ハリー・ポッターと東洋の魔剣士 作:キャン
十月三十一日の朝、ホグワーツ城は夜を待ちきれず、すでにハロウィーンの顔をしていた。
大広間へ続く階段には、前日まで何も彫られていなかった南瓜が並んでいる。
尖った歯を見せるもの。
片目だけを細く開けたもの。
笑っているのか怒っているのか、見る角度によって表情が変わるもの。
悠太が前を通ると、三つの南瓜が同時にこちらを向いた。
「おはよう」
試しに声をかける。
一番大きな南瓜が、口の中の蝋燭を明滅させた。
「返事した?」
隣を歩いていたハリーが尋ねる。
「たぶん」
「南瓜と話せるのか?」
ロンが足を止めた。
「もし話せたら、最初に聞くことは決めてる」
「何だ?」
「食べられる気分はどうか」
大きな南瓜の灯が消えた。
ロンが一歩離れる。
「今のは聞こえたぞ」
「英語が通じたみたいだね」
「君より慣れるのが早いな」
「負けたよ」
二人のやり取りを聞きながら、ハリーが笑った。
天井近くには黒い紙で作られた蝙蝠が飛び、鎧兜の頭には橙色の布が巻かれていた。絵画の中の人物たちも、いつもの服へ仮面や尖った帽子を加えている。
一人の太った騎士は、胸当てへ白い布をかぶせていた。
「何の仮装ですか?」
悠太が尋ねると、騎士は誇らしげに答えた。
「幽霊だ」
「城には本物がいますよ」
「だからこそ、細部が大切なのだ」
白い布の目の穴は左右で高さが違った。
悠太は礼儀として頷き、歩き出した。
「英国のハロウィーンは難しいね」
「あの人だけだと思う」
ハリーが言った。
「夜になれば、もっとすごいぞ」
ロンは確信に満ちていた。
「大広間に生きた蝙蝠が飛ぶんだ。料理も朝の倍は出る」
「そこを基準にするの?」
「一番大事なところだろ」
大広間へ入ると、長机の上にも小さな南瓜が浮かんでいた。
焼いたパンの匂いに、甘い香辛料と林檎の香りが混ざっている。
グリフィンドールの席では、パーバティとラベンダーが蝙蝠の形をした黒い紙片を杖で飛ばそうとしていた。
紙の蝙蝠は十センチほど浮き、すぐにラベンダーの牛乳へ落ちた。
「今のは失敗に入る?」
悠太が尋ねる。
「着水までは予定どおりよ」
ラベンダーが答えた。
「牛乳へ入れる予定だったの?」
「そこだけ少し違ったわ」
「最近、少し違うものが多いね」
パーバティは、以前自分が言った言葉を返されて笑った。
「今夜までには飛ばせるようにするの」
「浮遊呪文は今日からでしょう」
ハーマイオニーの声が、向かい側からした。
いつ来たのか、もう教科書を開いている。
「正しい動きを習う前に癖をつけると、直すのが大変よ」
ラベンダーが牛乳から紙の蝙蝠を救い出した。
「これは呪文じゃなくて、飾りつけの練習よ」
「杖を使っているでしょう」
「朝食でも授業が始まった」
ロンが悠太へ囁く。
声は小さかったが、ハーマイオニーは顔を上げた。
「何か言った?」
「南瓜と話してたんだ」
「南瓜は話さないわ」
「さっき一つ話したよ」
悠太が言うと、ハーマイオニーは一瞬だけ迷った。
「どんな言葉を?」
「食べられたくないって」
「それはあなたが言ったんでしょう」
「見抜かれた」
ハリーが肩を震わせる。
パーバティも笑った。
ハーマイオニーだけは呆れた顔で教科書へ戻ったが、その口元もほんの少し緩んでいた。
悠太は席へ着いた。
前夜より、四人の距離は近い。
けれどロンとハーマイオニーの間には、細い糸を強く張ったようなものが残っていた。
どちらかが一言発するたび、見えない糸が震える。
まだ切れてはいない。
悠太は、切れなければいいと思った。
*
午前の最後は呪文学だった。
教室へ入ると、机の上に一枚ずつ白い羽根が置かれていた。
どれも手のひらより長く、窓から入る風だけで先端が揺れている。
「今日こそ予習した意味が分かるわ」
ハーマイオニーが言った。
「まだ始まってない」
ロンは自分の羽根を指で弾いた。
「終わった時に分かるの」
「終わってから言ってくれ」
フィリウス・フリットウィック先生が、積み上げた本の上へ登った。
小さな身体が全員から見える高さになると、杖で教卓を軽く叩く。
「さて、皆さん。今日から、物を持ち上げる魔法へ入りましょう」
教室のあちこちで声が上がった。
フリットウィックは嬉しそうに両手を広げる。
「浮遊呪文は、魔法使いの生活に欠かせない基本呪文です。ただ上へ飛ばせばよいのではありません。高さ、速度、止める位置。そのすべてを制御して、初めて成功と呼べます」
悠太は机の羽根を見た。
軽いものほど、力を入れればよいわけではない。
箒と似ている。
無理に引けば遅れ、押しつければ逃げる。
「大切なのは、杖の動きと発音です」
フリットウィックが空中へ小さな弧を描いた。
その動きは柔らかい。
最後だけ、杖先が鋭く止まる。
「力任せはいけません。軽やかに振り、正確に上げる。呪文は『ウィンガーディアム・レヴィオーサ』」
教室中で、呪文を繰り返す声が重なった。
長い音。
短い音。
舌が上顎へ触れる位置。
悠太は先生の口元と杖先を交互に見る。
「ミスター・ワタナベ」
「はい、先生」
「英国式の発音では、日本語のように音を一つずつ同じ長さへ揃えません。呪文を音節ごとに切りすぎないように」
「分かりました」
「ただし、急いで一つに潰してもいけません。言葉は正確に、それでいて流れるように」
「難しいですね」
「だから練習するのです」
フリットウィックは満足そうに頷いた。
「二人一組になってください」
椅子の脚が一斉に床を擦った。
ハリーはシェーマスと組んだ。
ロンの隣へは、ハーマイオニーが座る。
ロンは露骨に天井を見た。
「何?」
「何でもない」
「それなら羽根を机の中央へ置いて。端にあると落ちるわ」
「まだ始めてないだろ」
「始めるために動かすのよ」
悠太の向かいにはパーバティが座った。
隣の机で、ラベンダーとネビルが一本の羽根を挟んでいる。
「先にやる?」
パーバティが尋ねた。
「僕は発音を聞きたい。先にお願い」
「失敗したら?」
「次に僕が同じ失敗をする」
「直す気はないの?」
「二人分あれば、違いが分かるよ」
「では、失敗する方を任されたのね」
「成功しても困らない」
パーバティは杖を構えた。
一度深く息を吸う。
「ウィンガーディアム・レヴィオーサ」
羽根の先が持ち上がった。
根元は机についたまま、身体だけが弓のように反る。
パーバティがもう一度杖を振ると、今度は羽根が横へ転がった。
「半分は浮いたわ」
「どっちの半分?」
「軽い方」
「賢い羽根だね」
「次はあなたよ」
悠太は杖を握った。
縄文杉の表面が指へ馴染む。
教わった弧を思い出し、手首を動かした。
「ウィンガーディアム・レヴィオーサ」
羽根はその場で一回転した。
浮かばない。
先端だけがパーバティの方を向く。
「挨拶はしてくれた」
「あなた、最後に杖を返しすぎてるわ」
「返してる?」
「こう」
パーバティは悠太の前で手首を動かした。
彼女の杖先は弧を描いたあと、その場へ残る。
「あなたの動きは、最後に何かを払ってるみたい」
悠太は自分の手を見た。
確かに、上げたあと横へ切っている。
教科書にはない動きだった。
なぜそうしたのか分からない。
ただ、杖を振り切る方が自然に感じた。
「癖かもしれない」
「マホウトコロの?」
「たぶん」
「英国では、羽根を斬らないでね」
「気をつけるよ」
前の机から、羽根が床へ落ちる音がした。
「違うわ、ロン」
ハーマイオニーが言っている。
「真ん中を急いでる。そこを潰したら呪文が変わってしまうわ」
「通じれば同じだろ」
「通じていないから浮かばないのよ」
「君がずっと話してるから集中できないんだ」
「私は助けようとしてるの」
「頼んでない」
ハーマイオニーの口が閉じた。
ロンは羽根へ杖を向ける。
大きく振り、呪文を唱えた。
羽根は動かなかった。
代わりに、隣のインク壺が揺れた。
「ほら、手首も大きすぎるわ」
「だったら君がやれよ」
「やるわ」
ハーマイオニーは椅子へ座り直した。
羽根を机の中央へ置く。
髪を耳へかけ、杖を軽く振った。
「ウィンガーディアム・レヴィオーサ」
白い羽根が音もなく浮かび上がった。
十センチ。
二十センチ。
やがて、立っているハーマイオニーの目の高さまで上がる。
杖先を止めると、羽根も空中で静止した。
教室のざわめきが一瞬小さくなる。
「見事です、ミス・グレンジャー!」
フリットウィックが本の上から拍手した。
「高さも止め方も申し分ありません。グリフィンドールに五点!」
ハーマイオニーの顔が明るくなった。
周囲から拍手が起こる。
悠太も手を叩いた。
ハリーが笑顔で親指を立てる。
ロンだけは、自分の羽根を見ていた。
「予習した意味、分かった?」
ハーマイオニーが尋ねる。
嬉しさを隠せていない声だった。
けれどロンには、それが勝ち誇っているように聞こえたらしい。
「君がすごいことだけは、よく分かったよ」
「私はそんな意味で——」
「次、僕がやるから退いてくれ」
ハーマイオニーは何も言わず、杖を置いた。
悠太は自分の羽根へ目を戻す。
「最後を止める」
小さく言った。
「うん。切らない」
パーバティが答える。
もう一度、杖で弧を描く。
横へ払いたがる手を止めた。
呪文を一息で流す。
羽根が机から数センチ離れた。
すぐに傾く。
パーバティが自分の杖を添えた。
「右へ落ちる」
「分かってる」
「分かってる人の顔じゃないわ」
「今、羽根と相談してる」
「何て?」
「南瓜より頑固だって」
二本の杖先が少しずつ位置を変える。
羽根は膝の高さまで上がり、二人の間で揺れた。
完全に静止はしない。
けれど落ちもしなかった。
「できた」
パーバティが笑う。
「半分ずつね」
「成功も半分?」
「一人分よ」
パーバティが杖を下ろす。
悠太も続けて力を抜くと、羽根は机へゆっくり降りた。
隣では、ネビルとラベンダーの羽根が三度跳ねていた。
「今のは浮いた?」
ネビルが尋ねる。
「机が押し返したんじゃなければ」
悠太が答える。
「なら、次は四回よ」
ラベンダーが杖を構え直した。
教室の奥では、シェーマスの羽根の先から細い煙が出ている。
ハリーが教科書で扇いでいた。
「浮く前に焼けそうだ」
「軽くはなるよ」
悠太が言うと、ハリーは煙の向こうで笑った。
フリットウィックは机の間を歩き、発音と動きを一人ずつ直していく。
授業が終わる頃には、浮こうとした羽根が教室のあちこちで跳ねていた。
天井へ張りついたものが二枚。
斜めに飛んで窓へ当たったものが一枚。
まったく動かなかったものも、まだ何枚かある。
狙った高さで静止させ、静かに机へ戻せたのは、ハーマイオニーだけだった。
ロンとハーマイオニーの羽根は、机の中央へ戻っていた。
それ以上、どちらも触れなかった。
*
教室を出ると、廊下は昼食へ向かう生徒で埋まっていた。
階段へ続く流れに押されながら、ハリーとロンが前を歩く。
悠太はパーバティへ授業の羽根を返した。
「持っていていいの?」
「練習用に持ち帰ってよいと先生がおっしゃっていたわ」
「なら、半分に分ける?」
「羽根を?」
「二人で成功したから」
「切らない約束でしょう?」
「そうだった」
パーバティは羽根を悠太の教科書へ挟んだ。
「あなたが持っていて。今度は一人で浮かせてね」
「できたら返すよ」
「返さなくてもいいわ」
そう言うと、パーバティはラベンダーと並んで先へ行った。
ラベンダーがすぐ耳元へ顔を寄せる。
パーバティは何かを言い返し、二人の歩く速度が上がった。
悠太が教科書を閉じると、前からロンの声が聞こえた。
「まるで、自分だけが正しい発音を知ってるみたいに」
ハリーは返事をしなかった。
ロンは止まらない。
「一度できたからって、ずっと人の間違いを指さしていいわけじゃないだろ」
「手助けのつもりだったんじゃない?」
悠太が追いつきながら言った。
「頼んでない」
「それは言ったね」
「それでもやめなかった」
「確かに言い方はきつかったと思う」
「思う、じゃない。きついんだよ」
ロンの耳が赤くなっていた。
教室で失敗したことより、皆の前で直されたことに腹を立てている。
悠太にも、それは分かった。
「あんなふうに人を見下してばかりじゃ、一緒にいたい奴なんていなくなる。二か月もいるのに友達がいないのだって——」
ハリーが突然立ち止まった。
ロンの肩越しを見ている。
悠太も、その視線を追った。
ハーマイオニーがいた。
三人のすぐ後ろ。
教科書を胸へ抱え、顔から色を失っている。
どこから聞いていたのか分からない。
けれど、最後の言葉だけではなかった。
その目を見れば分かった。
「あ、ハーマイオニー」
悠太が名を呼ぶ。
彼女は答えなかった。
唇を強く結び、三人の横を通り過ぎる。
階段の角へ着く前に、走り出した。
腕から一枚の羊皮紙が落ちる。
立ち止まらない。
栗色の髪が角の向こうへ消えた。
廊下を流れていた声が、急に遠くなった。
「聞こえた」
ハリーが言った。
ロンはまだ、ハーマイオニーが消えた角を見ている。
「聞かせるつもりじゃなかった」
「でも聞こえたよ」
悠太は落ちた羊皮紙を拾った。
浮遊呪文の発音が、整った文字で何度も書かれている。
端には、ロンが間違えた音の横に小さく訂正があった。
そのさらに下に、別の文字が見えた。
どう説明すれば、分かりやすいか。
彼女は、授業前から考えていたらしい。
「僕だって、皆の前で馬鹿にされたんだ」
ロンが言った。
「腹が立ったことまで悪いとは言ってない」
「なら何だよ」
「ハーマイオニーも、言い方を選ぶべきだった。でも、今の言葉は口から出たあとで戻せない」
「分かったように言うなよ」
ロンの声が強くなった。
近くを歩いていた生徒が振り返る。
「お前は何でも分かったように言う。図書館であいつと話したからって、全部知ってるつもりか?」
「全部は分からないよ」
「じゃあ、僕のことも分からないだろ」
「分からないことはある」
「だったら黙ってろよ」
言葉が石の壁へ当たり、返ってきた。
ロン自身も、少し驚いた顔をした。
けれど謝らなかった。
悠太も言い返さなかった。
ハリーが二人の間を見る。
「ロン——」
「昼食へ行く」
ロンは背を向けた。
人の流れへ入り、大広間の方へ歩いていく。
ハリーはすぐには追わなかった。
「僕、あいつがあんなことを言うとは思わなかった」
「僕も」
「ユウタにも」
「うん」
胸の奥に、遅れて痛みが届いた。
聞き取れなかったのではない。
意味を間違えたのでもない。
分かるようになった言葉が、そのまま刺さった。
「追いかける?」
ハリーが尋ねた。
どちらを指しているのか、聞かなくても分かった。
悠太はハーマイオニーが消えた角と、ロンが歩いていった大広間への道を見た。
「ハーマイオニーを探す」
答えた時、パーバティとラベンダーが戻ってきた。
「ハーマイオニーを見なかった?」
悠太が尋ねる。
「今、階段を下りていったわ」
パーバティの顔から笑みが消えている。
「泣いていた」
「追ってくれる?」
「ええ。女子トイレへ行ったと思う」
パーバティは、悠太が持つ羊皮紙に気づいた。
「それも渡しておくわ」
悠太は差し出しかけ、止めた。
今渡せば、彼女はロンに見られたことまで知る。
「これは、あとで僕から返すよ」
「分かった」
「一人にしないで」
「大丈夫。私たちが話すわ」
ラベンダーが頷いた。
二人は階段を急いで下りていく。
ハリーと悠太は、その後ろ姿を見送った。
「ロンにも時間がいるかもしれない」
ハリーが言った。
「うん」
「でも、あれはひどかった」
「うん」
「君、怒ってる?」
「少し」
「少しだけ?」
「怒ったまま話すと、僕も戻せない言葉を言いそうだから」
悠太は羊皮紙を教科書へ挟んだ。
さっきパーバティからもらった白い羽根と重なる。
羽根は軽かった。
紙も軽かった。
けれど、抱えた教科書は急に重くなったように感じた。
*
昼食に、ハーマイオニーは来なかった。
パーバティとラベンダーは、少し遅れて戻ってきた。
「中から返事はしたわ」
パーバティが声を落として言う。
「でも、出たくないって」
「怪我は?」
「してない。今は一人にしてほしいって」
悠太は頷いた。
向かい側で、ロンがフォークを皿へ置く。
「僕のせいだって言いたいのか?」
誰も言っていなかった。
パーバティの眉が上がる。
「自分で分かってるなら、どうして謝らないの?」
「君には関係ないだろ」
「ハーマイオニーは同じ寮よ」
「僕だって同じ寮だ」
「なら、余計に謝るべきでしょう」
「パーバティ」
悠太が呼ぶ。
彼女はまだロンを睨んでいる。
「今は、言われても謝れないと思う」
「どうしてあなたが庇うの?」
「庇ってない。謝るなら、自分で決めないと意味がないよ」
ロンが悠太を見た。
感謝ではなかった。
自分の心の中まで見られたくないという目だった。
「また分かったように言う」
「今のは予想」
「外れてる」
「なら謝りに行く?」
ロンは答えず、食事へ戻った。
フォークが皿へ当たる音が大きい。
ハリーも黙っていた。
四人分に見えかけていた席は、二人と一人と、空席に分かれていた。
午後の授業でも、ハーマイオニーの席は空いたままだった。
教師が名前を呼ぶたび、誰も返事をしない。
欠席は一度だけ記録され、授業は進んだ。
悠太は何度も扉を見た。
開く気配はない。
ロンは一度も見なかった。
少なくとも、顔は向けなかった。
授業が終わり、談話室へ戻っても、ハーマイオニーはいなかった。
暖炉の上では、誰かが魔法で作った橙色の火花が南瓜の形を結んでいる。
フレッドとジョージが、紙の蜘蛛をパーシーの背中へ這わせていた。
皆が夜の宴を待っている。
悠太は教科書を開いた。
浮遊呪文の頁から、白い羽根と羊皮紙が見える。
呪文を唱えた。
羽根が数センチ浮いた。
右へ傾く。
今度は一人で支え、机の上へ戻した。
朝なら、成功したと笑えた。
今は誰にも見せる気になれなかった。
「うまくなったな」
声に顔を上げる。
ロンが近くに立っていた。
「見てたの?」
「目に入っただけ」
「パンジーみたいだね」
「それはひどい」
反射的に言い返したあと、ロンの口元が僅かに動いた。
いつもの冗談へ戻れそうな隙間が、一瞬だけ開く。
けれど、悠太が教科書の羊皮紙を閉じると、その隙間は消えた。
「まだ怒ってる?」
ロンが尋ねた。
「怒ってるよ」
「少し?」
「朝よりは」
「増えたのか?」
「ハーマイオニーが戻ってないから」
ロンは暖炉を見た。
紙の南瓜が火の中で崩れ、橙色の火花になる。
「僕だけが悪いのか?」
「誰がどれくらい悪いかを決めても、戻ってこないよ」
「あいつだって、僕を皆の前で——」
「分かってる」
「分かってない」
「なら教えて」
ロンは口を開いた。
すぐに閉じる。
言葉を探している顔だった。
兄たちのお下がり。
誰かと比べられ続けること。
できなかった時だけ見られること。
悠太が知っているのは、その一部だけだった。
ロン自身も、何が一番痛いのか、まだ言葉にできないのかもしれない。
「別に」
最後に出たのは、それだけだった。
「そう」
「宴へ行くぞ」
「うん」
二人は並んで肖像画の穴へ向かった。
仲直りしたわけではない。
喧嘩を続ける言葉がなくなっただけだった。
*
夜の大広間は、朝とは別の場所に見えた。
千羽を超える蝙蝠が、黒い天井の下を低く飛んでいる。
その一部は壁際へ群れ、煙のように形を変えた。
巨大な南瓜の内側には火が灯り、彫られた顔が橙色に浮かび上がっている。
空中では、色とりどりの菓子が詰まった袋がゆっくり回っていた。
ゴーストたちまでいつもより機嫌がよい。
ほとんど首無しニックは、自分の首がどこまで傾くか一年生へ見せていた。
悲鳴と笑い声が、長机の間を行き来する。
「すごい」
悠太は立ち止まった。
これほど多くの魔法が、誰かを怖がらせて楽しませるためだけに使われている。
危険を防ぐためでも、試験へ合格するためでもない。
役に立たないことへ、全員が真剣だった。
それが不思議で、少し羨ましかった。
「言っただろ」
ロンが得意そうに言う。
「まだ料理を見てないのに?」
「これからが本番だ」
ハリーが後ろから来た。
「パーシーが、一年生は蝙蝠を捕まえるなって」
「捕まえる人がいるの?」
「フレッドとジョージが去年やったらしい」
「食べたのか?」
ロンが尋ねる。
「どうして料理の話になるんだよ」
三人はグリフィンドールの席へ向かった。
笑いながら歩ける。
それでも、長机へ着いた時、同時に一つの空席を見た。
ハーマイオニーはいない。
パーバティとラベンダーは先に座っていた。
「まだ女子トイレにいるの?」
悠太が尋ねる。
パーバティが頷いた。
「夕方にもう一度行ったわ。でも、返事もしてくれなくなった」
「先生には?」
「言ってない。ハーマイオニーが、誰にも言わないでって」
ラベンダーが答える。
「もう宴が始まるよ」
「私たちも迷ったの」
パーバティは心配そうに扉を見た。
「迎えに行こうかって。でも、顔を見られたくないんだと思う」
悠太は教師席へ目を向けた。
マクゴナガル先生は、同僚と話している。
ここからなら、すぐに伝えられる。
「先生へ言う」
「待てよ」
ロンが低い声を出した。
「あいつが言うなって言ったんだろ」
「昼から何も食べてない」
「でも、先生へ言ったら余計に怒るぞ」
「怒られても、無事な方がいいよ」
「無事に決まってる。城の中だぞ」
悠太は答えなかった。
城の中だから安全だと、なぜか思えなかった。
理由はない。
ホグワーツへ来てから、階段は動き、扉は行き先を変え、鎧兜は夜中に歩いた。
けれど、それだけではなかった。
安全な場所ほど、油断した時に危険が入る。
そんな考えが、教わった覚えもないのに胸の底へあった。
教師席へ向かおうとした瞬間、金皿の上に料理が現れた。
大広間が歓声に包まれる。
丸焼きの鶏。
艶のあるソーセージ。
山のような焼きじゃがいも。
橙色のスープ。
林檎と糖蜜の菓子。
巨大な南瓜パイ。
「先生は食事のあとでいいだろ」
ロンが言った。
「今行くよ」
悠太が立ち上がる。
その時、大広間の扉が激しい音を立てて開いた。
何人もの生徒が振り返る。
クィレル先生が、紫色のターバンを傾けて駆け込んできた。
顔は蝋のように青白い。
ローブの裾を踏みそうになりながら、教師席まで進む。
「ト、トロールです……!」
声が裏返った。
「地下牢に、トロールが入り込みました……お、お知らせしておいた方がよいかと……」
一瞬、誰も動かなかった。
クィレルは両目を大きく見開いたまま、床へ倒れた。
次の瞬間、大広間が破裂した。
椅子が倒れる。
皿が鳴る。
上空の蝙蝠が一斉に舞い上がる。
悲鳴と質問と笑い声が重なり、何を言っているのか分からない。
「静まりなさい!」
ダンブルドアの杖から、紫色の閃光が三度上がった。
雷鳴のような音が天井を揺らす。
声が急速に消えた。
校長は立ち上がり、全校生徒を見渡した。
「監督生は、寮生をそれぞれの寮へ連れ戻しなさい。生徒は決して列を離れぬこと。教師は地下牢へ」
指示が終わる前に、パーシーが立っていた。
「グリフィンドール生、こちらへ! 一年生は固まって歩くんだ!」
ロンが名残惜しそうに料理を見た。
「一口も食べてない」
「トロールも同じかもしれない」
悠太が言う。
「それを今言うな」
三人は他の一年生と一緒に、長机の間を進んだ。
誰かの肩がぶつかる。
前ではネビルが何度も後ろを見ていた。
パーバティとラベンダーは手を握り合っている。
大広間を出ると、石の廊下へ冷たい空気が流れていた。
階段へ向かう列はすぐ詰まった。
「押すな!」
パーシーの声が飛ぶ。
「二列で進め。階段では走るな。トロールは地下牢だ。僕たちは上へ行く!」
生徒たちが少し安心したように笑う。
地下牢から離れる。
グリフィンドール塔へ戻る。
大人たちがトロールを捕まえる。
そう聞けば、それで終わるはずだった。
悠太の足が止まった。
後ろの生徒が背中へぶつかる。
「止まらないで」
「ごめん」
悠太は壁へ手を触れた。
冷たい石の奥から、低い振動が伝わった気がした。
一度。
間を置いて、もう一度。
階段の下ではない。
右手の回廊。
人の足音より重く、一定ではない。
何かを引きずる音が混じっている。
鼻の奥へ、湿った土と腐った布を合わせたような臭いが届いた。
「ユウタ?」
ハリーが列の中で振り返った。
「地下牢じゃない」
「何が?」
「トロール」
答えたあと、自分でもなぜ分かったのか分からなかった。
クィレル先生は地下牢にいると言った。
教師たちも、そこへ向かった。
悠太はトロールを見たことさえないはずだった。
それでも身体のどこかが、危険は別の場所にいると告げていた。
「どうして分かる?」
ロンも足を緩めた。
「分からない」
「分からないのに?」
「でも、右の廊下に何かいる」
また、低い振動。
今度はハリーにも聞こえたらしい。
緑の目が右の回廊へ向く。
そして、大きく見開かれた。
「ハーマイオニー」
名前だけで、全員に意味が伝わった。
彼女は宴へ来ていない。
トロールが城へ入ったことを知らない。
女子トイレに、一人でいる。
ロンの顔から血の気が引いた。
「どこのトイレだ?」
「東側の階段を下りたところ」
パーバティが列の前から答えた。
彼女も会話を聞いていた。
「でも、先生を呼ばないと——」
「パーシー先輩、聞いてください!」
悠太は列の先へ声をかけた。
返事はない。
角を曲がった上級生たちと、泣き出した一年生に阻まれ、姿も見えなかった。
右の回廊から、何か硬いものが床を擦る音がした。
先ほどより近い。
「先生を探してたら間に合わないかもしれない」
ハリーが言った。
もう列ではなく、暗い回廊を見ていた。
「行こう」
ロンが言った。
今度は誰にも言われなかった。
自分で列から一歩外れる。
悠太とハリーも、ほとんど同時に続いた。
「三人とも!」
パーバティの声が追う。
悠太は振り返った。
「先生に伝えて!」
「分かったわ!」
上級生へは敬語を使う。
教師には必ず礼をする。
規則には理由があると知っている。
それでも今は、列へ残る理由より、戻る理由の方が重かった。
三人は人の流れと反対へ走った。
壁に浮かぶ蝋燭が、横を通り過ぎるたび激しく揺れる。
「道は?」
ロンが尋ねる。
「次を左」
悠太は考える前に答えた。
曲がったあとで、初めて来る廊下だと気づく。
「知ってるの?」
ハリーが息を切らしながら言う。
「知らない」
「でも左って——」
「こっちな気がした」
「また?」
「うん」
説明している時間はなかった。
臭いが強くなる。
前方の角を、巨大な影が横切った。
天井近くまで届く頭。
片方の腕から、太い棍棒がぶら下がっている。
棍棒の先が石床を擦り、嫌な音を立てた。
三人は壁際へ身を寄せた。
影は気づかず、奥の扉へ向かう。
扉には、女子用を示す色褪せた札がかかっていた。
「あそこだ」
ハリーが囁く。
ロンは何も言わなかった。
朝、ハーマイオニーを傷つけた言葉は取り戻せない。
今、彼女を一人にした時間も消せない。
けれど、次に何を選ぶかは、まだ決まっていなかった。
トロールの大きな手が扉を押した。
蝶番が軋む。
扉の向こうから、何かが落ちる音がした。
続いて、少女の短い悲鳴。
三人は同時に走り出した。