ハリー・ポッターと東洋の魔剣士 作:キャン
第1話 ホグズミード駅の留学生
その城を、日本人の少年は知らないはずだった。
小さな列車が最後の息を吐き出すように、白い蒸気をホームへ流した。
一九九一年十月十日、夕刻。
窓の外には、濃い霧に沈んだ古い駅舎があった。雨に濡れた石のホーム。ところどころ塗装の剥げた木のベンチ。黄色いランプの下で、黒い文字の駅名標がぼんやり浮かんでいる。
HOGSMEADE
ホグズミード。
九月一日に生徒たちを運んだという真紅のホグワーツ特急ではない。日本魔法省と英国側が手配した国際移動門を抜けたあと、悠太が乗せられたのは、二両きりの古びた連絡列車だった。
乗客も、悠太一人だけである。
「ずいぶん盛大な歓迎だな」
窓へ映った自分に、悠太は日本語で呟いた。
黒に近い焦げ茶色の髪は、長い旅のせいで少し乱れていた。中央近くで自然に分かれた柔らかな前髪が、形のよい眉と大きな黒い瞳のそばへ落ちている。まだ幼さの残る細い顔立ちに、緊張を隠そうとした静かな表情が浮かんでいた。
十一歳。
どう見直しても、窓の中にいるのは十一歳の少年だった。
悠太は白いシャツの襟を直し、まだ寮の色を持たない黒いネクタイを締め直した。新品のホグワーツ用ローブにも、寮章はついていない。どの寮に入るかは、今夜にならなければ決まらないからだ。
「今さら髪を直しても、長旅はなかったことにならないか」
そう結論づけると、悠太は座席の下から古い革のトランクを引き出した。真鍮で補強された角には、国際魔法移送の札が何枚もぶら下がっている。日本魔法省教育局の封印だけは、雨に濡れても赤く鮮明だった。
ローブの内側へ手を入れ、杖があることも確かめる。
縄文杉。芯は九尾の狐の牙。
扱いの難しい杖だと、選ばれた時に何度も言われた。けれど悠太の手に収まった時だけは、不思議なほど静かだった。
もっとも、杖を持ったのはマホウトコロへ入学した今年が初めてのはずなのだが。
列車の扉が軋みながら開いた。
冷たい空気が入り込み、悠太の頬を撫でた。島根の山にも冷える日はある。しかしこの土地の寒さには、水気を含んだ指で服の隙間を探られるようなしつこさがあった。
悠太はトランクを両手で持ち上げ、慎重にホームへ降りた。
靴底が濡れた石を踏む。
その瞬間、胸の奥で何かが鳴った。
音ではなかった。
鐘に似ていたが、耳には聞こえない。ずっと遠くで呼ばれた名前を、心臓だけが聞き取ったような感覚だった。
悠太は振り返った。
霧の切れ間から、黒い湖が見えた。さらにその向こう、高い岩山の上に無数の塔が立っている。夕闇へ溶けかけた巨大な城の窓には、金色の明かりが灯り始めていた。
ホグワーツ魔法魔術学校。
今日から学ぶ場所。
初めて見る城。
そのはずなのに。
「……懐かしい?」
口にした途端、胸が締めつけられた。
温かいものと、鋭い痛みが同時に込み上げた。長い旅の果てに帰宅したような安堵と、帰ったところで迎えてくれる者はもう誰もいないような喪失感だった。
意味が分からない。
ガイドブックの写真を見すぎたのだろうか。旅の疲れかもしれない。国際移動門を通った直後には、胃袋だけ日本に置いてきたのではないかと思うほど気分が悪くなった。その影響が残っている可能性もある。
悠太は自分へそう言い聞かせた。
けれど、写真を見て胸の古傷が痛むことなどあるのだろうか。
古傷。
なぜ、そんな言葉が浮かんだのかも分からなかった。
背後で列車の扉が閉じた。
短い汽笛が鳴り、二両の列車は来た時と同じように霧の中へ消えていった。車輪の音が遠ざかると、ホームには雨だれの音だけが残った。
その静けさの向こうから、穏やかな声がした。
「長い旅じゃったようじゃな、ユウタ」
悠太は勢いよく振り向いた。
ホームの端に、一人の老人が立っていた。
背が高く、痩せている。深い青紫のローブの裾が霧の中でわずかに揺れ、腰近くまで伸びた銀色の髭には細かな水滴が光っていた。半月形の眼鏡の奥から、澄んだ青い目が悠太を見つめている。
写真で見たことがあった。
アルバス・ダンブルドア。
ホグワーツの校長であり、現代最高の魔法使いの一人。
交換留学の最終手続きで英国へ着いた際、一度だけ挨拶を交わしている。そう記憶している。だが、落ち着いて向き合うのは今日が初めてだった。
悠太はすぐにトランクを置き、背筋を伸ばした。両手を体の横へそろえ、丁寧に頭を下げる。
「日本から参りました、ユウタ・ワタナベです。本日よりよろしくお願いいたします、ダンブルドア校長」
練習してきた英語は、我ながら悪くなかった。
返事は、すぐには来なかった。
ほんの一瞬だった。
顔を上げた悠太には、老人の笑みが消えたように見えた。青い目が、目の前の少年よりもずっと遠い何かを見ていた。驚きとも、喜びとも、悲しみともつかない色がそこを横切った。
しかし瞬きをした時には、もう穏やかな校長の顔に戻っていた。
「ようこそ、ホグワーツへ」
その声を聞いた途端、悠太の肩から力が抜けた。
なぜだか分からない。
この人のそばなら大丈夫だと、心のどこかが先に知っていた。
「校長先生自ら迎えに来てくださるとは思いませんでした」
「国を越えて来た生徒を、霧の駅へ置き去りにはできんからのう。それに、年を取ると時折散歩が必要になる」
ダンブルドアはそう言って、雨の向こうにある険しい坂道を見た。
悠太も同じ方角を見た。
「英国の老人は随分とハードな散歩をされるんですね」
言ってから、しまったと思った。
初対面同然の校長に向ける言葉ではない。日本魔法界の理念は、知・礼・武。教育局の担当者からも、礼を欠かさぬよう何度も念を押されたばかりだ。
ところがダンブルドアは、白い眉を愉快そうに持ち上げた。
「なかなか容赦がない。そのユーモアがあれば、きっとすぐに馴染めるじゃろう」
「……今のは忘れていただけると助かります」
「残念ながら、わしは忘れることがあまり得意ではない」
冗談のはずだった。
それなのに、最後の言葉だけが、なぜか胸へ重く落ちた。
ダンブルドアが杖を軽く振ると、足元のトランクがふわりと浮かび上がった。悠太は反射的に取っ手をつかもうとしたが、トランクは指先をすり抜け、二人の後ろへおとなしくついた。
「自分で持てます」
「もちろん。しかし魔法学校へ来た初日に、魔法を使わぬ理由もない」
「なるほど。それは筋が通っています」
「筋の通った話ばかりでは退屈じゃが、ときには役に立つ」
ダンブルドアが歩き始めた。
悠太はその一歩後ろについた。
駅を離れると、道はすぐに暗い木立の中へ入った。濡れた落ち葉が足元で柔らかく沈み、黒い枝の隙間から城の灯が見え隠れする。風が木々を揺らすたび、どこか遠くで大きな翼が羽ばたいたような音がした。
悠太は思わず首をすくめた。
鳥は嫌いだった。
小鳥ならまだいい。問題は、こちらを運べそうなほど大きいものだ。マホウトコロでは巨大なウミツバメで通学する生徒もいるが、悠太はあれだけはどうしても好きになれなかった。だから箒を選び、結果として飛ぶことだけは得意になった。
「森には、夜になるといろいろな音がある」
前を向いたままダンブルドアが言った。
「今のは鳥ですか」
「鳥でないことを願っておるのかね?」
「できれば、羽のない何かで」
「では、そのように願っておこう」
答えになっていなかった。
だが少し笑えたおかげで、悠太の緊張はいくらか和らいだ。
木立を抜けた途端、城が先ほどよりはるかに大きく姿を現した。
湖の黒い水面に、塔の明かりが長く揺れている。崖の上から天へ突き出した尖塔。幾重にも重なる城壁。空中で頼りなくまたたく無数の窓。雲は低く、最も高い塔の先を隠していた。
壮麗だった。
同時に、ひどく寂しく見えた。
悠太の歩みが止まりかける。
石造りの塔を見上げた瞬間、胸の奥にあの感覚が蘇った。知らない場所ではなく、長いこと離れていた場所を見上げているような感覚だった。
「どうかしたかね?」
ダンブルドアが足を止めていた。
「いえ……」
悠太は城を見たまま答えた。
「変なことを言ってもいいですか」
「変なことなら、わしの好物じゃよ」
「初めて来た気が、しないんです」
口にしてみると、ひどく馬鹿げて聞こえた。
「もちろん初めてです。写真なら見ました。でも、写真を知っているという感じではなくて……帰ってきたみたいな」
ダンブルドアはすぐには答えなかった。
雨の匂いがした。湖から吹く風が、銀色の髭を揺らした。
「場所というものは、ときに人より先に、その人を知ることがある」
やがて校長は言った。
「今は、それで十分じゃろう」
意味の分からない答えだった。
けれど、否定されなかったことが嬉しかった。
二人は再び歩き出した。
「一か月遅れたことを、気にしておるかね?」
思いの外、留学への手続きに時間がかかり、他の生徒たちよりも一ヶ月遅れでホグワーツの門を叩く。
それだけでも不安なのに、異国で言語も文化も学習内容も違う。
「少し」
「少し?」
「かなり、です」
悠太は正直に言い直した。
「授業の範囲は独学しました。教科書も読みました。呪文学と変身術は、基礎実技まで練習しています。でも、教科書には同級生との話し方は書いてありませんでした」
「書かれていたとしても、あまり役には立たんじゃろうな」
「やはりそうですか」
「人と人との間では、正解が毎日変わる。昨日うまくいった挨拶が、今日は相手を怒らせることもある」
「それは魔法薬学より難しそうですね」
「そして、失敗した時に煙が出ぬぶん、気づくのも遅い」
悠太は小さく笑った。
日本魔法省教育局の担当者は、彼へ何度も言った。英国での振る舞いは、日本魔法界全体の印象につながる。選抜された交換留学生として、責任を忘れてはならない、と。
もちろん、そのつもりだった。
だが十一歳の自分に、日本全体を背負うには肩幅が少し足りない気もする。
城へ続く坂を上りながら、ダンブルドアが尋ねた。
「なぜホグワーツへ来ようと思ったのかね?」
「自分から応募したんです」
悠太はそう答えた。
その記憶ははっきりしている。
島根の町。実家の布団店の匂い。日本魔法省から届いた募集案内。選考試験。合格を告げる朱印つきの書状。
「日本の魔法しか知らないまま、日本の魔法を分かったつもりになるのは、少し怖いと思いました。違うものと比べて初めて見えることもあるでしょうから」
「よい答えじゃ」
「模範解答ですか?」
「いや。模範解答でないところがよい」
ダンブルドアの青い目が、わずかに細められた。
「知ろうとする者は多い。自分が知らぬと認められる者は、それほど多くない」
悠太は返事の代わりに頭を下げた。
坂の上に、巨大な鉄の門が現れた。ダンブルドアが近づくと、門は低いうなり声を上げながら左右へ開いた。
敷地へ一歩入った時、悠太の右手が無意識にローブの内側へ動いた。
杖の位置を確かめる。
危険などない。
それでも身体は、広い場所へ入る前に出口と物陰を探していた。門。城壁。窓。脇道。人影のない丘。
気づいた悠太は、そっと手を離した。
旅で神経質になっているのだろう。
城の正面扉が開くと、温かな空気と蜜蝋の匂いが流れ出した。広い玄関ホールでは松明が赤く燃え、石壁に並ぶ肖像画が一斉にこちらを振り向いた。
「あれが交換留学生か?」
「小さいわね」
「一年生なら当たり前でしょう」
「日本から来たのですって」
額縁の中の囁きが、頭上から次々に落ちてくる。
悠太は聞こえないふりをした。
天井近くを漂う幽霊が、好奇心いっぱいに首を伸ばしている。鎧兜は彼が通るたびに金属音を立て、壁の松明は風もないのに揺れた。
驚くべきものばかりだった。
ところが足は、不思議なほど迷わなかった。
大理石の階段を上がり、動く肖像画の角を曲がる。ダンブルドアの一歩後ろを歩きながら、悠太は次に現れる景色を知っているような錯覚を何度も覚えた。
この先には細長い窓がある。
そう思った直後、本当に窓が現れる。
次の角には、果物籠を抱えた太った魔法使いの絵。
それもあった。
偶然だ。
古い城の造りなど、どこも似たようなものだ。
そう考えたところで、廊下が左右へ分かれた。
ダンブルドアは足を止め、壁の肖像画へ顔を向けた。絵の中の灰色の巻き毛の魔女が、何やら校長へ話しかけている。
悠太も止まるつもりだった。
だが右足は、ためらいなく左の廊下へ出ていた。
二歩目を踏み出しかけて、はっとする。
なぜ左なのだ。
「そちらで合っておるよ」
背後からダンブルドアの声がした。
悠太はゆっくり振り返った。
校長は肖像画との話を終え、半月形の眼鏡越しにこちらを見ていた。笑ってはいる。けれど、その目はホームで見た時と同じように、悠太の小さな動きまで見逃していなかった。
「声が聞こえたので」
悠太は言った。
実際、左の廊下の先から大勢の話し声が聞こえてくる。
「なるほど」
「それに、夕食の匂いも」
「わしにはまだ分からんが」
「日本から長旅をしてきた者の嗅覚は、英国の校長より優秀なのかもしれません」
ダンブルドアは髭の奥で笑った。
「そういうことにしておこう」
追及されなかったことに安堵しながら、悠太は校長の隣へ戻った。
今度は少し意識して、一歩後ろを歩く。
廊下の先へ進むにつれ、ざわめきが大きくなっていった。笑い声。食器の触れ合う音。何百人もの話し声が、重い扉の向こうで一つの大きな生き物のようにうごめいている。
悠太の口の中が乾いた。
教師の前で呪文を使う方が、まだ楽だった。
失敗するのが自分一人なら、練習すればよい。けれど今夜は、全校生徒の前で遅れてきた留学生として紹介され、その場で組分けを受ける。
「全員、いるんですよね」
悠太は大広間の扉を見つめたまま尋ねた。
「夕食の途中じゃからのう。ほぼ全員じゃ」
「それは心強い話です。一人で恥をかくのに、観客が足りない心配はなさそうだ」
「渡辺君」
「はい」
「緊張しておるな?」
見抜かれていた。
悠太は観念して息を吐いた。
「少しだけ」
ダンブルドアが白い眉を上げる。
「……かなり、です」
「正直でよろしい」
校長は扉の前で悠太へ向き直った。
「よく聞きなさい。今夜、君は日本魔法界すべてを代表せねばならぬわけではない」
悠太は目を瞬いた。
「だが、教育局からは——」
「役所は、子供の肩がどれほど小さいかを忘れることがある」
穏やかな声だった。
「礼儀正しくあろうとするのはよい。努力するのもよい。じゃが、失敗せぬ留学生を演じる必要はない。今夜ここへ入るのは、日本魔法省の看板ではなく、渡辺悠太という一人の生徒じゃ」
胸の奥で、固く結ばれていたものが少し緩んだ。
なぜだろう。
この老人にそう言われると、ずっと昔にも同じように、自分の肩から何かを下ろしてもらった気がした。
「分かりました」
「本当に?」
「できるだけ、そう思うよう努力します」
「うむ。努力の使いどころとしては悪くない」
ダンブルドアは微笑み、扉へ手をかけた。
その時、悠太は自分の手がまたローブの内側へ動いていることに気づいた。
杖を抜くためではない。
そこにあると確かめるだけだった。
初めての場所へ踏み込む前に、いつもそうしてきたように。
——いつも?
「準備はよいかね、渡辺君」
悠太は疑問を押し込み、背筋を伸ばした。
乱れた前髪を指で整える。黒い瞳を上げる。手のひらは汗ばんでいたが、声は思ったより落ち着いていた。
「はい」
二枚の大扉が、音もなく内側へ開いた。
無数の蝋燭が宙に浮かび、その向こうで星空が輝いていた。
四つの長いテーブルを埋める生徒たちの声が、一つ、また一つと消えていく。
やがて大広間のすべての顔が、東から来た一人の少年へ向けられた。
悠太は小さく息を吸った。
そして、初めて訪れたはずの場所へ——まるで帰ってきた者のように、一歩を踏み出した。