スオムスいらん子中隊 Re:lease   作:それいゆ

30 / 52
閑話「床板」

---

 

元々そういう質だったのか、それとも名前を許した途端に何かの箍が外れたのか。

 

エリザベス・フレデリカ・ビューリングには、判断がつかなかった。

 

「フレデリカ」

 

「なんだ」

 

「コーヒー」

 

「自分で淹れろ」

 

「フレデリカの方がうまい」

 

「嘘をつけ。お前の方が上手いだろう」

 

「バレたか」

 

「一秒でバレたぞ」

 

「じゃあ淹れて」

 

「なぜだ」

 

こういうやりとりが、ここ数日で異様に増えた。

 

以前は「ビューリング少尉」と呼び、一歩下がった位置から必要なことだけを言う男だった。それが名前を許した翌日から、するすると距離を詰めてきた。

 

呼ぶ。頼む。冗談を言う。断られると拗ねる。拗ねた顔をわざとらしく作って、こちらが折れるまで待つ。

 

うざったらしいことこの上ない。

 

——だが。

 

さして悪い気がしない、というのが、彼女の癪に障るところであった。

 

---

 

その夜も、そうだった。

 

「フレデリカ、暖房が死んだ」

 

「知るか」

 

「俺の部屋、元物置なんだよ。煙突が詰まってる」

 

「明日直せ」

 

「今夜死ぬ」

 

「死ね」

 

「ひどい」

 

そう言いながら、彼は部屋の床に勝手に座り込んだ。

 

ビューリングは咎めなかった。咎めるのが面倒だったのと、咎める理由を探すのがもっと面倒だったからである。

 

しばらく、他愛のない話をした。

 

ハリケーンの脚周りのこと。ウルスラの三度目の失敗。オヘアの離陸。エルマがまた徹夜していたこと。

 

それから、彼女の話になった。

 

正確には、彼女があの湖畔で話した内容の、その後の話に。

 

「オストマルクのあれ、あのあと監視航空団はどうなったんだ」

 

「解散した」

 

「そうか」

 

「名簿は残っているらしいが、名簿だけだ」

 

「……そうか」

 

短い返事だった。

 

そこで、ビューリングは思い出す。

 

彼女があの話を最初にした夜、この男は何と言ったか。

 

——何も言わなかったのだ。

 

同情もしなかった。慰めもしなかった。「大変だったな」も「気の毒に」も言わなかった。

 

戸惑いすら見せなかった。

 

代わりに、深い、深い沈黙があった。

 

湖の風の音だけが続いて、彼はただ黙って立っていた。あれは、言葉を探して黙ったのではない。言葉が要らないから黙ったのだ。

 

——あれは、同類を見たときの沈黙だ。

 

ビューリングは確信している。

 

こんなに軽薄で、こんなに人懐こくて、こんなに甘えてくる十五歳のくせに、道理だけは誰よりも知っている。

 

命の価値も、その呆気なさも。

 

話など一度も聞いていないが——奪った感覚も、失った感覚も、この男はよく味わってきたのだろう。

 

そうでなければ、あの沈黙は出ない。

 

---

 

「……フレデリカ」

 

「なんだ」

 

「眠い」

 

「部屋に帰れ」

 

「煙突が」

 

「知るか」

 

「じゃあここで寝る」

 

「おい」

 

返事はなかった。

 

十秒後には、本当に寝息が聞こえていた。

 

ビューリングは呆れて天井を仰いだ。

 

甘えきって満足したのか、構うのに飽きたのか、あるいは単に疲れていたのか。脈絡というものが一切なかった。

 

床に転がった飛行服の背中を、彼女はしばらく見下ろしていた。

 

---

 

奇妙な感覚だった。

 

彼女は、自分の性別を使う気など微塵もない。

 

そういうやり方で得たものを、彼女は信用していないし、そもそも面倒くさい。軍規違反八十二回の人生において、彼女は一度もそれを武器にしたことがない。

 

だが、それとは別に。

 

ウィッチである以上、素行不良のダメ軍人であっても、否応なく気を遣われてきた。

 

営倉に入れられても、看守は目を合わせない。軍法会議にかけられても、判決の前に必ず「貴重な人材である」という一文が入る。輸送機では席を譲られ、宿舎では一番いい部屋を割り当てられ、酒場では代金を取られない。

 

守られる側。使い潰される側。触れてはいけない側。

 

十八年間、彼女はその扱いの中にいた。

 

その感覚と——女の部屋の床で雑魚寝を始めた男の存在が、あまりに相反しすぎていた。

 

「……なんなんだ、お前は」

 

彼女は呟いた。

 

そして、なぜか、自分も腰を落とした。

 

床に身を預け、横に体を這わせて、並ぶ。

 

木の床は冷たかった。ストーブの熱が届くのは膝から下だけだ。それでも彼女はそこに寝そべった。

 

至近距離に、寝顔があった。

 

煤の跡が耳の後ろに残っている。睫毛が思ったより長い。首筋に、古い傷が一本走っている。

 

十五歳の顔だった。

 

タバコでむせて涙目になった、あの顔と同じだった。

 

「…………」

 

魔が差した、としか言いようがなかった。

 

彼女は、ぐっと顔を近づけた。

 

鼻先が触れそうな距離まで。

 

そこで。

 

ギッ。

 

ボロの床板が軋む音が、すぐ横で鳴った。

 

「————ッ!!」

 

ビューリングは飛び起きた。

 

本当に、彼女らしくもなく。本能と理性の両方に力任せに引き戻され、無理やり正気に戻された格好だった。

 

心臓が跳ねている。息が浅い。

 

こんなの、誰に見られても終わる。

 

隊が終わる。自分が終わる。この男の立場が終わる。

 

特に——あいつに見られたら。

 

鞘に収まったままである保証は、どこにもない。

 

エリザベス・フレデリカ・ビューリングは、人生で数度と作ったことのない表情になっていた。

 

そして、恐る恐る、音の出所を見た。

 

自分の使い魔だった。

 

胴の長い茶色の犬が、男の腹に自分の臀部をぴったり預けて座り込んでいる。座り直したときに床板が鳴ったらしい。

 

犬は、キョトンとした顔で飼い主を見上げた。

 

「…………」

 

「くぅ?」

 

「…………おい」

 

「わふ」

 

ビューリングは両手で顔を覆った。

 

「……お前が、私の理性か」

 

「わふ」

 

「情けない話だ」

 

犬は尻尾を一度だけ振り、そのまま男の脇腹に頭を乗せて丸くなった。

 

床の男は、まったく起きなかった。

 

心底、腹立たしいほど無防備だった。

 

---

 

翌朝。

 

「フレデリカ、なんで俺、床で寝てたんだ」

 

「知らん」

 

「毛布かかってたけど」

 

「知らん」

 

「あと犬が乗ってた」

 

「そいつに聞け」

 

「わふ」

 

「……フレデリカ、なんか怒ってるか?」

 

「怒ってない」

 

「怒ってる」

 

「怒ってない!」

 

「怒ってるじゃん」

 

彼女は新しいタバコを咥え、火を点けた。

 

そして煙を吐きながら、実に苦々しく言った。

 

「……お前は、もう少し戸締まりというものを覚えろ」

 

「ここ、お前の部屋だぞ」

 

「そういう話をしているんじゃない」

 

「意味が分からん」

 

「分からなくていい」

 

分かられたら困る、というのが本音だった。

 

「きゅー」

自分を前にして会話をされるので、犬は高い声で鳴いた

 

---

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。