
次の瞬間、男の顔が変わり始めた。
頬の形が動き、鼻や顎の輪郭が変わる。髪の色や長さまで別のものへ移り、まるで他人の顔そのものを脱ぎ捨てていくようだった。
数秒後、そこに立っていたのはドミトリ・スメルジャコフだった。
ハリーは目を細める。
「……面白い芸だな。」
「驚かない?」
「驚いてるよ。だからって君を信用する理由にはならない。」
カメレオンは軽く肩をすくめる。
「それでいい。名前はドミトリ。それだけ覚えてくれればいい。」
ハリーは椅子に座ったまま、しばらくカメレオンを観察した。
「ここにはどうやって入った?」
「それを説明し始めると長い。」
「ならいい。僕を殺しに来たんじゃないなら、目的を言え。」
カメレオンは少しだけ笑った。
「スペシャルプロジェクト。」
ハリーの目が動いた。
カメレオンはその反応を見逃さない。
「知ってるだろ。オズコープ地下の秘密研究施設。君も昔、一度入っている。」
「知ってる。だからこそ言ってるんだ。あそこは僕でも好き勝手に出入りできる場所じゃなかった。今はなおさらだ。」
「存在を知ってるなら十分だ。話が早い。」
カメレオンは先ほどの治療記録を指で叩いた。
「これがあるのも、そこだ。」
ハリーは資料を見る。
「確かなのか?」
「確かだ。」
「誰から聞いた。」
「情報源まで売るほど親切じゃない。」
ハリーは鼻で笑った。
「信用しろって?」
「別に。」
カメレオンは平然としている。
「信用しなくてもいい。ここでこのまま薬を飲み続けるのも自由だ。定期的に検査を受けて、少しずつ悪くなっていく身体を見ながら、オズコープの地下に完成した治療法が眠ってることだけ覚えておけばいい。」
ハリーの表情が険しくなった。
「ずいぶん楽しそうに煽るな。」
「多少はね。」
「性格が悪い。」
「よく言われる。」
カメレオンはテーブルへ軽く腰を預けた。
「でも、嘘は言ってない。」
しばらく沈黙が続いた。
ハリーはもう一度、治療記録へ視線を落とす。
そこには変わらずCOMPLETEと記されている。
「……それで、僕に何をさせたい?」
待っていたように、カメレオンが答えた。
「オズコープに入り込もう。」
ハリーはすぐに顔を上げた。
「無理だ。お前が何を知ってるのかは知らないが、オズコープの警備を甘く見るな。外部警備、生体認証、社内ネットワーク、研究区画ごとのアクセス管理。地下へ行くなら、そこからさらに別系統のセキュリティを抜かなきゃならない。」
カメレオンは黙って聞いていた。
ハリーは続ける。
「それに、僕にはもう何の権限もない。社員証も役員権限も社内アクセスも全部止められた。あいつらはオズボーンから会社を奪って、僕を外に放り出した。」
少し間を置く。
「……要するに、僕は見捨てられたんだよ。」
最後の言葉にも、弱さより苛立ちが滲んでいた。
カメレオンは数秒間ハリーを見た。
それから静かに言う。
「だから、君一人で行くんじゃない。」
ハリーが眉を寄せる。
「何の話だ?」
カメレオンは書類ケースから別のファイルを取り出し、テーブルへ置いた。
ハリーが開く。
そこには複数の人物についての収容記録や研究記録、古い犯罪歴がまとめられている。
オットー・オクタビアス。
エイドリアン・トゥームズ。
セルゲイ・クラヴィノフ。
ハリーはページをめくりながら聞いた。
「……犯罪者名簿でも作ってるのか?」
「候補だよ。」
「何の。」
「オズコープに入るための。」
ハリーはファイルを閉じた。
「正気か? こんな連中を集めてオズコープに押し入るつもりなら、計画って呼ぶには随分雑だ。」
「押し入るとは言ってない。」
「結果は同じだろ。」
「必要ならそうなる。」
ハリーは呆れたように息を吐く。
「大した自信だな。」
「自信じゃない。人数の問題だ。」
カメレオンはファイルを指差す。
「こいつらには、それぞれ地下へ行く理由がある。オットーは自分の研究がどう扱われたのか確かめたい。トゥームズは地下にある飛行装備を欲しがる。セルゲイは少し事情が違うけど、戦力にはなる。」
ハリーがカメレオンを見る。
「君は?」
「僕にも欲しい物がある。」
「何だ。」
「そこは僕の取り分だ。」
ハリーは少し笑った。
「僕には全部話せと言って、自分の目的は秘密か。」
「君だって僕に全部話してないだろ。」
「聞かれてないからな。」
ハリーはファイルへ目を落とした。
「それで、全員が別の物を欲しがってるから、同じ場所へ行く間だけ手を組む。そういう話か?」
「そう。」
「地下に入った途端に殺し合いにならない保証は?」
「ない。」
あまりにもあっさり答えられ、ハリーは一瞬黙った。
カメレオンは小さく笑う。
「だから友達を集めてるわけじゃない。目的が同じ間だけ利用し合う。欲しい物を取ったら終わり。それ以上を期待すると面倒になる。」
「信用できない連中ばかりじゃないか。」
「信用する必要があるか?」
ハリーはカメレオンを見る。
「……君も含めて?」
「もちろん。」
即答だった。
少しの沈黙のあと、ハリーが小さく笑った。
「少なくとも、自覚はあるんだな。」
「自分を信用できるって言う奴よりは信用できるだろ。」
「それはどうかな。」
カメレオンも笑った。
ほんの一瞬だけ、部屋の空気が緩む。
だが、ハリーの視線はすぐに治療記録へ戻った。
COMPLETE
「これが本当にあるなら。」
ハリーが低い声で言う。
「僕は治るんだな。」
カメレオンは今度は茶化さなかった。
「研究上はそうなっている。」
「研究上?」
「僕は医者じゃない。君に使って絶対に成功するとまで保証はできない。」
ハリーは不満そうに眉を寄せる。
「だったら何を保証できる。」
「治療法が完成していること。そして、それが今もオズコープの地下にあること。」
ハリーは黙った。
窓の外へ視線を向ける。
遠く、木々の向こうにはマンハッタンの高層ビル群が見える。
その中に聳えるオズコープタワー。
かつて自分が所有していた会社。
父から引き継いだ会社。
そして、自分を追い出した会社。
長い沈黙が続いた。
カメレオンは急かさなかった。
やがて、ハリーが口を開く。
「……いつ行く。」
カメレオンの目が僅かに細くなった。
「行く気になった?」
「質問に答えろ。」
「まだだ。人数が足りない。」
ハリーが顔をしかめる。
「ここまで煽っておいて待てって?」
「君を入れても、まだ全員揃ってない。オズコープに入る前に片付けることがいくつかある。」
「僕はいつまでここで腐ってればいい。」
「そんなに長くは待たせない。」
カメレオンは書類をケースへ戻し始める。
「その間に、外へ出る準備だけしておいてくれ。」
ハリーは鼻で笑った。
「簡単に言うな。僕は自由に外へ出られない。警備もいるし、医者の管理下にある。君一人が顔を変えられるからって、僕まで透明になるわけじゃない。」
カメレオンはケースを閉じ、ドアへ向かった。
「ハリー。」
振り返る。
「僕がどうやってここに入ったと思う?」
ハリーは答えなかった。
カメレオンの顔が変わり始める。
数秒後には、部屋へ入ってきた時の四十代ほどの男へ戻っていた。
「入るより、出す方が簡単だ。」
ドアを開け、そのまま出ていこうとする。
その背中へ、ハリーが声をかけた。
「ドミトリ。」
カメレオンが振り返る。
ハリーは椅子へ深く座ったまま、冷たい目で相手を見ていた。
「治療法が嘘だったら。」
少し間を置く。
「お前がどんな顔に変わろうが、見つけ出す。」
カメレオンは数秒ハリーを見たあと、笑った。
「それくらい元気なら安心した。」
「冗談じゃない。」
「僕もだよ。」
それだけ言い残し、カメレオンは部屋を出た。
ドアが閉まる。
ハリーは一人、部屋に残された。
床には割れたガラスが散り、壊れた椅子やひびの入ったテーブルが、さっきまでの怒りをそのまま残している。
その中で、ハリーは一枚の資料を手に取った。
COMPLETE
何度見ても、文字は変わらない。
視線を窓の外へ向ける。
遠くに見えるオズコープタワー。
「僕のために始めた研究だ。」
誰に聞かせるでもなく呟く。
「父が残したものなら。」
資料を持つ指に力が入る。
「僕が取り戻す。」
ハリーはそのまま長い間、オズコープタワーの方角から目を離さなかった。