ハリー・ポッターと東洋の魔剣士 作:キャン
十一月九日、土曜日。
朝食の時間になっても、ハリーの皿の上では目玉焼きがほとんど原形を保っていた。
「食べないと、途中で箒から落ちるぞ」
ロンがソーセージを一本、自分の皿から移した。
「それを聞いたら、もっと食べられなくなった」
「なら、落ちないためじゃなくて、スリザリンに食べられないために食べて」
悠太が言った。
「スリザリンは僕を食べないよ」
「フリント先輩なら、反則にならなければ試すかも」
「なるわよ」
ハーマイオニーが即座に言った。
「競技規則に、人を食べてはいけないと書いてある?」
「くだらないこと言ってないで、食べなさいよ。書いてなくても禁止に決まってるでしょう」
「ロン、不測の事態って本には書いてないところで起きるんだよね」
「僕に振るなよ」
ハリーが笑った。
ようやく、目玉焼きを一口食べる。
大広間は、朝から赤と緑に分かれていた。
グリフィンドールの長卓には赤と金のリボンが結ばれ、スリザリンの卓では銀色の蛇が描かれた小旗が揺れている。天井の空は薄い灰色で、雲の切れ目から冷たい光が落ちていた。
悠太の隣には、畳まれた控え用の赤いローブが置いてある。
その上に、パーバティからもらった細い糸の輪が載っていた。
「つけないの?」
向かい側からパーバティが尋ねた。
「競技場へ着いたら、右手首につけるよ。食事へ落としたら、幸運より先に卵の匂いがつくから」
「なくさないでね」
「うん」
パーバティはハリーの方も見た。
「ハリーも頑張って」
「ありがとう」
ラベンダーが、パーバティの耳元で何か囁いた。
パーバティが肘で軽く押し返す。
悠太には聞こえなかった。
ハーマイオニーには聞こえたらしく、少しだけ眉を上げたが、何も言わなかった。
「あと三十分だ」
パーシーが時計を見た。
「代表チームは、更衣室へ向かった方がいい」
「はい、パーシー先輩」
悠太は立ち上がった。
ハリーも深く息を吸い、ニンバス二〇〇〇を持つ。
ロンが二人へ親指を立てた。
「七十対ゼロになる前にスニッチを捕れよ」
「それ、励ましてる?」
ハリーが尋ねる。
「現実的な助言だ」
「六十対ゼロなら?」
悠太が尋ねた。
「まだ大丈夫だ」
「分かった。ハリー、六十点までは待っていいらしいよ」
「待たないよ」
今度の笑いは、さっきより自然だった。
*
更衣室では、オリバー・ウッドが一人ずつの顔を確認していた。
七人の正選手。
一人の控え。
赤い競技用ローブへ着替えると、悠太の背中にもグリフィンドールの獅子が載った。名前はない。先発の番号もない。
それでも、同じ色だった。
「最後に確認する」
ウッドが言った。
「ポッターは、他の球へ気を取られるな。スニッチだけを追え。フレッド、ジョージ、あいつへブラッジャーを近づけるな」
「一個も?」
フレッドが尋ねる。
「一個もだ」
「スリザリンの選手は?」
ジョージが続ける。
「近づけてもいい」
「分かりやすい指示だ」
双子が同時に頷いた。
「ワタナベ」
「はい」
「肩は?」
「痛みはありません。昨日、マダム・ポンフリーから試合への出場許可もいただきました」
「分かった。だが、少しでも異常があれば自分から申告しろ」
「承知しました」
「控え席から動くな。フレッドかジョージが続行不能になり、俺かマダム・フーチが指示した時だけ箒へ乗れ」
「承知しました」
「試合へ出ていなくても、君はチームの一員だ。見つけたことは、叫べ。遠慮はするな」
「はい」
ウッドの指が壁の図へ移る。
昨夜、ロンが描いたスリザリンの配置だった。
「フリントは右から相手を押す。審判から身体を隠す癖がある。これはウィーズリーの弟の情報だ」
「僕たちの弟でもあります」
フレッドが言う。
「今日は誇ってよい弟です」
悠太が答えた。
「聞かせたい」
「試合後に本人へお願いします」
「僕たちが言うと値段が上がるぞ」
「何の値段ですか?」
「次に口止めする菓子だ」
ウッドが咳払いをした。
笑いが止まる。
「勝つぞ」
短い言葉だった。
けれど、七人の正選手が箒を持ち上げる音は一つに重なった。
悠太も、控え用の箒とバットを持った。
右手首には、赤と金の糸がある。
*
競技場へ出た瞬間、音が身体へぶつかった。
何百人もの声。
旗が鳴る音。
足で観客席を踏む音。
冷たい風の中を、赤と緑の紙吹雪が飛んでいる。
ハリーの足が一瞬だけ止まった。
悠太はその隣で止まった。
「大丈夫?」
「昨日より、見てる人が多い」
「昨日は八人だったからね」
「今日は何人?」
「数えない方がいい」
「先に聞いたのは君だろ」
「僕も今、後悔した」
ハリーは眼鏡を押し上げた。
それから、空を見た。
観客ではなく、空を。
「行ってくる」
「うん。見てる」
マダム・フーチの笛が鳴った。
十四本の箒が、地面を離れる。
悠太だけが残った。
控え席は、グリフィンドール側の得点柱の近くにある。すぐ横に予備の箒が一本。足元にはバットと手袋。手を伸ばせば、いつでも空へ行ける。
けれど、その手を伸ばしてよい時は決められていた。
『出番がないことを願え』
ウッドの言葉を思い出す。
上空でクアッフルが放られた。
アンジェリーナが最初に取る。
赤いローブが三人、斜めに広がった。アリシアが右。ケイティが左。スリザリンのチェイサーが中央へ寄った瞬間、アンジェリーナは下を通した。
ケイティが受ける。
得点輪を抜いた。
赤い観客席が揺れる。
実況席でリー・ジョーダンが叫んでいた。
「グリフィンドール、最初の十点! アンジェリーナの完璧な——」
「ジョーダン、実況を続けなさい」
マクゴナガル先生の声が割り込む。
「続けています、先生!」
悠太は笑わなかった。
目はもう、次の配置を見ていた。
スリザリンの三人が右へ寄る。
フリントだけが、クアッフルを見ていない。
アリシアの肩を見ている。
「右から来ます!」
悠太が叫んだ。
アリシアが振り返る。
避けきれない。
フリントの肩がぶつかった。
それでも、正面から受けずに済んだ。アリシアの箒は大きく流れたが、落ちない。
マダム・フーチの笛が鋭く鳴る。
グリフィンドールへの反則得点の機会。
フレッドが空中から悠太を指した。
次に、観客席のロンを指す。
ロンは両腕を上げた。
その隣でハーマイオニーが、赤い布へ杖を向けている。布の上には金色の文字で『飛べ、ハリー!』と書かれ、端の獅子が小さく口を開けていた。
さらに隣では、ハグリッドが普通の生徒三人分の場所を使って座っている。
悠太は一度だけ右手を上げた。
すぐに空へ戻す。
試合は止まらない。
スリザリンは体格で押し、グリフィンドールは速度で抜けた。
ブラッジャーが低く唸る。
ジョージが一個を打ち上げ、フレッドが上から角度を変える。黒い球はスリザリンの隊形の間へ入り、二人のチェイサーを左右へ分けた。
空いた中央をアンジェリーナが通る。
その一方で、スリザリンも点を重ねた。
十点。
二十点。
風が強くなり、得点板の数字が動く。
ハリーは高い場所にいた。
試合の外側を、大きな円で飛んでいる。
クアッフルも見ない。
ブラッジャーが近づけば身を沈めるが、追わない。
ただ、金色の光だけを探していた。
悠太には、ハリーの見ているものが見えなかった。
それでよかった。
見えないものを見つけるのは、ハリーの役目だった。
*
スリザリンが六十点へ届いた時、グリフィンドールは二十点だった。
ロンの言った数字だ。
悠太は一瞬だけ観客席を見た。
ロンも同じことを考えたらしい。両手を口へ当てて、何かを叫んでいる。
風に消され、言葉までは聞こえない。
その時、ハリーの箒が跳ねた。
最初は、強い横風に見えた。
ニンバス二〇〇〇の先端が右へ振られ、ハリーの身体が傾く。
ハリーはすぐに立て直した。
次の瞬間、箒は左へ折れた。
風とは反対だった。
「ウッド先輩!」
悠太が叫ぶ。
ウッドも見ていた。
得点輪の前から、ハリーへ視線を向ける。
箒がもう一度跳ねた。
馬が乗り手を振り落とすような動きだった。
けれど、箒は生き物ではない。
「ハリーじゃありません! 箒です!」
その声が、歓声と風を越えてどこまで届いたかは分からない。
同じ時、クアッフルが得点輪へ飛んできた。
ウッドは反射的に腕を伸ばし、弾き返す。
試合の音が続いている。
上では、別の何かが始まっていた。
ハリーの箒が急上昇する。
次に、急降下。
ハリーは両膝で柄を挟み、両手でしがみついた。
「フレッド先輩、ジョージ先輩! ハリーの下へ!」
二人が振り向く。
理由は聞かなかった。
左右から高度を下げる。
ハリーの真下へ入り、落ちた時に身体を受けられる距離を保った。二個のブラッジャーがそこへ向かうたび、交互に打ち返す。
近づきすぎれば、暴れるニンバスが二人まで巻き込む。
遠すぎれば、ハリーへ届かない。
「あと三ヤード上です!」
悠太が叫ぶ。
双子が同時に上がる。
予備の箒が、すぐ横にある。
悠太の右手が柄へ伸びた。
途中で止まる。
フレッドもジョージも飛べている。
交代の指示はない。
自分が上がれば、三人目のビーターが無許可で試合へ入ることになる。ハリーの近くへ余計な箒を増やし、双子の進路まで塞ぐかもしれない。
行きたいことと、行くべきことは同じではなかった。
悠太は箒ではなく、バットを握った。
使うためではない。
動こうとする手を、そこへ留めるためだった。
もう一度、空を見る。
ハリーの身体が横へ振られる。
片手が離れた。
観客席から悲鳴が上がる。
黒い髪。
丸い眼鏡。
風の中で、小さくなる背中。
そこへ、別の輪郭が重なった。
同じように乱れた黒い髪。
少し低い笑い声。
笑っていたはずの声が、急に遠ざかる。
手を伸ばしても届かない。
そんなことは、一度も経験していない。
それなのに胸の奥が、間に合わなかった時のように痛んだ。
「落ちるな……」
誰へ言ったのか、自分でも分からなかった。
次の揺れで、ハリーのもう片方の手が滑った。
両膝だけで箒へぶら下がる。
悠太の中で、何かが静かになった。
歓声も、悲鳴も遠くなる。
箒の動き。
ハリーの重心。
双子の位置。
ブラッジャーの軌道。
風。
そして、競技場の外から箒へ伸びている魔力。
見えるわけではない。
けれど、ある。
同じ方向から何度も押し、柄を捻り、乗り手だけを落とそうとしている。
悠太は、その方向を辿った。
観客席。
生徒たちの頭。
教師席。
黒いローブの男がいた。
スネイプ先生だった。
黒い目はハリーから離れない。
唇が、途切れず動いている。
悠太の背中が冷たくなった。
トロールの夜に見た、裂けたローブ。
三頭犬が立っていた落とし戸。
そして今、ハリーだけを見つめて唱え続ける口。
「先生……?」
声は風へ消えた。
けれど、それだけではなかった。
スネイプ先生のいる方向とはわずかに違う場所から、もう一本、細い圧力が伸びている。
弱く、不安定で、触れたと思えば人の波へ紛れる。
二つの魔力が同じ目的なのか、逆らっているのかも分からない。
教師席には何人もの大人がいた。
ターバン。
白い髭。
尖った帽子。
立ち上がる生徒たちの旗が、その間を何度も隠す。
悠太の今の知識では、遠くから術式を読み分けられなかった。
「どこだ……」
観客席の上で、ハーマイオニーも双眼鏡を下ろしていた。
ロンへ何かを言う。
次の瞬間、彼女は人の列へ身体を沈めた。
赤と金のマフラーだけが、教師席の後ろへ向かって動いていく。
「ハーマイオニー!」
悠太が呼んだ。
届かない。
ハリーの箒が縦に跳ねた。
今度こそ、膝まで外れかける。
フレッドとジョージが真下で腕を伸ばした。
その上へブラッジャーが一個、突っ込んでくる。
「右から!」
悠太の声で、ジョージが振り向いた。
バットを振る。
黒い球が遠くへ飛ぶ。
フレッドはハリーの下を離れなかった。
教師席の後ろで、小さな青い火が灯った。
黒いローブの裾へ移る。
スネイプ先生が、初めてハリーから目を外した。
同じ時、紫色のターバンが人の間へ沈んだ。
誰かに押されたように見えた。
細い魔力が途切れる。
スネイプ先生が立ち上がり、もう一方の圧力も消えた。
二つは、ほとんど同時だった。
ハリーの箒が止まる。
完全には静まらない。
大きく一度沈み、次に浮き上がる。
ハリーの手が柄を掴んだ。
片足を戻す。
身体を起こす。
「ハリー!」
ロンの声が、今度は競技場の端まで届いた。
ハリーは聞こえたのか、聞こえなかったのか。
顔を上げた。
目の前を、金色の小さな光が横切っていた。
ニンバス二〇〇〇が前へ出る。
さっきまで振り落とされかけていた少年が、空へ身体を伏せた。
「行け!」
悠太が叫んだ。
フレッドとジョージが左右へ開く。
ハリーのための一本の道ができる。
金色の光は低く落ちた。
ハリーも落ちる。
急降下。
地面が近づく。
スリザリンのシーカーが後ろから手を伸ばす。
ハリーがさらに前へ出た。
そのまま芝へ倒れ込む。
競技場から、すべての音が消えた。
ハリーが四つん這いになる。
一度、大きく咳き込んだ。
口元へ当てた手の中で、何かが羽を震わせている。
金色のスニッチだった。
マダム・フーチの笛が鳴る。
今度こそ、試合を終わらせる音だった。
赤い観客席が爆発したように揺れた。
「百七十対六十! グリフィンドールの勝利! ハリー・ポッター、初試合でスニッチを——」
リーの声は、歓声に飲み込まれた。
悠太はバットを置いた。
走った。
今は、控え席を離れてよかった。
*
ハリーは、立ち上がろうとしてもう一度座り込んだ。
「大丈夫?」
悠太は目の前へ膝をついた。
「口の中が、羽だらけだ」
「それは大丈夫じゃないね」
「でも、捕った」
ハリーが手を開く。
スニッチが、細い翼を忙しく動かしている。
「うん。ハリーが捕った」
悠太は笑った。
「初試合で、六十点差をひっくり返した」
「七十点になる前だっただろ」
ロンが観客席から駆け下りてくる。
「僕の助言だ」
「六十点までは待っていいって言ったのは悠太だよ」
「僕は待っていいとは言ってない」
「言ったよ」
「朝食の証人ならいるわ」
ハーマイオニーも来た。
息を切らし、髪には煤がついている。
「君、何をしたの?」
悠太が尋ねた。
「必要なことよ」
「青い火が見えた」
「なら、もう分かってるでしょう」
「誰かの服へ火をつけるのは、授業で習った安全な方法?」
「習ってないわ」
「だと思った」
ハーマイオニーは反省した顔をしなかった。
ハリーの無事を確認した途端、膝から力が抜けたように芝へ座る。
「スネイプよ」
小さな声で言った。
「スネイプが、あなたの箒へ呪いをかけていたの」
ハリーの笑みが消える。
「見たの?」
「ずっとあなたを見て、呪文を唱えてた。だから、集中を切れば止まると思ったの」
「止まった」
ロンが言う。
「火がついた途端に」
悠太は教師席を振り返った。
スネイプ先生は、焼けたローブの裾を踏み消している。顔は怒りで青白く、周囲の生徒たちは逃げるように席を離れていた。
少し離れた場所で、クィレル先生が紫色のターバンを直している。
「僕も、スネイプ先生の口が動いているのを見た」
悠太が言った。
「ほら」
ロンが答える。
「でも、別の方向からも魔力を感じた」
三人が悠太を見る。
「誰?」
ハリーが尋ねる。
「分からない。教師席の中だった。弱くて、何度も人に隠れた」
「スネイプが、別の場所からも何かしてたんじゃないの?」
ロンが言った。
「人は一人で二つの席には座れないよ」
「じゃあ、共犯者?」
「それも分からない」
ハーマイオニーが煤のついた髪を耳へかけた。
「私、後ろを通った時にクィレル先生へぶつかったわ。転ばせてしまったけど、謝る時間がなくて」
紫色のターバンが沈んだ瞬間。
細い圧力が消えた瞬間。
同じだったように思える。
けれど、その直後にはスネイプ先生も立ち上がっている。
どちらが先だったか。
遠すぎた。
一秒にも満たなかった。
「クィレル先生が?」
ハリーが尋ねる。
「あの先生に、こんなことができると思う?」
ロンが言った。
防衛術の授業で、イグアナを見ただけで杖を落とした教師。
悠太を見て怯えたように目を逸らす男。
すぐに答えは出なかった。
「分からないものを、分かったことにはできない」
悠太は言った。
「でも、スネイプ先生がハリーだけを見て、何かを唱えていたのは確かだ」
それが一番見えやすい事実だった。
だからこそ、一番信じやすかった。
「話はあとだ」
ウッドが来た。
「ポッターを更衣室へ。マダム・フーチにも箒を見せる」
「はい、ウッド先輩」
悠太が立ち上がる。
ウッドは一度、教師席を見た。
それから悠太へ戻す。
「よく双子を動かした。あの位置なら、落ちても二人のどちらかが受けられた」
「ジョージ先輩がブラッジャーを止めて、フレッド先輩が下を離れなかったからです」
「指示を出したのは君だ」
「ハリーが落ちなかったので、必要なかった指示です」
「必要にならないよう備えるのが、控えの仕事だ」
昨日と同じ言葉ではなかった。
けれど、意味は同じだった。
「はい」
ハリーがスニッチを握ったまま、悠太を見上げた。
「僕が落ちたら、飛んできた?」
悠太は予備の箒を見た。
「飛びたかった」
「でも?」
「フレッド先輩とジョージ先輩がいた。僕が勝手に上がれば、二人の邪魔になる」
「飛ばなかったんだ」
「約束したからね」
ハリーは少しだけ笑った。
「見てるっていう約束も守った」
「うん」
「全部?」
「スニッチだけは見えなかった」
「それは僕が見た」
「だから勝ったんだよ」
ハリーの手の中で、金色の翼がもう一度震えた。
*
マダム・フーチは、ニンバス二〇〇〇を三度調べた。
柄。
穂先。
足掛け。
どこにも壊れた箇所はなかった。
「箒そのものの故障ではありません」
最後にそう告げた。
更衣室の中が静かになる。
「では、風ですか?」
ウッドが尋ねる。
「あの動きは風ではありません。外から魔法を受けた可能性があります」
ハリー、ロン、ハーマイオニー、悠太の視線が重なった。
「誰がしたかは、見ていないものについて答えられません」
マダム・フーチは四人を順に見た。
「あなたたちも、証拠なしに名前を口にしてはいけません。教師へ報告するなら、見たことだけを話しなさい」
「はい、先生」
四人が答える。
悠太は、見たことを頭の中で並べた。
スネイプ先生の視線。
動く唇。
二方向の魔力。
青い火。
沈んだ紫のターバン。
止まった箒。
事実は多い。
答えだけがなかった。
*
午後、四人はハグリッドの小屋へ向かった。
試合の祝勝会は、まだ城の中で続いている。
フレッドとジョージは、ハリーがスニッチを食べて相手に見つからないよう隠したのだ、と三年生たちへ説明していた。
ウッドは、その説明を訂正するより先に得点表を壁へ貼った。
パーバティは、右手首の糸が切れていないことを確認してから、ようやく安心したように笑った。
けれど、四人には確かめたいことがあった。
小屋の扉を叩くと、牙の吠える声が先に返ってきた。
「誰だ?」
「僕たちです、ハグリッド」
ハリーが答える。
扉が開く。
「今日の英雄じゃねえか!」
ハグリッドの大きな手が、ハリーの肩を叩いた。
ハリーの膝が少し曲がる。
「スニッチを飲み込まなかったのは立派だったぞ」
「飲み込みかけただけだよ」
「同じことだ」
「かなり違うと思います」
悠太が言った。
「お前さんも、下からよく見とった。双子を動かした時なんか——」
「その話より、聞きたいことがあるんです」
ハーマイオニーが遮った。
ハグリッドの笑顔が少し止まる。
「なんだ?」
小屋へ入ると、暖炉の火が勢いよく燃えていた。
濡れた土と毛皮と、焼きかけの固い菓子の匂いがする。四人は丸木の椅子へ座り、牙がハリーの膝へ頭を載せた。
ハリーが、箒に起きたことを最初から話した。
ロンがスネイプ先生の視線を説明する。
ハーマイオニーが、青い火をつけたことを認める。
悠太は、二方向から感じた魔力を話した。
全部聞き終える前から、ハグリッドは首を横へ振っていた。
「スネイプ先生が、ハリーを箒から落とそうとしたんだ」
ロンが言う。
「馬鹿なこと言うんじゃねえ」
ハグリッドの声が低くなった。
「あの人は感じが悪いし、点も引くし、あの目で見られりゃ誰だって腹は冷える。だが、生徒を殺すような人じゃねえ」
「どうして言い切れるの?」
ハリーが尋ねる。
「ダンブルドアが信じとる」
「それだけ?」
「それで十分だ」
ハリーは納得しなかった。
悠太も、すぐには納得できなかった。
けれど、ハグリッドの言葉を笑うこともできなかった。
スネイプ先生が本当にハリーを落とそうとしていた。
そう考えれば、見たものはきれいにつながる。
それなのに、胸のどこかだけが拒んでいる。
あの黒い目を、敵だと決めるなと言っている。
理由は分からない。
「でも、ハロウィーンの夜に怪我をしてた」
ハリーが言った。
「脚を噛まれたような傷だった。あの三頭犬のところへ行ったんだ」
ハグリッドの目が大きくなる。
「三頭犬を見たのか?」
「見ました」
ハーマイオニーが答えた。
「右側の立入禁止の廊下で。犬の下に落とし戸がありました」
「あそこへ行っちゃいかん!」
「それは、見たあとで知りました」
悠太が言った。
「知っとったはずだ。立入禁止だぞ」
「知っていました。だから、反省しています」
「反省しながら、また調べに来たんだろうが」
「はい」
ハグリッドは両手で顔を覆った。
「お前さん、素直なのか頑固なのか分からんな」
「両方だと思うわ」
ハーマイオニーが言った。
「今は僕の話じゃないよ」
悠太が答える。
「あの犬は、何を守ってるの?」
ハリーが尋ねた。
「フラッフィーのことは忘れろ」
「フラッフィー?」
ロンが聞き返す。
「あの犬の名前だ。わしが旅先で会ったギリシャ人から譲ってもらった。扱いさえ分かれば、いい子だぞ」
四人は同時に黙った。
三つの頭。
天井に届く身体。
扉を削った爪。
「いい子の基準が、日本と違うみたいです」
悠太が言った。
「とにかく、あれはわしの犬だ。ダンブルドアへ貸しただけだ。その下にあるものは、校長とニコラス・フラメルの問題で——」
ハグリッドの口が止まった。
暖炉で薪が弾ける。
誰も言葉を挟まなかった。
ハグリッドは、四人の顔を一人ずつ見た。
「今のは忘れろ」
「ニコラス・フラメル」
ハーマイオニーが繰り返した。
「繰り返すんじゃねえ」
「人の名前?」
ロンが尋ねる。
「知らん」
「今、校長とその人の問題だって言ったよ」
ハリーが言う。
「言っとらん」
「言いました」
悠太も答えた。
「お前さんまで加わるな」
「四人とも聞きました」
ハーマイオニーが言った。
ハグリッドは長く唸り、暖炉へ薪を一本放り込んだ。
「いいか。フラッフィーにも、落とし戸にも、ニコラス・フラメルにも近づくな。スネイプ先生のことも、勝手に調べるな」
「どうして?」
「危ないからだ!」
「ハリーは、もう危ない目に遭った」
ロンが言う。
「だから次は、先生へ任せろ」
ハグリッドは立ち上がり、扉を開けた。
追い出すというより、これ以上何も言わないためだった。
外の風が、小屋の暖かい空気へ入ってくる。
四人は立ち上がった。
「ハグリッド」
ハリーが扉の前で振り返る。
「今日、僕が落ちかけたことと、あの犬が守ってるものは関係あると思う?」
ハグリッドは答えなかった。
答えないことが、答えのように見えた。
*
城へ戻る坂道で、四人は何度も同じ名前を口にした。
「ニコラス・フラメル」
ロンが言う。
「どこかで聞いたことがある?」
ハリーが尋ねる。
「ない。でも、家へ帰れば父さんか兄さんたちが知ってるかも」
「手紙で聞いたら、理由を聞かれるわ」
ハーマイオニーが言った。
「図書館で調べればいい」
「名前だけで?」
「名前があるだけ、昨日より前進よ」
「昨日は犬しかなかったからね」
悠太が答える。
「三頭あったぞ」
「頭数で手掛かりを数えないで」
ハーマイオニーが言った。
ハリーは三人のやり取りを聞きながら、少し遅れて歩いていた。
悠太が歩調を落とす。
「箒、怖くなった?」
「少し」
ハリーは正直に答えた。
「でも、もう乗りたくないとは思わない」
「よかった」
「君は?」
「見てる方が怖かった」
「飛んでる方も、かなり怖かったよ」
「じゃあ、次は交代する?」
「僕の代わりには入れないだろ。君はビーターの控えだ」
「残念」
「本当に?」
「嘘」
ハリーが笑う。
その横顔へ、また別の笑い声が重なりかけた。
今度は、形になる前に消えた。
悠太は何も言わなかった。
右手首の赤と金の糸が、冬の近い風に揺れている。
試合は終わった。
ハリーは自分の手で勝っ
けれど、箒を呪った者は見つかっていない。
落とし戸の下にあるものも。
ニコラス・フラメルが誰なのかも。
城の窓へ夕日が映り、遠くから見ると、縦に長い金色の鏡のように光っていた。
悠太は一度だけ、その光へ目を細めた。
鏡が何を映すのかを、まだ知らなかった。