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その日の夜。
食堂の裏手、風の当たらない軒下。
「……で」
「なに」
「なにがあった」
「なにも」
「嘘をつけ」
「なーんにも無かった」
ビューリングはマッチを擦り、火を移してから、二本目を差し出した。
尚樹は無言でそれを受け取った。
——それが答えである。
「お前は現実に対して折り込みが出来る人間だ」
彼女は煙を吐きながら言った。
「面倒事も、理不尽も、他人の感情も、大抵は事前に勘定に入れて動く。そういう男だ」
「買いかぶりだよ」
「そいつが煙草をねだる。つまりは折り込めない気分というわけだ」
「……カマかけなら乗らないよ」
「分かる」
彼女はあっさり言った。
「私がそうだからな」
尚樹は火を点け、一口吸って、少し咳き込んだ。前ほどではない。
「じゃあ、あんた一日に何回も折り込めてないじゃん」
「なに?」
「一日十本以上吸ってるだろ。我慢弱すぎるでしょ」
「……人が折角、人生について教えてやっているのに、生意気な」
「人生について説法できるくらい真っ当な人種では、絶対になくない?」
「言うようになったな」
「あんたが吸わせるからだ」
口調が砕けきっていた。
普段の彼は年功序列を割ときっちり守る。この女に対しても、口では憎まれ口を叩きつつ、根っこの部分では年下として振る舞っていた。
それが今夜は、投げやりで、雑で、完全に同年代の口の利き方になっている。
——これはこれで面白い、とビューリングは思った。
「そういえば」
尚樹が煙を吐きながら言った。
「あんた、前に言ってたよな。オストマルクから帰ったあと、ヒヨコ四人と一晩過ごしたって」
「言ったな」
「あれ、俺、割としっかり引いたぞ」
「ほう」
「翌朝全員裸ってなんだよ。ホラーか」
「事実だ」
「事実だから怖いんだよ」
ビューリングは煙草の先を眺めた。
そして——年上らしく、気を紛らわせるために、そして「悪いことを吹き込んだ女」として一切手加減をせずに、語り始めた。
四人がどこから来て、何を聞きたがって、どういう順番で口を滑らせたか。
一人目がやたら真面目で、二人目が一番先に酔い潰れて、三人目が一番強かで、四人目が実は最初から全部分かっていたという話。
そのあたりまでは、まだ普通の思い出話だった。
そこから先が、容赦なかった。
「——待て」
「なんだ」
「待てって」
「まだ二人目だぞ」
「もういい」
「三人目が一番面白いんだが」
「聞かない」
「あの娘はな——」
「聞かないって言ってるだろ!」
尚樹は本気で耳を塞いだ。
ビューリングは声を上げて笑った。
「なんだ、その顔は」
「サイテーだよ、あんた」
「知っている」
「こっちでも同じことする気か? だったら悪さする前に俺がとっちめてやろうか」
「ほう」
彼女は目を細めた。
「どうやってだ」
「上に報告する」
「軍法会議八回の女に、九回目を足すだけだぞ」
「……効かねえな」
「効かんな」
「じゃあ、ハルカに全部話す」
「————」
ビューリングの動きが、初めて止まった。
「……それは、やめろ」
「効いた」
「卑怯だぞ」
「学んだんだよ。誰かさんに」
彼女は舌打ちをして、灰を落とした。
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しばらく、雪の落ちる音だけがした。
「フレデリカ」
「なんだ」
「もう一本」
「……なんだ、今日はよく吸うな」
三本目を渡す。
尚樹はそれに火を点け、深く吸い込んだ。
そして——咳き込まなかった。
煙が、白い息と混ざって、真上に上がっていく。
ビューリングは、それを横目で見ていた。
——面白いものが、もう見られなくなったな。
初めて押し込んだ夜、この男は雪の上に膝をついて、涙目になって咳き込んだ。
あの瞬間、彼女は初めてこいつのガキらしいところを見た。事変の英雄でも、扶桑海の毛虫でも、飛龍の少尉でもない、ただの十五歳を。
それが今、消えた。
慣れた。
慣れさせたのは、自分だ。
炊事から軍務まで、あらゆることを人に教える男である。
整備兵に配管を教え、十歳の子供に燃焼を教え、リベリオン娘に着陸を教え、扶桑の後輩に航法を教え、隊長に書類の書き方を教えている。
その男に、自分が何かを仕込んだ。
煙の吸い方を。
これはもう、消えない。
こいつが今後どこへ行こうと、誰と飛ぼうと、この吸い方だけは残る。
そして、その最初の一本は自分が咥えていたものだった。
「……フレデリカ?」
「なんでもない」
「なんか言ったろ」
「言っていない」
彼女は自分の煙草を雪に落とし、踏み消した。
そして、誰にともなく呟いた。
「そうさ。私は最低だ」
「うん、知ってる」
「聞くな」
「聞こえた」
彼女は続けた。
「だが、自覚したうえで踏み越えられるからな」
尚樹はそれを聞いて、少しだけ笑った。
「……あんた、たまに詩人みたいなこと言うよな」
「ブリタニア人だからな」
「関係あるか?」
「ある」
「ないだろ」
「うるさい」
軒下から見上げた空には、雲の切れ目から星が二つほど見えていた。
明日は晴れる。ウルスラの箱がそう言っていた。
晴れるということは、出撃だということでもある。
「……なあ」
「今度はなんだ」
「明日、たぶん来るぞ」
「歩行戦車型か」
「うん」
「そうだな」
彼女は懐に手を入れ、それから、やめた。
「……四本目はやらん」
「なんでだよ」
「明日に響く」
「今さらか」
「今さらだ」
尚樹は肩をすくめて、吸い殻を雪に埋めた。
「じゃあ、寝る」
「ああ」
歩き出した背中に、ビューリングは声をかけた。
「おい」
「なに」
「明日、私の後ろは飛ぶなよ」
「なんで」
「私が守られたら、格好がつかん」
彼は少しだけ振り返り、実にあっさり言った。
「じゃあ、隣を飛ぶよ」
「……ふん」
扉が閉まる。
一人になった軒下で、エリザベス・フレデリカ・ビューリングは、結局四本目に火を点けた。
「……最低だな、本当に」
煙が、星の方へ上がっていった。
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