テントの一番風下、入口に近い場所で、尚樹が針を動かしていた。
こんな時間まで起きている理由は、膝の上に広げられた飛行服を見れば分かる。
十二試艦上戦闘脚の肩帯が擦れて、脇の縫い目が裂けていたのだ。持ち主が「まだ着られます」と言い張ったものを、半ば取り上げてきた。
「中川少尉」
ハルカが立っていた。
「あー、まだ終わってない。あと五分」
「いえ、そうではなく」
「ん?」
「……ありがとうございます」
尚樹は針を止めた。
「なんだよ、気持ち悪いな」
「気持ち悪いとはなんですか!」
「いつもは『どうせ智子お姉様に近づく口実でしょう』って言うだろ」
「言いますけど」
「言えよ」
「……どうせ智子お姉様に近づく口実でしょう」
「棒読みすぎるだろ」
ハルカは、へへ、と笑った。
笑って、そのまま毛布のところへ戻っていった。
尚樹は、しばらく針を持ったまま動かなかった。
コン平がのそりと膝の上に乗ってくる。
『クルル』——(あの子、匂いが変わりましたな)
「……そうか?」
『クルルル』(森の匂いです。ここの森ではない、別の森の)
「……」
『どうかされましたか』
「いや」
彼はまた針を動かし始めた。
「明日、着せる。それだけだ」
---
「智子少尉」
ハルカの鳴き声。智子は顔を向けずに返事をする。
「聞こえない」
「聞こえていますよね。やっぱりチュインニさんっておかしいです」
「変な方が生き残れるらしいわよ」
「でも都合よく記憶が消えたりしてません?」
智子はハルカの方に寝返りを打つ。眼は開けない。
「……さあ」
「実は私も変なんです」
「でしょうね」
「智子お姉様のことを考えるだけで胸がどきどきするんです。それは普通なんですけど、最近は抱きつく気が起きなくて、これはきっと愛しすぎて身体が動かなくなる病気で……」
「そういうのは病気って言わない」
暗がりから声がした。
「うわ、聞いてたんですか中川少尉!」
「テントの中で喋ってるだろ。聞こえない方が難しい」
「デリカシーがないです!」
「あるよ。だから聞こえないふりを三十秒くらいしたぞ」
「短い!」
智子は、目を閉じたまま片手を振った。
「二人とも黙りなさい。寝るのよ」
「智子お姉様が私を叱ってくれました……!」
「寝ろ」
『ふぁ』
『クルル』——(お嬢様、寝相にお気をつけを)
「うるさいわね」
そういえばハルカは最近暴挙を控えめにしていた。チュインニといいハルカといい、義勇独立飛行中隊は変な人間がますますおかしな行動をとるから収拾がつかない。気にしてたらこっちまでおかしくなりそうだ。なるべく考えないようにしよう。そんなことを思いながら、智子はまどろみに身を委ねていった。
だから、テントの入口で明け方まで灯りが点いていたことにも、気づかなかった。
---
翌日も天候は荒れており、吹雪のまま。
——中略。カレリア地峡でネウロイの前進が停止。骨休め——
その翌日は打って変わって晴天だった。義勇独立飛行中隊はエルマのテントに集合した。
エルマは緊張の面持ちで、皆に告げた。
「写真解析の結果、やはりネウロイの集結が認められました」
——中略。地図上の丸印。前線投入前に叩いてほしいという要請——
「私たちが偵察したときは、もっとラドガ湖の東に足跡があったぞ。そっちは別なのか?」
とビューリング。エルマはゆっくりうなずく。
「そうなんですが、印をつけた方が緊急だということです」
「……中隊長」
尚樹が手を挙げた。
「東の方、写真は残ってますか」
「あります。けど、そっちは今回の要請とは別で」
「見せてください」
エルマが写真を回す。彼はそれをしばらく眺めていた。
「なにか?」
「足跡の向きが、全部同じだ」
「……向き、ですか」
「散らばってない。東から西へ、一列に近い形で来て、そこで消えてる」
「消えてるって、どういうことよ」
智子が覗き込んだ。
「途中でぷつっと途切れてる。雪で消えたにしては切れ方が綺麗すぎる」
「……なんですかそれ」
「知らん。だから気になってる」
彼は写真を返した。
「今日じゃなくていいです。要請は要請でやりましょう。ただ、覚えておいてください」
「はい」
「あと」
「まだあるんですか」
「敵に『来ると分かってる場所』へ行くんです。三回目ですよ、この森は」
エルマの顔が、少し硬くなった。
「……気をつけます」
「気をつけるじゃ足りません。中隊長、逃げる線を先に決めておいてください」
「先に、ですか」
「先にです。始まってから決めると、絶対に遅れます」
智子が横から茶々を入れた。
「あんたが言うと説得力ないわね」
「なんでだよ」
「あんた、逃げたことないでしょ」
「あるよ。大陸で三回」
「嘘つきなさい」
「本当だって。三回とも、全員連れて逃げた」
「それ逃げてないでしょうが!」
「うるさいな、逃げは逃げだ」
ビューリングが煙草を咥えたまま呆れた。
「智子。こいつに『逃げる』の定義を教えるのは骨が折れるぞ」
「知ってるわよ、二年やってるんだから」
---
オヘアが言う。
「ユーティライネン中尉はどうしたねー」
「とっくに出撃しました」
「ずいぶんタフね」
「またネウロイを倒せるって、うきうきしてましたよ」
「……あと、置き手紙がありました」
エルマが紙切れをつまみ上げる。
「『扶桑の少尉へ。この前の借りは返す。ただし利子は身体で払え』……あの、これ、どういう意味ですか?」
「読まなくていいです」
「私、中隊長として内容を把握する義務が」
「ないです。ないですから」
「あるでしょ」
智子が紙切れを奪い取ろうとする。尚樹が先に取り上げて丸めた。
「借りってなによ」
「森を切り拓いてもらった借りだ」
「利子は?」
「知らん」
「あんた、あの人になに約束したのよ」
「してない! なんもしてない!」
「顔が赤いわよ」
「寒いんだよ!」
オヘアが手を叩いて笑った。
「ナオキ、モテモテねー!」
「キャサリンも黙っててくれ」
ウルスラが淡々と挙手した。
「中川少尉。当該記述について、生物学的観点から質問が」
「駄目だ」
「まだ何も言っていません」
「言われる前に駄目だ」
エルマは、ぱんぱんと手を叩いた。顔が赤い。
「し、静粛に! 出撃の話をします!」
義勇独立飛行中隊の任務は地上攻撃である。ただ爆弾は全てラッペーンランタに置いてきた。よって機銃掃射がメイン。
「ネウロイに先手を取られるかもしれません。すぐに出ます」
エルマが宣言し、義勇独立飛行中隊は全機が出撃した。
出る間際、尚樹はハルカに畳んだ飛行服を放った。
「着ろ」
「あ、はい」
「脇、二重に縫った。もう裂けない」
「……ありがとうございます」
やっぱり、他人行儀だった。
---
大ざっぱに除雪された滑走路を使い、ウィッチたちは、一機、また一機と離陸する。
尚樹は最後に地面を蹴った。ストライカーユニットを履かない彼には滑走路が要らない。腕輪に触れ、白亜が組み上がり、そのまま垂直に上がって編隊の右上方についた。
——中略。オヘアが航法で先導。凍結した湖と河川の判別——
オヘアが叫ぶ。
「いたねー!」
「攻撃開始です!」
エルマの号令。全員緩降下しながら引き金を絞った。
——中略。地上型ネウロイが次々に爆散。対岸のスオムス兵から歓声——
「褒められたねー」
「呑気にしてないで上昇!」
『扶桑一番、後ろ空いてる』
「見てるわよ!」
『見てない。首振ってないだろ』
「振ったわよ!」
『振ってない。俺ずっと上から見てるんだぞ』
「なら黙って見てなさいよ!」
『見てるって言ってるだろ』
ビューリングが割り込んだ。
「智子。こいつの目的はお前を苛立たせることだ。乗るな」
「乗ってないわよ!」
『乗ってる』
「乗ってない!」
エルマが小声で「……仲がいいなあ」と呟き、智子に「なんですって!?」と怒鳴られた。
---
「数が少ないな」
ビューリングが地上を見つめながら言う。
「たんなる威力偵察かもしれん」
「奥に行きます」
エルマが命じた。
「やっぱり敵の集結点を叩く必要がありそうです」
——中略。高度を下げての捜索。降雪で足跡が消えている。編隊解除——
智子は目を細める。目の前の森に神経を集中した。
(……ん?)
森の奥でなにか光った気がする。
躊躇しなかった。八九式機関銃の引き金を引く。ぱっと銃弾が飛び、森の奥で炸裂した。
「発見!」
智子は全員に叫んだ。
「森の中にネウロイ多数!」
同時に木の陰から火線が空に伸びる。
——中略。ウィッチたちが集結し、降下攻撃。多数の地上型ネウロイを撃破——
再び地上から火線が伸びる。今度は銃弾だけではなかった。
「シールド!」
急いで智子は叫んだ。実体弾に交じって、赤い光の線があった。間一髪、ウィッチたちはシールドを張ることに成功し、ビームは弾けた。
「新型!?」
ビューリングが驚いている。
「黒いやつが陸上型にも出てきたのか!」
「ちょっと分が悪いねー!」
シールドを張り続けながらオヘアが声を張り上げた。
「こんな攻撃、いつまでも受けられないねー。体力が無くなるねー!」
『——散れ!』
上から声が降ってきた。
次の瞬間、白い装甲が全員を追い越して、そのまま森へ突っ込んでいった。
「ちょっと!」
『十秒だけ持たせろ』
尚樹は樹冠すれすれで機体を横倒しにし、脛のランドスピナーを唸らせて雪面を滑走した。圧雪の上を、雪煙も上げずに、恐ろしい速度で。
地上のビームが、一斉に彼を追う。
追った。つまり、上には行かなくなった。
「シールド解除できます!」
エルマが叫ぶ。
「今のうちに高度を!」
ウィッチたちが一斉に上昇する。地上の火線は白い一点に張り付いたまま、ついていけずに雪原を掘り返していた。
「……あいつ」
智子は歯を食いしばった。
「また囮やってる」
「上手いもんだ」
ビューリングが感心したように言う。
「あれは度胸じゃない。あそこまで近づいても当たらないと知っているんだ」
「知ってるから腹が立つのよ」
『——抜けた』
雪煙の切れ目から、白い装甲が跳ね上がってきた。
装甲の右腿に、光線が舐めた跡が一本ついている。
「当たってるじゃない」
『掠っただけだ』
「掠るのも当たってるって言うのよ!」
『言わない』
「言うの!」
「上空に退避します!」
エルマが言うが、智子は反駁した。
「攻撃しましょう! あいつらを放っておいたら、味方がやられます!」
「一度態勢を立て直す方が先です! 言うことを聞いて下さい!」
エルマはあまり強い口調で命令をしない。むしろお願いという形を取ることが多い。だが今は珍しく、中隊長の権威を使っていた。
『中隊長の言う通りです』
尚樹が言った。
智子が振り向く。
「あんた、さっき自分で突っ込んだでしょうが!」
『俺は突っ込んでいい』
「なによそれ」
『魔力が減る。シールドは有限で、俺のは装甲だ。同じ土俵で数えるな』
「……」
『それに、中隊長がそう言ってる。以上』
彼はそれ以上、何も言わなかった。
智子は舌打ちをして、高度を上げた。
——腹が立つのは、正論だからではない。
こいつが「中隊長がそう言ってる」と言うときは、たいてい、自分でもそう思っているときだからだ。
---
雲を見つけ、その上に出る。これでネウロイは撃ってこられない。全員シールドを引っ込めた。
——中略。魔力消耗の重さ。黒いネウロイが小型地上型にまで混じり始めた進化の兆し——
「攻撃しましょう」
それでも智子は言った。
「あいつらを放置できません」
「私たちには機銃しかありません」
とウルスラ。
——中略。多連装ロケット発射機はカールスラント本国へ送られている——
「火力に不安があります」
「でもやんなきゃ駄目よ。アウロラさんだけに頼れないでしょう」
「それはそうですが……」
『火力は俺が出します』
尚樹が腰の後ろに手を回した。
装甲の腰部で機構が展開し、ずんぐりとした砲がマウントされる。
「なにそれ」
『ヴァリス。前から積んでた』
「積んでたなら先に出しなさいよ!」
『さっき森に潜られてたら無駄撃ちになる。出てきてから出すもんだ』
「……」
『どうした』
「腹立つ」
『理由が雑すぎるだろ』
エルマは悩む仕草を見せた。攻撃の可能性と危険度を天秤にかけている。
「……そうですね」
小さくうなずく。
「地上攻撃を続けます。ただし」
喜んだ智子に釘を刺す。
「単独じゃ駄目です。シールドを張る係と、攻撃の係を分けます」
「そんな面倒な」
「安全が優先です」
大急ぎで編隊が組まれる。オヘアとウルスラ、ビューリングがシールドを張り、智子とチュインニで攻撃をする。
「エルマ中尉とハルカさんは上空待機で警戒を。それと」
エルマは、上の白い一点を見上げた。
「中川少尉も上空です」
『俺は下でいいですよ』
「駄目です」
『中隊長——』
「駄目です。あなたが下にいると、皆さんが『どうせ中川少尉が受けてくれる』って思っちゃうんです」
『……』
「私、それが一番怖いんです」
装甲は、しばらく黙った。
『……了解』
「一番速いんですから、一番高いところにいてください。上から見て、なにか来たら真っ先に落ちてきてください」
『了解』
智子は、そのやり取りを横で聞いていた。
——エルマ中尉、こいつの扱いが上手くなったわね。
そう思って、少しだけ面白くなかった。
---
「私がお前の露払いをするとはな」
ビューリングが文句を言った。
「自分が貶められた気分だ」
智子はわざとらしくにやついた。
「私は最高なんだけど」
「貸しにしておく」
「聞こえない聞こえない」
三人がシールドを展開。智子とチュインニは後ろで銃を構えた。
「やるわよ!」
智子が号令する。五人のウィッチは急降下に入った。
——中略。雲を突き抜け、四方八方からの対空砲火をシールドで受けきる——
「シールド縮めて!」
智子が叫ぶ。三人がシールドの展開範囲を小さくした。その隙間を縫って、智子とチュインニが撃つ。
同時に、上空から一条の重い光が落ちてきた。
ヴァリスの初弾が森の中心を抉る。
二本の連続した銃弾と、その一発。一拍置いてから、これまで以上に大きな爆発が沸き起こった。
「やった!」
身体を起こす。木の梢すれすれをかすめた。ウィッチたちは上昇に入る。
「もう一度できるわね。用意して!」
智子の声が弾み気味になった。高度をとってから、再度攻撃に入ろうとする。
その時。
『——上!』
尚樹の声が、無線を突き破った。
同時にエルマの悲鳴が重なる。
『逃げて下さい!』
思わず智子は言い返した。
「まだできます!」
「そうじゃありません!」
頭の上に黒点が出現した。
全部で六つ。高高度から速度を上げて接近してくる。
「ネウロイ!?」
智子たちは急いで編隊を解こうとした。
突っ込んでくるのは小型ネウロイ。外観はバラのつぼみそっくり。そして全部が黒い外板で覆われていた。
つぼみの先端を先にして飛んでいる。もの凄い速度だ。
そして、その速度は——
『速い……!』
尚樹は、装甲の推進機を全開にした。
彼は最高高度にいた。六つは、その彼のさらに上から来ていた。
つまり、最初から、彼の頭を越える高度で待っていたのだ。
(読まれてる)
急降下。空気が悲鳴を上げる。だが間に合うか。
彼が計算したのは距離ではない。六つの矛先が、どこを向いているかだった。
——全部、ハルカだ。
一つ残らず、ハルカに向かっている。
エルマとハルカが迎撃しようとするが、速度に違いがありすぎる。武器を構える前に、全ての攻撃がハルカに向かっていた。
空中に光の線が乱舞した。
「危ない!」
エルマは撃つのを諦め、シールドを張りながら身体を投げ出した。ハルカに注がれたビームの全てを受け止める。
『——中隊長!』
外板が剝がれ、魔導エンジンが剝き出しになる。部品が破壊されて脱落し、火と煙を噴いた。
「きゃあああっ!」
シールドが破裂する。一本のビームがエルマのストライカーユニットを貫いた。
エルマの身体が揺れ、そのまま落下していった。
---
その瞬間、尚樹の前には二つの線があった。
一つは、真下。落ちていくエルマ。
もう一つは、東南。六つのネウロイが抜けていった先。そこへ、なにかが滑り出そうとしている。
同時には行けない。
彼は、コンマ二秒で決めた。
『——キャサリン! チュインニ! 下!』
叫びながら、真下へ落ちた。
装甲の推進機を逆に噴かせ、雪原まで四百メートルのところで、火を噴くG.50ごとエルマを掬い上げる。
衝撃で装甲の左腕が軋んだ。
『エルマ!』
返事はない。目を閉じている。首が支えを失ってぐらぐらしていた。
だが、呼吸はしている。
『——生きてる。キャサリン、受け取れ!』
「オーケーねー!」
上がってきたオヘアとチュインニに、彼はエルマの身体を渡した。
渡しながら、東南を見た。
そして、そこで初めて理解した。
「ハルカさんがいません」
ウルスラの声が無線に流れた。
---
「……あそこ」
チュインニが指さす。
人の姿が二つ、遠ざかっていた。東南の方向。ラドガ湖東岸に向かって飛んでいる。
「多分あれ……」
「なんで!? ていうか、隣にいるの誰よ!」
疑問は後だ。智子はキ44の魔導エンジンを全開にして追いかけた。
その横を、緑の光が一直線に追い越していった。
「ちょっ——」
『先に行く』
「待ちなさい!」
『関係ない』
空気が裂ける。
白い装甲は加速し、加速し、雲を突き抜けて、あっという間に智子の視界から小さくなった。
「あの馬鹿!」
「智子、追うな」
ビューリングが叫ぶ。
「お前の機体では届かない」
「分かってるわよ!」
分かっている。分かっているから腹が立つ。
---
視界の中で、それは急速に大きくなった。
ハルカと、その隣を飛ぶもの。
二本の手と二本の足。ストライカーユニットのようなものを装着している。全身が銀色で、日光を反射して輝いている。
形は、ウィッチそのものだった。
——斬る。
尚樹の判断は、そこで完結していた。
抜刀し、装甲の右腕が引き絞られる。距離、五百。四百。三百。
あれを断てば、ハルカは戻る。
そういう手順のはずだった。
だが。
取り付く直前。
ハルカが、割り込んだ。
「————」
十二試艦上戦闘脚が横に滑り、銀色の人型の前に出る。
両腕を広げていた。
かばい立てである。
明確に、意思を持って、自分の身体で相手を守っていた。
『——ハルカ!』
返事はない。
そして尚樹は、その至近距離で、彼女の顔を視た。
眼鏡はかけていない。目は開いている。焦点も合っている。
だが。
——帰ってこない。
呼びかけても、掴んでも、引きずっても、意味がない。
彼が理解したのは、そこまでだった。
理解し終わる前に、銀色の人型の胸部が展開した。
赤いパネル。それが六つ。
至近距離。回避距離ゼロ。
掃射。
---
装甲は、そこで曲芸をやった。
刃を捨て、右肩の推進機を逆噴射させて機体を垂直に立て、そのまま横回転をかけながら光の束の間を抜けた。
一本目が左脇を通る。
二本目を上体を折って躱す。
三本目は装甲の表面を舐めて逸れた。
四本目、五本目、六本目——
すべて、通り過ぎた。
高度差三十メートルで、彼は姿勢を立て直した。
一発も、当たっていない。
至近距離からの六条の同時掃射を、装甲一枚傷つけずに抜けきった。
——だが。
その間に、二つの影は遠ざかっていた。
追えない距離ではない。速度なら追いつける。
だが、追いついたところで、また同じことが起こる。
ハルカが割り込む。ハルカを傷つけずにあれを斬る方法はあった。斬れなければ、ハルカは戻らない。
ならなぜ?
——斬ったところで戻るかどうかも、分からなくなった。
さっき視た目は、そういう目だった。
「…………」
彼は、空中で止まった。
止まったまま、二つの影が雲の中に溶けていくのを見ていた。
結局は、無意味な曲芸だった。
一発も食らわなかったことに、何の意味もない。
守れなかった。
---
智子とビューリングが追いついてきたのは、その一分後だった。
「尚樹!」
「……」
「ちょっと! 返事しなさいよ!」
白い装甲は、東の空を向いたまま動かない。
面覆いは閉じられている。表情は見えない。
「……ハルカは」
「……行った」
「行ったって、なんでよ! あんたなら追いつけたでしょ!」
「追いついた」
「じゃあなんで!」
「斬ろうとした」
装甲がゆっくりと振り返った。
「ハルカが庇った」
「……は?」
「あれの前に出て、両手を広げた」
智子の顔から、血の気が引いた。
「……なにそれ」
「そういうことだ」
「自分の意思で!?」
「意思かどうかは分からん。だが身体は自分で動かしてた」
「……」
「そのあと、六本撃たれた」
ビューリングが目を細めた。
「当たったのか」
「当たってない」
「なら上出来だ」
「上出来じゃない」
その声は、これまで誰も聞いたことのない調子をしていた。
低い。低くて、平坦で、そして——冷たかった。
「一発も食らわなかったのが、なんの役に立つ」
「……」
「連れて帰れなかったら、全部同じだ」
「尚樹」
「……」
「ねえ」
智子は、装甲の腕を掴んだ。
引っ張っても動かない。当たり前だ、重量が違う。
だが、掴んだ。
「戻るわよ」
「……」
「燃料がないの。」
「……」
「戻って、エルマ中尉を診てもらって、それから考えるの」
「……」
「聞きなさいよ!」
装甲の肩が、ようやく動いた。
『……やかましい』
短い返事だった。
彼は東の空を最後にもう一度だけ見て、それから機首を西へ向けた。
その右肩の装甲には、光線が舐めた跡が一本、黒く走っていた。
---
帰投中、誰も喋らなかった。
エルマはオヘアとチュインニに支えられたまま、意識が朦朧としている。ウルスラが定期的に呼びかけて反応を確認していた。
智子は、隣を飛ぶ白い装甲を、時折見た。
——こいつがこうなるのを、私は一度だけ見たことがある。
事変の終わり、大陸から撤退のときだ。
輸送船に乗り切れなかった住民が残された港を、こいつは最後まで飛んでいた。何度も往復して、そして最後には、何も言わなくなった。
あのときと同じ顔をしている。面覆いの下は見えないが、分かる。
「……ねえ」
『なんだ』
「あんたのせいじゃないわよ」
『分かってる』
「分かってないでしょ」
『分かってる』
「じゃあ、なんでそんな声出してんのよ」
返事はなかった。
しばらくして、彼はぽつりと言った。
『……笑ってた』
「え?」
『ハルカだ。庇ったとき、笑ってた』
智子は言葉を失った。
『あれがまずい』
「……なんでよ」
『無理やり連れてこられたなら、力ずくで取り返せばいい。だが、あれは違う』
「……」
『自分で行ってる』
雲の下に、ヴァルチラの雪原が見えてきた。
滑走路の脇で、村の人たちが手を振っている。
その数が、行きより一人分少ないことに、誰も気づいていないようだった。
---