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「記憶喪失」
その言葉を聞いたとき、智子の頭に真っ先に浮かんだのは、医学書でも、戦場の逸話でもなかった。
**舞鶴の病室**だった。
一九三八年九月。挺身作戦が終わって数日。
三日三晩眠り続けていた男が、ようやく目を開けたあの朝。
彼はこちらを見て、ひどく穏やかで、ひどく礼儀正しい声で言ったのだ。
『……あの。申し訳ありません。あなたは……陸軍の方、ですよね?』
あのときの、床が抜けるような感覚を、智子は今でも覚えている。
数秒後には「ぶっ」と吹き出されて、腹を抱えて笑われて、胸ぐらを掴んで首を絞めたわけだが。
——だが。
あの数秒間だけは、本物だった。
あの数秒、智子が見ていたのは「もしあいつの中身が帰ってこなかった場合」の光景である。
顔も、声も、身体も同じ。だが、こちらを知らない。浦塩も、大陸も、手錠の夜も、山の頂も、何ひとつ持っていない。
そういうものが、目の前に座っている。
つまり、そういうことなのだ。
いま、あの椅子に座って無表情でいるロマーニャの少女は、**あのときの反証**である。
そして逆に言えば——
「……ねえ」
「なんだ」
「あんた、この娘の元の性格ってどんなだと思う?」
「知るか」
「予想くらいしなさいよ」
尚樹は少し考えて、実に適当に答えた。
「爆撃の第一人者で、反跳爆撃を編み出して、准尉まで上がって、しかもネウロイの支配地から歩いて帰ってきたんだろ」
「うん」
「**相当なバカタレだな**」
「……でしょうね」
智子は妙に納得した。
そういうことをやる人間を、彼女は一人だけ知っている。
つまり、この静かな娘の中身は、案外、目の前のこいつと同種のバカタレなのかもしれない。
——だとしたら、早く帰ってこさせないと。
そう思った自分に少し驚いて、智子は咳払いをした。
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全員分の椅子はないので、それぞれが自室から持ってきた。
さすがに八人も入ると狭い。元は物置だった部屋である。体温だけで暖房代わりになった。
「じゃあ、えーと、やるわよ」
智子はこほんと咳払い。
「チュインニ准尉。今、思い出せることはなにかある?」
「いいえ」
「ストライカーユニットの操縦は?」
「飛ぶことならできます」
特に操縦方法を思い出したわけではなく、足を突っ込んだところ勝手に耳と尻尾が生え、なんとなく飛べたのだという。
「そこらへんが手がかりになりそうね……でもこれくらい、医者がやってそうなのよね」
ウルスラが手を挙げる。
「機械治療は……? 頭に電極をつけて、電気を流します」
「よくそんなこと思いつくわね……」
「科学的です」
「思い出せなかったら?」
「電流を強くすればいいんです。いずれ白状……記憶が甦ります」
「ウルスラ」
尚樹が短く言った。
「はい」
「その案は俺が却下する」
「理由を」
「人体に流していい電流量を、お前は計算してないだろ」
「……計算します」
「計算した上で持ってきても却下だ」
「…………了解しました」
智子は本気で感心した。この男に任せると、なぜか十歳児が引き下がる。
「ミーに任せるね。テキサス流の治療をやるよー」
オヘアがリボルバーを抜いた。六発全て抜き、一発だけを込めてドラムを回す。
「答えられなかったら引き金を引くね」
「なに考えてんの!」
「オー、智子は差別主義者でーす。正確にはオラーシャ式ルーレットって言うねー」
「どっちだろうと禁止!」
「オヘア」
「ヤーッ?」
「弾、貸せ」
「ホワイ?」
「返さない」
「ヘーイ!!」
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「別の手段をとるのはどうだ。グループによる治療だ」
ビューリングが提案した。
「自分の内面を告白するんだ。心の中をさらけ出すことによって他の人と気持ちを共有し、一体感を得る」
「誰が最初に言うのよ」
「提案者からだ。私だな」
そして彼女は、オストマルクから帰ったばかりの頃、四人のヒヨコと一晩を過ごし、翌朝全員が裸だった話をした。
「あれ以来、私は友達を作らないし、見ず知らずの女とも仲良くしない」
「最初からこんなのが出ちゃ、話す気なくなるわよ!」
「……フレデリカ」
「なんだ」
「今の、この場でする話か?」
「する話だ」
「十一歳がいるぞ」
「十一歳です」
ウルスラは眼鏡を押し上げ、ノートに何かを書き込んでいた。
「……ウルスラ、なに書いてんの」
「なんでもありません」
「見せなさい」
「なんでもありません」
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そのとき、扉がノックされた。
エルマが鍋を抱えて戻ってきた。
「作ってきました。……なにしてるんです?」
「あー、ビューリングの発案でグループ治療やったの。あんまり役に立たなかったけど……結局パスタ作ったの?」
「ええと、パスタそのものはありませんでした。だからソースだけを」
「それ……ナスのトマト煮じゃ」
「これでもロマーニャ料理です」
「中川少尉に手伝ってもらいました」
「あんたも作ったの」
「トマトの缶があった。あと、乾かしたバジルが主計科の棚に」
「なんでそんなの知ってんのよ」
「棚を全部開けたからだ」
「勝手に開けるな!」
チュインニはゆっくりとスプーンですくい、口に運んだ。
「……おいしい」
「ですよね!」
エルマが胸を張った。
そして。
「……あの」
チュインニが、皿を見つめたまま言った。
「これ、匂いが」
全員が黙った。
「……匂いが、知っています」
「思い出したの!?」
「いえ……ただ、知っている、というだけで」
彼女はスプーンを置いた。
「あと、一つだけ。飛んでいた記憶が」
「飛んでって、ストライカーユニットつけてたの?」
「……自分の記憶はないのですが、私は徒歩で友軍戦線に戻ったのだそうです。その直前……どうも飛んでいた気がして」
「誰かって、ウィッチよね。知り合い?」
「……全然分かりません。とにかく、もやっとした霧の中を飛んでいて……隣に誰か人がいたような気が……」
「人?」
聞き返したのは、尚樹だった。
「え?」
「今、『ウィッチ』じゃなくて『人』って言ったな」
チュインニが顔を上げた。
そして、少しだけ、彼を見つめた。
「……はい」
「なんで区別した」
「……分かりません」
「そうか」
彼はそれ以上聞かなかった。
聞かなかったが、智子はその横顔を見て、こいつが何かを引っかけたことに気づいた。
「……あんた」
「なんでもない」
「なんでもないって顔じゃないでしょ」
「なんでもない」
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また扉が開く。今度はハッキネンだった。
「穴拭少尉、あなたに用事があります」
「私もあります。実は……」
チュインニの話を説明する。ハッキネンはいちいちうなずいて聞いた。
「やはり義勇独立飛行中隊に任せて正解でしたね。爆撃技術はどうですか」
「さっぱりです」
「正解ではありませんね。しかたありません、今回はここまでです。ところで少尉」
「あなた宛の荷物を持ってきました」
「裁判所への出頭命令なら私ではなく、きっとビューリングです」
「格納庫に置いてあります」
「格納庫?」
ハッキネンはさっさといなくなった。
智子は他の面々に「トマト煮片づけて。こいつのベッドにこぼさないでよ」と言いつけてから、格納庫へ向かった。
「俺のベッドの心配してくれるのか」
「あんたが片づけるのが面倒でしょうが」
「そこは素直に受け取っとけよ」
「うるさい!」
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ラッペーンランタ基地の格納庫は猛吹雪でもない限り開け放たれており、冷たい風が始終通り抜けている。
智子は寒さを覚悟して格納庫にたどり着く。
だが中を見た途端、そんな感情は吹っ飛んでしまった。
ちょうど真新しいストライカーユニットが木箱から出され、中央に据えられるところだったのだ。
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見たことのない形である。特にずんぐりとした胴体は欧米機のようだが、どことなく扶桑製の香りを残している。
「やあ、君が穴拭少尉?」
荷下ろしを指示していた扶桑人がやってくる。「長島飛行脚の糸河だ」と名乗った。
「君宛の装備を持ってきた。できたばかりの試作機、キ44だ」
「実戦テストも兼ねてスオムスに持ってきたんだ」
「なんでこんな寒いところで……」
「あらゆる場所のデータが欲しいんだ。性能は保障する」
「私は九七の方が好きですが」
「壊れたんだろう」
痛いところを突かれてしまった。
そのとき、格納庫の奥から油まみれの男が出てきた。
「糸河さん、後部の点検口、開け方が違いますよ。ここ、二段階でロックが」
「おお、悪い悪い。……君は?」
「海軍の中川です」
「海軍? なんで陸軍のユニットを触ってる」
「昨日から荷下ろしを手伝ってました」
「聞いてないぞ」
「言ってませんから」
糸河はしばらく彼を見て、それから智子を見た。
「……この基地、指揮系統はどうなってる」
「知りません」
「知らないのか」
「知りたくもありません」
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「さっそく乗ってみて欲しい」
「今から?」
「早く慣れて欲しいからね」
智子は不承不承といった面持ちで、キ44に足を突っ込んだ。
その脇で、尚樹は工具箱に腰を下ろして眺めていた。
何も言わない。
助言もしなければ、注意もしない。
彼女がキ44の脚を上げ、離陸方向に身体を向けたときも、口を開かなかった。
「……なによ」
「なんだよ」
「言いたいことがあるんでしょ」
「ないぞ」
「あるでしょ」
「ない」
彼は本当に何も言わなかった。
智子はそれ以上聞かず、魔導エンジンを全開にした。
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「うわ……うわわわわっ!」
ゴムで弾かれたようにキ44が加速した。
周囲の景色が恐ろしいほどの速さで後ろにすっ飛んでいく。
「こ……のっ!」
力を込めて身体を起こす。離陸したと感じた瞬間、ぐんと上昇した。
「ふう……」
冷や汗が出た。
真下で糸河と整備兵たちが見守っている。工具箱の上の男も、見上げていた。
内心の動揺を悟られないよう、気楽な感じで基地の周囲を一周する。
「ちょっと遠出してくる」
インカムにそう告げて、北西へ向かった。
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そして、彼女は独り相撲を取った。
上昇は力強い。ロールは鋭すぎる。旋回に入ろうとして失速した。
「なにこれ、まともに旋回できないの!」
小型ネウロイ二機に上を取られ、降下で振り切ろうとして、今度は降下速度が想像を超えた。
白樺の梢に触れ、目をつぶって引き起こし、ふらふらと上昇する。
気づけばネウロイの姿はない。
空には、誰もいなかった。
(……帰ったほうがいいわね……)
まだ陽は高い。なのに丸一日飛んだ気分である。
腹が立ってきた。とんだ欠陥機である。扶桑陸軍はこんなものを自分に押しつけたのか。
おかげで着陸速度を誤り、滑走路をオーバーランして柵に頭から突っ込みそうになった。
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頭から湯気を立てながら、智子はストライカーユニットを脱ぎ捨てた。
そのとき、視界の端に飛行服の背中が見えた。
工具箱の上に座ったまま、こちらを見ていた。
「……なによ」
「なんも」
「言いたいことがあるでしょ、今の着陸」
「あるけど言わない」
「言いなさいよ!」
「言わない」
「なんでよ!」
尚樹は工具箱から降りて、脱ぎ捨てられたキ44を拾い上げ、傷を確認しはじめた。
「梢に当たったな。前縁が削れてる」
「そこはいいのよ! なんで言わないのって聞いてるの!」
彼は手を止めずに答えた。
「お前、頑固だろ」
「……はあ?」
「昔からそうだ。俺が横から言うと、意地でも逆をやる」
「そんなことない」
「あるだろ。浦塩で『そのやり方だと当たらない』って言ったら、三日その撃ち方を続けたよな」
「…………」
「大陸でも『高度を捨てるな』って言ったら、翌日わざと捨てて突っ込んだろ」
「あれは戦術的判断よ」
「嘘つけ」
「嘘じゃない!」
彼は削れた前縁を指でなぞりながら、実にどうでもよさそうに続けた。
「まあ、それでいいと思ってる」
「……は?」
「お前は結局、自分の中でぐるぐる考えて、ちゃんと答えを出す。時間はかかるけどな」
「……」
「だから空のことは口を挟まん。俺が言ったら、答えが俺のものになる」
智子は、しばらく黙っていた。
黙って、それから、思い切り顔をしかめた。
「……なにそれ」
「なにって」
「腹立つ」
「なんでだよ!」
「腹立つのよ! いちいち!」
「褒めてるんだぞ!」
「褒め方が腹立つの!」
彼女は踵を返して、格納庫の奥へずかずか歩いていった。
尚樹は削れた前縁をもう一度撫でて、それから小さくため息をついた。
「……着陸のやり方だけは、あとで言うか」
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「ちょっと自称技師! なにあの機体! 曲がれないわ降りられないわで死ぬかと……あれ?」
糸河はテーブルの前にいた。水差しとコップが載っている。
「怒ると思ってたよ」
「欠陥機じゃないの!」
「設計思想が違うだけだ」
そして糸河は、二つのコップと水差しで、位置エネルギーの話をした。
九七式が旋回を繰り返して高度を失う話。キ44が降下で位置エネルギーを速度に変える話。
「この結果、位置エネルギーを失うものの、スピードは速くなっている。つまり……」
智子は無言で糸河からコップを取り上げた。水差しから水を注ぐ。
「位置エネルギーは速度に変換されている。だから降下ののちに、高速を利用して上昇すれば再び位置エネルギーに変換される。これがダイブ・アンド・ズーム、つまり一撃離脱の基本よ」
「知っているじゃないか」
「知ってるわよ。嫌いなだけ」
「一撃離脱じゃ一気に何機も撃墜できないわ。格闘戦に持ち込めば、私は五機だろうと六機だろうと墜とす自信がある」
「ネウロイも対策している。もはや世の趨勢はそっちに流れているんだ」
「勝手に潮流作っていれば? 私は違うわよ」
「苦戦して悩んでいると聞いた」
「誰から」
「アホネン大尉」
あの女、と智子は呟く。
「チャンスだと思わないか。九七式に乗れなくなったのだから、いくらだってキ44を使うことができるんだ」
智子は押し黙った。
糸河が述べていることは正しい。それだけに腹立たしい。
「………」
しばらく黙ったのち、智子は言った。
「これは聞かなかったことにしておくわ」
そして足早に格納庫から出ていった。
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出ていく途中、キ44の前縁を布で磨いている男の横を通った。
彼は顔を上げなかった。
「……ねえ」
「なんだ」
「あんた、あの一撃離脱ってやつ」
「うん」
「得意でしょ」
「まあな」
「教えろとは言わないわよ」
「言われても教えん」
「……なんでよ!」
「今そう言ったろ。俺が教えたら、お前の答えにならない」
「……ふん」
彼女は鼻を鳴らして格納庫を出た。
出てから、雪の上でぴたりと足を止めた。
——あいつは、私が答えを出すと思っている。
それだけは、腹が立たなかった。
腹が立たないのが、また腹立たしかった。
「……あー、もう」
智子は雪を一つ蹴飛ばして、宿舎の方へ歩いていった。
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