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尚樹は帰投すると再び腕輪に触れ、ランスロットを霧のように四散させて解除した。
白い装甲が粒子となって散り、あとには飛行服姿の少年が一人残る。整備員の何人かが手を止めて見ていたが、目が合うと慌てて逸らした。
基地ではエルマが出迎えてくれた。彼女は心の底からほっとしていた。
「よかった……。墜ちたって聞いて、心配してました」
智子は軽く頭を下げた。
「どうも。訓練中に事故を起こしてすみません」
「いいんです。無事でよかったです」
どう見ても本心なので、さすがに智子は申し訳なくなった。
「智子少尉、大丈夫でしたか!?」
これはハルカだ。両手を胸の前で合わせて目を潤ませている。智子は安心しろと言わんばかりに手を振った。
「ぴんぴんしてるわよ」
「確認させてください。具体的には二人きりになって服を脱がせて身体の隅から隅まで……」
不穏なことを口走りだしたのでハルカの前から離れる。すると、今度は別方向から、もっと甲高い声が飛んできた。
「おほ、おほ、おほほほほっ!」
笑い声だ。智子は華族でもいるのかと、己の耳を疑った。
右手側に、曇天の下でも非常に目立つ金髪をした少女がいた。前髪は持ち上げられ、顔の両側に垂れた髪はロール状になっている。身長は智子よりも高く、やたら高飛車なのが笑い声からよく分かった。
彼女の後ろには同年代らしい少女が六人。揃ってスオムス空軍の青いマークをつけた制服を着ていた。
「まったくお話にならないわね!」
智子たちに向かって言っているらしい。言われている方は、なんだこの近所で物笑いの種になりそうなインチキ華族のお嬢様はと思っていた。
「義勇兵が来たというから見に来たのに、とんだ不良外国人ばかりね!」
言い返そうとした智子より早く、エルマが口を開いた。
「ミカ・アホネン大尉!」
不良呼ばわりされたことも忘れ、智子は危うく笑いそうになった。アホネンが目ざとく見つける。
「そこのあなたと、そこのあなた! 今笑わなかった!」
指を指されたのは智子と、隣のハルカである。二人は首を振る。
「いやまさか」
「とんでもありません」
頬の内側を噛んで必死に取り繕う。ハルカは自分の太ももを思い切りつねっていた。
アホネンはなおも疑い深く見つめつつも、
「まあいいわ。下から見てたけど、いきなり事故を起こしたみたいね。なにをしに来たのかしら」
「訓練に熱が入っただけよ」
なんとか笑いを引っ込めて、智子は言い返す。アホネンは「ふん」と言った。
「どこが熱心なの? あなたとブリタニア人は時代錯誤の刀で格闘戦、そこのカールスラント人はどこか遠くに行ってしまうし、リベリオン人はただ突っ込んできただけ。まともなのはもう一人の扶桑人だけじゃないの!」
もう一人が一番まともじゃないわよと智子は思う。ハルカ本人はいやそんなと何故か照れていた。
「あなたたちは二番目どころじゃないわ。一番下。いらないウィッチを集めたいらない中隊! いらん子中隊ね!」
「いらん子中隊!」
智子は激昂した。
「あんたみたいなエセ華族に言われたくないわよ!」
「わたくしのは地よ! 自分たちが役立たずでいらないウィッチの集まりってことくらい、認めたらどうかしら!」
そこまでは、まだよかった。
売り言葉に買い言葉。子供の喧嘩の範疇である。智子とて、こういう手合いは扶桑の飛行学校にいくらでもいた。
だがアホネンの視線が、ゆっくりと横へ滑った。
そして、止まった。
一番後ろで、荷物を降ろしていた少年の上に。
「――ああ、それと」
彼女の声が、明らかに変わった。
先ほどまでの、芝居がかった高飛車な調子ではない。もっと低く、もっと粘つく、本命を取っておいた者の声だった。
「一つ、伺ってよろしくて?」
「なによ」
「あちらの殿方は、どういうご身分なのかしら」
「隊員よ。あんたと同じ、飛ぶ人間」
「あら」
アホネンは口元を扇のように手で覆った。
「わたくし、てっきり整備の方かと。あるいは、荷物持ちの方かと」
後ろの六人が、居心地悪そうに視線を揃えて睨みつける。
「ご存知ないのかしら? ウィッチというものはね、女しかいないのよ。女の子が、女の子だけで、命を懸けて空を守る。そういうものなの。だからわたくしたちの間には、殿方には決して分からない繋がりがあるの」
「……」
「そこの、扶桑の可愛らしい方」
指を差されたハルカが、びくりと肩を跳ねさせた。
「あなた、憧れのお姉様がいらっしゃるのでしょう? 素敵なことだわ。とても、自然なことよ。わたくしたちの世界では、珍しくもなんともない。むしろ、そうやって育っていくものなの」
言われている当人が、なんと答えていいか分からず口をぱくぱくさせている。
アホネンは満足そうに頷いた。
「だからこそ、よ」
そして、再び尚樹を見た。
「そこに、男が一人。花園に、蜂が一匹紛れ込んだようなものだわ。蜜を吸いに来た、浅ましい蜂が」
「いいえ、蜂は失礼ね。蜂はまだ飛べますもの」
彼女は笑った。
「地べたを這って、葉の裏側から、じわじわとにじり寄ってくる毛虫。ええ、そちらの方が近いわ。気づいたときには、花が食い荒らされているの」
飛行場の空気が、変わった。
後ろの六人は、もう誰も上官の顔を見ていなかった。
彼女たちにも、生理的な不快感はあった。それは確かにあった。だがそれは、ハッキネンや基地の文官たちが抱いていたものと同種の、未知への警戒でしかない。この隊にどう挨拶したものか、あの男に敬礼は必要なのか、そういう類の困惑だ。
少なくとも彼女たちは、ここまで言うつもりで来たわけではないらしい。一人が小さく「大尉」と呼びかけたが、届かなかった。
「ミカ・アホネン大尉!」
エルマが声を上げた。震えていたが、上げた。
「今の言い方は、その、あの、駄目です!」
「駄目、とは」
「駄目です!」
「語彙が足りていませんよ、中隊長殿」
「駄目だと思うので駄目です!」
エルマの決死の隊長的振る舞い、しかし虚しかった。
なぜなら、その時にはもう、別の場所で火が点いていたからである。
智子は、アホネンの言葉を一字一句、最後まで耳に入れていた。
蜂。毛虫。這い付いてくる。浅ましい。
その語彙の一つ一つが耳に入るたびに、脳の裏側で別の光景が焼き付いていく。
乾いた滑走路。大陸の泥沼。台風の目の中
光線の奔流を身一つで受け止め続けていた白い背中。電の障壁に両腕を突き立てて、自分ごと放電させたあの姿。
『軽い電気マッサージですよ、タケさん』
――そう言って空に緑の残光を残し、身を文字通り焦がした馬鹿を、地べたを這う毛虫と呼んだ。
コアを両断し、全部終わったと振り返ったとき、光の翼が消えて、糸の切れた人形のように落ちていった白銀。海面すれすれで抱きとめた、あの重さと冷たさ。腕の中で確かに打っていた脈。
そして数日後、病室で目を開けて、開口一番にタチの悪い冗談を言った、あの生意気な顔。
――あれを、蟲と呼んだ。
智子の中で、それは尚樹一人への侮辱では収まらなかった。
あの空にいた全員への侮辱だ。若本徹子。竹井醇子。坂本美緒。北郷章香。江藤敏子。黒江綾香。加東圭子。加藤武子。――あの日飛んで、今も飛ぶウィッチたちと、二度と飛べなくなった扶桑のウィッチたち、その全員。
あいつの隣で戦ったすべての女への、愚弄だ。
智子の目が、段階的に据わっていく。
眉が下がり、口の端の力が抜け、瞳孔の焦点だけがアホネンの喉元に固定されていった。呼吸が浅くなり、右手が、ゆっくりと腰へ動く。
指が、備前長船の柄にかかった。
「……智子少尉?」
ハルカが「あっ」と声を出す。エルマが気づいて青ざめる。ビューリングが煙草を口から離した。
「あら、なにかしら。抜くの? 抜いてくださる? 上官に向かって刃を――」
刃が、鍔から一分ほど滑り出た。
その時。
尚樹が、右手を上げた。
仕方がない、とでも言いたげな、実に緩慢な動作だった。
アホネンは、それを見て初めて彼の方を正面から向いた。ようやく口を開くらしい。何を言うのか。弁解か、抗議か、みっともない言い訳か。この殿方は、どんな鳴き声で泣くのか。
彼女は、その瞬間を心待ちにした。
尚樹は言った。
「突撃」
「――は?」
飛行場の四方から、白と茶と灰色の影が一斉に走った。
「きゃあああっ!?」
最初に到達したのはハルカのタヌキだった。助走をつけてアホネンの腹に飛びつき、そのまま制服の胸元をよじ登る。続いてオヘアのアライグマが肩に取りつき、器用な前足で髪のロールをほどきにかかった。
「な、なんですのこれ! おやめなさい! 離れなさい!」
「ちょ、大尉!」
「頭! 頭に付いてます!」
ウルスラのアナグマが足元をぐるぐる回り、ブーツの紐を引き抜いた。エルマのミンクが襟から首筋へ滑り込み、後ろの六人の一人が「ひゃっ」と跳ねた。
顔を舐められ、指を甘噛みされ、髪を毟られ、六人と一人が悲鳴を上げながらてんやわんやになる。棒立ちだった六人は完全に反応が遅れ、上官を助けようとして自分に取りつかれ、引き剥がそうとして自分の髪をほどかれた。
そして最後に。
白い狐が、低く、静かに、アホネンの背後へ回り込んだ。
「コン」
『非礼である』
ぱぁん、と。
見事な弧を描いた尾が、彼女の尻を一発、思い切りはたいた。
「――きゃんっ!!」
これまでで一番高い声が、ウッティの飛行場に響き渡った。
飛び上がったアホネンが、自分の口から出た音に自分で愕然とし、真っ赤になって振り返ったときには、コン平はもう智子の足元に戻って毛づくろいをしていた。
「な、な、な……!」
「ああ、すまない」
尚樹は淡々と言った。
「うちの連中、人懐っこくてな」
「わ、わたくしに、なにを、なんてことを――!」
「使い魔は主人の気分を映すそうだ。……そういうものらしい」
彼はそれ以上何も言わなかった。
代わりに智子の横を通り、刀の柄にかかったままの彼女の手首を、指二本で軽く押さえた。
「……仕舞え」
「……」
「お前が抜いたら、彼女が被害者になる」
智子は、一秒だけ動かなかった。
それから、きん、と小さな音を立てて刃を鞘に戻した。
「……覚えてなさいよ」
「わたくしの台詞ですわ!」
髪を半分ほどけさせ、ブーツの紐を垂らし、涙目になったアホネンは、それでも最後の矜持で背筋を伸ばした。
「訓練することね! そうすればトナカイ程度なら倒せるようになるわよ! おほほ、おほほほほ!」
高笑いの音程が明らかに乱れていた。
彼女は部下たちをうながし、逃げるようにして去っていく。六人のうち何人かが、去り際に一度だけ振り返り、ばつが悪そうに小さく頭を下げていった。
騒ぎの残った廊下で。
ビューリングは、腕の中で暴れようとしていた自分のダックスフンドを、最後まで離さずに抱え上げていた。飛び出そうとする短い脚を押さえ込み、鼻先を掌で塞ぎ、突撃だけはさせなかった。
彼女は、そのふくらんだ胴体を撫でながら、誰にも聞こえない声でぼそりと呟いた。
「……二人目、か?」「ぴー」
犬が、不服そうに一声鳴いた。
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