閑話「タール」
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そのことに気がついたのは、黒いネウロイが墜ちてから、さらに数日が経った後だった。
きっかけは些細なものだ。基地の裏手で一本吸い終え、二本目に火を点けようとして、ふと指の間の紙巻きを眺めた。
――そういえば。
あの湖畔の夜。
私は、こいつを、あの小僧の口に押し込んだ。
新しい一本を出したのではない。自分が咥えていたものを、そのまま。
「…………」
ビューリングの動きが止まった。
マッチを擦る手が、数センチのところで固まった。
数日前の自分は、老婆心と、それまで散々サボり倒していた埋め合わせと、らしくもない必死さとで、頭の中が一杯だった。智子を死なせない。そのために、あの男に自分の顔を見せておく必要がある。そんなことばかり考えていた。
だから、気づかなかった。
「…………ああ、そうか」
彼女は雪の上でしばらく立ち尽くし、それから、実に苦々しい顔で煙を吐いた。
――間接じゃないか。
十八にもなって、である。
軍規違反八十二回、始末書百六十二枚、営倉五十五回、軍法会議八回の身にあるまじき動揺だ。銃殺刑になりかけても眉一つ動かさなかった女が、たかが紙巻き一本で。
しばらく悩んだ。
悩んで、悩んで、そして。
「――もう、成るように成れだ」
翌日から、彼女はあの小僧にタバコを仕込み始めた。
「吸え」
「断る」
「吸え」
「前に死ぬほどむせただろ」
「だから練習だ」
「なんの練習だ」
「大人の練習だ」
「まだ十五だ」
「知ってる」
そういう押し問答を、格納庫の裏で、宿舎の軒下で、飛行前の待機時間に、何度も繰り返した。
年下のウィッチに関わることなら、これまでもあった。年長者としてどうこう導いてやるほど殊勝ではないが、面倒を見る立場に立たされることは、それなりの頻度であった。
だが、男は。
というより、小僧と言っていい歳の男子は、初めてだった。
長年くすぶらせていた色々な欲求や感情が、そこで妙な形の芽を出してしまっている。彼女はそれを、自分でもうんざりするほど自覚していた。
そして毎回、律儀に自己弁護を並べた。
――仕方がないだろう。
――あんな態度を取られたら。
いらん子中隊の日常においては、あの男が誰かに懐かれていることなど、もはや風景の一部である。オヘアは腕に抱きつくし、ウルスラはノートを持って追いかけるし、エルマは名前を呼ばれるたびに背筋を伸ばすし、ハルカは全力で警戒しては全力で航法を教わっている。
そして唯一の例外である智子だけが、始終喧嘩腰でいる。
だから周囲は勘違いする。あの男は智子にだけ特別に構っているのだ、と。
違う。
尚樹は、年功序列を割ときっちり守る人間だ。
軍規を紙屑としか思っていないド不良のビューリングに対してすら、彼はきちんと年下として振る舞う。呼び方も、口調も、距離の取り方も、階級ではなく歳の順で置いている。だからこそ厄介なのだ。
淡白になることは殆どない。ぶっきらぼうさは薄く、言って欲しい言葉を的確に選び、心地よい態度を作るのがうまい。人懐っこく、そして――可愛がられることに、慣れている。
それは、ある意味で魔法だった。
魔力を持たない人間が使う、たちの悪い魔法だ。
心の中に、するすると入ってくる。誰の心にも、同じやり方で、同じだけ丁寧に。
「――おい」
その日、ビューリングは短くなったタバコを雪に落とし、踏み消した。
「今日から、私のことは名前で呼べ」
尚樹が顔を上げた。
「エリザベス?」
「フレデリカだ」
「なんで真ん中……」
「その方が、他の誰も使っていないからだ」
尚樹は少しだけ黙り、小さく息を吐いた。
「……分かった。フレデリカ」
「よし」
ビューリングは満足そうにうなずいた。
満足そうにうなずいて、それから、内心で盛大に舌打ちをした。
――ほら見ろ。
即答しない。少し黙って、こちらの顔をきちんと見て、それから呼ぶ。
そういうところだ。そういう間の取り方をされると、こちらは勝手に「聞き入れてもらえた」と思い込む。押し切ったのはこちらのはずなのに、譲られたような気がしてしまう。
魔法だ。やはり魔法だ。
「……フレデリカ」
「なんだ」
「タバコはやめとく」
「なぜだ」
「智子に見つかったら、お前が斬られる」
「……ふん」
彼女は新しい一本を咥え、火を点けた。
「あの小娘に斬られるくらいなら、安いものだ」
「安くないだろ」
「安いさ」
紫煙が、スオムスの白い空へ吸い込まれていく。
格納庫の方から、誰かが「ナオキー!」と呼ぶ声がした。オヘアだ。続いてハルカの制止する声と、智子の怒鳴り声が重なる。
尚樹は「呼ばれた」とだけ言って、雪を踏んで歩いていった。
その背中を見送りながら、ビューリングは煙を吐き、誰にともなく呟いた。
「……そうだな。仕方がない」
何度目かも分からない自己弁護だった。
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