---
エルマ・レイヴォネンは、自分が中隊長であることを、いまだに一日一回は忘れる。
正確には、忘れたい。
なので誰かに「中隊長殿」と呼ばれるたびに、背筋が伸びると同時に、胃のあたりがきゅっと縮む。この二つの反応が同時に起こる人体構造について、彼女はいつか誰かに説明してほしいと思っている。
そんな彼女が、ここ直近で最も頻繁に助けられた相手は、隊で唯一の男性隊員であった。
これは事実として認めるほかない。
書類の様式が分からなければ教えてくれる。整備や補給の間に入る。ファロットが咳き込めば予熱を教える。夜中に司令部への報告書を書いていれば、翌朝コーヒーが出てくる。
そして、必ず「中隊長」と呼ぶ。
彼は階級と役職に則って、きちんと立ててくれていた。
だから最初のうち、エルマは彼のことを「非常に礼儀正しい部下」として認識していた。
だが。
「ハルカ、前」
「はいっ!」
「ウルスラ、三度目だ」
「二度目です」
「フレデリカ、やめろって言っただろ」
「呼び方は覚えたな」
「智子、蹴るな」
「蹴ったら直ることもあるでしょ」
「ない」
——あれ、と思った。
役職と階級を取り払ったところの彼は、まったく別種の生き物だった。
気さくで、口が回り、相手によって語調を器用に変える。断り方すら柔らかい。誰にでも同じ距離で入り込んできて、しかも入り込まれた側は、入り込まれたことに気づかない。
たぶん、と、エルマは思った。
たぶんこの人は、これまで生きてきた中で、随分たくさんの勘違いと本気を、あちこちに作ってきたのだろう。
しかも、自覚が薄い。いや、自覚はあるのかもしれないが、あるうえで止められないのだ。それはもう性質というより体質に近い。
——罪深い男の子だ。
そう結論づけて、エルマは自分の思考に驚いた。
男の子。と思ったのである。
「少尉」でも「男性」でもなく。
そして気づいてしまった。
彼と自分は、同い年だ。
---
十五歳。
多感で敏感な時期であるが、ウィッチにとっては、そんなことは関係ない。魔力のピークが来る年齢であり、飛べる年齢であり、飛ばされる年齢である。成長の階段を、休むことを許されないまま登り続けている最中の年齢。
エルマにとって十五歳とは、そういう意味しか持っていなかった。
湖で鴨を撃って、家族の冬を越し、飛行学校に入った十五歳までの人生。
ボロのファロットを押しつけられ、誰もいない中隊に一人で放り込まれ、そして中隊長にされた。
十五歳になってから、彼女は一度も「十五歳らしいこと」を考えたことがない。
考える暇がなかった、というのが正しい。
だから、これは油断である。
---
その日は、報告書がなかなか終わらなかった。
黒いネウロイ撃墜に関する詳報である。スオムス空軍司令部に上げるもので、書式が厳密で、しかも項目が多い。交戦経緯、使用兵器、消費弾薬、損害、そして所見。
所見の欄で、エルマの手は止まった。
——なんて書けばいいんだろう。
「全員でシールドを張って突っ込みました」では駄目だろう。「ハルカさんが眼鏡をかけたら当たりました」も駄目だろう。「穴拭少尉が刀で斬りました」は事実だが、司令部の誰かに信じてもらえる気がしない。
ランプの油が減っていく。
ストーブの薪も、そろそろ足りない。
「……はぁ」
「まだやってたのか」
顔を上げると、扉のところに彼が立っていた。
「あっ、中川少尉。すみません、うるさかったですか」
「いや。明かりが漏れてたから」
彼は室内に入ってきて、まず薪をストーブに二本くべた。それから机の上を覗き込んだ。
「所見か」
「はい……。あの、なんて書けばいいのか分からなくて」
「書式通りでいい。『複数機による密集編隊を組成し、シールドを重畳展開のうえ接近。ロケット弾により外殻を破砕、コアを直接攻撃して撃破』」
「……はやい」
「読み手が知りたいのはそこだけだ。眼鏡の件は書かない方が多分いい。書いたら本人が泣く」
「そ、そうですね」
エルマは慌ててペンを走らせた。
しばらく、ペン先の音とストーブの音だけがした。
書き終えて、彼女は大きく息を吐いた。
「……ありがとうございます。助かりました」
「いや」
「あの、私、いつも助けてもらってばかりで」
「そんなことはない」
「そんなことあります」
エルマは俯いた。
「私、中隊長なのに。皆さんに命令する立場なのに。書類も分からないし、訓練の指導もアホネンさんに聞きに行ってばっかりで、飛べば真っ先に逃げ出すし……」
言いながら、声が少し湿った。
言うつもりのなかったことだった。だが夜と、ストーブと、報告書の疲労が、蓋を緩めていた。
「ほんとは、誰か他の人が中隊長をやるべきだったんです。私じゃなくて。私は、ただ、余ってただけで」
「エルマ」
顔を上げた。
彼は、へらりと笑っていた。
三枚目の、あの、いつもの顔で。
「これ、なんて書くか分からないって言えるのは、隊長だけだぞ」
「……え」
「他の連中は書かなくていいんだ。書くのはお前だけだ。だから、分からないと言う権利もお前にしかない」
「……」
「それを言えるやつが隊長やってんのは、いいことだ」
エルマは、しばらく黙っていた。
それから、ようやく気づいた。
いま、名前で呼ばれた。
「中隊長」でも「レイヴォネン中尉」でもなく。
——エルマ、と。
胸の内側で、何かが小さく音を立てた。
ちょうど、いま彼がくべた薪が、ストーブの中でぱちんと爆ぜたのと同じ音だった。
冷え切っていた部屋の空気が、ゆっくりと動き出して、指の先まで熱が回っていくような。
そういう感覚だった。
「……」
「エルマ?」
「あっ、はいっ!」
「顔、赤いぞ。ストーブ近すぎだ」
「そ、そうですね! 近いです! 近すぎます!」
彼女は椅子ごと三十センチほど後ろに下がった。
尚樹は特に気にした様子もなく、空になったカップを拾い、「早く寝ろよ」と言って部屋を出ていった。
扉が閉まる。
エルマは一人になった部屋で、しばらく机に突っ伏していた。
襟の中から、ミンクがもぞもぞと顔を出して、主人の頬に鼻先を寄せる。
「…………ミンクちゃん」
「きゅう」
「私、たぶん、いま」
彼女は自分の頬を両手で押さえた。
「たぶん、十五歳をやってました」
ミンクは何も答えず、主人の首筋を一度だけ舐めた。
---
翌朝、エルマは普段通り、少しおどおどした中隊長として滑走路に立った。
普段通り、号令をかけ、普段通り、噛んだ。
ただ一つだけ違ったのは、報告書の一番下の署名欄を、彼女がいつもより丁寧に書いたことだった。
義勇独立飛行中隊 中隊長 エルマ・レイヴォネン中尉
書いてから、少しだけ嬉しくなって、その字をしばらく眺めていた。
---