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1939年10月、軍港
あの時、穴拭智子が明野基地の執務室で味わったのはこれ以上無い屈辱と、それ以上の困惑だった。
隣の武子が最前線のカールスラント行きを命じられる傍ら、自分は後方国家だったのだ。しかも、それを聞いた武子は眉一つ変えずにさも当然の如く受け入れたのだ。
自分の格闘戦術と、武子の指揮力。私たち2人なら欧州中に爪痕を残せたというのに、自分らしくないみみっちい未練で心が支配されてしまう。
その辞令は、私のプライドを本当に土足で踏みにじるものだった。
『加藤武子少尉、カールスラント方面への派遣を命ず』
『穴拭智子少尉、スオムス義勇独立飛行中隊への出向を命ず』
耳を疑った。
武子は欧州の最前線、ウィッチの本懐とも言える激戦地へ。
そして私は……スオムス? 北欧の果て? 地図の端にあるような、雪と氷しかない田舎へ行けと言うの?
「説明してください! なぜ私が! 戦果なら誰にも負けていないはずです!」
上官に詰め寄っても、返ってくるのは「決定事項だ」という無機質な言葉だけ。
武子は……あの後、スオムスに送られるのを受け入れろとだけ冷たく切り捨てた。
それに私は癇癪を起こした。
「貴方、安心したんでしょ! 私がいたらスコアも分け前だものね!」
と八つ当たりをした。
武子は驚くこともせず、自分がスオムスに送られるのは当たり前だという態度を変えることは無かった。
「……武子のばか、どうしてよ……」
呟いた声は、誰にも聞かれず虚しく吸い込まれていくだけだった。
拳を握りしめる。爪が掌に食い込むほど強く。悔しさと惨めさがない交ぜになって、喉の奥から込み上げてくる。
それでも――泣くもんですか、と私は思った。
こんなところで泣いたら、本当に「たいしたことのないウィッチ」だと認めることになる。扶桑海の巴御前は、辞令一枚で崩れ落ちるような女じゃない。
行ってやろうじゃない。スオムスだろうがどこだろうが、ネウロイがいるなら墜としてやる。そうやって、いつか武子に「あの時、智子の辞令に異議を唱えなかったのは間違っていた」と言わせてやる。
そう決めた瞬間から、私の中では出発までの日々がやけに早く過ぎていった。
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数日後。横須賀港。
海軍鎮守府の埠頭に白く塗り替えられた元客船が横付けされていた。
船体の模様は塗りつぶされ、代わりに無骨な識別標識が描かれている。
徴用された豪華客船はもう誰かの休暇のためのものではなく、私たち派遣要員を欧州とスオムスへ運ぶためだけの箱になっていた。
埠頭には見送りの軍人が整列し、正面には軍の高官と政府のお偉方。
軍楽隊まで並ぶ物々しさに、第二次ネウロイ大戦と呼ばれているこの情勢下で扶桑にとって初めての海外派遣という重みを、いやでも実感させられる。
訓辞の列には、詠宮龍子内親王まで並んでいた。日頃は人前にほとんど姿を見せないという皇女が臨席したことに、周囲がざわついている。
けれど私の目は、自然と別のところに吸い寄せられていた。
出発式の中央、報道陣のカメラが一斉に向けられている場所。そこに立っているのは、当然のように武子だった。
「主演女優の皆様は、なんとも羨ましいことで……」
自嘲が口をついて出る。ここ数日の新聞は「欧州列国に扶桑陸海軍の戦嬢派遣さる」の見出しと共に武子の写真ばかりを載せていた。三面の隅に小さく「北欧スオムスにも派遣」とあるだけで、写真などない。
舞台の主役はカールスラント。スオムスは舞台袖どころか、まるきり別の建物だ。
見送りに来た候補生たちも、武子の周りできゃあきゃあ歓声を上げている。ついこの間まで自分に向けられていた声だというのに、現金なものだと思う。
「私は取るに足らない三流女優ってわけね……」
咳くように呟いたその時、背後から弾んだ声がした。
「うわあ!もしかして!」
振り返ると、水兵帽を被った、私よりずっと背の低い少女が立っていた。十三、四といったところだろうか。切りそろえられた前髪の下で、瞳が期待に潤んでいる。
「穴拭智子少尉ですか!?」
「そうだけど」
「やっぱり! 陸軍の穴拭智子少尉! 扶桑海の巴御前ですね!」
「ちょっと恥ずかしい渾名なんだけどね」
「感激です! 『扶桑海の閃光』観ました! あれでウィッチになろうって決めたんです!」
陸軍が全面協力した、あの娯楽映画のことだ。あれのせいで私は「扶桑海の巴御前」などという、面はゆい渾名を背負うことになった。
「扶桑海軍横須賀航空隊所属、迫水ハルカ一等飛行兵曹です!」
慌てて敬礼する少女に、私は適当に答礼を返す。ハルカと名乗った少女は、まだ興奮冷めやらぬ様子で続けた。
「智子少尉はカールスラント派遣なんですか!」
痛いところを突かれ、一瞬言葉に詰まる。
「あー……いや、そうじゃないのよ」
「え? じゃあ……」
「私、スオムス派遣なの」
正直に言うしかなかった。誤魔化す言い訳も、取り繕う元気も、もう残っていなかったから。
ハルカは目を丸くした後、みるみる顔を輝かせた。
「じゃあ、じゃあ私と一緒じゃないですか! 私もスオムスなんです! みんなに志願をやめとけって止められたんですけど……」
「あなたも?」
「はい! 横須賀航空隊で一番の落ちこぼれなので、カールスラントは無理だろうって……。でも、憧れの智子お姉様とご一緒できるなら、こんな幸せなことありません!」
「お姉様?」
「海軍の飛行学校では、みんな智子少尉のことをそう呼んでるんです。私が流行らせました!」
なんだそれはと思ったが、相手はどこまでも大真面目だった。両手を胸の前で合わせ、瞳を輝かせながら詰め寄ってくる。
「智子お姉様、抱きついてもいいですか?」
「は?」
「リベリオンとか、外国の人って仲良くなったら抱き合いますよね、映画で見ました!」
「私たちには関係ないでしょう……」
「抱きついてもいいですか?いいですよね?」
純粋すぎる勢いに、むしろこちらがたじろぐ。
「あー……それは、その、今度でいいわよね。まだスオムスにも着いてないんだし」
「じゃあ着いたら抱きつきます!」
「……そのときにまた話し合いましょう」
なんとか誤魔化すと、ハルカは満面の笑みのまま敬礼した。
「迫水ハルカ一等飛行兵曹、どこまでも智子少尉殿についていく所存です! では失礼します!」
回れ右をして駆けていったかと思うと、ハッチの向こうから「ひゃああああ!」という悲鳴とともに、なにかが転がり落ちる音が響いた。
智子は助けに行くのも忘れて啞然とした。どうやら足を滑らせたらしい。今日の波は穏やかで船はほとんど揺れていない。なのにラッタルを落ちるとは相当そそっかしい。あれでも海軍なのだろうか。
そこまで考えてまた気持ちが澱んできた。つまり、海軍からはどうでもいいウィッチがスオムスに派造されるということである。
智子もハルカと同レベルであると判断されたのだ。
あんな落ちこぼれでしきりに身体を触りたがる性犯罪者一歩手前の娘と一緒にされるなんて。
智子はがくりとするが、こんなことでくじけるものか。
こちとら映画の宣伝文句とは言え、扶桑海の巴御前だ。ネウロイを次々に撃ち落としたエースなのである。
「よお智子、しけてんな」
そんななけなしの意地を張っていた智子の後ろから、浦塩で、大陸で、そしてあの挺身作戦で、事変の約1年間で聞き続けた声が鼓膜に久方ぶりに届いた。
『中川尚樹』
久しぶりに見る顔。大陸で一緒に戦ってた頃から元々無駄にどうしてか背丈に恵まれていたが、そこからさらに少し背が伸びたような、憎たらしい雰囲気を持ちながら相変わらず何を考えているか分からない顔。
「は、はあ!?あんた、なんで…」
「目的地が一緒だからなあ、さっきウチの新兵が寝っ転がりながらうわ言で嬉しそうな顔で行き先と「お姉様」について語ってたぞ」
数ヶ月ぶりに会ったというのに舌が回るそいつの話などろくに入ってこず、振り返って視界に収めたその姿に思考が停止し、次いで背筋に冷たいものが走った。
「あんたまでスオムスになんか……!」
こいつも?
「そう言うなよ、というかそれはお前の相手をするのが確定した俺のセリフだ」
あの「ランスロット」を駆り、事変を陰で支えたこいつも、私と同じ場所へ飛ばされるというの?
私が飛ばされたのも微塵も納得していないが、どうしてコイツまで、笑える。笑えない。
混乱と、驚愕と、パラノイア。
そして、絶対に彼には気付かせてはならない、胸の奥底から込み上げてくる強烈な「安堵感」
独りぼっちで左遷されると思っていた暗闇の中に、突然、無遠慮に土足で踏み込んできたこの男の存在に、智子は足の震えが止まるのを感じていた。
だが、それを認めるわけにはいかない。絶対に。