---
談話室
その日は吹雪いていて、出撃も訓練もなかった。
ハルカが熱を帯び始めたのは、コーヒーが二杯目に入ったあたりからだった。
「『扶桑海の閃光』の話をしてもいいですか」
「駄目」
「オー! ミー、それ知りませんねー!」
「やめろオヘア、そいつに火を点けるな」
「智子少尉が主演した映画です!」
「だから駄目だって言ってんでしょ!」
「よし、俺は聞くぞ」
尚樹が椅子を引き寄せて、前のめりに座り直した。実に楽しそうな顔である。
「あんた黙ってなさいよ!」
「なんでだよ、俺だって観てないんだぞ」
「一生観るな」
「ハルカ、頼む。俺は主演女優の演技を知る権利がある」
「はい! お任せください!」
「あんたたち仲良くなるんじゃないわよ!」
---
そしてハルカは立ち上がり、右手を掲げ、声を張った。
「——私は退かぬ。この海の向こうに、母がいる。父がいる。名も知らぬ幼子がいる。彼らが明日も朝を迎えるために、私はこの空にいる。ならば、退く理由がどこにある。刃が折れるまで、翼が燃え尽きるまで、私は——」
「やめてえええ!!」
「——私は、この空を、離れない!!」
拍手。エルマが一番大きく叩いている。
そして。
「ぶっ」
「……」
「ぶはっ、あはははは!」
尚樹が椅子から転げ落ちた。
床に手をついたまま、腹を抱えて笑っている。息ができていない。
「待っ、待て、無理だ、待ってくれ」
「なにがおかしいのよ!」
「刃が折れるまでって、お前、」
「言ってないわよ!」
「あの日、味方に肘鉄食らわせて前に出ただろ!」
「言うなって言ってるでしょ!!」
「『どきなさいよ!』だぞ! 一言一句覚えてる! 俺すぐ後ろにいたからな!」
「ミー、そっちの方が好きですねー!」
「私もです!」
「うるさい!!」
智子は膝を抱えて椅子の上で縮こまった。耳まで真っ赤である。
尚樹はようやく起き上がり、目尻を拭いながら息を整えた。
「……ああ、面白かった。ハルカ、もう一回」
「はい!」
「やめろ!!」
「二回目は感情を深めます」
「深めるな!」
「智子」
「なによ」
「主演女優って呼んでいいか」
「殺すわよ」
「はい主演女優」
「いま言うなって言ったばっかりでしょうが!!」
備前長船の鯉口が切られる音がして、談話室が半分ほど逃げ出した。
---
ひとしきり騒いだあと、話は他の出演者に移った。
「他の陸軍の方も出てらしたんですか」
エルマが尋ねる。
「三人ね。武子と、圭子と、綾香」
「どんな方たちなんですか?」
「武子は……新聞で見たでしょ。智将だの名指揮官だの言われてるけど、実際はもっと気さくよ。洒落好きで、面倒見がよくて」
「あの人はな、洗濯物畳みながら鼻歌歌うんだ」
尚樹が横から言った。
「しかも下手なんだよ。音程が全部ちょっと低い。指摘したら一週間口きいてもらえなかった」
「あんた何やってんのよ」
「事実を述べただけだ」
「殴られなかったのが不思議ね」
「殴られたよ。頭。結構痛かった」
「ざまあみなさい」
「あと圭子はカメラ好き。一番目上なのに一番無鉄砲で、楽天家。基地でも戦地でも隙あらば撮ってて」
「あの人の写真、構図が巧いんだ」
「あんた、そういうこと言うから撮られて飾られるのよ」
「飾られた?」
「食堂の一番目立つとこにね。あんたが芋の皮むいてる写真」
「……あれ、まだあるのか」
「あるわよ。私は毎日見てた」
「写真と一緒に記憶も消してくれよ」
「嫌」
「なんでだよ!」
「いいざまだから」
尚樹が本気でむくれた顔をしたので、エルマが小さく吹き出した。
「綾香は野武士みたいな見た目と喋り方なんだけど、一番教養があるの。視野が広くて」
「アヤさんは怖い」
「あんたでも怖いのいるのね」
「怖いよ。全部見透かしてくるからな。俺が誤魔化そうとすると、喋る前に『やめとけ』って言ってくる」
「いい人じゃない、アンタは先輩に恵まれるわね」
「お前は俺の味方をしろ」
「絶対に嫌」
---
そこで、ハルカが遠慮がちに口を開いた。
「あの、加東少尉って……欧州には」
「来てないわよ」
智子は、あっさり言った。
そして、少しだけ言葉を選んでから続けた。
「戦勝式典で、事故があったの。編隊組んで市街の上を通って、みんなが手を振ってて……そのときに、圭子のストライカーユニットが落ちたの」
「……」
「命は助かったんだけど、リハビリで何ヶ月もかかって。その間に、あがりが来たの」
談話室が静かになった。
「二十歳前だった、それは分かってたけど。こっちは納得できないわよ」
智子はカップに目を落とした。
「今でも信じられないわ。圭子が、あんなあっさり落ちてくなんて」
---
尚樹は、返事をしなかった。
さっきまであれだけ喋っていた男が、急に黙った。
その落差に、談話室の全員が気づいた。
彼はカップを持ったまま、中身を見ていた。ストーブの薪が爆ぜる音がした。
そして——ふざけようとした。
「……いや、まあ、あの人はほら」
口が動いて、いつもの調子で始まりかけて、そこで止まった。
止まって、続かなかった。
「……」
尚樹は、口を閉じた。
ふざけきれなかったのである。
しばらくして、彼は下を向いたまま言った。
「ケイさんは、また飛ぶよ」
「……あんたね」
「飛ぶ」
「あがりが来たのよ。医者が言ったの」
「それは一般論だ、ウィッチに常識は通じない」
「屁理屈じゃない」
「屁理屈だな」
彼はあっさり認めた。認めて、それでも引かなかった。
顔を上げたとき、その表情は、いつもの飄々としたものではなかった。
もっと単純で、もっと子供っぽい、ただの意地だった。
「でも飛ぶ。飛ぶって決めたから飛ぶ」
「あんたが決めることじゃないでしょうが」
「うるさいな。俺が決める」
「なによそれ」
「知るか」
拗ねたような言い方だった。
智子はしばらくその横顔を見て、それから視線を戻した。
——ああ、そうだ。
あの三日間。
こいつはずっと病室にいた。ずっと喋っていた。
今日の飯のこと。舞鶴の道場に紛れ込んできた犬のこと。写真をまだ現像していないだろうという小言。次に撮るなら自分を真ん中に入れてという、どうでもいい文句。
三日目の朝、圭子は目を開けた。
智子はそのとき廊下で泣き続けていたので、その覚めた瞬間を見ていない。見ていないが、知っている。
——こいつは、そういうことをするのだ。
理屈でも技術でも魔力でもなく、いつの間にか誰かの内側に馴染んでいて、そこから引っ張り上げてしまう。
たぶん、圭子にやったのも、その一部分だ。
「……ふん」
智子はコーヒーを飲み干した。
「そうね。圭子は飛ぶわ」
「だろ」
「あんたが言うからじゃないわよ。私がそう思ってるだけ」
「なんだよそれ」
「そういうものよ」
「お前さあ、たまには俺に華を持たせろよ」
「一生嫌」
「えー」
「圭子ったら、リハビリ中に病室でカメラ組み立ててたのよ。あんな執念深いのが、簡単に地面にいるわけないでしょ」
「……それは、まあ、そうだな」
尚樹は少し笑った。
さっきの馬鹿笑いではない、ずっと小さい笑い方だった。
「うん。そうだ」
「なによ」
「いや。お前がまともなこと言うと調子が狂う」
「殴るわよ」
「はい主演女優」
「殴る!!」
椅子が倒れ、談話室がまた笑いに包まれた。
外はまだ吹雪いていた。
---