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出港からしばらく。
扶桑を出た輸送船は南へ下り、シンガポールを越え、印度洋、紅海、地中海と、延々五週間近くをかけてガリアのブレストへ向かう。
長い、とにかく長い航路だった。
一週目は誰もが物珍しさに甲板へ出ていた。二週目には見飽きた。三週目に入るころには、海というものは要するに水であり、水というものは要するに何も起こらないという当たり前の事実を、乗員全員が骨の髄まで理解していた。
「暇」
「『暇』じゃないが」
「あんたちょっと飛び込みなさいよ、この景色に変化をつけなさい」
「お先にどうぞ」
出航翌日――つるむ相手も居ないので尚樹に構ってやってるという建付けでくだらない話をしていたら、当然とばかりに智子の隣を確保しに来たハルカが愕然としながら突撃してきた。
「……だ、誰ですか、この人」
手すりの前に立ちはだかるようにして、ハルカは尚樹を指さす。指を差すな、と智子は思ったが、指摘するのも面倒だった。
「中川尚樹。アンタと同じ海軍よ」
「中川少尉だ。よろしく、智子のファンガールのお嬢さん」
「なにがファンガールよ、まったく」
「間違ってはないだろ、『智子お姉様』♪」
「……それ次言ったら身長縮めてやるからね」
眼の前で憧れのムービースターが見知らぬ高身長男子と絡みだした光景に、ハルカは発火してヒートアップした。
「智子少尉を名前で! 名前で呼んでるんですか!? 気安すぎませんか!? 武子お姉様とか圭子お姉様なら分かります、あれは公式です! 公認です! でも何処の馬の骨とも知らぬ男の人がそんな馴れ馴れしく智子お姉様の隣に立つのは、その、既得権益の侵害というか、いえもっと言えば風紀の――」
「風紀ってなによ」
「甲板で! 二人で! 誰もいないところで! 五週間も同じ船で! これはもう物語では既定路線ですよ! 私は映画で何度も見ました!」
智子はこめかみを押さえた。
尚樹の事を「認めてる」や「頼れる」「居てくれて良かった」など、態度に出す気も無ければ、言ってしまえば向こう五十年からかわれるであろうことを知っているからこそ、口が裂けても言わない。
だがそれとは別の話として、こんな会って二日目で尚樹がどんな人間なのかまるで知らないド素人の娘っ子に、グチグチと「関係性」をゴシップ記者のように妄想されるのも我慢ならない。
「あのねハルカ」
智子はきっぱりと言った。
「こいつはただの腐れ縁よ。事変で同じ空を飛んだだけの、口の減らない後輩。それ以上でもそれ以下でもないわ。分かった?」
明快で、簡潔で、一分の隙もない訂正だったと思う。
思ったのだが。
「……そうだな。ただの腐れ縁だ」
尚樹は殊勝な顔でうなずいた。うなずいてから、余計なことを付け足した。
「コーヒー淹れてやってた程度の、な」
「はっ!?」
「あと、飯作ってやってたのと章香さんの療養に付いてる間も文句の手紙が毎月届いてたのと」
「くだらんラジオの話題に使われたこともあったな」
「ちょっと待て」
「腐れ縁だよ、うん」
「待てって言ってるでしょ!」
ハルカの顔から色が消えた。次いで赤くなった。次いで青くなり、最後には両手で口を押さえて震えだした。
「まいにち……コーヒー……!?」
「淹れさせてただけよ! 私が淹れさせてたの! 上官命令に近いものよ、それは!」
「上官命令で夜中に部屋に呼ぶんですか!?」
「呼んでないわよ! なんで部屋になるのよ!」
「毎月の手紙……!」
「文句よ! 文句を書き送ってただけ!」
「毎月書くほど文句があるんですか!?」
痛いところを突かれた。
智子が言葉を探している間に、尚樹は手すりに肘を置いて、実に楽しそうに水平線を眺めている。この男は昔からそうだ。火をつけるだけつけて、燃え上がったところを他人事の顔で見物する。
「尚樹」
「なんだ」
「あんた、やっぱり飛び込みなさい」
「お先にどうぞ」
海はどこまでも凪いでいて、ブレストはまだ、遥かに遠かった。
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一週間ほど経ってから、ハルカの様子が変わった。
具体的には、朝の甲板に智子が出ていくと、既にハルカがいた。
「おはようございます智子お姉様!」
「……早いわね」
「はい! 中川少尉より早く起きました!」
なんの勝負なのだそれは、と智子は思った。
だがハルカは大真面目だった。
前髪を汗で額に張りつかせながら、彼女は甲板の端から端まで走っている。輸送船の甲板など大したものではないが、それでも延々往復すればそれなりの距離になる。
「なにしてるのよ」
「体力です!」
息を切らせながらハルカは答えた。
「あの人、私より一つ上ですけど、あんな大きくて、しかも魔力なしで前線に立ってたって聞きました。……それってつまり、全部『鍛えた』ってことじゃないですか」
「そりゃそうでしょうね」
「だったら私も鍛えれば、追いつけるはずなんです!」
智子は少し面食らった。
昨日まで「馬の骨」「既得権益の侵害」と騒いでいた娘の口から出てきたのは、意外にも真っ当な理屈だった。
もっとも、動機の方はまるで真っ当ではなかった。
「あの人が智子お姉様の隣にいるのは、あの人が『役に立つ人』だからです。私は今、役に立たない娘です。だから隣に立つ資格がありません。……でも、追いつけば資格が出ます!」
「そういう理屈じゃないと思うけど」
「そういう理屈です!」
言い切って、ハルカはまた走り出した。三歩でロープに足を引っかけて転んだ。
その日の午後、ハルカは航法の教本を抱えて食堂に籠もった。夕方には計算尺を握ってうなり声を上げていた。夜には尚樹に頭を下げて、航法の初歩を教わっていた。
「なんで俺に聞くんだ」
「智子お姉様に聞いたら、あの人格闘戦の人なので……」
「悪かったわね」
隣で口を挟んだ智子を、ハルカは慌てて振り返った。
「あっ、いえ、そういう意味では! 智子お姉様は空の芸術家なので、計算とか、そういう地上的なものとは無縁の高みに――」
「褒めてるのか馬鹿にしてるのか分からないわね」
尚樹は笑いながら、食堂のテーブルに紙を広げた。
「まあ、そんなに難しい話じゃない。船で言えば同じことだ。今どこにいるかを、どうやって知るか」
「はい」
「風で流される。海流で流される。だから『まっすぐ飛んだつもり』は必ずずれる。ずれる前提で、どれだけずれたかを勘定に入れる」
「……はい」
「ハルカ、お前は方位磁針を信じすぎだ。海の上で、目印がないところで、磁針だけ見て飛ぶな。時計を見ろ。何分飛んだか。それと速度。掛けたら距離が出る。距離が出れば、地図の上に線が引ける」
真剣に聞き入るハルカの横顔を、智子は少し離れたところから眺めていた。
――こいつは、こういう時ばかりまともなのだ。
智子は思う。相手が本当に困っているとき、あるいは本当に伸びようとしているとき、この男は途端に生意気さを引っ込めて、丁寧になる。武子に対しては後輩の顔をして、坂本たちには戦友の顔をして、そして自分に対してだけは徹底的に喧嘩相手の顔をする。
そのくせ、こういう場面ではまるで教官のような顔をするのだから、いよいよ正体が分からない。
「中川少尉!」
ハルカが顔を上げた。
「私、絶対追いつきます!」
「そうか」
「追いついたら、智子お姉様の隣は私のものです!」
「……そこに帰結するのか」
「帰結します!」
尚樹は肩を揺らして笑い、それから紙の上に新しい線を引いた。
「じゃあ、明日の朝までにこれ解いてこい。解けたら次を教える」
「はい!」
ハルカは紙を抱えて駆けていき、食堂の敷居に足を引っかけて派手に転んだ。
「……あれ、大丈夫かしら」
「大丈夫だろ。もう三回目だ」
「あんた数えてたの」
「数えるさ」
尚樹はコーヒーを傾けながら言った。
「なあ智子。あの娘、成績が下から一番だって自分で言ってたぞ」
「聞いたわ」
「下から一番のやつが、二日でここまで来た」
「……」
「才能ってのは、案外そういうところに転がってるもんだ」
智子は答えなかった。
答えなかったが、翌朝、まだ暗い甲板に出てみると、既にハルカが走っていた。
そのさらに向こう側で、尚樹が黙々と身体を動かしていた。
追いつかれる側も、追いつかれるつもりはないらしい。
智子は舌打ちをひとつして、それから自分も甲板に降りた。
「なにしてるのよ、二人とも」
「智子お姉様!」
「よお。お前も走るか」
「……走るわよ。悪い?」
こうしてブレストまでの長い航海は、暇を持て余す旅から、やたら朝の早い旅へと変わっていった。
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