ハリー・ポッターと東洋の魔剣士   作:キャン

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第10話 ハロウィーンの亀裂

 

十月三十一日の朝、ホグワーツ城は夜を待ちきれず、すでにハロウィーンの顔をしていた。

 

 大広間へ続く階段には、前日まで何も彫られていなかった南瓜が並んでいる。

 

 尖った歯を見せるもの。

 

 片目だけを細く開けたもの。

 

 笑っているのか怒っているのか、見る角度によって表情が変わるもの。

 

 悠太が前を通ると、三つの南瓜が同時にこちらを向いた。

 

「おはよう」

 

 試しに声をかける。

 

 一番大きな南瓜が、口の中の蝋燭を明滅させた。

 

「返事した?」

 

 隣を歩いていたハリーが尋ねる。

 

「たぶん」

 

「南瓜と話せるのか?」

 

 ロンが足を止めた。

 

「もし話せたら、最初に聞くことは決めてる」

 

「何だ?」

 

「食べられる気分はどうか」

 

 大きな南瓜の灯が消えた。

 

 ロンが一歩離れる。

 

「今のは聞こえたぞ」

 

「英語が通じたみたいだね」

 

「君より慣れるのが早いな」

 

「負けたよ」

 

 二人のやり取りを聞きながら、ハリーが笑った。

 

 天井近くには黒い紙で作られた蝙蝠が飛び、鎧兜の頭には橙色の布が巻かれていた。絵画の中の人物たちも、いつもの服へ仮面や尖った帽子を加えている。

 

 一人の太った騎士は、胸当てへ白い布をかぶせていた。

 

「何の仮装ですか?」

 

 悠太が尋ねると、騎士は誇らしげに答えた。

 

「幽霊だ」

 

「城には本物がいますよ」

 

「だからこそ、細部が大切なのだ」

 

 白い布の目の穴は左右で高さが違った。

 

 悠太は礼儀として頷き、歩き出した。

 

「英国のハロウィーンは難しいね」

 

「あの人だけだと思う」

 

 ハリーが言った。

 

「夜になれば、もっとすごいぞ」

 

 ロンは確信に満ちていた。

 

「大広間に生きた蝙蝠が飛ぶんだ。料理も朝の倍は出る」

 

「そこを基準にするの?」

 

「一番大事なところだろ」

 

 大広間へ入ると、長机の上にも小さな南瓜が浮かんでいた。

 

 焼いたパンの匂いに、甘い香辛料と林檎の香りが混ざっている。

 

 グリフィンドールの席では、パーバティとラベンダーが蝙蝠の形をした黒い紙片を杖で飛ばそうとしていた。

 

 紙の蝙蝠は十センチほど浮き、すぐにラベンダーの牛乳へ落ちた。

 

「今のは失敗に入る?」

 

 悠太が尋ねる。

 

「着水までは予定どおりよ」

 

 ラベンダーが答えた。

 

「牛乳へ入れる予定だったの?」

 

「そこだけ少し違ったわ」

 

「最近、少し違うものが多いね」

 

 パーバティは、以前自分が言った言葉を返されて笑った。

 

「今夜までには飛ばせるようにするの」

 

「浮遊呪文は今日からでしょう」

 

 ハーマイオニーの声が、向かい側からした。

 

 いつ来たのか、もう教科書を開いている。

 

「正しい動きを習う前に癖をつけると、直すのが大変よ」

 

 ラベンダーが牛乳から紙の蝙蝠を救い出した。

 

「これは呪文じゃなくて、飾りつけの練習よ」

 

「杖を使っているでしょう」

 

「朝食でも授業が始まった」

 

 ロンが悠太へ囁く。

 

 声は小さかったが、ハーマイオニーは顔を上げた。

 

「何か言った?」

 

「南瓜と話してたんだ」

 

「南瓜は話さないわ」

 

「さっき一つ話したよ」

 

 悠太が言うと、ハーマイオニーは一瞬だけ迷った。

 

「どんな言葉を?」

 

「食べられたくないって」

 

「それはあなたが言ったんでしょう」

 

「見抜かれた」

 

 ハリーが肩を震わせる。

 

 パーバティも笑った。

 

 ハーマイオニーだけは呆れた顔で教科書へ戻ったが、その口元もほんの少し緩んでいた。

 

 悠太は席へ着いた。

 

 前夜より、四人の距離は近い。

 

 けれどロンとハーマイオニーの間には、細い糸を強く張ったようなものが残っていた。

 

 どちらかが一言発するたび、見えない糸が震える。

 

 まだ切れてはいない。

 

 悠太は、切れなければいいと思った。

 

     *

 

 午前の最後は呪文学だった。

 

 教室へ入ると、机の上に一枚ずつ白い羽根が置かれていた。

 

 どれも手のひらより長く、窓から入る風だけで先端が揺れている。

 

「今日こそ予習した意味が分かるわ」

 

 ハーマイオニーが言った。

 

「まだ始まってない」

 

 ロンは自分の羽根を指で弾いた。

 

「終わった時に分かるの」

 

「終わってから言ってくれ」

 

 フィリウス・フリットウィック先生が、積み上げた本の上へ登った。

 

 小さな身体が全員から見える高さになると、杖で教卓を軽く叩く。

 

「さて、皆さん。今日から、物を持ち上げる魔法へ入りましょう」

 

 教室のあちこちで声が上がった。

 

 フリットウィックは嬉しそうに両手を広げる。

 

「浮遊呪文は、魔法使いの生活に欠かせない基本呪文です。ただ上へ飛ばせばよいのではありません。高さ、速度、止める位置。そのすべてを制御して、初めて成功と呼べます」

 

 悠太は机の羽根を見た。

 

 軽いものほど、力を入れればよいわけではない。

 

 箒と似ている。

 

 無理に引けば遅れ、押しつければ逃げる。

 

「大切なのは、杖の動きと発音です」

 

 フリットウィックが空中へ小さな弧を描いた。

 

 その動きは柔らかい。

 

 最後だけ、杖先が鋭く止まる。

 

「力任せはいけません。軽やかに振り、正確に上げる。呪文は『ウィンガーディアム・レヴィオーサ』」

 

 教室中で、呪文を繰り返す声が重なった。

 

 長い音。

 

 短い音。

 

 舌が上顎へ触れる位置。

 

 悠太は先生の口元と杖先を交互に見る。

 

「ミスター・ワタナベ」

 

「はい、先生」

 

「英国式の発音では、日本語のように音を一つずつ同じ長さへ揃えません。呪文を音節ごとに切りすぎないように」

 

「分かりました」

 

「ただし、急いで一つに潰してもいけません。言葉は正確に、それでいて流れるように」

 

「難しいですね」

 

「だから練習するのです」

 

 フリットウィックは満足そうに頷いた。

 

「二人一組になってください」

 

 椅子の脚が一斉に床を擦った。

 

 ハリーはシェーマスと組んだ。

 

 ロンの隣へは、ハーマイオニーが座る。

 

 ロンは露骨に天井を見た。

 

「何?」

 

「何でもない」

 

「それなら羽根を机の中央へ置いて。端にあると落ちるわ」

 

「まだ始めてないだろ」

 

「始めるために動かすのよ」

 

 悠太の向かいにはパーバティが座った。

 

 隣の机で、ラベンダーとネビルが一本の羽根を挟んでいる。

 

「先にやる?」

 

 パーバティが尋ねた。

 

「僕は発音を聞きたい。先にお願い」

 

「失敗したら?」

 

「次に僕が同じ失敗をする」

 

「直す気はないの?」

 

「二人分あれば、違いが分かるよ」

 

「では、失敗する方を任されたのね」

 

「成功しても困らない」

 

 パーバティは杖を構えた。

 

 一度深く息を吸う。

 

「ウィンガーディアム・レヴィオーサ」

 

 羽根の先が持ち上がった。

 

 根元は机についたまま、身体だけが弓のように反る。

 

 パーバティがもう一度杖を振ると、今度は羽根が横へ転がった。

 

「半分は浮いたわ」

 

「どっちの半分?」

 

「軽い方」

 

「賢い羽根だね」

 

「次はあなたよ」

 

 悠太は杖を握った。

 

 縄文杉の表面が指へ馴染む。

 

 教わった弧を思い出し、手首を動かした。

 

「ウィンガーディアム・レヴィオーサ」

 

 羽根はその場で一回転した。

 

 浮かばない。

 

 先端だけがパーバティの方を向く。

 

「挨拶はしてくれた」

 

「あなた、最後に杖を返しすぎてるわ」

 

「返してる?」

 

「こう」

 

 パーバティは悠太の前で手首を動かした。

 

 彼女の杖先は弧を描いたあと、その場へ残る。

 

「あなたの動きは、最後に何かを払ってるみたい」

 

 悠太は自分の手を見た。

 

 確かに、上げたあと横へ切っている。

 

 教科書にはない動きだった。

 

 なぜそうしたのか分からない。

 

 ただ、杖を振り切る方が自然に感じた。

 

「癖かもしれない」

 

「マホウトコロの?」

 

「たぶん」

 

「英国では、羽根を斬らないでね」

 

「気をつけるよ」

 

 前の机から、羽根が床へ落ちる音がした。

 

「違うわ、ロン」

 

 ハーマイオニーが言っている。

 

「真ん中を急いでる。そこを潰したら呪文が変わってしまうわ」

 

「通じれば同じだろ」

 

「通じていないから浮かばないのよ」

 

「君がずっと話してるから集中できないんだ」

 

「私は助けようとしてるの」

 

「頼んでない」

 

 ハーマイオニーの口が閉じた。

 

 ロンは羽根へ杖を向ける。

 

 大きく振り、呪文を唱えた。

 

 羽根は動かなかった。

 

 代わりに、隣のインク壺が揺れた。

 

「ほら、手首も大きすぎるわ」

 

「だったら君がやれよ」

 

「やるわ」

 

 ハーマイオニーは椅子へ座り直した。

 

 羽根を机の中央へ置く。

 

 髪を耳へかけ、杖を軽く振った。

 

「ウィンガーディアム・レヴィオーサ」

 

 白い羽根が音もなく浮かび上がった。

 

 十センチ。

 

 二十センチ。

 

 やがて、立っているハーマイオニーの目の高さまで上がる。

 

 杖先を止めると、羽根も空中で静止した。

 

 教室のざわめきが一瞬小さくなる。

 

「見事です、ミス・グレンジャー!」

 

 フリットウィックが本の上から拍手した。

 

「高さも止め方も申し分ありません。グリフィンドールに五点!」

 

 ハーマイオニーの顔が明るくなった。

 

 周囲から拍手が起こる。

 

 悠太も手を叩いた。

 

 ハリーが笑顔で親指を立てる。

 

 ロンだけは、自分の羽根を見ていた。

 

「予習した意味、分かった?」

 

 ハーマイオニーが尋ねる。

 

 嬉しさを隠せていない声だった。

 

 けれどロンには、それが勝ち誇っているように聞こえたらしい。

 

「君がすごいことだけは、よく分かったよ」

 

「私はそんな意味で——」

 

「次、僕がやるから退いてくれ」

 

 ハーマイオニーは何も言わず、杖を置いた。

 

 悠太は自分の羽根へ目を戻す。

 

「最後を止める」

 

 小さく言った。

 

「うん。切らない」

 

 パーバティが答える。

 

 もう一度、杖で弧を描く。

 

 横へ払いたがる手を止めた。

 

 呪文を一息で流す。

 

 羽根が机から数センチ離れた。

 

 すぐに傾く。

 

 パーバティが自分の杖を添えた。

 

「右へ落ちる」

 

「分かってる」

 

「分かってる人の顔じゃないわ」

 

「今、羽根と相談してる」

 

「何て?」

 

「南瓜より頑固だって」

 

 二本の杖先が少しずつ位置を変える。

 

 羽根は膝の高さまで上がり、二人の間で揺れた。

 

 完全に静止はしない。

 

 けれど落ちもしなかった。

 

「できた」

 

 パーバティが笑う。

 

「半分ずつね」

 

「成功も半分?」

 

「一人分よ」

 

 パーバティが杖を下ろす。

 

 悠太も続けて力を抜くと、羽根は机へゆっくり降りた。

 

 隣では、ネビルとラベンダーの羽根が三度跳ねていた。

 

「今のは浮いた?」

 

 ネビルが尋ねる。

 

「机が押し返したんじゃなければ」

 

 悠太が答える。

 

「なら、次は四回よ」

 

 ラベンダーが杖を構え直した。

 

 教室の奥では、シェーマスの羽根の先から細い煙が出ている。

 

 ハリーが教科書で扇いでいた。

 

「浮く前に焼けそうだ」

 

「軽くはなるよ」

 

 悠太が言うと、ハリーは煙の向こうで笑った。

 

 フリットウィックは机の間を歩き、発音と動きを一人ずつ直していく。

 

 授業が終わる頃には、浮こうとした羽根が教室のあちこちで跳ねていた。

 

 天井へ張りついたものが二枚。

 

 斜めに飛んで窓へ当たったものが一枚。

 

 まったく動かなかったものも、まだ何枚かある。

 

 狙った高さで静止させ、静かに机へ戻せたのは、ハーマイオニーだけだった。

 

 ロンとハーマイオニーの羽根は、机の中央へ戻っていた。

 

 それ以上、どちらも触れなかった。

 

     *

 

 教室を出ると、廊下は昼食へ向かう生徒で埋まっていた。

 

 階段へ続く流れに押されながら、ハリーとロンが前を歩く。

 

 悠太はパーバティへ授業の羽根を返した。

 

「持っていていいの?」

 

「練習用に持ち帰ってよいと先生がおっしゃっていたわ」

 

「なら、半分に分ける?」

 

「羽根を?」

 

「二人で成功したから」

 

「切らない約束でしょう?」

 

「そうだった」

 

 パーバティは羽根を悠太の教科書へ挟んだ。

 

「あなたが持っていて。今度は一人で浮かせてね」

 

「できたら返すよ」

 

「返さなくてもいいわ」

 

 そう言うと、パーバティはラベンダーと並んで先へ行った。

 

 ラベンダーがすぐ耳元へ顔を寄せる。

 

 パーバティは何かを言い返し、二人の歩く速度が上がった。

 

 悠太が教科書を閉じると、前からロンの声が聞こえた。

 

「まるで、自分だけが正しい発音を知ってるみたいに」

 

 ハリーは返事をしなかった。

 

 ロンは止まらない。

 

「一度できたからって、ずっと人の間違いを指さしていいわけじゃないだろ」

 

「手助けのつもりだったんじゃない?」

 

 悠太が追いつきながら言った。

 

「頼んでない」

 

「それは言ったね」

 

「それでもやめなかった」

 

「確かに言い方はきつかったと思う」

 

「思う、じゃない。きついんだよ」

 

 ロンの耳が赤くなっていた。

 

 教室で失敗したことより、皆の前で直されたことに腹を立てている。

 

 悠太にも、それは分かった。

 

「あんなふうに人を見下してばかりじゃ、一緒にいたい奴なんていなくなる。二か月もいるのに友達がいないのだって——」

 

 ハリーが突然立ち止まった。

 

 ロンの肩越しを見ている。

 

 悠太も、その視線を追った。

 

 ハーマイオニーがいた。

 

 三人のすぐ後ろ。

 

 教科書を胸へ抱え、顔から色を失っている。

 

 どこから聞いていたのか分からない。

 

 けれど、最後の言葉だけではなかった。

 

 その目を見れば分かった。

 

「あ、ハーマイオニー」

 

 悠太が名を呼ぶ。

 

 彼女は答えなかった。

 

 唇を強く結び、三人の横を通り過ぎる。

 

 階段の角へ着く前に、走り出した。

 

 腕から一枚の羊皮紙が落ちる。

 

 立ち止まらない。

 

 栗色の髪が角の向こうへ消えた。

 

 廊下を流れていた声が、急に遠くなった。

 

「聞こえた」

 

 ハリーが言った。

 

 ロンはまだ、ハーマイオニーが消えた角を見ている。

 

「聞かせるつもりじゃなかった」

 

「でも聞こえたよ」

 

 悠太は落ちた羊皮紙を拾った。

 

 浮遊呪文の発音が、整った文字で何度も書かれている。

 

 端には、ロンが間違えた音の横に小さく訂正があった。

 

 そのさらに下に、別の文字が見えた。

 

 どう説明すれば、分かりやすいか。

 

 彼女は、授業前から考えていたらしい。

 

「僕だって、皆の前で馬鹿にされたんだ」

 

 ロンが言った。

 

「腹が立ったことまで悪いとは言ってない」

 

「なら何だよ」

 

「ハーマイオニーも、言い方を選ぶべきだった。でも、今の言葉は口から出たあとで戻せない」

 

「分かったように言うなよ」

 

 ロンの声が強くなった。

 

 近くを歩いていた生徒が振り返る。

 

「お前は何でも分かったように言う。図書館であいつと話したからって、全部知ってるつもりか?」

 

「全部は分からないよ」

 

「じゃあ、僕のことも分からないだろ」

 

「分からないことはある」

 

「だったら黙ってろよ」

 

 言葉が石の壁へ当たり、返ってきた。

 

 ロン自身も、少し驚いた顔をした。

 

 けれど謝らなかった。

 

 悠太も言い返さなかった。

 

 ハリーが二人の間を見る。

 

「ロン——」

 

「昼食へ行く」

 

 ロンは背を向けた。

 

 人の流れへ入り、大広間の方へ歩いていく。

 

 ハリーはすぐには追わなかった。

 

「僕、あいつがあんなことを言うとは思わなかった」

 

「僕も」

 

「ユウタにも」

 

「うん」

 

 胸の奥に、遅れて痛みが届いた。

 

 聞き取れなかったのではない。

 

 意味を間違えたのでもない。

 

 分かるようになった言葉が、そのまま刺さった。

 

「追いかける?」

 

 ハリーが尋ねた。

 

 どちらを指しているのか、聞かなくても分かった。

 

 悠太はハーマイオニーが消えた角と、ロンが歩いていった大広間への道を見た。

 

「ハーマイオニーを探す」

 

 答えた時、パーバティとラベンダーが戻ってきた。

 

「ハーマイオニーを見なかった?」

 

 悠太が尋ねる。

 

「今、階段を下りていったわ」

 

 パーバティの顔から笑みが消えている。

 

「泣いていた」

 

「追ってくれる?」

 

「ええ。女子トイレへ行ったと思う」

 

 パーバティは、悠太が持つ羊皮紙に気づいた。

 

「それも渡しておくわ」

 

 悠太は差し出しかけ、止めた。

 

 今渡せば、彼女はロンに見られたことまで知る。

 

「これは、あとで僕から返すよ」

 

「分かった」

 

「一人にしないで」

 

「大丈夫。私たちが話すわ」

 

 ラベンダーが頷いた。

 

 二人は階段を急いで下りていく。

 

 ハリーと悠太は、その後ろ姿を見送った。

 

「ロンにも時間がいるかもしれない」

 

 ハリーが言った。

 

「うん」

 

「でも、あれはひどかった」

 

「うん」

 

「君、怒ってる?」

 

「少し」

 

「少しだけ?」

 

「怒ったまま話すと、僕も戻せない言葉を言いそうだから」

 

 悠太は羊皮紙を教科書へ挟んだ。

 

 さっきパーバティからもらった白い羽根と重なる。

 

 羽根は軽かった。

 

 紙も軽かった。

 

 けれど、抱えた教科書は急に重くなったように感じた。

 

     *

 

 昼食に、ハーマイオニーは来なかった。

 

 パーバティとラベンダーは、少し遅れて戻ってきた。

 

「中から返事はしたわ」

 

 パーバティが声を落として言う。

 

「でも、出たくないって」

 

「怪我は?」

 

「してない。今は一人にしてほしいって」

 

 悠太は頷いた。

 

 向かい側で、ロンがフォークを皿へ置く。

 

「僕のせいだって言いたいのか?」

 

 誰も言っていなかった。

 

 パーバティの眉が上がる。

 

「自分で分かってるなら、どうして謝らないの?」

 

「君には関係ないだろ」

 

「ハーマイオニーは同じ寮よ」

 

「僕だって同じ寮だ」

 

「なら、余計に謝るべきでしょう」

 

「パーバティ」

 

 悠太が呼ぶ。

 

 彼女はまだロンを睨んでいる。

 

「今は、言われても謝れないと思う」

 

「どうしてあなたが庇うの?」

 

「庇ってない。謝るなら、自分で決めないと意味がないよ」

 

 ロンが悠太を見た。

 

 感謝ではなかった。

 

 自分の心の中まで見られたくないという目だった。

 

「また分かったように言う」

 

「今のは予想」

 

「外れてる」

 

「なら謝りに行く?」

 

 ロンは答えず、食事へ戻った。

 

 フォークが皿へ当たる音が大きい。

 

 ハリーも黙っていた。

 

 四人分に見えかけていた席は、二人と一人と、空席に分かれていた。

 

 午後の授業でも、ハーマイオニーの席は空いたままだった。

 

 教師が名前を呼ぶたび、誰も返事をしない。

 

 欠席は一度だけ記録され、授業は進んだ。

 

 悠太は何度も扉を見た。

 

 開く気配はない。

 

 ロンは一度も見なかった。

 

 少なくとも、顔は向けなかった。

 

 授業が終わり、談話室へ戻っても、ハーマイオニーはいなかった。

 

 暖炉の上では、誰かが魔法で作った橙色の火花が南瓜の形を結んでいる。

 

 フレッドとジョージが、紙の蜘蛛をパーシーの背中へ這わせていた。

 

 皆が夜の宴を待っている。

 

 悠太は教科書を開いた。

 

 浮遊呪文の頁から、白い羽根と羊皮紙が見える。

 

 呪文を唱えた。

 

 羽根が数センチ浮いた。

 

 右へ傾く。

 

 今度は一人で支え、机の上へ戻した。

 

 朝なら、成功したと笑えた。

 

 今は誰にも見せる気になれなかった。

 

「うまくなったな」

 

 声に顔を上げる。

 

 ロンが近くに立っていた。

 

「見てたの?」

 

「目に入っただけ」

 

「パンジーみたいだね」

 

「それはひどい」

 

 反射的に言い返したあと、ロンの口元が僅かに動いた。

 

 いつもの冗談へ戻れそうな隙間が、一瞬だけ開く。

 

 けれど、悠太が教科書の羊皮紙を閉じると、その隙間は消えた。

 

「まだ怒ってる?」

 

 ロンが尋ねた。

 

「怒ってるよ」

 

「少し?」

 

「朝よりは」

 

「増えたのか?」

 

「ハーマイオニーが戻ってないから」

 

 ロンは暖炉を見た。

 

 紙の南瓜が火の中で崩れ、橙色の火花になる。

 

「僕だけが悪いのか?」

 

「誰がどれくらい悪いかを決めても、戻ってこないよ」

 

「あいつだって、僕を皆の前で——」

 

「分かってる」

 

「分かってない」

 

「なら教えて」

 

 ロンは口を開いた。

 

 すぐに閉じる。

 

 言葉を探している顔だった。

 

 兄たちのお下がり。

 

 誰かと比べられ続けること。

 

 できなかった時だけ見られること。

 

 悠太が知っているのは、その一部だけだった。

 

 ロン自身も、何が一番痛いのか、まだ言葉にできないのかもしれない。

 

「別に」

 

 最後に出たのは、それだけだった。

 

「そう」

 

「宴へ行くぞ」

 

「うん」

 

 二人は並んで肖像画の穴へ向かった。

 

 仲直りしたわけではない。

 

 喧嘩を続ける言葉がなくなっただけだった。

 

     *

 

 夜の大広間は、朝とは別の場所に見えた。

 

 千羽を超える蝙蝠が、黒い天井の下を低く飛んでいる。

 

 その一部は壁際へ群れ、煙のように形を変えた。

 

 巨大な南瓜の内側には火が灯り、彫られた顔が橙色に浮かび上がっている。

 

 空中では、色とりどりの菓子が詰まった袋がゆっくり回っていた。

 

 ゴーストたちまでいつもより機嫌がよい。

 

 ほとんど首無しニックは、自分の首がどこまで傾くか一年生へ見せていた。

 

 悲鳴と笑い声が、長机の間を行き来する。

 

「すごい」

 

 悠太は立ち止まった。

 

 これほど多くの魔法が、誰かを怖がらせて楽しませるためだけに使われている。

 

 危険を防ぐためでも、試験へ合格するためでもない。

 

 役に立たないことへ、全員が真剣だった。

 

 それが不思議で、少し羨ましかった。

 

「言っただろ」

 

 ロンが得意そうに言う。

 

「まだ料理を見てないのに?」

 

「これからが本番だ」

 

 ハリーが後ろから来た。

 

「パーシーが、一年生は蝙蝠を捕まえるなって」

 

「捕まえる人がいるの?」

 

「フレッドとジョージが去年やったらしい」

 

「食べたのか?」

 

 ロンが尋ねる。

 

「どうして料理の話になるんだよ」

 

 三人はグリフィンドールの席へ向かった。

 

 笑いながら歩ける。

 

 それでも、長机へ着いた時、同時に一つの空席を見た。

 

 ハーマイオニーはいない。

 

 パーバティとラベンダーは先に座っていた。

 

「まだ女子トイレにいるの?」

 

 悠太が尋ねる。

 

 パーバティが頷いた。

 

「夕方にもう一度行ったわ。でも、返事もしてくれなくなった」

 

「先生には?」

 

「言ってない。ハーマイオニーが、誰にも言わないでって」

 

 ラベンダーが答える。

 

「もう宴が始まるよ」

 

「私たちも迷ったの」

 

 パーバティは心配そうに扉を見た。

 

「迎えに行こうかって。でも、顔を見られたくないんだと思う」

 

 悠太は教師席へ目を向けた。

 

 マクゴナガル先生は、同僚と話している。

 

 ここからなら、すぐに伝えられる。

 

「先生へ言う」

 

「待てよ」

 

 ロンが低い声を出した。

 

「あいつが言うなって言ったんだろ」

 

「昼から何も食べてない」

 

「でも、先生へ言ったら余計に怒るぞ」

 

「怒られても、無事な方がいいよ」

 

「無事に決まってる。城の中だぞ」

 

 悠太は答えなかった。

 

 城の中だから安全だと、なぜか思えなかった。

 

 理由はない。

 

 ホグワーツへ来てから、階段は動き、扉は行き先を変え、鎧兜は夜中に歩いた。

 

 けれど、それだけではなかった。

 

 安全な場所ほど、油断した時に危険が入る。

 

 そんな考えが、教わった覚えもないのに胸の底へあった。

 

 教師席へ向かおうとした瞬間、金皿の上に料理が現れた。

 

 大広間が歓声に包まれる。

 

 丸焼きの鶏。

 

 艶のあるソーセージ。

 

 山のような焼きじゃがいも。

 

 橙色のスープ。

 

 林檎と糖蜜の菓子。

 

 巨大な南瓜パイ。

 

「先生は食事のあとでいいだろ」

 

 ロンが言った。

 

「今行くよ」

 

 悠太が立ち上がる。

 

 その時、大広間の扉が激しい音を立てて開いた。

 

 何人もの生徒が振り返る。

 

 クィレル先生が、紫色のターバンを傾けて駆け込んできた。

 

 顔は蝋のように青白い。

 

 ローブの裾を踏みそうになりながら、教師席まで進む。

 

「ト、トロールです……!」

 

 声が裏返った。

 

「地下牢に、トロールが入り込みました……お、お知らせしておいた方がよいかと……」

 

 一瞬、誰も動かなかった。

 

 クィレルは両目を大きく見開いたまま、床へ倒れた。

 

 次の瞬間、大広間が破裂した。

 

 椅子が倒れる。

 

 皿が鳴る。

 

 上空の蝙蝠が一斉に舞い上がる。

 

 悲鳴と質問と笑い声が重なり、何を言っているのか分からない。

 

「静まりなさい!」

 

 ダンブルドアの杖から、紫色の閃光が三度上がった。

 

 雷鳴のような音が天井を揺らす。

 

 声が急速に消えた。

 

 校長は立ち上がり、全校生徒を見渡した。

 

「監督生は、寮生をそれぞれの寮へ連れ戻しなさい。生徒は決して列を離れぬこと。教師は地下牢へ」

 

 指示が終わる前に、パーシーが立っていた。

 

「グリフィンドール生、こちらへ! 一年生は固まって歩くんだ!」

 

 ロンが名残惜しそうに料理を見た。

 

「一口も食べてない」

 

「トロールも同じかもしれない」

 

 悠太が言う。

 

「それを今言うな」

 

 三人は他の一年生と一緒に、長机の間を進んだ。

 

 誰かの肩がぶつかる。

 

 前ではネビルが何度も後ろを見ていた。

 

 パーバティとラベンダーは手を握り合っている。

 

 大広間を出ると、石の廊下へ冷たい空気が流れていた。

 

 階段へ向かう列はすぐ詰まった。

 

「押すな!」

 

 パーシーの声が飛ぶ。

 

「二列で進め。階段では走るな。トロールは地下牢だ。僕たちは上へ行く!」

 

 生徒たちが少し安心したように笑う。

 

 地下牢から離れる。

 

 グリフィンドール塔へ戻る。

 

 大人たちがトロールを捕まえる。

 

 そう聞けば、それで終わるはずだった。

 

 悠太の足が止まった。

 

 後ろの生徒が背中へぶつかる。

 

「止まらないで」

 

「ごめん」

 

 悠太は壁へ手を触れた。

 

 冷たい石の奥から、低い振動が伝わった気がした。

 

 一度。

 

 間を置いて、もう一度。

 

 階段の下ではない。

 

 右手の回廊。

 

 人の足音より重く、一定ではない。

 

 何かを引きずる音が混じっている。

 

 鼻の奥へ、湿った土と腐った布を合わせたような臭いが届いた。

 

「ユウタ?」

 

 ハリーが列の中で振り返った。

 

「地下牢じゃない」

 

「何が?」

 

「トロール」

 

 答えたあと、自分でもなぜ分かったのか分からなかった。

 

 クィレル先生は地下牢にいると言った。

 

 教師たちも、そこへ向かった。

 

 悠太はトロールを見たことさえないはずだった。

 

 それでも身体のどこかが、危険は別の場所にいると告げていた。

 

「どうして分かる?」

 

 ロンも足を緩めた。

 

「分からない」

 

「分からないのに?」

 

「でも、右の廊下に何かいる」

 

 また、低い振動。

 

 今度はハリーにも聞こえたらしい。

 

 緑の目が右の回廊へ向く。

 

 そして、大きく見開かれた。

 

「ハーマイオニー」

 

 名前だけで、全員に意味が伝わった。

 

 彼女は宴へ来ていない。

 

 トロールが城へ入ったことを知らない。

 

 女子トイレに、一人でいる。

 

 ロンの顔から血の気が引いた。

 

「どこのトイレだ?」

 

「東側の階段を下りたところ」

 

 パーバティが列の前から答えた。

 

 彼女も会話を聞いていた。

 

「でも、先生を呼ばないと——」

 

「パーシー先輩、聞いてください!」

 

 悠太は列の先へ声をかけた。

 

 返事はない。

 

 角を曲がった上級生たちと、泣き出した一年生に阻まれ、姿も見えなかった。

 

 右の回廊から、何か硬いものが床を擦る音がした。

 

 先ほどより近い。

 

「先生を探してたら間に合わないかもしれない」

 

 ハリーが言った。

 

 もう列ではなく、暗い回廊を見ていた。

 

「行こう」

 

 ロンが言った。

 

 今度は誰にも言われなかった。

 

 自分で列から一歩外れる。

 

 悠太とハリーも、ほとんど同時に続いた。

 

「三人とも!」

 

 パーバティの声が追う。

 

 悠太は振り返った。

 

「先生に伝えて!」

 

「分かったわ!」

 

 上級生へは敬語を使う。

 

 教師には必ず礼をする。

 

 規則には理由があると知っている。

 

 それでも今は、列へ残る理由より、戻る理由の方が重かった。

 

 三人は人の流れと反対へ走った。

 

 壁に浮かぶ蝋燭が、横を通り過ぎるたび激しく揺れる。

 

「道は?」

 

 ロンが尋ねる。

 

「次を左」

 

 悠太は考える前に答えた。

 

 曲がったあとで、初めて来る廊下だと気づく。

 

「知ってるの?」

 

 ハリーが息を切らしながら言う。

 

「知らない」

 

「でも左って——」

 

「こっちな気がした」

 

「また?」

 

「うん」

 

 説明している時間はなかった。

 

 臭いが強くなる。

 

 前方の角を、巨大な影が横切った。

 

 天井近くまで届く頭。

 

 片方の腕から、太い棍棒がぶら下がっている。

 

 棍棒の先が石床を擦り、嫌な音を立てた。

 

 三人は壁際へ身を寄せた。

 

 影は気づかず、奥の扉へ向かう。

 

 扉には、女子用を示す色褪せた札がかかっていた。

 

「あそこだ」

 

 ハリーが囁く。

 

 ロンは何も言わなかった。

 

 朝、ハーマイオニーを傷つけた言葉は取り戻せない。

 

 今、彼女を一人にした時間も消せない。

 

 けれど、次に何を選ぶかは、まだ決まっていなかった。

 

 トロールの大きな手が扉を押した。

 

 蝶番が軋む。

 

 扉の向こうから、何かが落ちる音がした。

 

 続いて、少女の短い悲鳴。

 

 三人は同時に走り出した。

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