The Amazing Spider-Man 5: Legacy of Oscorp 作:たきび/まもる
数日後。
昼。
廃棄されたルーズベルト駅のホームには、相変わらず一両の地下鉄車両が停められていた。その車内で、ピーターは壁に取り付けたホワイトボードを眺めていた。
中央には、前回の分析で書き残した文字が並んでいる。
UNKNOWN ENERGY
その下には、
HUMAN BODY → WEAPON
さらに横には、
DISRUPT OUTPUT
ピーターは腕を組んだまましばらく考えてから、作業台へ視線を移した。
机の上にはウェブシューターと、調整を重ねた数種類の試作カートリッジが並んでいる。
「力そのものが何なのかは、まだ分からない。どこから来てるのかも、あいつらの身体にどうやって入ってるのかも分からない。でも、使う時に身体の動きが必要なのは確かだ。」
独り言のように整理しながら、ピーターは一本のカートリッジをウェブシューターへ差し込んだ。
車両の反対側には、簡単な人型の試験台が固定されている。
ピーターが手首を向けて発射すると、通常より粘度を上げたウェブが試験台の手首から肘へ一気に広がり、関節をまとめて覆った。
近づいて腕を動かそうとしてみる。
かなり力を入れても、簡単には曲がらない。
「手首だけじゃ足りない。肩まで固めた方がいいか。」
もう一度発射する。
今度は肩から前腕までを広く包み込み、腕そのものの可動域を制限した。
ピーターは試験台の腕を何度か動かそうとして、その結果を確認すると、再びホワイトボードの前へ戻った。
以前書いた三つの項目を見る。
POSTURE
FOCUS
CONTACT ?
ペン先でそれぞれを軽く叩く。
「全部を止める必要はない。どれか一つ崩せれば、出力は落ちる。……少なくとも、前に戦った連中には。」
最後だけは少し慎重な言い方になった。
あの力を使っていた男たちが、全員まったく同じ仕組みで動いているという保証はない。前回の戦闘で通用した対策も、より強力な使い手が現れれば意味を持たない可能性がある。
ピーターはホワイトボードを見たまま、少し眉を寄せた。
「名前がないと不便だな……。」
UNKNOWN ENERGY
その文字を眺めながら、何か適当な呼び方を考える。
数秒後、その下へ新しく書き足した。
“
一歩後ろへ下がり、全体を見る。
「見た目も雰囲気も、あんまりポジティブじゃないし。……まあ、仮で。」
ペンを置いたところで、作業台のスマートフォンが鳴った。
画面にはヒルの名前が表示されている。
ピーターは通話を繋いだ。
「もしもし。」
『今どこだ。』
「地下。」
すぐに聞き返される。
『どこの地下だ。』
ピーターは少し間を置いた。
「……えーっと、地下。」
電話の向こうで、ヒルがため息をつく。
『まあいい。オズコープの件で少し動きがあった。』
その言葉で、ピーターの表情が変わった。
「何か見つかった?」
『オットーが添付していた資料から、いくつか追える資金と設備の流れが出た。ただ、相変わらず途中で切れてる。』
ピーターは作業台へ腰を預けた。
「また消えてる?」
『正確には、別の管理番号へ移されてる。問題は、その番号が現行のオズコープの会計にも資産管理にも存在しないことだ。古い体系かと思って調べたが、それも違った。』
ピーターは少し考える。
「じゃあ、最初から表に出さないための番号か。」
『そう考えるのが自然だな。ただ、それだけじゃまだ踏み込めない。場所も分からんし、何を保管しているのかも分からない。』
「でも、オットーが言ってたことは本当だった。」
『少なくとも、“何かが通常の管理から外されている”という部分はな。』
ピーターはホワイトボードとは別にまとめていたオズコープ関連の記録へ目を向けた。
「研究データだけじゃない?」
『設備もある。試作品もある。廃棄された記録がないのに、台帳から消えてる物がいくつもある。』
ピーターの眉間に皺が寄る。
「それだけの物を、どこかにまとめて隠してる可能性は?」
『ある。だが可能性だけだ。』
そこでヒルの声が少し強くなった。
『だから勝手に探しに行くなよ。』
ピーターは顔をしかめた。
「まだ何も言ってない。」
『言う前に行くから言ってる。』
「信用ないなぁ。」
『実績だ。』
ピーターは苦笑する。
「分かった。僕も何か見つけたら、先にそっちへ回す。」
『“先に”だからな。』
「分かってるって。」
通話が切れた。
ピーターはしばらくスマートフォンを見つめたあと、ホワイトボードへ視線を戻した。
“NEGATIVE POWER” ?
その横には、オズコープの通常記録から消えた研究や設備について、自分なりにまとめた情報が貼られている。
デーモンたちが使う未知の力。
オズコープが隠しているらしい研究と設備。
二つの問題がほとんど同時に動き始めていたが、この時点のピーターには、まだ別々の事件にしか見えていなかった。
同じ頃。
レイブンクロフトの面会室では、オットー・オクタビアスが厚いガラスで区切られた狭い部屋に座っていた。
アームもなければ、研究器具もない。
目の前にあるのは床へ固定された机と椅子、それに天井付近の監視カメラだけだった。
しばらく待っていると、向こう側の扉が開いた。
スーツ姿の男が一人、薄い書類ケースを持って入ってくる。
オットーには見覚えのない顔だった。
男が向かいの椅子へ座る。
オットーはすぐには話しかけず、相手の服装や持ち物を一通り観察してから口を開いた。
「弁護士なら間に合っている。家族でも記者でもないようだが、何の用かな。」
男は少し笑った。
「君に見せたいものがある。」
「ここまで来て私に何かを売り込むつもりなら、相当趣味が悪いな。」
「売るつもりはない。むしろ、君のものを返したい。」
その言葉で、オットーの目が僅かに細くなった。
男は書類ケースを開くと、一枚の写真を取り出して机へ置いた。
そこには、四本の機械アームが写っていた。
かつてオットー自身が作ったものと基本構造はよく似ている。
だが、同じものではない。
各関節には厚い装甲が追加され、先端部の構造も変わっている。人間の身体機能を補助する装置というより、明らかに戦闘や軍事転用を前提とした設計だった。
オットーの表情が変わった。
「……これはどこで手に入れた。」
男は答えず、さらに資料を一枚置く。
神経信号を利用した制御インターフェース。
オットーには、その理論の出所がすぐに分かった。
もう一枚。
そこには、自分がかつて書いた数式を基礎として構築された別系統の兵器設計があった。
オットーはゆっくり資料へ手を伸ばした。
「私の研究だ。」
細部を確認する。
「全部ではないが、制御系の基礎は間違いなく私のものだ。誰かが後から軍事用に組み直している。」
男は静かに頷いた。
オットーが顔を上げる。
「どこにある。」
「オズコープ。」
その名前だけで、オットーの顔が硬くなった。
男は続ける。
「君が壊したつもりだったものも、君が持ち出したデータも、その後に派生した研究も残っている。オズコープは、君が思っている以上に多くのものを手放していない。」
オットーはもう一度資料へ視線を戻した。
「君は何者だ。」
「今はそれより、君がこれを放っておけるかどうかの方が重要だ。」
「答えになっていない。」
「そうかも。」
男はまったく気にした様子を見せなかった。
オットーはしばらく黙っていたが、やがて資料を机へ戻した。
「仮に本物だとしても、私に何をさせたい。ここから出られるとでも?」
男の口元が少し上がった。
「そこは心配しなくていい。」
オットーが眉を寄せる。
「どういう意味だ。」
男は答えず、椅子から立ち上がった。
「また近いうちに。」
「待て。」
男が振り返る。
オットーは低い声で尋ねた。
「私の研究がどこにあるのか、君は知っているんだな。」
男は少し考えたあと、短く答えた。
「知っている。」
それだけを残し、面会室を出ていった。
州立刑務所。
高い壁と有刺鉄線に囲まれた運動場では、囚人たちがそれぞれ思い思いに時間を過ごしていた。
その中で、エイドリアン・トゥームズはベンチへ座り、ぼんやりと空を見上げていた。
ただし、見ているのは空だけではない。
監視塔。
外壁。
警備員の配置。
門。
上空。
長年染みついた癖なのか、刑務所に入ってからも無意識に逃げ道を探していた。
「まだやってるのか。」
隣から声がした。
トゥームズが横を見る。
いつの間にか、見覚えのない囚人がベンチへ座っていた。
「何を……。」
「出口探し。」
トゥームズは鼻で笑った。
「刑務所で出口を探さない奴の方がどうかしてる。」
男も少し笑う。
「確かに。」
「誰だ、お前。」
「取引相手。」
「物なら持ってないぞ。」
「僕が持ってる。」
トゥームズは横目で男を見る。
男は周囲を気にする様子もなく、少しだけ声を落とした。
「また空を飛びたくない?」
トゥームズの表情が僅かに変わる。
「何の話だ。」
「オズコープが作った飛行装備がある。軍用。それも試作品じゃなくて完成品。」
トゥームズはすぐには食いつかなかった。
「そんなものが本当にあるなら、軍がもう使ってる。」
「表に出てるならね。」
「信用できねえな。」
「信用する必要はない。」
男は平然としていた。
「ただ、身体に装着して、自分の手足みたいに動かせる。高速飛行、垂直上昇、武装付き。高層ビルの屋上なんて、玄関と変わらなくなる。」
トゥームズは今度こそ男の顔を見た。
「……詳しいな。」
「興味ある?」
「あるように見えるか。」
「かなり。」
トゥームズは小さく舌打ちした。
数秒黙ってから、低い声で聞く。
「どこにある。」
男の口元が上がった。
「オズコープ。」
それから数日後。
まだニューヨークの街が完全に目を覚ます前の早朝。
レイブンクロフトと州立刑務所。
遠く離れた二つの施設で、時計だけが同じ時刻を示していた。
午前六時。
レイブンクロフトの警備室では、職員の一人がコーヒーを飲みながら複数の監視モニターを確認していた。
外周。
異常なし。
廊下。
異常なし。
収容区画。
異常なし。
静かな朝だった。
その時、一台の車両が正門前へ停まった。
職員がモニターへ顔を向ける。
「搬入予定、あったか?」
隣の職員が記録を確認する。
「いや。」
車のドアが開いた。
中から数人の男たちが降りる。
全員が、鬼のような仮面をつけていた。
警備員の表情が変わる。
「警報を――」
言い終える前に、正門が爆発した。
ほぼ同時刻。
州立刑務所の監視塔では、警備員が空から近づいてくる低い音に気づいた。
遠くに一機のヘリコプターが見える。
だが、通常の民間機ではない。
機体の形状も、外部に搭載された装備も、明らかに軍用だった。
しかも、真っ直ぐ刑務所へ向かっている。
警備員はすぐに無線を取った。
「所属不明機接近。警戒態勢――」
ヘリコプターの側面から弾頭が射出された。
監視塔のすぐ横へ直撃する。
爆発。
激しい衝撃に塔全体が揺れ、その直後、刑務所中に警報が鳴り響いた。
マンハッタン。
ピーターのアパートでは、ベッド脇に置かれていたスマートフォンが激しく鳴った。
眠っていたピーターは身体を跳ね起こした。
「……なに!?」
画面には警察無線を拾うアプリから、複数の緊急通知が届いている。
レイブンクロフト襲撃。
州立刑務所への武装攻撃。
時刻を見る。
ほぼ同時だった。
ピーターの眠気が一瞬で消えた。
「同時?」
テレビをつける。
レイブンクロフトへの襲撃が速報で流れている。
チャンネルを変えるまでもなく、画面下には州立刑務所でも武装攻撃が発生したという情報が表示された。
そこへ、ヒルから着信が入る。
ピーターはすぐに出た。
「見てる。」
『なら話が早い。州立刑務所は遠い。州警察と航空部隊が向かってる。』
「レイブンクロフトは?」
『こっちから近い。それに、例の仮面連中だ。』
ピーターの表情が引き締まる。
「デーモン?」
『そうだ。』
ピーターはベッドから立ち上がった。
「分かった。僕はそっちへ行く。」
通話を切ると、クローゼットを開ける。
スーツを着込み、両手首へウェブシューターを装着する。
数分も経たないうちに窓が開き、スパイダーマンは早朝のニューヨークへ飛び出していった。
レイブンクロフトの正門は、すでに原形を留めていなかった。
破壊されたゲートからデーモンたちが次々と施設内部へ雪崩れ込み、警備員たちが銃で応戦している。
銃声と悲鳴が飛び交う廊下を、黒紫色の光が何度も照らした。
一人のデーモンが、警備員の持つ防護シールドへ拳を叩き込む。
黒紫色の力が弾け、シールドごと警備員の身体が後方へ吹き飛ばされた。
別の男は短刀へ力をまとわせ、閉ざされた鉄製扉へ叩きつける。
厚い金属が大きく歪む。
その混乱の中を、一人だけ他のデーモンたちとは明らかに違う男が歩いていた。
鬼の仮面。
その全身を、濃密な黒紫色のエネルギーが覆っている。
周囲の空気そのものが僅かに揺らいで見えるほどだった。
警備員が銃を向ける。
発砲。
男は片手を上げた。
黒紫色の力が弾丸の軌道を逸らし、壁へ火花が散る。
続けて腕を横へ振るう。
衝撃波が廊下へ広がり、複数の警備員がまとめて吹き飛ばされた。
男は歩みを止めない。
「オクタビアスを探せ。」
その一言で、デーモンたちが複数の通路へ散っていった。
上空からレイブンクロフトへ接近したスパイダーマンには、遠くからでも煙が見えていた。
破壊された正門。
施設の窓から漏れる黒紫色の光。
「……やっぱりか!」
ウェブを離し、外壁へ着地する。
そのまま割れた窓から施設内部へ飛び込んだ。
近くにいたデーモンが振り返り、拳を握る。
腕へ黒紫色の力が集中し始める。
スパイダーマンはそこを見逃さなかった。
「そこ。」
粘度を上げたウェブを撃ち、手首と肘を同時に固定する。
男はそのまま力を出そうとしたが、腕を十分に動かせず姿勢が崩れ、黒紫色の光も乱れた。
スパイダーマンはすぐに足を払い、床へ倒れた身体へ追加のウェブを重ねる。
「よし。」
別の男が棒状の武器を振り上げた。
肩から腕へ黒紫色の光が流れていく。
スパイダーマンは力が武器へ届くより早く、肩から前腕までをまとめて壁へ貼りつけた。
「これも効く。」
男は自由な方の拳で殴りかかってきた。
スパイダーマンは身体を逸らしてかわし、胸元へ蹴りを入れる。
男の背中が壁へ叩きつけられたところへ、さらにウェブを追加した。
数日前より、明らかに対処が速い。
手首。
肘。
肩。
武器。
黒紫色の力が集中する場所を見て、発動する前に動きを崩す。
別方向から来た二人も同じように床へ貼りつけた。
「悪いけど、ちょっと研究済みなんだ。」
その時。
施設の奥で、これまでとは比較にならないほど強烈な衝撃が発生した。
廊下の壁が砕け、煙と破片がこちらへ流れ込んでくる。
スパイダーマンは動きを止めた。
煙の向こうから、一人の男が歩いてくる。
鬼の仮面。
全身を包む濃い黒紫色の力。
スパイダーマンは無意識に構えた。
今まで戦ったデーモンとは明らかに違う。
使っている力そのものは同じように見える。
だが、密度も出力も桁が違った。
スパイダーマンは男を見ながら、ゆっくり口を開いた。
「……君が元締めか。」
男は答えない。
「こいつらが使ってるネガティブパワー。まあ、僕が勝手にそう呼んでるだけだけど。」
何の反応もない。
スパイダーマンは少しだけ首を傾げた。
「じゃあ、君は……あー、ミスター・ネガティブ?」
自分で言ってから、一拍置く。
「……いや、今のは安直だったな。」
仮面の男は何も言わなかった。
ただ、片手を上げる。
その瞬間、スパイダーセンスが強く警告した。
スパイダーマンは即座に床を蹴った。
直後、黒紫色の衝撃波が廊下を一直線に走り、壁も天井も床もまとめて砕いていく。
「うわっ!」
スパイダーマンは横の壁へ張りついた。
破壊された廊下を見て、思わず目を見開く。
「出力違いすぎるだろ。」
男が跳んだ。
次の瞬間には、もう目前にいる。
スパイダーマンは攻撃動作を見た。
手首。
肘。
肩。
姿勢。
構成員たちと同じなら、発動前に崩せる。
腕へウェブを撃ち、横へ強く引いた。
だが。
男の腕はほとんど動かなかった。
逆に、ウェブを掴んだスパイダーマン自身の身体が一気に引き寄せられる。
「え?」
拳が迫る。
スパイダーマンは寸前で身体を捻り、直撃だけは避けた。
それでも肩へ拳が掠める。
黒紫色の衝撃が身体へ伝わり、スパイダーマンは廊下を数メートル吹き飛ばされた。
壁へ激突する。
そのまま床へ落ちた。
すぐに片手をついて起き上がる。
「……全然違う。」
仮面の男がゆっくり近づいてくる。
スパイダーマンは構え直した。
「君から分けてるのか。あの連中が使ってるのは、君の力?」
男の足が一瞬だけ止まった。
ほんの僅かな反応だった。
だが、スパイダーマンは見逃さない。
「やっぱり。」
その直後、遠くで爆発音が響いた。
無線機から、デーモンの声が聞こえる。
『見つけた。』
仮面の男が顔を向けた。
スパイダーマンも聞いていた。
「誰を?」
男は答えず、一気に後退した。
「待て!」
スパイダーマンはすぐにその後を追った。
収容区画では、オットーの独房を塞いでいた扉が大きく破壊されていた。
煙が流れ込む中、複数のデーモンと仮面の男が現れる。
オットーはベッドから立ち上がった。
「君が先日の男の仲間か。」
返事はない。
仮面の男は短く言った。
「時間がない。来い。」
オットーは眉を寄せた。
「随分一方的だな。私は君たちと行くと約束した覚えはない。」
「オズコープへ行く。」
その一言で、オットーの表情が変わった。
男は続ける。
「お前の研究が残っている。取り戻したいなら、今しかない。」
オットーは数秒黙った。
施設内では、まだ銃声や破壊音が響いている。
その中に、聞き覚えのある声が混じった。
「待て!」
オットーの目が僅かに動く。
スパイダーマン。
仮面の男が背後を振り返る。
「決めろ。」
オットーは一瞬だけ迷った。
そして、破壊された独房の外へ足を踏み出した。
一方、州立刑務所では、クレイヴンの部下たちが外周を制圧しながら内部へ侵入していた。
銃撃と爆発が続く中を、クレイヴンだけは急ぐ様子もなく、自分の足で進んでいく。
正門付近で複数の警備員が立ちはだかった。
最初の一人が警棒を振るう。
クレイヴンはその腕ごと掴み、強く引き寄せて肘を打ち込んだ。
男が崩れるより早く、隣から盾を構えた警備員が突進してくる。
クレイヴンは正面から盾を蹴った。
警備員の身体ごと後方へ弾き飛ばす。
さらに三人目を掴み、近くの壁へ投げつけた。
圧倒的な力だった。
それでも、動きに余計なものはない。
敵を倒すために必要な動作だけを選び、次へ進んでいる。
その時、監視塔からライフルが向けられた。
クレイヴンはまだ発砲される前に横へ動いた。
弾丸が、先ほどまで立っていた地面へ着弾する。
クレイヴンは上を見た。
狙撃手の位置を確認する。
腰に下げていた短い槍を抜くと、迷わず投げた。
槍は狙撃手そのものではなく、監視塔の壁へ深く突き刺さる。
突然の衝撃に狙撃手が怯んだ。
その隙に、クレイヴンの部下が塔を制圧する。
クレイヴンはその結果すら確認せず、刑務所内部へ進んでいった。
独房にいたトゥームズには、外で何が起きているのかまでは分からなかった。
ただ、爆発と銃声、警報、そして囚人たちの叫び声が絶えず聞こえている。
やがて、廊下の奥から数人の警備員がまとめて吹き飛ばされた。
その向こうから、大柄な男が一人歩いてくる。
トゥームズは鉄格子越しにその姿を見た。
「……あんたが迎えか。」
クレイヴンが独房の前で足を止める。
「エイドリアン・トゥームズだな。」
「ああ、そうだ。……しかし、随分派手な迎えだな。」
クレイヴンは返事の代わりに鉄格子を掴んだ。
力を込める。
太い金属が音を立てて歪み始めた。
トゥームズの表情が変わる。
「おいおい。」
クレイヴンはそのまま左右へ引き広げ、人間が一人通れる程度の隙間を作った。
トゥームズは曲がった鉄格子を見る。
それから、クレイヴンを見る。
「……冗談じゃなさそうだ。」
クレイヴンは格子から手を離した。
「来い。」
トゥームズが独房の外へ出る。
「断ったら?」
「置いていく。」
トゥームズは少し笑った。
「分かりやすくて助かる。」
二人はそのまま廊下を進んだ。
レイブンクロフトの屋上では、黒いヘリコプターがすでに離陸の準備を終えていた。
ローターが高速で回転し、周囲ではデーモンたちが警戒に当たっている。
仮面の男とオットーが機内へ乗り込もうとした時、一発のウェブがヘリのドアへ張りついた。
「待て!」
スパイダーマンが屋上へ着地した。
オットーが振り返る。
二人の視線が合った。
スパイダーマンは、今にもヘリへ乗ろうとしているオットーを見る。
「何してるんだ。あいつらが何者かも分からないだろ。」
オットーはすぐには答えなかった。
「ピー――」
言いかけて止める。
周囲にはデーモンたちがいる。
オットーは言い直した。
「スパイダーマン。私は確認しなければならないことがある。」
「それで脱走するの?」
「私は逃げたいわけではない。」
「今やってること、どう見ても脱走だけど?」
二人が話している間に、仮面の男が前へ出た。
スパイダーマンの視線がそちらへ移る。
「君は後でちゃんと名前考えるから。」
構え直す。
「まずオットーを返してもらう。」
仮面の男の両手へ、黒紫色の力が集まり始めた。
スパイダーセンスが強く反応する。
「まず――」
言い終わる前に衝撃が来た。
スパイダーマンの身体が屋上を横切るように吹き飛ばされる。
縁から落ちそうになったところで咄嗟にウェブを撃ち、建物の側面へ張りついた。
仮面の男はその隙にヘリへ乗り込む。
オットーも後へ続く。
スパイダーマンは屋上へ身体を引き上げた。
「オットー!」
オットーが最後に振り返る。
何かを言おうとしたように見えた。
だが、その前にヘリの扉が閉まった。
機体が浮上する。
スパイダーマンはすぐにウェブを撃ち、ヘリの機体へ張りつけた。
「逃がすか!」
ウェブを伝って追いつこうとした瞬間、窓越しに仮面の男がこちらへ手を向ける。
スパイダーセンスが警告した。
スパイダーマンは咄嗟にウェブを離した。
直後、黒紫色の衝撃が空中を走る。
身体を吹き飛ばされながら、別の建物へウェブを撃つ。
どうにか糸が張り、落下を免れた。
そのまま近くの屋上へ着地する。
ヘリはすでに遠ざかり始めていた。
スパイダーマンは拳を握った。
「くそっ……。」
州立刑務所からも、一機の戦闘ヘリが上昇していた。
機内にはクレイヴンとトゥームズ、それに複数の部下が乗っている。
その後方から、警察ヘリが追跡していた。
無線から警告が飛んでくる。
『所属不明機、直ちに着陸しろ。繰り返す――』
トゥームズが後方を見る。
「ついて来てるぞ。」
クレイヴンは興味なさそうに答えた。
「分かっている。」
「どうする。」
クレイヴンは操縦席の部下へ視線を向けた。
「落とせ。」
トゥームズが一瞬黙った。
「……本気か?」
クレイヴンは答えなかった。
戦闘ヘリの側面へ備えられた機銃が旋回し、追跡してくる警察ヘリへ照準を合わせる。
発砲。
連続して放たれた弾丸が、ローター周辺へ命中した。
機体から煙が噴き出し、警察ヘリが大きく傾く。
クレイヴンはその様子を見ていた。
「もういい。」
射撃が止まる。
警察ヘリは爆発こそしていないものの、追跡を続けられる状態ではなく、高度を下げながら離脱していく。
追えなくなれば、それで十分だった。
クレイヴンたちのヘリは進路を変え、高度を落とす。
森林の方向へ低空で飛び続け、数分後には追跡側の視界から完全に消えていった。
レイブンクロフトの屋上。
スパイダーマンのスマートフォンが鳴った。
ヒルだった。
「逃げられた。」
『こっちもだ。』
スパイダーマンの様子が変わる。
「州立刑務所?」
『トゥームズが消えた。戦闘ヘリまで使ってる。追跡した警察機も一機やられた。』
スパイダーマンは遠くの空を見る。
「こっちはオットー。デーモンが連れ出した。それと、前に戦った連中とは明らかに違う奴がいた。」
『どんな。』
「同じ力を使ってる。でも出力が全然違う。僕が対策したやり方も、ほとんど通じなかった。」
少し考える。
「あのデーモンたちが使ってる力、僕は仮にネガティブパワーって呼んでる。」
電話の向こうでヒルが少し間を置く。
『勝手に名前つけたのか。』
「名前ないと不便なんだよ。」
『で、その強い奴は。』
スパイダーマンは一瞬だけ躊躇した。
「……ミスター・ネガティブ。」
今度は、はっきりした沈黙が返ってきた。
『何だそれ。』
「さっき思いついた。」
『安直だな。』
「僕もそう思う。」
ヒルがため息をつく。
『分かった。とりあえず現場ではその呼称で回す。後で正式な身元が出たら直す。』
スパイダーマンは少し笑った。
「本当に使うの?」
『他に呼びようがない。』
「……そっか。」
だが、ヒルの声はすぐに真面目なものへ戻った。
『それより、分かってると思うが偶然じゃない。レイブンクロフトと州立刑務所。ほぼ同時刻。別々の武装集団。狙われたのはオットー・オクタビアスとエイドリアン・トゥームズだ。』
スパイダーマンの表情から笑いが消える。
「誰かが同時に動かした。」
『そうだ。』
「でも、何のために。」
『分からん。』
「二人に共通点は?」
『犯罪者。』
「それだけじゃ弱い。」
『分かってる。』
スパイダーマンは黙って考えた。
オットー。
トゥームズ。
デーモン。
ミスター・ネガティブ。
戦闘ヘリを運用できる別の武装集団。
そして、オズコープの通常記録から消えた研究や設備。
それぞれの存在は見えている。
だが、まだ一本には繋がらない。
スパイダーマンは遠くの空を見たまま、静かに言った。
「何か始まってる。」
電話の向こうで、ヒルも声を落とした。
『ああ。問題は、何が始まったのか分からんことだ。』
答えは出なかった。
ただ一つ、はっきりしていることがある。
二つの脱走は、偶然ではなかった。