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「補給の手続きが遅れていまして」
エルマは実に申し訳なさそうに紙を差し出した。
「その、油と、あと石鹸と、コーヒー豆が切れてしまって……市内で買ってこないといけないんですけど」
「行きますよ」
「あっ、ありがとうございます! それで、あの、荷物が多いので二人がかりで」
「誰と」
「……手が空いてるのが、中川少尉しかいなくて」
智子は紙を持ったまま三秒ほど停止した。
第一中隊は哨戒。ビューリングはハリケーンの整備立ち会い。オヘアとハルカは着陸訓練。ウルスラは倉庫で作るためのモノが無いので記録整理、エルマは書類。
本当に、たまたま、そうなっていた。
「……分かりました」
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ラッペーンランタの市街は、昼に歩くと印象がまるで違った。
前に来たのはパブの夜だ。あのときは自分で自分を追い詰めていて、店に着くまでの道も、湖畔の風景も、ほとんど覚えていない。覚えているのは、裏手の雪と、波の音と、ビューリングの声だけだ。
だから改めて歩くと、この町は思っていたよりずっと普通だった。
石造りの古い建物が並び、二階の窓に洗濯物が干してあり、店先で老婆が野菜を並べている。子供が三人、雪玉を投げ合って走っていった。
戦時下である。市の東ではネウロイと陸軍がやりあっている。それでも人は生活していた。
「思ったより普通ね」
「そういうもんだ」
尚樹は油の缶を二つ抱えて歩いている。智子は石鹸の包みと、豆の袋。
「浦塩もそうだったろ」
「……そうだったかしら」
「そうだった。撃たれた翌日に市場が開いてた」
言われてみればそうだった気がする。
覚えていないのは、自分がその頃、市場を見ていなかったからだ。空しか見ていなかった。
「……ねえ」
「なに」
「あんた、荷物全部持たなくていいわよ」
「重い方から持ってるだけ」
「そういうところよ」
「もっと適当に扱った方がいいか?」
「黙りなさい」
雪を踏む音が二つ。
隣を歩くのは、久しぶりだった。
空では、あの日から並んで飛んでいる。「後ろじゃなくて隣を飛びなさい」と言ったのは自分だ。だが空の上の、特に戦うために飛んでいる時のこいつは凪のようになる。喋らないし、笑わないし、ただ黙って同じ高度にいる。
地上でこうして並ぶのは、また別だった。
こいつの隣という居心地を、智子は改めて知った。
――ずるい居心地だ。
こちらが何も頑張らなくていい。歩幅が合っている。段差では先に降りて、こちらが降りるのを待っている。荷物は勝手に重い方を持っていく。
それが「こうした方がいいからやっている」のか、「こうしたかったからやっている」のか。
考えかけて、智子はやめた。
考えたら、たぶん、答えが出る。
答えが出たら、それはそれで面倒なことになる気がした。
だから考えないことにした。
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この部隊で、昔馴染みは自分たちだけである。
だから話題は、自然と隊員たちのことになった。
「オヘア、あいつ着陸は直ったけど、今度は離陸で吹かしすぎるのよ」
「知ってる。今朝、整備が泣いてた」
「エルマ中尉は書類のときに眉間が寄るのよね。あれ癖よ」
「中隊長は寝てない。今夜は追い出す」
「ウルスラは……もういいわ。爆発しなければ」
「今週は二回だ」
「二回もしてんじゃない!」
「先週は四回だ。改善傾向にある」
「基準を見直しなさい」
智子は笑った。笑ってから、自分が笑ったことに少し驚いた。
——落ちこぼれ、なんて。
あの日、ブリーフィングルームで、彼女は胸の内で並べ立てたのだ。
胸ばかりでかくて頭の軽そうなリベリオン娘。本しか能のないカールスラント人。世界中の嫌味を寄せ集めたブリタニア人。落ちこぼれで島流しに遭った扶桑海軍少女。そして、こんな弱気でよく昇進できたなと言いたくなるスオムス人。
今はもう、そう思っていない。
一人残らず、思っていない。
あいつらは黒いネウロイの前に立った。武装もせずに飛んできて、自分を引きずって逃がした。眼鏡をかけた。体当たりしようとした。手製のロケット弾を差し出した。
——仲間、って言葉は、まだ照れくさいけれど。
「ハルカもね、射撃は当たるようになったのよ。眼鏡かけてから」
「そうだな」
「あんたが仕込んだ航法も、まあ、悪くないわ」
「褒めるのか、珍しい」
「褒めてない。事実を述べただけ」
「そうか」
「ビューリングも、まあ、飛ぶようになったし」
そこで智子の足が、わずかに遅くなった。
「……ねえ」
「なんだ」
「あんた、あの女のこと、なんて呼んでんの」
「フレデリカ」
即答だった。
「……なんで」
「そう呼べって言われた」
「なんで頷くのよ」
「断る理由がないだろ」
智子は立ち止まった。
雪の上で、石鹸の包みを抱えたまま、じっと前を睨んだ。
——腹が立つ。
これは、驚くほど腹が立つ。
思い出したのは、二年前だ。
大陸で私たちの基地に来て一週間も経たないうちに、この男は、武子を「タケさん」、圭子を「ケイさん」、綾香を「アヤさん」と呼び分けたうえで、自分だけを「智子」と呼び捨てにし始めた。
あのときは本当に腹が立った。
年下のくせに。海軍のくせに。何なんだこの男は。武子たちには敬語で丁寧なのに、なぜ自分にだけ、あんなに雑なのか。
腹が立って腹が立って、武子に散々愚痴を言った。
そして——それは、いつの間にか馴染んだ。
馴染んで、当たり前になって、あれが自分と尚樹の距離になった。他の誰にもない距離だと、勝手に思っていた。
その馴染みきったやり方を、別の女に頼まれてやっている。
これは、別腹でムカつく。
「智子?」
「……なんでもない」
「そうか」
「なんでもないったら」
「言ってないぞ」
「言おうとしたでしょ」
「言おうとしてない」
「……ふん」
彼女は歩き出した。歩幅が少し大きくなった。
尚樹は油の缶を抱え直し、当たり前のように追いついてきた。
「なあ」
「なによ」
「フレデリカのことだが」
「聞きたくない」
「あれは名前で呼ばれ慣れてない」
「……」
「エリザベスは家の名前で、ビューリングは部隊での名前だ。フレデリカだけが、どこにも使われてなかったんだと」
智子は答えなかった。
答えなかったが、歩幅は元に戻った。
「……そう」
「そういうことだ」
「……別に、私は」
「うん」
「私は、あんたが誰を何て呼ぼうと、どうでもいいけど」
「そうか」
「どうでもいいけど」
彼女は前を向いたまま言った。
「私のことは、ずっと智子でいなさいよ」
「……」
「聞いてんの」
「……」
「返事」
「はい、可愛い所をあざとく見せてくる穴拭少尉殿」
足先を軽く踏んづけた
智子はため息をどっと吐いて、それ以上何も言わず、雪の上を歩いた。
隣に、同じ歩幅の足音がついてきていた。
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帰り道、彼女は市場で干し葡萄を買った。
「なんだそれ」
「エルマ中尉が甘いもの好きなの」
「へえ」
「……あと、これはウルスラ。実験のたびに飯抜くから」
「よく見てるな」
「見てない」
「そうか」
「……あんたの分はないから」
「知ってる」
「……」
智子は袋の中から一つつまんで、隣に放った。
尚樹は油の缶を抱えたまま、それを口で受けた。
「器用ね」
「まあな」
「気持ち悪い」
雪の上に、二つの影が並んで伸びていた。
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