ハリー・ポッターと東洋の魔剣士   作:キャン

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第14話 控えのビーター

十一月三日、日曜日。

 

 午後二時になる十五分前、悠太はクィディッチ競技場へ続く坂道を歩いていた。

 

 右手には、マダム・フーチから借りた学校用の箒。

 

 左手には、マダム・ポンフリーが書いた診断書。

 

 左肩には、昨日より薄くなった痛みが残っている。

 

「先に渡すのよ」

 

 ハーマイオニーが、診断書を指した。

 

「言われなくても分かってる」

 

「聞かれてからではなくて、飛ぶ前に」

 

「だから分かってるよ」

 

「あなたの分かったは信用ならないわ」

 

「酷いな。昨日は、今日の分まで分かってなかっただけだ」

 

「言葉で逃げないで」

 

 悠太の反対側を歩いていたロンが、鼻を鳴らした。

 

「診断書まで持たされてるんだ。逃げても紙が追いかけてくるよ」

 

「飛ぶ紙なら、僕の方が逃げるかもしれない」

 

「診断書に翼はないわ」

 

「それなら渡せる」

 

 前を歩くハリーが振り返った。

 

 肩には、自分のニンバス二〇〇〇を載せている。

 

「ウッドは厳しいけど、怪我を隠せとは絶対に言わないよ」

 

「どのくらい厳しいの?」

 

「雨が横から降っても、上から降ってると思えば練習できるって言うくらい」

 

「それ、天気への意見なの?」

 

「たぶん、命令だよ」

 

 ロンは競技場の高い観客席を見上げた。

 

 赤と金の旗が、冷たい風に引かれている。

 

「でも、本当に代表チームへ入れるのかな」

 

「まだ呼ばれただけだよ」

 

 悠太が答える。

 

「呼ばれるだけでも普通じゃないんだ。しかも一年生が二人なんて」

 

 ロンの声には、興奮があった。

 

 その奥に、ごく小さな硬さもあった。

 

 ハリーがシーカーになった時と似ている。

 

 自分も空のことをよく知っているのに、自分には手紙が来ない。

 

 その気持ちを、ロン自身が一番持て余しているようだった。

 

「ビーターは、フレッド先輩とジョージ先輩なんだよね」

 

 悠太が尋ねた。

 

「グリフィンドールで一番息の合った二人だよ」

 

 ロンはすぐに答えた。

 

「同じ家でずっと打ち合ってきたから、どっちかが見てなくても、もう一人がどこにいるか分かる」

 

「なら、レギュラーを替える理由はないね」

 

「え?」

 

「僕は途中から来た。試合は来週。二人はずっと練習してる」

 

「でも、君の飛び方を見たら——」

 

「飛ぶのが上手いことと、ビーターができるかは別だよ」

 

 それは、強がりではなかった。

 

 箒へ乗れば身体は動く。

 

 けれど、英国のクィディッチを試合で経験した記憶はない。

 

 味方を守るビーターが、どの線を選び、どこまで相手へ近づいてよいのか。

 

 細かな規則は、ロンの方がずっとよく知っている。

 

「あとで教えて」

 

「何を?」

 

「英国のビーターが、やっていいことと悪いこと」

 

「全部?」

 

「全部は今日中に終わらない?」

 

 ロンの口元から、さっきの硬さが少し消えた。

 

「夕食まであれば、反則の半分まではいける」

 

「悪いことの方が多いんだ」

 

「クィディッチだからな」

 

「それ、説明になってないわ」

 

 ハーマイオニーが言った。

 

「君はクィディッチを知らないからだよ」

 

「競技規則なら昨日読みました」

 

「本で読んだだけだろ」

 

「規則は、本に書いてあるものよ」

 

「試合では、本に書いてないところで起きるんだ」

 

「反則が?」

 

「だいたいは」

 

 ハリーが笑った。

 

 悠太も笑う。

 

 競技場の入口が近づいてきた。

 

 石造りの低い通路の前に、パーバティとラベンダーが立っていた。

 

 二人は飛行用の服ではない。

 

 パーバティは、悠太の姿を見つけると一歩前へ出た。

 

「間に合った」

 

「何に?」

 

「始まる前に、幸運を言いに来たの」

 

 手には、赤と金の細い糸を編んだ輪がある。

 

 パーバティはそれを差し出した。

 

「お守り?」

 

「ただの糸よ。飛んでいる時に邪魔にならないよう、箒の柄へ結べると思って」

 

「ありがとう」

 

 悠太は受け取り、箒の先へ結ぼうとした。

 

「待って」

 

 ハーマイオニーが止める。

 

「備品へ勝手に結んではだめでしょう」

 

 パーバティの顔が曇った。

 

 悠太は糸の輪を見た。

 

 右手の手袋を外す。

 

 輪を手首へ通した。

 

「ここならいい?」

 

「飛行の邪魔にならないなら」

 

 ハーマイオニーは答えた。

 

 パーバティの顔が、すぐに明るくなる。

 

「終わったら、どうだったか教えて」

 

「うん」

 

「怪我は増やさないでね」

 

「それは私も言ったわ」

 

 ハーマイオニーが言う。

 

「二人に言われたから、二倍気をつけるよ」

 

 ラベンダーが、パーバティの横で意味ありげに笑った。

 

 パーバティは気づかないふりをした。

 

「行こう」

 

 ハリーが競技場の時計を見た。

 

「ウッドは、十五分前を五分前だと思ってるから」

 

「時計の読み方も厳しいんだね」

 

 四人は通路へ入った。

 

 パーバティとラベンダーは、観客席へ続く階段へ向かった。

 

     *

 

 競技場の芝には、すでに七本の箒が並んでいた。

 

 中央に立っている背の高い少年が、オリバー・ウッドだった。

 

 厚い競技用ローブ。

 

 短く刈った髪。

 

 腕には、使い込まれた革の籠手をつけている。

 

 その隣には、マクゴナガル先生とマダム・フーチがいた。

 

 少し離れた場所で、フレッドとジョージが二本のバットを交換し合っている。

 

 どちらが自分のものか、わざと分からなくしているようだった。

 

 三人の女子生徒は、クアッフルを回していた。

 

 背の高いアンジェリーナ・ジョンソン。

 

 鋭い動きのアリシア・スピネット。

 

 二人より少し小柄なケイティ・ベル。

 

 グリフィンドール代表チームの正選手だった。

 

「ポッター、遅いぞ」

 

 ウッドが言った。

 

「まだ十二分あります」

 

「十二分しかない」

 

 ハリーは悠太へ、小さく目配せした。

 

 さっきの説明は正しかったらしい。

 

「ワタナベ」

 

 マクゴナガル先生が呼ぶ。

 

「こちらへ」

 

「はい、先生」

 

 悠太は箒を置き、最初に診断書を差し出した。

 

「マダム・ポンフリーからです。飛行は許可されていますが、左肩に痛みが残っています。火曜日の再診までは、バットを振らないように言われました」

 

 ウッドの目が、診断書へ落ちる。

 

「振れないのか?」

 

「振ることはできます。ただ、振ってはいけないそうです」

 

「違いは大きいな」

 

 マダム・フーチが言った。

 

「はい」

 

 マクゴナガル先生は診断書を読み、ウッドへ渡した。

 

「この条件は絶対です、ウッド」

 

「分かっています、先生」

 

「初試合を前に、選手を一人増やして医務室の患者を二人増やすなら意味がありません」

 

「一人多いです」

 

 悠太が言うと、マクゴナガル先生の目が向いた。

 

「何がです?」

 

「僕が一人増えて、患者になるなら一人だと思いました」

 

「あなたを止めようとして怪我をする生徒まで数えています」

 

 観客席にいたハーマイオニーが、遠くから何度も頷いた。

 

 ロンが隣で何か言った。

 

 ここまでは聞こえない。

 

 たぶん、マクゴナガル先生の計算を支持している。

 

「飛行だけ見ます」

 

 ウッドは診断書を折った。

 

「肩を使う指示は出さない。痛みが増えたら、その時点で終わりだ」

 

「承知しました、ウッド先輩」

 

「それから、俺はまだ君を代表選手へ入れると決めていない」

 

「はい」

 

「フレッドとジョージの代わりにするとも言っていない」

 

「その方がよいと思います」

 

 双子の手が同時に止まった。

 

「聞いたか、フレッド」

 

「聞いたよ、ジョージ」

 

「新入りが、僕たちを残してくれるそうだ」

 

「寛大な判断だ」

 

「そういう意味ではありません」

 

 悠太は二人へ頭を下げた。

 

「お二人が正ビーターとして練習してきたのに、来たばかりの僕が代わる理由はないという意味です」

 

「礼儀正しい」

 

「だが、面白くない」

 

「では、代わってほしいですか?」

 

 双子は顔を見合わせた。

 

「礼儀正しい」

 

「そして、少し面白い」

 

 ウッドが咳払いをした。

 

「話は飛んでからだ」

 

     *

 

 最初の指示は、競技場を一周することだった。

 

 速度は自由。

 

 ただし、六本のゴール柱すべての外側を回り、出発した白線へ戻る。

 

「速さを見る試験ですか?」

 

 悠太が尋ねる。

 

「飛び方を見る」

 

 ウッドはそれ以上説明しなかった。

 

「分かりました」

 

 学校用の箒へ跨がる。

 

 十月の飛行確認で使ったものとは違う。

 

 柄は少し短く、穂先が硬い。

 

 前へ体重を移すと、反応が半拍遅れた。

 

 悠太は一度地面を離れ、三フィートの高さで止まる。

 

 右へ傾ける。

 

 戻す。

 

 左肩が、箒の向きを変えた時だけ鈍く痛んだ。

 

「どうした?」

 

 ウッドが聞く。

 

「左へ切る時に、肩へ少し響きます」

 

 観客席から、ハーマイオニーがもう一度大きく頷いた。

 

「続けられるか?」

 

「今の速さなら大丈夫です」

 

「無理に速さを上げるな。始め」

 

 悠太は箒を進めた。

 

 最初のゴール柱まで、一直線には飛ばない。

 

 風は北西から吹いている。

 

 行きで正面から受ければ、帰りには追い風になる。

 

 競技場の中央より少し低い場所を選び、風が弱まる線へ入る。

 

 一本目の柱を大きく回る。

 

 二本目へ向かう途中で高度を上げる。

 

 三本目では、旋回を半分だけ小さくした。

 

 左肩を深く倒さなくて済む。

 

 反対側の三本は、追い風だった。

 

 箒が速くなる。

 

 悠太は柄へ伏せなかった。

 

 速度を増やすより、次の柱と、地上にいる選手たちを見る。

 

 フレッドとジョージ。

 

 アンジェリーナ、アリシア、ケイティ。

 

 ゴール前のウッド。

 

 競技場の外周を飛ぶハリー。

 

 全員の位置が、一度に視界へ入った。

 

 誰も動いていない。

 

 それでも、次に動き出した時の線だけが、芝の上へ薄く引かれたように見えた。

 

 悠太は瞬きをした。

 

 線は消えた。

 

 代わりに、最後のゴール柱が近づいていた。

 

 身体を起こす。

 

 風を逃がす。

 

 白線の上へ、静かに着地した。

 

「二分十七秒」

 

 マダム・フーチが懐中時計を見た。

 

「速くはないな」

 

 ウッドが言う。

 

「肩を使わない速さにしました」

 

「それだけか?」

 

 悠太は競技場を振り返った。

 

「最初の三本で向かい風を使って箒の癖を確かめました。帰りに速度が上がっても、止まれる範囲を残しました」

 

「一周目で?」

 

「二周目があると聞いていませんでしたから」

 

 フレッドが笑った。

 

 ジョージも続く。

 

「ウッド、説明不足だ」

 

「新入りには二周目が必要らしい」

 

「あるぞ」

 

 ウッドが即座に答えた。

 

「今度はポッターと一緒だ」

 

 ハリーがニンバス二〇〇〇で下りてきた。

 

「競走?」

 

「違う」

 

 ウッドはクアッフルを一つ取り上げた。

 

「ポッターが先に飛ぶ。ワタナベは十秒あとから追え。ただし追い抜く必要はない。俺がクアッフルを投げたら、どちらかが取って、もう一人へ渡す。落とすな」

 

「シーカーとビーターで?」

 

 ハリーが聞く。

 

「チームに、役割だけ見て飛んでいる暇はない」

 

 ウッドが答えた。

 

「始めるぞ」

 

 ハリーが飛び出した。

 

 ニンバス二〇〇〇は、学校用の箒とは比べものにならない速さで高度を上げる。

 

 十秒後。

 

 悠太も地面を蹴った。

 

 追いつこうとはしなかった。

 

 追いつけない。

 

 ハリーは速いだけではなかった。

 

 上がる時に迷いがない。

 

 行きたい場所を見た瞬間、箒がもうそちらへ向いている。

 

 悠太が風と周囲を読んでから選ぶ線を、ハリーは先に作ってしまう。

 

 競技場の中央で、ウッドの右腕が動いた。

 

 クアッフルが高く投げられる。

 

 ハリーが箒を傾けた。

 

 赤い球へ向かう。

 

 悠太は、クアッフルを見なかった。

 

 ハリーの肩を見た。

 

 右腕を伸ばす前に、箒の先が僅かに左へ流れている。

 

 風に押されている。

 

「ハリー、右!」

 

 同級生へ、敬語は使わない。

 

 ハリーがすぐに右へ修正した。

 

 指先がクアッフルへ届く。

 

 捕った。

 

 そのまま振り返り、悠太へ投げる。

 

 球は胸より左へ来た。

 

 左肩を上げれば取れる。

 

 上げれば、たぶん痛む。

 

 悠太は箒を右へ滑らせた。

 

 身体の正面を、球の進路へ入れる。

 

 右手だけで抱えた。

 

 衝撃で、箒が少し沈む。

 

 左肩には触れなかった。

 

「返して!」

 

 ハリーが呼ぶ。

 

 悠太は右腕で投げた。

 

 クアッフルはハリーの前方へ飛ぶ。

 

 少し遠い。

 

 ハリーが加速し、追いついた。

 

 取り損ねない。

 

 そのままゴール柱の間を抜ける。

 

 ウッドが笛を吹いた。

 

 二人は地上へ戻った。

 

「最後の球は遠かった」

 

 ウッドが言う。

 

「すみません」

 

「謝るな。理由を言え」

 

「ハリーの箒の速さを、学校用の箒と同じに考えました」

 

「次は?」

 

「もっと前へ投げます」

 

「ポッター」

 

「はい」

 

「右へ動けと言われる前に、自分で風を見ろ」

 

「はい」

 

 ハリーは悔しそうに答えた。

 

 けれど、悠太へ腹を立ててはいなかった。

 

「助かった」

 

 小声で言う。

 

「僕の球も助けてもらったよ」

 

「あれは遠かった」

 

「先輩と同じことを言わないで」

 

 ハリーが笑った。

 

 ウッドは笑わなかった。

 

 競技場の中央へ全員を集める。

 

「次は通常練習だ。ワタナベは地上から見ろ」

 

「はい」

 

「見たものは、終わってから聞く」

 

     *

 

 鉄の箱が開かれた。

 

 二個のブラッジャーが、革帯の下で激しく震えている。

 

 悠太は地上に立ったまま、その音を聞いた。

 

 硬い球が箱の内側へぶつかるたび、身体のどこかが先に反応する。

 

 右手の指が閉じる。

 

 そこにないバットの柄を握るように。

 

「振らない」

 

 観客席からハーマイオニーの声が飛んだ。

 

「まだ持ってないよ」

 

「持ってからでは遅いでしょう」

 

 フレッドとジョージが笑った。

 

「優秀な監督がいるな」

 

「ウッドより先に止めてくれる」

 

「やめてください。むしろ保護者みたいなものです」

 

 悠太が答える。

 

「聞こえてるわよ!」

 

「上級生へ答えたんだよ!」

 

「そういう問題じゃないでしょう!」

 

 ロンが観客席で腹を抱えた。

 

 ウッドの笛が鳴る。

 

 笑いが止まった。

 

 練習が始まる。

 

 アンジェリーナ、アリシア、ケイティがクアッフルを運ぶ。

 

 ウッドが三本の輪を守る。

 

 フレッドとジョージは、解き放たれたブラッジャーの左右へ分かれた。

 

 片方が前へ出る。

 

 もう片方は、後ろへ残る。

 

 二人とも球だけを見てはいない。

 

 味方の背中を見る。

 

 相手役の位置を見る。

 

 ブラッジャーが誰へ向かうかではなく、そのあとに空く場所を見ている。

 

 フレッドが一球を打った。

 

 アンジェリーナへ向かった球が、その三ヤード手前を横切る。

 

 当てるためではない。

 

 進路を変えさせるためだ。

 

 アンジェリーナが上へ逃げる。

 

 空いた下の線へ、アリシアが入る。

 

 クアッフルが渡った。

 

 ジョージがもう一個を打ち返す。

 

 今度は、アリシアの後ろを守る。

 

 球を遠ざけるだけではない。

 

 二人で、味方の進む道を作っている。

 

 悠太の目には、また細い線が見えた。

 

 赤い球の線。

 

 二個の黒い球の線。

 

 三人のチェイサーが選べる線。

 

 その外側を、金色の小さな球を探して飛ぶハリーの線。

 

 線は交わり、消え、別の場所へ生まれる。

 

 考えるより早かった。

 

 見ようとしなくても、全体が一つの形として入ってくる。

 

「ワタナベ」

 

 マクゴナガル先生の声で、悠太は振り返った。

 

「何が見えますか」

 

「全員です」

 

「それでは答えになっていません」

 

 ウッドも、空から下りてきた。

 

「今の三回目の攻撃が、なぜ失敗した?」

 

 悠太は一度、答えを飲み込んだ。

 

 自分はまだチームの一員ではない。

 

 上級生の練習を見ただけで、間違いを指摘するのは失礼かもしれない。

 

「言ってみろ」

 

 ウッドが促す。

 

「アリシア先輩が悪かったわけではありません」

 

「それは分かっている」

 

「ジョージ先輩の打球が、アリシア先輩の右側を守りました。でも、その前にケイティ先輩が同じ場所へ入っていました。二人の進路が重なって、クアッフルを戻す場所がなくなったんだと思います」

 

 空にいた選手たちが、悠太を見る。

 

「では、どうする?」

 

 ウッドが尋ねる。

 

「ケイティ先輩が一度下がるか、ジョージ先輩が守る線を半分だけ上へずらします」

 

「半分とは?」

 

「ブラッジャーを完全に遠ざけません。相手役に、下の線が空いていると思わせます。入ってきたら、フレッド先輩が戻す」

 

 フレッドとジョージが、空中で顔を見合わせた。

 

「僕たちまで使った」

 

「地上から勝手に」

 

「申し訳ありません」

 

「謝るところじゃない」

 

 フレッドが言う。

 

「その線、もう一度言ってみろ」

 

 悠太は芝へ靴の先で図を描いた。

 

 ウッドが横から見る。

 

 最初は腕を組んでいた。

 

 途中で、片方の手が顎へ移った。

 

「試すぞ」

 

 ウッドが言った。

 

「同じ形をもう一度。今度はワタナベの線だ」

 

 練習が再開された。

 

 ケイティが下がる。

 

 ジョージの打球が、前より一ヤード高い場所を通る。

 

 アリシアの右側に、空間ができた。

 

 アンジェリーナからクアッフルが戻る。

 

 アリシアが受け取った。

 

 ウッドが正面の輪へ動く。

 

 アリシアは投げなかった。

 

 最後にケイティへ渡す。

 

 左の輪へ、クアッフルが入った。

 

 笛が鳴る。

 

「一点」

 

 ウッドは、ゴールを入れられたのに満足そうだった。

 

「偶然かもしれない」

 

「もう一度やりますか?」

 

 悠太が尋ねる。

 

「肩が治ってからだ」

 

「はい」

 

 マクゴナガル先生が、マダム・フーチと短く言葉を交わした。

 

 それから悠太へ向き直る。

 

「ワタナベ。あなたを、グリフィンドール代表チームの控えビーター兼練習要員とします」

 

 観客席から、ロンの声が上がった。

 

「本当に!?」

 

「ウィーズリー、私はあなたへ発表したのではありません」

 

「すみません!」

 

 悠太は一度、フレッドとジョージを見た。

 

 二人とも、嫌そうには見えなかった。

 

「ありがとうございます、先生」

 

「ただし条件があります」

 

 マクゴナガル先生の声は、少しも緩まない。

 

「マダム・ポンフリーの許可が出るまで、ブラッジャーにもバットにも触れないこと。授業の成績を落とさないこと。ウッドの許可なく、一人で練習しないこと」

 

「承知しました」

 

「そして、自分が控えであることを忘れないこと」

 

「はい」

 

「不満は?」

 

「ありません。正選手は、フレッド先輩とジョージ先輩です」

 

 双子が同時に胸へ手を当てた。

 

「二度も残してもらった」

 

「今日から彼を守らなくては」

 

「ブラッジャーから?」

 

「ウッドの追加練習から」

 

「聞こえているぞ」

 

 ウッドが言った。

 

「今週は毎日やる」

 

 双子の顔から笑みが消えた。

 

「新入り」

 

「君のせいだ」

 

「僕はまだ打てません」

 

「だから僕たちが二人分打つ」

 

「いつも二人分では?」

 

 一拍置いて、アンジェリーナが笑った。

 

 アリシアも笑う。

 

 フレッドとジョージは悠太を見た。

 

「やはり面白い」

 

「控えにしておくのは惜しい」

 

「レギュラーは替わりません」

 

 ウッドが釘を刺した。

 

「土曜日のスリザリン戦も、フレッドとジョージで行く。ワタナベは控え席から全体を見る」

 

「承知しました、ウッド先輩」

 

 答えた時、胸の奥に少しだけ熱が生まれた。

 

 正選手ではない。

 

 試合へ出るとも決まっていない。

 

 それでも、空の中に自分の場所が一つできた。

 

     *

 

 競技場を出ると、ロンが最初に悠太の背中を叩いた。

 

 左肩ではなく、右側だった。

 

「よっ!控えビーター!」

 

「まだ何も打ってないよ」

 

「打たずに選ばれたんだぞ。打ったらどうなるんだ?」

 

「外れるかもしれない」

 

「どうして悪い方を先に考えるんだよ」

 

「最初から上手くいくと思う方が危ないから」

 

 ハリーが、ニンバス二〇〇〇を抱え直した。

 

「ウッドは、飛び方より、最後の話を気に入ってた」

 

「線のこと?」

 

「うん。僕には全然見えなかった」

 

「僕には、スニッチが見えなかったよ」

 

「まだ出してないからだ」

 

 ロンが言う。

 

「出してなくても、ハリーなら探してた」

 

「探すのがシーカーだからね」

 

 ハリーが笑った。

 

 ハーマイオニーは笑わなかった。

 

「肩は?」

 

「少し痛い」

 

「どのくらい?」

 

「飛ぶ前より、ほんの少し」

 

「医務室へ行くわよ」

 

「ほんの少しだよ」

 

「増えたのでしょう」

 

「少しだけ」

 

「増えたのね」

 

 逃げ道がなくなった。

 

「分かった」

 

 悠太は城の方角へ向き直った。

 

「先に医務室。そのあと、ロンに反則を教えてもらう」

 

「順番は正しいわ」

 

「反則を習うことも?」

 

「規則を守るためなら」

 

 ロンが胸を張った。

 

「任せろ。フレッドとジョージがやったものなら、だいたい知ってる」

 

「どうして?」

 

「家で何度も聞かされたからだ」

 

「自慢として?」

 

「母さんに怒られた話として」

 

 四人は坂道を上った。

 

 観客席の上では、赤と金の旗がまだ風に鳴っている。

 

 悠太の右手首では、パーバティからもらった細い糸が揺れていた。

 

     *

 

 火曜日の夕方、マダム・ポンフリーは悠太の左腕を頭の上まで上げさせた。

 

「痛みは?」

 

「ありません」

 

「顔は?」

 

「少しだけあります」

 

「身体のどこに顔があるのです?」

 

「痛みが顔に出たという意味です」

 

「なら、最初から正しく答えなさい」

 

 杖先の青い光が、肩を一周する。

 

「強く振るのはまだ禁止。明日の練習では、十分ごとに地上へ下りること。痛みが出たら、その時点で終わりです」

 

「ブラッジャーは?」

 

「ウッドが管理し、正選手が近くにいる時だけ」

 

「ありがとうございます」

 

「礼を言うのは、一週間後に怪我が増えていなければ聞きます」

 

 許可証を受け取った。

 

 医務室の外では、ハリー、ロン、ハーマイオニーが待っていた。

 

「どうだった?」

 

 ハリーが尋ねる。

 

「十分ごとに下りる。強く振らない。痛んだら終わり」

 

「よかった」

 

 ハーマイオニーが言った。

 

「どこが?」

 

「条件が三つもあるところ」

 

「一つ減らしてもらえばよかった」

 

「増やしてもらいましょうか?」

 

「分かったよ。三つで十分」

 

 今度は、言葉で逃げずに答えた。

 

 ロンが笑った。

 

「明日、ついに打つんだな」

 

「たぶん」

 

「見に行っていい?」

 

「ウッド先輩が許せば」

 

「僕は?」

 

 ハリーが聞く。

 

「君は選手だから、来ない方が問題だよ」

 

「忘れてた」

 

「ウッドには言わないでおく」

 

「絶対に」

 

     *

 

 水曜日の夕方、競技場の鉄箱からブラッジャーが解き放たれた。

 

 最初の一球は、悠太のバットの上を抜けた。

 

 黒い球が、耳の近くで風を裂く。

 

 反射的に身体を伏せる。

 

 次の瞬間、背後で硬い音がした。

 

 フレッドが打ち返していた。

 

「一回」

 

 ウッドが地上から数える。

 

「何がですか?」

 

「空振りだ」

 

「数えなくても覚えています」

 

「記録は必要だ」

 

 悠太は学校用の箒を旋回させた。

 

 右手のバットが重い。

 

 重さそのものではない。

 

 振り始める場所が、思ったより遠い。

 

 腕が短い。

 

 身体も軽い。

 

 頭の中では届くはずの位置へ、十一歳の身体では半歩足りなかった。

 

 なぜ、別の長さを基準にしたのかは分からない。

 

「球を待ちすぎだ」

 

 ジョージが右側へ並んだ。

 

「見てから振ってる」

 

 フレッドが左側へ来る。

 

「見ないで振るんですか?」

 

「見る」

 

「でも、球だけは見ない」

 

「どちらです?」

 

「両方だ」

 

「双子の説明は、二人で一つにならないんですね」

 

 フレッドが笑った。

 

 ジョージも笑う。

 

「今のはいい」

 

「もう一度言わせよう」

 

「その前に、もう一球お願いします」

 

 黒い球が戻ってくる。

 

 今度は球だけを見なかった。

 

 ジョージの箒の向き。

 

 フレッドのバット。

 

 自分の後ろにあるゴール柱。

 

 ブラッジャーが選べる線を先に見る。

 

 振る。

 

 乾いた衝撃が、右腕から肩へ抜けた。

 

 球は当たった。

 

 けれど、正面へは飛ばない。

 

 バットの先を掠め、斜め下へ落ちた。

 

 芝へ当たる直前に上向き、ケイティの箒へ向かう。

 

「下!」

 

 悠太が叫ぶ。

 

 ケイティが身体を伏せた。

 

 ブラッジャーが髪の上を抜ける。

 

 ジョージが追いつき、遠くへ打ち返した。

 

 ウッドの笛が鳴る。

 

「二回」

 

「今のは当たりました」

 

「味方へ飛ばした」

 

「では、一回半にしてください」

 

「二回だ」

 

 ケイティが下から上がってきた。

 

「半分にしてあげてもいいわよ」

 

「ありがとうございます、ケイティ先輩」

 

「その代わり、次は私へ打たないで」

 

「努力します」

 

「約束して」

 

「約束します」

 

 観客席でロンが笑った。

 

 ハーマイオニーは笑わず、羊皮紙へ何か書いている。

 

「何を書いてるの?」

 

 ハリーが飛びながら尋ねた。

 

「十分です!」

 

 ハーマイオニーが答えた。

 

 ちょうど、許可された最初の十分だった。

 

「地上へ!」

 

 ウッドの声も飛ぶ。

 

 悠太は反論せず、着陸した。

 

 左肩は痛んでいない。

 

 右手は、二度しか振っていないのに痺れていた。

 

 フレッドとジョージが下りてくる。

 

「二回とも見たか?」

 

「はい」

 

「最初は遅い」

 

「二度目は早すぎる」

 

「間はどこです?」

 

「自分で探せ」

 

「厳しいですね」

 

「控えに仕事を奪われたくないからな」

 

「さっきは残してほしそうでした」

 

「事情が変わった」

 

 二人は笑っていた。

 

 教える気がないわけではない。

 

 答えだけを渡す気がないのだ。

 

 悠太はバットを握り直した。

 

 手のひらの位置を、一インチだけ下げる。

 

 長い腕で振る時の場所ではなく、今の身体で最も早くバットの先が出る場所。

 

 自分の基準を、十一歳へ戻す。

 

「休憩はあと四分だ」

 

 ウッドが言う。

 

「その間に聞く。ワタナベ、今の攻撃で、チェイサー三人のうち誰を最初に動かす?」

 

 日曜日には、十一歳の控えへ戦術を聞くことをためらっていた。

 

 今は、最初から答えを待っている。

 

 悠太は空を見た。

 

「アンジェリーナ先輩です」

 

「理由は?」

 

「一番速いからではありません。相手役が、一番速いと思って先に見るからです。先に上へ動いてもらえば、下の二人から目が外れます」

 

「アリシアは?」

 

「最初はクアッフルを持ちません」

 

 アリシアが眉を上げた。

 

「私、いらないの?」

 

「最後に必要です。最初に持つと、最後まで見られます」

 

「ケイティは?」

 

「二人の間を動いて、どちらへ渡すか相手に決めさせません」

 

「ビーターは?」

 

 フレッドが聞く。

 

「お二人が決めてください」

 

「逃げた」

 

「そこが一番大事だぞ、小さいの」

 

「まだ二回しか振っていません。正ビーターへ、二回分の経験で命令はできません」

 

 ジョージはバットを肩へ載せた。

 

「命令ではなく、お願いなら?」

 

 悠太は少し考えた。

 

「では、フレッド先輩は最初の一球を前へ。ジョージ先輩は、打たずに後ろを残してください」

 

「どちらがフレッドか分かるのか?」

 

「今、左にいる方です」

 

「入れ替わったら?」

 

「その時は、左にいる方へお願いします」

 

 二人が同時に笑った。

 

「名前を諦めた」

 

「だが、位置は見ている」

 

 ウッドが笛を鳴らした。

 

「試すぞ」

 

     *

 

 試合形式の練習が始まった。

 

 ウッドは三本の輪を守る。

 

 アンジェリーナが最初に上がる。

 

 アリシアはクアッフルへ触れない。

 

 ケイティが中央を横切る。

 

 フレッドの一球が、アンジェリーナの前へ飛んだ。

 

 彼女を狙う球ではない。

 

 空を横切り、目を集める球だった。

 

 ジョージは打たない。

 

 もう一個のブラッジャーを、後ろで待つ。

 

 アリシアが下から入る。

 

 クアッフルが渡った。

 

 ウッドの身体が右へ動く。

 

 アリシアはすぐに投げない。

 

 ケイティへ戻す。

 

 左の輪が空いた。

 

 その瞬間、ジョージのバットを留めていた革紐が外れた。

 

 バットが手を離れ、芝へ落ちる。

 

「ジョージ、地上へ!」

 

 ウッドが叫ぶ。

 

「ワタナベ、入れ!」

 

 三分前まで、悠太は休憩していた。

 

 今はバットを握り、空へ上がる。

 

 ジョージと入れ替わった。

 

 正ビーターの一人が地上へ下りる。

 

 ほんの数分だけ、控えの出番が来た。

 

 一個目のブラッジャーが、アリシアの背後から上がってくる。

 

 悠太は早く振ろうとした。

 

 フレッドの声が飛ぶ。

 

「待て!」

 

 バットを止める。

 

 別の一個が、ケイティの正面へ来ていた。

 

 二つ同時。

 

 片方だけを追えば、もう片方が味方へ届く。

 

 悠太はアリシアの後ろへ回らなかった。

 

「アリシア先輩、右へ二ヤード!」

 

 アリシアが迷わず動く。

 

 最初のブラッジャーが、そのまま通り過ぎた。

 

「ケイティ先輩、下へ!」

 

 ケイティが高度を落とす。

 

 正面の球が、悠太の右側へ来る。

 

 今の腕で届く場所。

 

 振る。

 

 今度は、バットの中心へ当たった。

 

 衝撃が腕を上る。

 

 左肩は痛まない。

 

 ブラッジャーは、フレッドへも、誰かの身体へも向かわなかった。

 

 高く上がる。

 

 もう一個の球が戻ってくる線へ入る。

 

 二個の黒い球が、空中で互いの進路を変えた。

 

 フレッドが片方を追う。

 

 その背後に、チェイサー三人の道が空く。

 

「アンジェリーナ先輩、中央です!」

 

 ケイティからクアッフルが投げられる。

 

 アンジェリーナが受け取った。

 

 ウッドは中央の輪を守る。

 

 アンジェリーナは右へ投げるふりをした。

 

 左へ振る。

 

 クアッフルが輪を抜けた。

 

 笛が鳴る。

 

 その音とほとんど同時に、ハリーの声が上がった。

 

「捕った!」

 

 競技場の反対側で、右手を掲げている。

 

 指の間に、金色の小さな翼が震えていた。

 

 悠太は、スニッチが放たれていたことさえ忘れていた。

 

 ハリーの黒い髪が、風に乱れている。

 

 丸い眼鏡の奥で、緑の目が笑っている。

 

 その姿へ、別の笑い声が一瞬だけ重なった。

 

 もっと低い声。

 

 自信に満ちて、少し得意そうな笑い。

 

 赤い何かが、視界の端で翻った。

 

 顔は見えない。

 

 場所も分からない。

 

 次の瞬間には、ハリーだけが空にいた。

 

 悠太の胸の奥が、理由もなく痛んだ。

 

「ユウタ?」

 

 ハリーが近づく。

 

「どうしたの?」

 

「何でもない」

 

 答えた声が、少し遅れた。

 

「肩か?」

 

 ウッドが下から尋ねる。

 

 悠太は左腕を動かした。

 

 痛みはない。

 

「肩ではありません。少し、ぼんやりしました」

 

「地上へ下りろ」

 

「でも——」

 

「痛みでなくても終わりだ。控えは、必要な時に飛べなければ意味がない」

 

「はい」

 

 悠太は素直に着陸した。

 

 ウッドは、全員が下りるまで待った。

 

「今の一点は、チェイサー三人のものだ」

 

 最初にそう言った。

 

 アンジェリーナ、アリシア、ケイティが頷く。

 

「スニッチはポッターだ。よく見つけた」

 

 ハリーの顔が明るくなる。

 

「ブラッジャーの線は、フレッドとワタナベが作った」

 

「僕は一度しか打っていません」

 

 悠太が言う。

 

「一度で二個を動かした」

 

 ウッドは芝へ落ちた二本のバットを拾った。

 

「それに、味方を先に動かした。球を追うのではなく、球が来る場所から味方を外した」

 

「偶然かもしれません」

 

「だから練習要員なんだ。偶然を、もう一度できるか確かめる」

 

 ジョージが、直した革紐を締めながら戻ってきた。

 

「空でずいぶん命令していたな」

 

「お願いです」

 

「声は命令だった」

 

 フレッドが言う。

 

「十一歳の控えビーター」

 

「地上へ下りたレギュラー選手にも聞こえた」

 

「小さな将軍だ」

 

 ジョージが決めた。

 

「小さいは必要ですか?」

 

 悠太が尋ねる。

 

「必要だ」

 

「大きくなったら取れる」

 

「将軍の方ではなく?」

 

「それは働き次第だ」

 

 双子が同時に笑った。

 

 アンジェリーナも、アリシアも、ケイティも笑う。

 

 ウッドだけは、すでに次の練習を考えている顔だった。

 

「明日は、同じ形をもう一度やる」

 

「僕もですか?」

 

「十分ごとに下りながらだ」

 

「はい」

 

「それから、ポッターの進路も——」

 

「ハリーには、決めた進路を作らない方がよいと思います」

 

 言ってから、悠太は口を閉じた。

 

 ウッドの眉が上がる。

 

「なぜだ?」

 

「僕たちはクアッフルとブラッジャーを見ます。ハリーは、誰にも見えていないスニッチを探します。同じ形へ入れたら、見える場所が減ります」

 

 ウッドはハリーを見た。

 

 ハリーはまだ、捕らえたスニッチを手の中に持っている。

 

「……その通りだ」

 

 認めるまでに、少し時間がかかった。

 

「ポッターは自由に動け。ほかの全員は、その自由を邪魔するな」

 

「はい」

 

 ハリーが答えた。

 

 悠太を見る。

 

「ありがとう」

 

「僕にはスニッチが見えなかったからね」

 

「だから、僕の仕事を残してくれた?」

 

「最初から君の仕事だよ」

 

 ハリーは笑った。

 

 さっき重なった知らない笑い声は、もう聞こえなかった。

 

 けれど、胸に残った痛みだけは、風が止んでも消えなかった。

 

     *

 

 その夜、大広間では「小さな将軍」という名前の方が、控えビーターより早く広まっていた。

 

「誰が言ったの?」

 

 ハーマイオニーが尋ねる。

 

「フレッド先輩とジョージ先輩」

 

「なら、明日には別の意味になってるわね」

 

「もうなってたぞ」

 

 ロンが言った。

 

「ディーンは、悠太がバット一本でスリザリンを降伏させたって聞いたらしい」

 

「まだ戦ってないよ」

 

「シェーマスは、ブラッジャー二個をぶつけて粉にしたって」

 

「箱に二個とも残ってた」

 

「ネビルは、ウッドへ追加練習を命じたって聞いたって」

 

「それは少し近い」

 

 ハーマイオニーが呆れた顔をした。

 

「否定しなさい」

 

「全部を?」

 

「本当ではない部分を」

 

「ほとんど全部だね」

 

 向かい側で、パーバティが笑った。

 

「小さな将軍って、格好いいと思うけど」

 

「小さいのに?」

 

「そこを気にしてるの?」

 

「十一歳としては普通だと思う」

 

「そういう意味じゃないわ」

 

 パーバティはまた笑った。

 

 悠太には、どこが違うのか分からなかった。

 

 ラベンダーには分かっているようだった。

 

 笑いながらパーバティの袖を引いている。

 

「それより」

 

 ロンが皿の横へ一枚の羊皮紙を広げた。

 

「土曜日のスリザリンだ」

 

 羊皮紙には、三本の輪と十四個の小さな丸が描かれている。

 

 丸の半分は赤。

 

 半分は緑。

 

「作ったの?」

 

 悠太が尋ねる。

 

「去年までの試合を、兄さんたちから聞いた。スリザリンは身体を寄せてくる。特にマーカス・フリントは、クアッフルより先に相手を動かす」

 

「反則?」

 

「審判が見ていれば」

 

「見ていなければ?」

 

「クィディッチだ」

 

「その説明、便利だね」

 

 悠太は羊皮紙を受け取った。

 

「借りてもいい?」

 

「いいけど、ウッドに見せるのか?」

 

「ロンがよければ」

 

「僕の名前を言う?」

 

「もちろん」

 

 ロンは一瞬だけ黙った。

 

「別に、言わなくてもいいけど」

 

「どうして?」

 

「代表チームの話に、一年生の僕が口を出したみたいだろ」

 

「僕も一年生だよ」

 

「お前は控え選手だ」

 

「だから、僕が知らないことを教えてくれる人が必要なんだ」

 

 悠太は丸の配置を見た。

 

「この図は、僕には作れない」

 

 ロンは羊皮紙の端を指で押さえた。

 

「じゃあ、フリントが右から来る癖も書く」

 

「お願い」

 

「去年、二回同じ反則を取られたんだ」

 

「それは癖というより、反省してないね」

 

 ロンが笑った。

 

 ハリーも図を覗き込む。

 

 ハーマイオニーは、食事中にインクを出すことへ一度だけ眉を寄せた。

 

 それでも片づけろとは言わなかった。

 

 四人で一枚の羊皮紙を見る。

 

 選手は二人。

 

 選手ではない二人も、同じ試合のことを考えていた。

 

     *

 

 十一月八日、金曜日の夜。

 

 グリフィンドール代表チームは、競技場の更衣室へ集められた。

 

 壁には、明日の先発が書かれている。

 

 キーパー、オリバー・ウッド。

 

 チェイサー、アンジェリーナ・ジョンソン、アリシア・スピネット、ケイティ・ベル。

 

 ビーター、フレッド・ウィーズリー、ジョージ・ウィーズリー。

 

 シーカー、ハリー・ポッター。

 

 その下に、少し小さな文字がある。

 

 控えビーター、渡辺悠太。

 

 悠太は、その順番を最初から最後まで読んだ。

 

「変更はない」

 

 ウッドが言った。

 

「ワタナベは控え席。フレッドかジョージが続行できなくなった時だけ入る。勝手に箒へ乗るな」

 

「承知しました」

 

「試合へ出られなくても、最後まで全体を見ろ。相手のビーター、チェイサー、審判、教師席。何か気づいたら、休止の時に俺へ言え」

 

「はい」

 

 ウッドは、ロンの図を壁へ留めていた。

 

 右下には、小さく『R・ウィーズリー』と書かれている。

 

「この情報は役に立つ」

 

 ウッドが言った。

 

「弟さんへ、あとで礼を言っておいてください」

 

 悠太が答える。

 

「自分で言え。明日は観客席にいるんだろう」

 

 フレッドが言う。

 

「ただし、あまり褒めるな」

 

 ジョージが続ける。

 

「あいつは一週間その話をする」

 

「二人より長いですか?」

 

「僕たちは一か月する」

 

「では、家族ですね」

 

 双子が同時に頷いた。

 

 ウッドは七着の赤い競技用ローブを、正選手へ配った。

 

 最後に、少し色の薄い一着を悠太へ渡す。

 

 背中に名前はない。

 

 レギュラー選手と同じ赤。

 

 けれど、まだ誰の汗も風も覚えていないローブだった。

 

「控え用だ」

 

「ありがとうございます」

 

「出番がないことを願え」

 

 悠太はローブを見た。

 

「はい」

 

 その返事に、ウッドが少しだけ意外そうな顔をした。

 

「出たいとは思わないのか?」

 

「いつかは出たいです。でも、明日僕が出るのは、フレッド先輩かジョージ先輩に何かあった時です」

 

 双子が悠太の両側へ立った。

 

「聞いたか、ジョージ」

 

「僕たちの無事を願っている」

 

「珍しい後輩だ」

 

「パーシーでも言わない」

 

「パーシー先輩は、いつも言っていると思います」

 

「規則の中でな」

 

「心からではない」

 

「聞こえているぞ」

 

 更衣室の入口に、パーシーが立っていた。

 

 明日の応援旗を確認しに来たらしい。

 

「やはり言っていました」

 

 悠太が言う。

 

 更衣室に笑いが起きた。

 

 ウッドだけが、まだ真剣だった。

 

「笑うのは今夜までだ。明日はスリザリン戦だ」

 

 全員の顔が引き締まる。

 

 ハリーが、配られた赤いローブを握った。

 

 十一歳で初めての公式戦。

 

 競技場の何百という目が、彼一人の小さな金色の球を追う。

 

 悠太は、ハリーの隣へ立った。

 

「眠れそう?」

 

「たぶん無理」

 

「僕も最初の日は眠れなかった」

 

「何の最初?」

 

 悠太は答えようとした。

 

 箒へ乗った日。

 

 学校へ行った日。

 

 試合へ出た日。

 

 どれなのか、自分でも分からなかった。

 

「大事なことの前」

 

 そう答えた。

 

「役に立たない助言だね」

 

「まだ助言はしてないよ」

 

「じゃあ、助言は?」

 

「眠れなくても、朝は来る」

 

「もっと役に立たない」

 

 ハリーが笑った。

 

 その笑いに、もう別の声は重ならなかった。

 

 悠太も笑う。

 

 壁には、七人の正選手と、一人の控えの名が並んでいる。

 

 明日、ハリーは空へ上がる。

 

 悠太は地上から、その空を全部見る。

 

 控えとは、出番を待つだけの場所ではない。

 

 誰かが飛び続けられるように、必要になるまで残る場所だった。

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