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「ハルカ、じっとしてろ」
「ううー」
「動くと引っかかる」
「引っかかってるのは私の心です」
「それは自分でどうにかしてくれ」
宿舎の廊下、ストーブの前。ハルカは床に座らされ、後ろから髪を梳かれていた。
原因は本人にある。訓練後、汗をかいたまま眼鏡と飛行帽をまとめて外そうとして、髪をぐしゃぐしゃに絡めたのだ。しかも自分でほどこうとして、事態を悪化させた。
そこへ通りかかったのが、この男である。
「智子少尉にやってもらいたかったです」
「あいつは今、司令部だ」
「ビューリングさんでも」
「アレは絶対切るぞ」
「……たしかに」
櫛の歯が、ゆっくりと通っていく。慣れた手つきだった。
——なんで慣れてるんですか。
そう聞きかけて、ハルカは口をつぐんだ。
聞かなくても分かる。この人は、どこかで誰かにこれをやってきたのだ。何度も。
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アホネン大尉の「毛虫」発言を、ハルカはよく覚えている。
面と向かって言うには、あれはさすがに言い過ぎだった。あの時の智子の目つきは本当に怖かったし、備前長船が鞘から一分ほど出ていたのも見た。
けれど。
けれど、と、ハルカは思う。
言い過ぎなだけで、あの人だけが特別に酷かったわけではない。
横須賀の飛行学校で、自分の周りにいた女学生たちのことを思い出す。
彼女たちの世界には、主役のウィッチがいて、端役の殿方がいた。ブロマイドの中央に立つのは常にウィッチで、その周りに配置されるのは背景としての男たちだった。誰かの兄が「智子お姉様に憧れている」と言っただけで、その場が凍りついたことすらある。
——結局は、似たようなものだ。
言い方が上品なだけで、中身は変わらない。
あの人たちも、この花園に一本の薔薇が刺さっていたら、同じように騒いだだろう。
いや、もっと悪い。
もしあの女学生たちが、このスオムスでの光景を見たら。
さらに言えば、会話の節々から垣間見える、あの二人が事変の一年間でやっていた諸々を知ったら。
夜中に手錠で繋がれただの、毎晩コーヒーを淹れさせていただの、毎月文句の手紙を送っていただの。
「発狂しますね」
「なんだ、急に」
「なんでもありません」
間違いなく発狂する。全員だ。ブロマイドを破き、扶桑人形を叩き割り、商標登録どころの騒ぎではなくなる。
そう考えると、自分はずいぶん理性を保っている方だと思う。
なにしろハルカは、この男を人として嫌いになれずにいるのだ。
そこが一番、腹立たしい。
航法を教わった。
おかげで真っ直ぐ飛べるようになった。
三日で嫌になるまでやらされた着陸のとき「前」と怒鳴られ続けて、いまは自分で前を見られるようになった。
ロケット弾の破片から庇われた。
眼鏡をかけると決め、その姿を笑わなかった一人だ。
そして今、絡んだ髪を梳いてもらっている。
「……ずるいです」
「なにがだ」
「なんでもありません」
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もっと言えば、アホネン大尉本人がすでに落ちている。
あれは落ちている。ハルカの見立てでは完全に落ちている。
謝罪の仕方があまりに真っ直ぐで、しかも去り際に赤くなっていた。あの高飛車な女王様が、自分の吐いた唾を飲み込めないと言い切ったうえで頭を下げたのだ。
その後ろの六人も同じだ。
部下なのか取り巻きなのか、あるいは囲い込まれた愛人なのか境界線が曖昧なあの六人ですら、今では滑走路ですれ違うたびに小さく会釈していく。ラウハという娘に至っては、先日わざわざ焼き菓子を持ってきた。
「毛虫」と言った当人の陣営が、二週間で全滅している。
——これが、あの人の戦い方だ。
ハルカは思う。
たぶん、事変のときも同じだったのだ。
まさか陸軍と海軍のウィッチ全員とよろしくやっていた、なんてことはないだろう。それは想像が飛躍しすぎている。さすがにない。ないと信じたい。
けれど、自分にこうしてサラリと世話を焼いたのと同じように、当たり前の顔で、全員の懐に入っていったのだろう。
でなければ、あんな距離感で話せるわけがない。
『タケさんは今はいいだろ』
あの一言だ。あの一言の中に、ハルカの知らない何年かが全部詰まっている。
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「ハルカ」
「はい」
「ここ、絡んでる。少し引っ張るぞ」
「どうぞ」
櫛が、慎重に一房をほどいていく。
ハルカは膝を抱えて、ストーブの火を見ていた。
——そして、たぶん、これなんだ。
ハルカ自身、憧れてきた側だが、意外と自分がそっち側になることにも慣れている。
というより、自分が「特別」であることは、さすがに知っている。
街の少年たちからは、少しの嫉妬と、大きな憧れ。
大人たちからは、命を賭けさせていることへの負い目。
整備や歩兵の青年たち、おじさまたちからは——文字通り、自分たちが捨て駒になってでも守る価値のある命として。
どれもが、特別視と遠慮から来るものだ。
だから誰もハルカの前で本気で怒らないし、本気で笑わない。落ちこぼれだと陰で言われても、面と向かって「下手だ」と言われたことは一度もなかった。横須賀で成績が下から一番だったときも、教官は困った顔をするだけだった。
ハルカはウィッチとなってから周囲の見方が180度変わり、囲まれてきた。
あの人だけが、それをしない。
唯一、ウィッチを「違う世界の生き物」として扱わない。
「ファンガール」と呼んだ。
「三日で嫌になるくらいやる」と言った。
「よしみだから甘くしない」と言った。
「前が見えていないのはお前が手元を見ているからだ」と言い切った。
一度も、遠慮しなかった。
一度も、守るべき尊いものとして扱わなかった。
ただの、飛べていない後輩として扱った。
「……ずるいですよ、ほんとに」
「さっきから何なんだ」
「なんでもありません!」
「そうか」
「……あの」
「なんだ」
ハルカは膝に顎を乗せたまま、火を見つめて言った。
「私、まだ下手ですよね」
「下手だな」
「即答……」
「だが、二ヶ月前より上手い」
「……はい」
「そのうち、俺より上手くなるかもしれん」
「なりません。あなた、化け物ですから」
「言うな」
櫛が最後の一房を通り抜けた。
「終わりだ」
「ありがとうございます」
ハルカは立ち上がり、髪を軽く払った。
そして、精一杯の仏頂面で振り返った。
「言っておきますけど」
「なんだ」
「私はあなたのことが嫌いです」
「知ってる」
「智子お姉様の隣は私のものです」
「そうか」
「……なんで否定しないんですか」
「否定する必要がないだろ」
「なっ……!」
ハルカは顔を面食らって真っ赤になり、廊下を走り去った。
そして案の定、曲がり角で足を滑らせ、盛大にひっくり返った。
「大丈夫か」
「大丈夫じゃないです!」
「前を見ろ」
「うるさいです!!」
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その夜、ハルカは日記を書いた。
十二月×日。
訓練、可。着陸、良。射撃、まだ駄目。
あの人に髪を梳いてもらった。悔しい。
でも上手だった。もっと悔しい。
追記。あの人は恋敵です。
追記の追記。でも、私を「ウィッチ」として扱わない唯一の人でもあります。
この二つが同じ人だというのは、たぶん、ものすごく不便なことだと思います。
書き終えて、彼女は眼鏡を外し、ランプを吹き消した。
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