ハリー・ポッターと東洋の魔剣士 作:キャン
一番先に扉へ飛び込んだのは、ハリーだった。
女子トイレの中は、すでに半分壊されていた。
床一面に水が広がっている。
壁際の洗面台は二つ砕け、割れた蛇口から水が噴き出していた。鏡の破片が蝋燭の光を拾い、濡れた床のあちこちで細く光っている。
その中央に、トロールがいた。
悠太が想像していたより、ずっと大きかった。
灰色の頭は天井近くまで届き、短い脚の上に、岩を重ねたような胴体が載っている。右手に握られた棍棒は、十一歳の子供一人より太かった。
そして、一番奥の壁際にハーマイオニーがいた。
倒れた木の仕切りと洗面台の間へ追い詰められ、濡れた髪を頬へ張りつかせている。
杖は手にあった。
けれど、腕が震え、先端は床を向いていた。
「ハーマイオニー!」
ハリーが叫んだ。
トロールの小さな目が動く。
ハーマイオニーから、入口の三人へ。
棍棒が持ち上がった。
「ハリー、右へ!」
悠太の口が、考えるより先に動いた。
ハリーは理由を尋ねなかった。
滑る床を蹴り、右側の洗面台の陰へ飛び込む。
次の瞬間、棍棒がさっきまでハリーのいた場所へ落ちた。
石床が鳴った。
足の裏から、身体の芯まで衝撃が突き上げる。
「僕たちに気づいたぞ!」
ロンの声が裏返る。
「それが目的だ!」
ハリーが洗面台の陰から答えた。
その言葉どおり、トロールはハーマイオニーへ向けていた身体を回し始めていた。
動きは遅い。
けれど、一歩が大きい。
右手に棍棒。
左足がわずかに外へ開いている。
首はほとんど回らない。
濡れた床では、踏み出すたび右足が滑る。
入口は一つ。
奥の窓は高すぎる。
割れた仕切りの間なら、子供は通れてもトロールの肩は通らない。
悠太の目が、それらを一度に拾った。
どうして見えるのか、考える暇はなかった。
「ロン、入口から離れて。ハーマイオニー、動ける?」
「足が——」
ハーマイオニーが息を呑んだ。
倒れた仕切りの板が、ローブの裾へ引っかかっている。
「挟まってるの!」
トロールがハリーへ向かう。
ハリーは床から割れた蛇口を拾った。
「おい、こっちだ!」
蛇口を投げる。
真鍮の塊はトロールの肩へ当たり、乾いた音を立てて床へ落ちた。
効いた様子はない。
それでも、注意は引けた。
「こっちだって言ってるだろ!」
ハリーはもう一つ、石鹸入れを投げた。
今度はトロールの耳へ当たった。
トロールが低く唸る。
悠太は左から回り込んだ。
身体を低くする。
棍棒の届く円へ入らない。
相手の目ではなく、肩を見る。
肩が動けば、腕が来る。
誰かに教えられた覚えはなかった。
それでも身体は、その方が正しいと知っていた。
「ハーマイオニー、裾を切れる?」
「切断の呪文は、まだ——」
「板を動かせる?」
ハーマイオニーは自分の足元を見た。
恐怖で固まっていた目が、一度閉じる。
もう一度開いた時、彼女は床と仕切りの重なりを見ていた。
「板の端を浮かせれば抜けられる。でも、この角度じゃ杖が向かないわ」
「僕が行く」
ロンが言った。
声は震えていた。
それでも入口から一歩、中へ入る。
「ロン、左の壁沿い!」
悠太が叫ぶ。
「分かってる!」
「なら走って!」
「言われなくても!」
ロンは走った。
トロールが音へ反応し、頭を動かす。
ハリーへの注意が逸れた。
「こっちだ!」
ハリーが洗面台の上へ飛び乗った。
濡れた靴底が滑る。
両手をついて身体を支え、そのまま隣の台へ移る。
トロールが棍棒を横へ振った。
「伏せて!」
ハーマイオニーの声が飛んだ。
ハリーが身を沈める。
棍棒は頭上を通り過ぎ、鏡をまとめて砕いた。
銀色の破片が雨のように落ちる。
ハーマイオニーは両腕で顔を庇いながら、叫んだ。
「右側の仕切りへ誘って! あそこなら腕を大きく振れない!」
悠太が見る。
彼女の言うとおりだった。
トロールの右には、まだ倒れていない二枚の仕切りがある。あの間へ肩を入れれば、棍棒は壁へ引っかかる。
「ハリー、聞こえた?」
「聞こえた!」
ハリーが台から飛び下りた。
トロールのすぐ前を横切る。
勇敢というより、無茶だった。
けれど、迷いはなかった。
トロールの左手が伸びる。
太い指がハリーのローブを掠めた。
「ハリー!」
ロンが叫ぶ。
ハリーは振り返らず、仕切りの方へ走った。
トロールも追う。
一歩。
二歩。
右肩が仕切りの間へ入る。
棍棒が板へぶつかった。
トロールが苛立ったように唸り、力任せに腕を引く。
木の仕切りが根元から軋んだ。
「長くはもたない!」
ハーマイオニーが言う。
「ロン、今!」
ロンは彼女の足元へ滑り込んだ。
膝をつき、倒れた板へ杖を向ける。
「ウィンガーディアム・レヴィオーサ!」
板の端が震えた。
一センチほど浮き、また落ちる。
ハーマイオニーが息を呑む。
「もう一度! 最初を長く、手首は振り回さないで!」
「分かってる!」
「朝は分かってなかったでしょう!」
「今は分かってる!」
トロールが仕切りを引き抜いた。
板が宙を飛び、壁へ突き刺さる。
「急いで!」
ハリーが叫ぶ。
ロンは杖を振り直しかけ、迫るトロールを見た。
「呪文じゃ間に合わない!」
杖をローブの内側へ差し、倒れた板の端へ両手をかける。
指を狭い隙間へ入れ、肩まで使って持ち上げた。
板がわずかに浮く。
「今だ、抜いて!」
ハーマイオニーが足を引き、ロンもローブを板の下から引いた。
布が裂ける。
ハーマイオニーの足が自由になった。
「立てる?」
「ええ」
立ち上がろうとして、よろめく。
ロンが腕を掴んだ。
「ええじゃないだろ」
「少し痺れてるだけよ」
「それを立てないって言うんだ」
トロールが二人の声へ顔を向けた。
仕切りから抜けた右腕が上がる。
「二人とも、奥へ!」
悠太は杖を向けた。
呪文がいくつも頭に浮かび、どれも間に合わないと消えた。
止められない。
倒せない。
なら、向きを変える。
「ルーモス!」
杖先に白い光が弾けた。
悠太はその光をトロールの目へ向ける。
トロールが顔を背けた。
棍棒の軌道がずれる。
ロンとハーマイオニーの手前へ落ち、床を砕いた。
「こっちへ!」
悠太が二人を呼ぶ。
ロンはハーマイオニーの腕を肩へ回し、入口へ向かおうとした。
けれど、トロールの身体が道を塞いでいる。
「出口へ行けない!」
「左の仕切りを抜けて、壁沿いに回って!」
悠太の声に、三人が同時に動いた。
ハリーが先に仕切りの隙間へ入る。
ロンがハーマイオニーを支えて続く。
悠太は最後に残った。
トロールの目が光から戻る。
すぐ前にいる悠太を見る。
小さな鼻が動いた。
腐った息が降りかかる。
仕切りの向こうで、ハリーが割れた蝶番を拾った。
「こっちだ!」
トロールの背中へ投げる。
鉄の欠片が当たり、巨体が振り向いた。
ハリーは、ロンとハーマイオニーを庇うように立っていた。
背後は壁だった。
左右は仕切りに塞がれている。
トロールが棍棒を振り上げた。
頭では、逃げろと分かっていた。
悠太の足は、逆にハリーとの間へ踏み込んだ。
杖を右手で握る。
左手を柄の下へ添える。
木の杖を、まるで刀であるかのように両手で構えた。
右足を引く。
腰を落とす。
切っ先に当たる杖先を、相手の喉元へ向ける。
その構えを、悠太は知らなかった。
知らないはずなのに、少しも迷わなかった。
「ユウタ、逃げろ!」
ハリーの声がした。
悠太は動かなかった。
トロールの肩を見る。
下へ振るのではない。
斜めに薙ぐ。
右から左。
避ければ、棍棒はハリーへ届く。
受ければ、杖ごと折れる。
なら、そのどちらでもない。
棍棒が動いた。
「プロテゴ!」
杖先と棍棒の間に、薄い光が広がった。
壁ではなかった。
磨かれた硝子のような、頼りない一枚の膜だった。
棍棒が触れた瞬間、光は大きくたわんだ。
悠太の両腕へ、骨まで砕けそうな重さが落ちる。
靴が水の上を滑った。
肩が抜けるように痛む。
それでも、杖を離さなかった。
「うあっ!」
声が喉から漏れた。
光の膜が斜めに傾く。
正面から止めるのではない。
受け流す。
棍棒の先が悠太の左肩を外れ、床へ叩きつけられた。
石と木のぶつかる音が、狭い部屋を揺らした。
光が砕ける。
悠太の身体も横へ飛ばされた。
背中が洗面台へ当たる。
息が消えた。
「ユウタ!」
ハリーが駆け寄ろうとする。
「来ないで!」
悠太は咳き込みながら叫んだ。
トロールが棍棒を持ち上げる。
今度は悠太へ向く。
時間は作れた。
出口への道も見えた。
それなのに、ハリーは逃げなかった。
仕切りの上へ足をかける。
「何してるの!」
ハーマイオニーの声が響く。
「もう一度、気を引く!」
「やめて!」
ハリーは仕切りを蹴った。
倒れかけた板がトロールの背中へ当たる。
トロールが振り向いた。
その背へ、ハリーが飛びついた。
両腕を太い首へ回す。
「ハリー!」
ロンが叫ぶ。
「僕だって、何してるか分からない!」
トロールが身体を振った。
ハリーの足が宙を舞う。
片手で首へしがみつき、もう片方の手に杖を握っている。
その杖が、暴れるトロールの鼻へ突き刺さった。
トロールの咆哮が、天井から埃を落とした。
ハリーが顔をしかめる。
「最悪だ!」
何が最悪なのかは、聞かなくても分かった。
トロールは棍棒を取り落とした。
床へ転がった棍棒が、水を跳ね上げる。
両手が背中のハリーへ伸びた。
「杖が抜けない!」
ハリーが叫ぶ。
「首から離れて!」
「離れたら落ちる!」
トロールの指がローブの裾を掴んだ。
ハリーの身体が持ち上がる。
悠太は立ち上がろうとした。
腕に力が入らない。
膝が濡れた床へ落ちる。
「棍棒よ!」
ハーマイオニーの声がした。
彼女はロンの肩へつかまりながら、床を指している。
「ロン、棍棒! さっきの呪文で!」
ロンが棍棒を見る。
自分の杖を見る。
朝の教室で、羽根は一度も浮かなかった。
さっき呪文では動かなかった仕切りより、何倍も重い。
トロールがハリーを正面へ引き寄せた。
左手が太い首を掴もうとしている。
「ロン!」
悠太が呼んだ。
それ以上は言わなかった。
ロンは一度だけ息を吸った。
杖を上げる。
手首を小さく動かす。
「ウィンガーディアム・レヴィオーサ!」
棍棒が床から浮いた。
一メートル。
二メートル。
トロールの頭より高く上がる。
ロンの目も、棍棒を追って大きくなる。
「浮いた」
「落として!」
ハーマイオニーが叫ぶ。
「どうやって!」
「呪文を切って!」
ロンが杖を下ろした。
棍棒が落ちた。
鈍い音がした。
トロールの目が上を向く。
ハリーを掴んでいた指が開いた。
ハリーは水の上へ落ち、背中から滑った。
巨体が一度、前へ揺れる。
次に後ろへ傾いた。
「避けて!」
悠太が叫ぶ。
ハリーは横へ転がった。
トロールが床へ倒れる。
部屋中の水が大きく跳ねた。
それきり、動かなくなった。
*
誰も、すぐには話さなかった。
割れた蛇口から水が落ち続けている。
一滴ずつではない。
細い川のような音だった。
その向こうで、四人の息だけが聞こえた。
ロンは杖を上げた姿勢のまま固まっていた。
「僕がやった?」
ようやく出た言葉は、それだった。
「やった」
ハリーが床へ座ったまま答えた。
「本当に?」
「本当に」
ハーマイオニーも言った。
ロンは倒れたトロールと、自分の杖を交互に見た。
「羽根より重かったぞ」
「見れば分かるわ」
「じゃあ、僕は羽根より棍棒の方が得意なんだ」
「普通は逆よ」
ハーマイオニーの声はまだ震えていた。
それでも、いつもの調子が少し戻っている。
ハリーが鼻を押さえた。
「僕の杖は?」
三人がトロールの顔を見た。
鼻の穴から、杖の柄だけが出ていた。
「取るの?」
ロンが尋ねる。
「取らないと困る」
「新しいのを買った方がいいんじゃないか?」
「誰が払うんだよ」
ハリーは立ち上がり、ローブの袖を手へ巻いた。
二本の指で杖の柄をつまむ。
「引っ張ればいいのよ」
「言うのは簡単だね」
顔を背けながら杖を抜いた。
先端から粘ついた灰色のものが糸を引く。
ハリーはしばらく無言で見つめた。
「洗えば使えると思う?」
「七回くらい洗えば」
悠太が答えた。
「七回で足りる?」
「十回にしよう」
ハリーは真剣に頷いた。
ロンが笑いかけ、途中で咳に変わった。
悠太も笑おうとした。
背中へ痛みが走る。
息を詰め、洗面台へ手をついた。
「悠太」
ハーマイオニーがロンの肩から離れた。
足を引きずりながら近づく。
「腕を見せて」
「平気だよ」
「今、洗面台がなかったら倒れていたわ」
「よく見てるね」
「あなたが見ていなさすぎるのよ。自分のことを」
左腕を取られる。
肩から手首まで、細かな震えが止まっていなかった。
悠太は初めてそれに気づいた。
「さっきの呪文」
ハーマイオニーが声を落とす。
「盾の呪文だった」
「たぶん」
「たぶんじゃないわ。『プロテゴ』って言ったでしょう」
「言ったね」
「どこで習ったの?」
悠太は答えようとした。
マホウトコロで習った。
留学前に教わった。
教科書で読んだ。
どれか一つを言えば、それらしい答えになった。
けれど、そのどれにも覚えがない。
「分からない」
「分からない?」
「気づいたら、言ってた」
ハーマイオニーは悠太の杖を見る。
縄文杉の杖は、いつもの細い木の姿だった。
ただ、悠太の両手には同じ位置へ赤い痕が残っていた。
柄を握り、刀を構えたような痕だった。
悠太の胸の奥で、何かが一度だけ動いた。
記憶ではない。
声でも、映像でもない。
もっと深い場所で、固く閉じた扉が、向こう側から押されたような感覚だった。
開かなかった。
ほんのわずか、蝶番が軋んだだけだった。
「僕は、今までにも同じことをしたのかな」
誰へともなく、悠太は言った。
ハリーが顔を上げる。
答えは返らなかった。
代わりに、廊下から走る足音が聞こえた。
大人の足音。
一人ではない。
「来る」
悠太が扉を見る。
直後、マクゴナガル先生が飛び込んできた。
*
マクゴナガル先生の顔から、血の気が引いた。
倒れたトロール。
砕けた洗面台。
水浸しの床。
その中に立つ四人の一年生。
視線が一つずつ確かめるように動き、最後にハリーの汚れた杖で止まった。
「これは——」
声が一度途切れる。
次に出た声は、いつもの鋭さを取り戻していた。
「何をしているのです!」
後ろからスネイプ先生が入ってくる。
黒いローブの裾が水を吸った。
片方の裾には新しい裂け目があり、歩幅もわずかに不揃いだった。
悠太はそれに気づいたが、尋ねる状況ではなかった。
そのさらに後ろで、クィレル先生が扉へ手をついた。
「ト、トロールが……」
「その点だけは、見れば分かりますな」
スネイプ先生が冷たく言った。
黒い瞳が部屋を横切る。
ハリー。
ロン。
ハーマイオニー。
そして、悠太。
悠太の両手は、まだ杖を刀のように握っていた。
気づいて右手だけへ持ち直す。
遅かった。
スネイプ先生の目が、その動きを見ていた。
「ポッター、ウィーズリー、ワタナベ」
マクゴナガル先生の声が震えている。
怒りだけではなかった。
「なぜ寮へ戻らなかったのです。あなたたちは、命を失っていたかもしれないのですよ」
「先生、私が——」
ハーマイオニーが一歩前へ出た。
足が痛み、顔が歪む。
ロンがすぐ腕を支えた。
ハーマイオニーは驚いたように彼を見たあと、マクゴナガル先生へ向き直った。
「私が悪いんです」
「ミス・グレンジャー?」
「本でトロールのことを読んで、自分なら対処できると思いました。それで、探しに来ました」
ハリーが目を見開く。
ロンも、ハーマイオニーを見る。
悠太だけではない。
四人とも、それが本当ではないと知っていた。
「見つけた時には、何もできなくて……三人が来てくれなければ、私は——」
最後の言葉が震えた。
マクゴナガル先生は、長い間ハーマイオニーを見た。
「トロールを探しに行った、と?」
「はい、先生」
「あなたがそのような無謀な行動を取るとは、思いませんでした」
それは怒鳴られるより、ハーマイオニーへ効いた。
彼女の肩が小さくなる。
「グリフィンドールから五点減点します」
「はい」
「今後、怪物について本で読んだからといって、実物へ近づいてはなりません」
「はい、先生」
「ですが——」
マクゴナガル先生の目が三人の少年へ向く。
「あなたたちが危険を知らせようとし、そのうえで同級生を助けたことは認めなければなりません。無謀さを褒めるつもりはありません。しかし、並外れた勇気でした」
ハリーとロンが姿勢を正す。
「ポッター、ウィーズリー、ワタナベへ、それぞれ五点を与えます」
ロンの口が少し開いた。
「先生」
悠太が言う。
「何です?」
「僕たちは避難の列を抜けました。パーバティに先生へ伝えてもらいましたが、待たずに来たのは僕たちの判断です。責任は僕にもあります」
ハーマイオニーが悠太の袖を掴んだ。
悠太は彼女がここへ来た理由には触れなかった。
「あなたは、自分に与えられた点を返したいのですか?」
「点より、命令に背いたことを黙っている方が嫌です」
マクゴナガル先生の眉が上がった。
スネイプ先生の口元が、わずかに歪む。
「まったく、グリフィンドールらしい答えですなぁ……」
褒めたようには聞こえなかった。
マクゴナガル先生は眼鏡の奥から四人を見渡した。
「今の点は、同級生を救った勇気に対するものです。避難命令へ背いた件は別です。明日、三人とも報告書を提出しなさい」
「はい、先生」
「ですが今は、四人とも医務室へ行きなさい。特にミスター・ワタナベ、その左腕を動かしてはいけません」
「動きます」
悠太が少し上げる。
肩に痛みが走り、途中で止まった。
「動かしてはいけないと言ったのです」
「はい。すみません」
ハリーが口元を押さえた。
笑うところではない。
それでも、少しだけ笑っていた。
「ところで、このトロールを倒したのは誰です?」
「ロンです」
ハーマイオニーが答えた。
「私は呪文を提案しただけです。成功させたのはロンです」
ロンが彼女を見る。
悠太も頷いた。
「僕の盾は一度しかもちませんでした。ロンの呪文がなかったら、次は防げなかったと思います」
「盾?」
スネイプ先生の声が、それまでより低くなった。
悠太の背中が強張る。
「ミスター・ワタナベ。盾とは?」
「盾の呪文です、先生」
「呪文名を尋ねている」
「プロテゴです」
スネイプ先生は一歩近づいた。
「一年生の授業では扱わない呪文だ」
「はい」
「マホウトコロでは、十一歳の生徒へ棍棒を受け止めさせる授業でもあるのかね?」
「いいえ。少なくとも、僕は習った覚えがありません」
「それは奇妙な話しだ。習っていないはずの呪文を使った、と」
「気づいたら口にしていました」
「なるほど。君は実に便利な口を持っているようだ」
「僕も、もう少し便利ならよかったと思います」
スネイプ先生の眉間が狭くなる。
教師への敬語は崩していない。
けれど、皮肉は通じたらしい。
スネイプ先生は悠太の杖へ手を伸ばした。
「杖を見せろ」
悠太は両手で差し出そうとした。
左腕が動かず、右手だけになる。
縄文杉の表面を、細い指が辿った。
ただの杖だった。
刀身も、残った魔力の刃もない。
それでもスネイプ先生の顔から、ほんの一瞬だけ皮肉が消えた。
目の前の十一歳ではなく、別の何かを見たようだった。
「粗雑だ」
戻ってきた言葉は、それだけだった。
「盾としては、ですか?」
「すべてにおいて」
「次は気をつけます」
「これだけの騒ぎを起こしておきながら、次を作るつもりでいると?」
杖が返される。
だがスネイプ先生の指は、すぐには離れなかった。
扉の近くで、クィレル先生がじっと悠太を見ていた。
普段のおどおどした目ではなかった。
悠太が気づくと、すぐに視線を落とす。
「わ、私が、四人を医務室へ——」
「結構です」
マクゴナガル先生が言った。
「スネイプ先生、お願いできますか」
「喜んで」
まったく喜んでいない声だった。
*
医務室へ向かう間、誰も大きな声では話さなかった。
スネイプ先生が前を歩いている。
黒いローブが曲がり角を通るたび、四人も同じ方向へ曲がった。
ハーマイオニーは片足を引きずっていた。
ロンが左側から支えている。
右側へハリーがついた。
悠太は少し後ろを歩いた。
左腕を動かすなと言われても、歩くたび肩へ響く。
「ねえ」
ハーマイオニーが小声で言った。
「何?」
ロンが答える。
「さっきは、ありがとう」
ロンの耳が赤くなった。
「別に」
「別に、ではないでしょう」
「こういう時、何て言えばいいか分からないんだよ」
「どういたしまして、でいいわ」
「どういたしまして」
「今のは言わされたみたいね」
「言わせたんだろ」
ハリーが笑った。
笑い声は小さかったが、前を歩くスネイプ先生には聞こえたらしい。
「もう一度怪物と戦う元気が残っているなら、地下牢へ連れて行っても構わないが?」
「いいえ、先生」
四人の返事が重なった。
それが少し可笑しくて、今度は全員が黙ったまま笑った。
*
マダム・ポンフリーは、真夜中に近い医務室へ四人の一年生がまとめて現れたことより、その後ろにスネイプ先生がいることを嫌がった。
「床が濡れます」
「トロールのいた部屋が水浸しでした」
ハリーが説明する。
「理由を尋ねたのではありません。靴を脱ぎなさい」
四人は並んで靴を脱いだ。
水を吸った靴下も脱ぐ。
ベッドの端へ座らされる。
ロンの額には小さな切り傷。
ハリーの手の甲には擦り傷。
ハーマイオニーの足首は軽く捻っていた。
悠太の左肩と背中は、打撲だと言われた。
「骨は折れていません」
マダム・ポンフリーが杖を下ろす。
「運が良かっただけです」
「はい」
「返事だけは素直ですね」
「次は行動も——」
「次はありません」
「はい」
スネイプ先生は、入口からそのやり取りを見ていた。
「明日の朝までは、ここへ」
マダム・ポンフリーが言いかける。
「この程度の怪我で、朝までとは感心しませんな」
スネイプ先生が遮った。
「こういう場合は寮監が決めるのが筋ではないかね?」
「ですが、あなたはグリフィンドールの寮監ではないのでは?」
「左様」
「でしたら、口を出さないでください」
スネイプ先生の口元が硬くなる。
ハリーはベッドの白い掛布へ顔を伏せた。
ロンも天井を見上げている。
笑わないためだった。
結局、治療が終われば寮へ戻ってよいことになった。
ただし、ハーマイオニーの足首には包帯が巻かれ、悠太の左腕は首から吊られた。
「大げさじゃないですか?」
悠太が尋ねる。
「外したければ、もう一度肩へ棍棒を受けなさい」
「このままで大丈夫です」
「賢明です」
マダム・ポンフリーが次の棚へ向かった。
スネイプ先生も、ようやく扉から離れる。
「ポッター。明日の授業までに、その杖を徹底的に洗っておけ」
ハリーは自分の杖を見た。
鼻の奥を思い出したらしい。
「はい、先生」
「ワタナベ」
「はい」
「知らない呪文が、また都合よく頭へ浮かんだなら」
スネイプ先生は黒い目で悠太を見た。
「次は呪文を使う前に、その意味を考えることだ」
「今回は、考える時間がありませんでした」
「そうやって礼儀正しいふりをして、口答えばかりしていると、いつかしっぺ返しを喰らうことになる」
低い声だった。
皮肉だけではない何かが混じっている。
悠太が意味を考える前に、スネイプ先生は背を向けた。
黒いローブが扉の向こうへ消える。
四人だけが残った。
マダム・ポンフリーは奥の部屋で薬瓶を並べている。
扉の閉まる音がしてから、ロンが長く息を吐いた。
「スネイプって、心配してても脅してるみたいに聞こえるな」
「心配してたと思う?」
ハリーが尋ねる。
「違うのか?」
「僕には分からない」
「ユウタは?」
「僕にも分からないよ」
「じゃあ、誰にも分からないな」
短い沈黙が落ちた。
さっきまでの沈黙とは違った。
同じ部屋にいても、どこを見ればよいか分からない沈黙だった。
ロンが自分の濡れた靴下を丸める。
何度も形を直し、最後に膝の上へ置いた。
「ハーマイオニー」
彼女が顔を上げる。
「朝のこと」
ロンは耳だけでなく、首まで赤くなっていた。
「僕は、その……」
ハリーは黙って待った。
悠太も口を挟まなかった。
「悪かった」
ロンが言った。
「あんなふうに聞かせるつもりじゃなかった。でも、言ったのは僕だ。だから……ごめん」
ハーマイオニーの目が少し潤む。
泣き出しはしなかった。
「私も、いつも言い方がきついことは分かってるわ」
「じゃあ、お互い——」
「でも、あなたの言ったことが傷つかなかったわけじゃない」
ロンの顔が止まる。
「うん」
「すぐに許せるかも、まだ分からない」
「うん」
「でも、助けに来てくれたことは、本当に感謝してる」
「それなら……半分くらいは許した?」
「三分の一」
「少なくないか?」
「今ので四分の一になったわ」
「減るのかよ」
ハリーが笑った。
悠太も、今度は肩を動かさないように笑う。
ハーマイオニーの口元にも、小さな笑みが浮かんだ。
「それから、ユウタ」
「僕?」
「あなたも謝ろうとしないで」
「まだ何も言ってないよ」
「顔に書いてあるわ」
「英語で?」
「今はかなり読みやすい英語よ」
「それは上達したね」
「私がトイレへ行った時、あなたはパーバティたちを向かわせてくれた。それに、助けに来た。もっと早く自分が行けばよかった、なんて言うつもりなら間違ってるわ」
言おうとしていた。
悠太は口を閉じる。
「でも、僕は迷った」
「迷っても、最後に来たでしょう」
「三人とも来た」
ハリーが言う。
「ロンが最初に『行こう』って言ったんだ」
ロンが目を逸らした。
「いちいち言わなくていい」
「言った方がいいよ」
悠太が答える。
「朝は、言わなくてもいいことを言った。今は、言った方がいいことを言った。それで少しは同じになる」
「全部じゃないの?」
ロンが尋ねる。
「言葉は戻せないって言っただろ」
「覚えてるよ」
「でも、次に何を言うかは選べる」
ロンはしばらく悠太を見た。
「そういうところ、やっぱり少し腹が立つ」
「それも言った方がよかった?」
「これは言わなくてもよかった」
「遅かったね」
ロンが鼻を鳴らす。
けれど、もう怒ってはいなかった。
「それにしても」
ハリーが悠太の吊られた腕を見る。
「あれ、どうやったんだ?」
「分からない」
「本当に?」
「本当に」
「マホウトコロの秘密じゃなくて?」
「秘密なら、僕にも教えてほしい」
悠太は右手を開いた。
掌に二本、赤い線がある。
細い杖を握っただけでは、同じ場所へ二本の痕はつかないはずだった。
両手で、柄を握った。
腰を落とし、相手の肩を見た。
止めるのではなく、流した。
すべて、初めてしたことだった。
それなのに思い返すと、初めてではない気がした。
「怖くなかったの?」
ハーマイオニーが尋ねる。
「怖かったよ」
「そうは見えなかった」
「大きな鳥が入ってきてたら、もっと怖かったと思う」
三人が悠太を見る。
「比べるものがおかしいだろ」
ロンが言った。
「トロールより梟の方が怖いの?」
ハリーが尋ねる。
「トロールは箒で追いかけてこないからね」
「棍棒では追いかけてきたわ」
ハーマイオニーが言う。
「それは今日知ったよ」
四人の笑い声が、白い医務室へ広がった。
大きくはない。
けれど、誰か一人だけが外にいる笑いではなかった。
*
グリフィンドール塔へ戻る頃には、ハロウィーンの宴は終わっていた。
廊下の蝋燭は半分まで短くなり、朝から浮かんでいた南瓜の灯も眠そうに揺れている。
太った婦人の肖像の前に、パーシーが立っていた。
その後ろには、パーバティ、ラベンダー、ネビル、ディーン、シェーマスもいる。
「戻ったぞ!」
シェーマスが言う。
全員が一度に近づいてきた。
「静かに!」
パーシーが声を抑える。
「夜中だ。それから、君たち三人——いや、四人は後で寮監から話があるはずだ」
「はい、パーシー先輩」
悠太が答えた。
パーシーは吊られた左腕を見る。
「無事なのか?」
「打撲だけです」
「それを無事とは——」
「悠太!」
パーバティがパーシーの横を抜けた。
悠太の前で止まり、左腕と顔を交互に見る。
「腕、どうしたの?」
「棍棒を少し」
「少し?」
「直接は当たってないよ」
「当たりそうになったの?」
「それは——」
「なったのね」
パーバティの目が潤んだ。
怒っているようにも見えた。
「先生に伝えてくれてありがとう」
悠太が言う。
「私が聞いた時には、もう先生たちは向かっていたの。何度もパーシーへ言って、それでも戻ってこなくて——」
「ごめん」
「どうしてあなたが謝るのよ」
「心配させたから」
パーバティは何かを言おうとした。
悠太の後ろにいるハーマイオニーへ気づく。
包帯の巻かれた足首を見ると、すぐにそちらへ近づいた。
「ハーマイオニー」
抱きしめる代わりに、両手で彼女の手を握った。
「本当に大丈夫?」
「ええ。心配をかけてごめんなさい」
「謝らなくていいわ。明日、ちゃんと話しましょう」
「うん」
ハーマイオニーの返事は、今日初めて聞くほど柔らかかった。
ネビルがロンの横へ来る。
「トロールを倒したって、本当?」
「僕一人じゃない」
ロンは答えた。
「最後に棍棒を落としたのは僕だけど」
「それは言うんだね」
悠太が言う。
「事実は正しく残した方がいいんだろ」
「覚えるのが早いね」
「君に教わったわけじゃない」
ディーンとシェーマスが笑う。
ハリーも笑った。
ロンは少し胸を張り、それからハーマイオニーを見た。
「呪文を教えたのはハーマイオニーだ」
「提案しただけよ」
「成功したのはロン」
悠太が言う。
「同じことを二回言うなよ」
「大事なことだから」
ロンは顔をしかめた。
隠しきれない笑みが口元にあった。
太った婦人が眠そうに咳払いをする。
「中へ入りたいのかしら。それとも、朝まで廊下で友情を確かめるつもり?」
「合言葉は『豚の鼻』です」
パーシーが答える。
「分かっております」
肖像画が前へ開いた。
談話室には暖炉の火が残っていた。
宴から持ち帰られた菓子と果物が、中央の机へ積まれている。
皆が四人を囲み、質問を始めた。
トロールはどれほど大きかったのか。
本当に棍棒を浮かせたのか。
ハリーの杖はなぜそんな臭いがするのか。
悠太の腕はどうしたのか。
四人は同じ出来事を、少しずつ違う順番で話した。
ハリーは、最初にハーマイオニーを見つけた時のことを話した。
ロンは、棍棒が浮いた瞬間を大きめに話した。
ハーマイオニーは、出口と仕切りの位置を説明した。
悠太は、自分の盾より三人の行動を多く話した。
誰かが間違えれば、別の誰かが直した。
それでも、話は一つだった。
やがてパーシーが全員を寝室へ追い立てた。
「明日も授業がある。これ以上の質問は朝にしろ」
生徒たちが一人ずつ階段へ向かう。
ハーマイオニーもパーバティに支えられ、女子寮への階段の前へ立った。
「おやすみ」
ハリーが言った。
「おやすみ」
ハーマイオニーが答える。
ロンは片手を上げた。
「明日の朝、その……」
言葉が続かない。
悠太は待った。
ハリーも急かさなかった。
「いつもの席、来る?」
ロンがようやく尋ねた。
ハーマイオニーは三人を見た。
朝には、同じ長机に座っていた。
けれど、四人分の席ではなかった。
ハリーとロン。
少し離れた悠太。
向かい側で、一人でも平気な顔をしていたハーマイオニー。
「席が空いているなら」
彼女が答えた。
「空けるよ」
ハリーが言う。
「四人分」
悠太が加えた。
ハーマイオニーは、ほんの少しだけ笑った。
「じゃあ、明日の朝に」
パーバティと一緒に階段を上がっていく。
三人の少年は、その姿が見えなくなるまで立っていた。
宣言はなかった。
親友だと確かめ合ったわけでもない。
朝の言葉が消えたわけでも、怖かった時間がなかったことになったわけでもない。
それでも、次に座る場所は決まった。
翌朝の食卓には、四人分の席が空けられる。