ハリー・ポッターと東洋の魔剣士   作:キャン

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第15話 呪われた箒

 十一月九日、土曜日。

 

 朝食の時間になっても、ハリーの皿の上では目玉焼きがほとんど原形を保っていた。

 

「食べないと、途中で箒から落ちるぞ」

 

 ロンがソーセージを一本、自分の皿から移した。

 

「それを聞いたら、もっと食べられなくなった」

 

「なら、落ちないためじゃなくて、スリザリンに食べられないために食べて」

 

 悠太が言った。

 

「スリザリンは僕を食べないよ」

 

「フリント先輩なら、反則にならなければ試すかも」

 

「なるわよ」

 

 ハーマイオニーが即座に言った。

 

「競技規則に、人を食べてはいけないと書いてある?」

 

「くだらないこと言ってないで、食べなさいよ。書いてなくても禁止に決まってるでしょう」

 

「ロン、不測の事態って本には書いてないところで起きるんだよね」

 

「僕に振るなよ」

 

 ハリーが笑った。

 

 ようやく、目玉焼きを一口食べる。

 

 大広間は、朝から赤と緑に分かれていた。

 

 グリフィンドールの長卓には赤と金のリボンが結ばれ、スリザリンの卓では銀色の蛇が描かれた小旗が揺れている。天井の空は薄い灰色で、雲の切れ目から冷たい光が落ちていた。

 

 悠太の隣には、畳まれた控え用の赤いローブが置いてある。

 

 その上に、パーバティからもらった細い糸の輪が載っていた。

 

「つけないの?」

 

 向かい側からパーバティが尋ねた。

 

「競技場へ着いたら、右手首につけるよ。食事へ落としたら、幸運より先に卵の匂いがつくから」

 

「なくさないでね」

 

「うん」

 

 パーバティはハリーの方も見た。

 

「ハリーも頑張って」

 

「ありがとう」

 

 ラベンダーが、パーバティの耳元で何か囁いた。

 

 パーバティが肘で軽く押し返す。

 

 悠太には聞こえなかった。

 

 ハーマイオニーには聞こえたらしく、少しだけ眉を上げたが、何も言わなかった。

 

「あと三十分だ」

 

 パーシーが時計を見た。

 

「代表チームは、更衣室へ向かった方がいい」

 

「はい、パーシー先輩」

 

 悠太は立ち上がった。

 

 ハリーも深く息を吸い、ニンバス二〇〇〇を持つ。

 

 ロンが二人へ親指を立てた。

 

「七十対ゼロになる前にスニッチを捕れよ」

 

「それ、励ましてる?」

 

 ハリーが尋ねる。

 

「現実的な助言だ」

 

「六十対ゼロなら?」

 

 悠太が尋ねた。

 

「まだ大丈夫だ」

 

「分かった。ハリー、六十点までは待っていいらしいよ」

 

「待たないよ」

 

 今度の笑いは、さっきより自然だった。

 

     *

 

 更衣室では、オリバー・ウッドが一人ずつの顔を確認していた。

 

 七人の正選手。

 

 一人の控え。

 

 赤い競技用ローブへ着替えると、悠太の背中にもグリフィンドールの獅子が載った。名前はない。先発の番号もない。

 

 それでも、同じ色だった。

 

「最後に確認する」

 

 ウッドが言った。

 

「ポッターは、他の球へ気を取られるな。スニッチだけを追え。フレッド、ジョージ、あいつへブラッジャーを近づけるな」

 

「一個も?」

 

 フレッドが尋ねる。

 

「一個もだ」

 

「スリザリンの選手は?」

 

 ジョージが続ける。

 

「近づけてもいい」

 

「分かりやすい指示だ」

 

 双子が同時に頷いた。

 

「ワタナベ」

 

「はい」

 

「肩は?」

 

「痛みはありません。昨日、マダム・ポンフリーから試合への出場許可もいただきました」

 

「分かった。だが、少しでも異常があれば自分から申告しろ」

 

「承知しました」

 

「控え席から動くな。フレッドかジョージが続行不能になり、俺かマダム・フーチが指示した時だけ箒へ乗れ」

 

「承知しました」

 

「試合へ出ていなくても、君はチームの一員だ。見つけたことは、叫べ。遠慮はするな」

 

「はい」

 

 ウッドの指が壁の図へ移る。

 

 昨夜、ロンが描いたスリザリンの配置だった。

 

「フリントは右から相手を押す。審判から身体を隠す癖がある。これはウィーズリーの弟の情報だ」

 

「僕たちの弟でもあります」

 

 フレッドが言う。

 

「今日は誇ってよい弟です」

 

 悠太が答えた。

 

「聞かせたい」

 

「試合後に本人へお願いします」

 

「僕たちが言うと値段が上がるぞ」

 

「何の値段ですか?」

 

「次に口止めする菓子だ」

 

 ウッドが咳払いをした。

 

 笑いが止まる。

 

「勝つぞ」

 

 短い言葉だった。

 

 けれど、七人の正選手が箒を持ち上げる音は一つに重なった。

 

 悠太も、控え用の箒とバットを持った。

 

 右手首には、赤と金の糸がある。

 

     *

 

 競技場へ出た瞬間、音が身体へぶつかった。

 

 何百人もの声。

 

 旗が鳴る音。

 

 足で観客席を踏む音。

 

 冷たい風の中を、赤と緑の紙吹雪が飛んでいる。

 

 ハリーの足が一瞬だけ止まった。

 

 悠太はその隣で止まった。

 

「大丈夫?」

 

「昨日より、見てる人が多い」

 

「昨日は八人だったからね」

 

「今日は何人?」

 

「数えない方がいい」

 

「先に聞いたのは君だろ」

 

「僕も今、後悔した」

 

 ハリーは眼鏡を押し上げた。

 

 それから、空を見た。

 

 観客ではなく、空を。

 

「行ってくる」

 

「うん。見てる」

 

 マダム・フーチの笛が鳴った。

 

 十四本の箒が、地面を離れる。

 

 悠太だけが残った。

 

 控え席は、グリフィンドール側の得点柱の近くにある。すぐ横に予備の箒が一本。足元にはバットと手袋。手を伸ばせば、いつでも空へ行ける。

 

 けれど、その手を伸ばしてよい時は決められていた。

 

『出番がないことを願え』

 

 ウッドの言葉を思い出す。

 

 上空でクアッフルが放られた。

 

 アンジェリーナが最初に取る。

 

 赤いローブが三人、斜めに広がった。アリシアが右。ケイティが左。スリザリンのチェイサーが中央へ寄った瞬間、アンジェリーナは下を通した。

 

 ケイティが受ける。

 

 得点輪を抜いた。

 

 赤い観客席が揺れる。

 

 実況席でリー・ジョーダンが叫んでいた。

 

「グリフィンドール、最初の十点! アンジェリーナの完璧な——」

 

「ジョーダン、実況を続けなさい」

 

 マクゴナガル先生の声が割り込む。

 

「続けています、先生!」

 

 悠太は笑わなかった。

 

 目はもう、次の配置を見ていた。

 

 スリザリンの三人が右へ寄る。

 

 フリントだけが、クアッフルを見ていない。

 

 アリシアの肩を見ている。

 

「右から来ます!」

 

 悠太が叫んだ。

 

 アリシアが振り返る。

 

 避けきれない。

 

 フリントの肩がぶつかった。

 

 それでも、正面から受けずに済んだ。アリシアの箒は大きく流れたが、落ちない。

 

 マダム・フーチの笛が鋭く鳴る。

 

 グリフィンドールへの反則得点の機会。

 

 フレッドが空中から悠太を指した。

 

 次に、観客席のロンを指す。

 

 ロンは両腕を上げた。

 

 その隣でハーマイオニーが、赤い布へ杖を向けている。布の上には金色の文字で『飛べ、ハリー!』と書かれ、端の獅子が小さく口を開けていた。

 

 さらに隣では、ハグリッドが普通の生徒三人分の場所を使って座っている。

 

 悠太は一度だけ右手を上げた。

 

 すぐに空へ戻す。

 

 試合は止まらない。

 

 スリザリンは体格で押し、グリフィンドールは速度で抜けた。

 

 ブラッジャーが低く唸る。

 

 ジョージが一個を打ち上げ、フレッドが上から角度を変える。黒い球はスリザリンの隊形の間へ入り、二人のチェイサーを左右へ分けた。

 

 空いた中央をアンジェリーナが通る。

 

 その一方で、スリザリンも点を重ねた。

 

 十点。

 

 二十点。

 

 風が強くなり、得点板の数字が動く。

 

 ハリーは高い場所にいた。

 

 試合の外側を、大きな円で飛んでいる。

 

 クアッフルも見ない。

 

 ブラッジャーが近づけば身を沈めるが、追わない。

 

 ただ、金色の光だけを探していた。

 

 悠太には、ハリーの見ているものが見えなかった。

 

 それでよかった。

 

 見えないものを見つけるのは、ハリーの役目だった。

 

     *

 

 スリザリンが六十点へ届いた時、グリフィンドールは二十点だった。

 

 ロンの言った数字だ。

 

 悠太は一瞬だけ観客席を見た。

 

 ロンも同じことを考えたらしい。両手を口へ当てて、何かを叫んでいる。

 

 風に消され、言葉までは聞こえない。

 

 その時、ハリーの箒が跳ねた。

 

 最初は、強い横風に見えた。

 

 ニンバス二〇〇〇の先端が右へ振られ、ハリーの身体が傾く。

 

 ハリーはすぐに立て直した。

 

 次の瞬間、箒は左へ折れた。

 

 風とは反対だった。

 

「ウッド先輩!」

 

 悠太が叫ぶ。

 

 ウッドも見ていた。

 

 得点輪の前から、ハリーへ視線を向ける。

 

 箒がもう一度跳ねた。

 

 馬が乗り手を振り落とすような動きだった。

 

 けれど、箒は生き物ではない。

 

「ハリーじゃありません! 箒です!」

 

 その声が、歓声と風を越えてどこまで届いたかは分からない。

 

 同じ時、クアッフルが得点輪へ飛んできた。

 

 ウッドは反射的に腕を伸ばし、弾き返す。

 

 試合の音が続いている。

 

 上では、別の何かが始まっていた。

 

 ハリーの箒が急上昇する。

 

 次に、急降下。

 

 ハリーは両膝で柄を挟み、両手でしがみついた。

 

「フレッド先輩、ジョージ先輩! ハリーの下へ!」

 

 二人が振り向く。

 

 理由は聞かなかった。

 

 左右から高度を下げる。

 

 ハリーの真下へ入り、落ちた時に身体を受けられる距離を保った。二個のブラッジャーがそこへ向かうたび、交互に打ち返す。

 

 近づきすぎれば、暴れるニンバスが二人まで巻き込む。

 

 遠すぎれば、ハリーへ届かない。

 

「あと三ヤード上です!」

 

 悠太が叫ぶ。

 

 双子が同時に上がる。

 

 予備の箒が、すぐ横にある。

 

 悠太の右手が柄へ伸びた。

 

 途中で止まる。

 

 フレッドもジョージも飛べている。

 

 交代の指示はない。

 

 自分が上がれば、三人目のビーターが無許可で試合へ入ることになる。ハリーの近くへ余計な箒を増やし、双子の進路まで塞ぐかもしれない。

 

 行きたいことと、行くべきことは同じではなかった。

 

 悠太は箒ではなく、バットを握った。

 

 使うためではない。

 

 動こうとする手を、そこへ留めるためだった。

 

 もう一度、空を見る。

 

 ハリーの身体が横へ振られる。

 

 片手が離れた。

 

 観客席から悲鳴が上がる。

 

 黒い髪。

 

 丸い眼鏡。

 

 風の中で、小さくなる背中。

 

 そこへ、別の輪郭が重なった。

 

 同じように乱れた黒い髪。

 

 少し低い笑い声。

 

 笑っていたはずの声が、急に遠ざかる。

 

 手を伸ばしても届かない。

 

 そんなことは、一度も経験していない。

 

 それなのに胸の奥が、間に合わなかった時のように痛んだ。

 

「落ちるな……」

 

 誰へ言ったのか、自分でも分からなかった。

 

 次の揺れで、ハリーのもう片方の手が滑った。

 

 両膝だけで箒へぶら下がる。

 

 悠太の中で、何かが静かになった。

 

 歓声も、悲鳴も遠くなる。

 

 箒の動き。

 

 ハリーの重心。

 

 双子の位置。

 

 ブラッジャーの軌道。

 

 風。

 

 そして、競技場の外から箒へ伸びている魔力。

 

 見えるわけではない。

 

 けれど、ある。

 

 同じ方向から何度も押し、柄を捻り、乗り手だけを落とそうとしている。

 

 悠太は、その方向を辿った。

 

 観客席。

 

 生徒たちの頭。

 

 教師席。

 

 黒いローブの男がいた。

 

 スネイプ先生だった。

 

 黒い目はハリーから離れない。

 

 唇が、途切れず動いている。

 

 悠太の背中が冷たくなった。

 

 トロールの夜に見た、裂けたローブ。

 

 三頭犬が立っていた落とし戸。

 

 そして今、ハリーだけを見つめて唱え続ける口。

 

「先生……?」

 

 声は風へ消えた。

 

 けれど、それだけではなかった。

 

 スネイプ先生のいる方向とはわずかに違う場所から、もう一本、細い圧力が伸びている。

 

 弱く、不安定で、触れたと思えば人の波へ紛れる。

 

 二つの魔力が同じ目的なのか、逆らっているのかも分からない。

 

 教師席には何人もの大人がいた。

 

 ターバン。

 

 白い髭。

 

 尖った帽子。

 

 立ち上がる生徒たちの旗が、その間を何度も隠す。

 

 悠太の今の知識では、遠くから術式を読み分けられなかった。

 

「どこだ……」

 

 観客席の上で、ハーマイオニーも双眼鏡を下ろしていた。

 

 ロンへ何かを言う。

 

 次の瞬間、彼女は人の列へ身体を沈めた。

 

 赤と金のマフラーだけが、教師席の後ろへ向かって動いていく。

 

「ハーマイオニー!」

 

 悠太が呼んだ。

 

 届かない。

 

 ハリーの箒が縦に跳ねた。

 

 今度こそ、膝まで外れかける。

 

 フレッドとジョージが真下で腕を伸ばした。

 

 その上へブラッジャーが一個、突っ込んでくる。

 

「右から!」

 

 悠太の声で、ジョージが振り向いた。

 

 バットを振る。

 

 黒い球が遠くへ飛ぶ。

 

 フレッドはハリーの下を離れなかった。

 

 教師席の後ろで、小さな青い火が灯った。

 

 黒いローブの裾へ移る。

 

 スネイプ先生が、初めてハリーから目を外した。

 

 同じ時、紫色のターバンが人の間へ沈んだ。

 

 誰かに押されたように見えた。

 

 細い魔力が途切れる。

 

 スネイプ先生が立ち上がり、もう一方の圧力も消えた。

 

 二つは、ほとんど同時だった。

 

 ハリーの箒が止まる。

 

 完全には静まらない。

 

 大きく一度沈み、次に浮き上がる。

 

 ハリーの手が柄を掴んだ。

 

 片足を戻す。

 

 身体を起こす。

 

「ハリー!」

 

 ロンの声が、今度は競技場の端まで届いた。

 

 ハリーは聞こえたのか、聞こえなかったのか。

 

 顔を上げた。

 

 目の前を、金色の小さな光が横切っていた。

 

 ニンバス二〇〇〇が前へ出る。

 

 さっきまで振り落とされかけていた少年が、空へ身体を伏せた。

 

「行け!」

 

 悠太が叫んだ。

 

 フレッドとジョージが左右へ開く。

 

 ハリーのための一本の道ができる。

 

 金色の光は低く落ちた。

 

 ハリーも落ちる。

 

 急降下。

 

 地面が近づく。

 

 スリザリンのシーカーが後ろから手を伸ばす。

 

 ハリーがさらに前へ出た。

 

 そのまま芝へ倒れ込む。

 

 競技場から、すべての音が消えた。

 

 ハリーが四つん這いになる。

 

 一度、大きく咳き込んだ。

 

 口元へ当てた手の中で、何かが羽を震わせている。

 

 金色のスニッチだった。

 

 マダム・フーチの笛が鳴る。

 

 今度こそ、試合を終わらせる音だった。

 

 赤い観客席が爆発したように揺れた。

 

「百七十対六十! グリフィンドールの勝利! ハリー・ポッター、初試合でスニッチを——」

 

 リーの声は、歓声に飲み込まれた。

 

 悠太はバットを置いた。

 

 走った。

 

 今は、控え席を離れてよかった。

 

     *

 

 ハリーは、立ち上がろうとしてもう一度座り込んだ。

 

「大丈夫?」

 

 悠太は目の前へ膝をついた。

 

「口の中が、羽だらけだ」

 

「それは大丈夫じゃないね」

 

「でも、捕った」

 

 ハリーが手を開く。

 

 スニッチが、細い翼を忙しく動かしている。

 

「うん。ハリーが捕った」

 

 悠太は笑った。

 

「初試合で、六十点差をひっくり返した」

 

「七十点になる前だっただろ」

 

 ロンが観客席から駆け下りてくる。

 

「僕の助言だ」

 

「六十点までは待っていいって言ったのは悠太だよ」

 

「僕は待っていいとは言ってない」

 

「言ったよ」

 

「朝食の証人ならいるわ」

 

 ハーマイオニーも来た。

 

 息を切らし、髪には煤がついている。

 

「君、何をしたの?」

 

 悠太が尋ねた。

 

「必要なことよ」

 

「青い火が見えた」

 

「なら、もう分かってるでしょう」

 

「誰かの服へ火をつけるのは、授業で習った安全な方法?」

 

「習ってないわ」

 

「だと思った」

 

 ハーマイオニーは反省した顔をしなかった。

 

 ハリーの無事を確認した途端、膝から力が抜けたように芝へ座る。

 

「スネイプよ」

 

 小さな声で言った。

 

「スネイプが、あなたの箒へ呪いをかけていたの」

 

 ハリーの笑みが消える。

 

「見たの?」

 

「ずっとあなたを見て、呪文を唱えてた。だから、集中を切れば止まると思ったの」

 

「止まった」

 

 ロンが言う。

 

「火がついた途端に」

 

 悠太は教師席を振り返った。

 

 スネイプ先生は、焼けたローブの裾を踏み消している。顔は怒りで青白く、周囲の生徒たちは逃げるように席を離れていた。

 

 少し離れた場所で、クィレル先生が紫色のターバンを直している。

 

「僕も、スネイプ先生の口が動いているのを見た」

 

 悠太が言った。

 

「ほら」

 

 ロンが答える。

 

「でも、別の方向からも魔力を感じた」

 

 三人が悠太を見る。

 

「誰?」

 

 ハリーが尋ねる。

 

「分からない。教師席の中だった。弱くて、何度も人に隠れた」

 

「スネイプが、別の場所からも何かしてたんじゃないの?」

 

 ロンが言った。

 

「人は一人で二つの席には座れないよ」

 

「じゃあ、共犯者?」

 

「それも分からない」

 

 ハーマイオニーが煤のついた髪を耳へかけた。

 

「私、後ろを通った時にクィレル先生へぶつかったわ。転ばせてしまったけど、謝る時間がなくて」

 

 紫色のターバンが沈んだ瞬間。

 

 細い圧力が消えた瞬間。

 

 同じだったように思える。

 

 けれど、その直後にはスネイプ先生も立ち上がっている。

 

 どちらが先だったか。

 

 遠すぎた。

 

 一秒にも満たなかった。

 

「クィレル先生が?」

 

 ハリーが尋ねる。

 

「あの先生に、こんなことができると思う?」

 

 ロンが言った。

 

 防衛術の授業で、イグアナを見ただけで杖を落とした教師。

 

 悠太を見て怯えたように目を逸らす男。

 

 すぐに答えは出なかった。

 

「分からないものを、分かったことにはできない」

 

 悠太は言った。

 

「でも、スネイプ先生がハリーだけを見て、何かを唱えていたのは確かだ」

 

 それが一番見えやすい事実だった。

 

 だからこそ、一番信じやすかった。

 

「話はあとだ」

 

 ウッドが来た。

 

「ポッターを更衣室へ。マダム・フーチにも箒を見せる」

 

「はい、ウッド先輩」

 

 悠太が立ち上がる。

 

 ウッドは一度、教師席を見た。

 

 それから悠太へ戻す。

 

「よく双子を動かした。あの位置なら、落ちても二人のどちらかが受けられた」

 

「ジョージ先輩がブラッジャーを止めて、フレッド先輩が下を離れなかったからです」

 

「指示を出したのは君だ」

 

「ハリーが落ちなかったので、必要なかった指示です」

 

「必要にならないよう備えるのが、控えの仕事だ」

 

 昨日と同じ言葉ではなかった。

 

 けれど、意味は同じだった。

 

「はい」

 

 ハリーがスニッチを握ったまま、悠太を見上げた。

 

「僕が落ちたら、飛んできた?」

 

 悠太は予備の箒を見た。

 

「飛びたかった」

 

「でも?」

 

「フレッド先輩とジョージ先輩がいた。僕が勝手に上がれば、二人の邪魔になる」

 

「飛ばなかったんだ」

 

「約束したからね」

 

 ハリーは少しだけ笑った。

 

「見てるっていう約束も守った」

 

「うん」

 

「全部?」

 

「スニッチだけは見えなかった」

 

「それは僕が見た」

 

「だから勝ったんだよ」

 

 ハリーの手の中で、金色の翼がもう一度震えた。

 

     *

 

 マダム・フーチは、ニンバス二〇〇〇を三度調べた。

 

 柄。

 

 穂先。

 

 足掛け。

 

 どこにも壊れた箇所はなかった。

 

「箒そのものの故障ではありません」

 

 最後にそう告げた。

 

 更衣室の中が静かになる。

 

「では、風ですか?」

 

 ウッドが尋ねる。

 

「あの動きは風ではありません。外から魔法を受けた可能性があります」

 

 ハリー、ロン、ハーマイオニー、悠太の視線が重なった。

 

「誰がしたかは、見ていないものについて答えられません」

 

 マダム・フーチは四人を順に見た。

 

「あなたたちも、証拠なしに名前を口にしてはいけません。教師へ報告するなら、見たことだけを話しなさい」

 

「はい、先生」

 

 四人が答える。

 

 悠太は、見たことを頭の中で並べた。

 

 スネイプ先生の視線。

 

 動く唇。

 

 二方向の魔力。

 

 青い火。

 

 沈んだ紫のターバン。

 

 止まった箒。

 

 事実は多い。

 

 答えだけがなかった。

 

     *

 

 午後、四人はハグリッドの小屋へ向かった。

 

 試合の祝勝会は、まだ城の中で続いている。

 

 フレッドとジョージは、ハリーがスニッチを食べて相手に見つからないよう隠したのだ、と三年生たちへ説明していた。

 

 ウッドは、その説明を訂正するより先に得点表を壁へ貼った。

 

 パーバティは、右手首の糸が切れていないことを確認してから、ようやく安心したように笑った。

 

 けれど、四人には確かめたいことがあった。

 

 小屋の扉を叩くと、牙の吠える声が先に返ってきた。

 

「誰だ?」

 

「僕たちです、ハグリッド」

 

 ハリーが答える。

 

 扉が開く。

 

「今日の英雄じゃねえか!」

 

 ハグリッドの大きな手が、ハリーの肩を叩いた。

 

 ハリーの膝が少し曲がる。

 

「スニッチを飲み込まなかったのは立派だったぞ」

 

「飲み込みかけただけだよ」

 

「同じことだ」

 

「かなり違うと思います」

 

 悠太が言った。

 

「お前さんも、下からよく見とった。双子を動かした時なんか——」

 

「その話より、聞きたいことがあるんです」

 

 ハーマイオニーが遮った。

 

 ハグリッドの笑顔が少し止まる。

 

「なんだ?」

 

 小屋へ入ると、暖炉の火が勢いよく燃えていた。

 

 濡れた土と毛皮と、焼きかけの固い菓子の匂いがする。四人は丸木の椅子へ座り、牙がハリーの膝へ頭を載せた。

 

 ハリーが、箒に起きたことを最初から話した。

 

 ロンがスネイプ先生の視線を説明する。

 

 ハーマイオニーが、青い火をつけたことを認める。

 

 悠太は、二方向から感じた魔力を話した。

 

 全部聞き終える前から、ハグリッドは首を横へ振っていた。

 

「スネイプ先生が、ハリーを箒から落とそうとしたんだ」

 

 ロンが言う。

 

「馬鹿なこと言うんじゃねえ」

 

 ハグリッドの声が低くなった。

 

「あの人は感じが悪いし、点も引くし、あの目で見られりゃ誰だって腹は冷える。だが、生徒を殺すような人じゃねえ」

 

「どうして言い切れるの?」

 

 ハリーが尋ねる。

 

「ダンブルドアが信じとる」

 

「それだけ?」

 

「それで十分だ」

 

 ハリーは納得しなかった。

 

 悠太も、すぐには納得できなかった。

 

 けれど、ハグリッドの言葉を笑うこともできなかった。

 

 スネイプ先生が本当にハリーを落とそうとしていた。

 

 そう考えれば、見たものはきれいにつながる。

 

 それなのに、胸のどこかだけが拒んでいる。

 

 あの黒い目を、敵だと決めるなと言っている。

 

 理由は分からない。

 

「でも、ハロウィーンの夜に怪我をしてた」

 

 ハリーが言った。

 

「脚を噛まれたような傷だった。あの三頭犬のところへ行ったんだ」

 

 ハグリッドの目が大きくなる。

 

「三頭犬を見たのか?」

 

「見ました」

 

 ハーマイオニーが答えた。

 

「右側の立入禁止の廊下で。犬の下に落とし戸がありました」

 

「あそこへ行っちゃいかん!」

 

「それは、見たあとで知りました」

 

 悠太が言った。

 

「知っとったはずだ。立入禁止だぞ」

 

「知っていました。だから、反省しています」

 

「反省しながら、また調べに来たんだろうが」

 

「はい」

 

 ハグリッドは両手で顔を覆った。

 

「お前さん、素直なのか頑固なのか分からんな」

 

「両方だと思うわ」

 

 ハーマイオニーが言った。

 

「今は僕の話じゃないよ」

 

 悠太が答える。

 

「あの犬は、何を守ってるの?」

 

 ハリーが尋ねた。

 

「フラッフィーのことは忘れろ」

 

「フラッフィー?」

 

 ロンが聞き返す。

 

「あの犬の名前だ。わしが旅先で会ったギリシャ人から譲ってもらった。扱いさえ分かれば、いい子だぞ」

 

 四人は同時に黙った。

 

 三つの頭。

 

 天井に届く身体。

 

 扉を削った爪。

 

「いい子の基準が、日本と違うみたいです」

 

 悠太が言った。

 

「とにかく、あれはわしの犬だ。ダンブルドアへ貸しただけだ。その下にあるものは、校長とニコラス・フラメルの問題で——」

 

 ハグリッドの口が止まった。

 

 暖炉で薪が弾ける。

 

 誰も言葉を挟まなかった。

 

 ハグリッドは、四人の顔を一人ずつ見た。

 

「今のは忘れろ」

 

「ニコラス・フラメル」

 

 ハーマイオニーが繰り返した。

 

「繰り返すんじゃねえ」

 

「人の名前?」

 

 ロンが尋ねる。

 

「知らん」

 

「今、校長とその人の問題だって言ったよ」

 

 ハリーが言う。

 

「言っとらん」

 

「言いました」

 

 悠太も答えた。

 

「お前さんまで加わるな」

 

「四人とも聞きました」

 

 ハーマイオニーが言った。

 

 ハグリッドは長く唸り、暖炉へ薪を一本放り込んだ。

 

「いいか。フラッフィーにも、落とし戸にも、ニコラス・フラメルにも近づくな。スネイプ先生のことも、勝手に調べるな」

 

「どうして?」

 

「危ないからだ!」

 

「ハリーは、もう危ない目に遭った」

 

 ロンが言う。

 

「だから次は、先生へ任せろ」

 

 ハグリッドは立ち上がり、扉を開けた。

 

 追い出すというより、これ以上何も言わないためだった。

 

 外の風が、小屋の暖かい空気へ入ってくる。

 

 四人は立ち上がった。

 

「ハグリッド」

 

 ハリーが扉の前で振り返る。

 

「今日、僕が落ちかけたことと、あの犬が守ってるものは関係あると思う?」

 

 ハグリッドは答えなかった。

 

 答えないことが、答えのように見えた。

 

     *

 

 城へ戻る坂道で、四人は何度も同じ名前を口にした。

 

「ニコラス・フラメル」

 

 ロンが言う。

 

「どこかで聞いたことがある?」

 

 ハリーが尋ねる。

 

「ない。でも、家へ帰れば父さんか兄さんたちが知ってるかも」

 

「手紙で聞いたら、理由を聞かれるわ」

 

 ハーマイオニーが言った。

 

「図書館で調べればいい」

 

「名前だけで?」

 

「名前があるだけ、昨日より前進よ」

 

「昨日は犬しかなかったからね」

 

 悠太が答える。

 

「三頭あったぞ」

 

「頭数で手掛かりを数えないで」

 

 ハーマイオニーが言った。

 

 ハリーは三人のやり取りを聞きながら、少し遅れて歩いていた。

 

 悠太が歩調を落とす。

 

「箒、怖くなった?」

 

「少し」

 

 ハリーは正直に答えた。

 

「でも、もう乗りたくないとは思わない」

 

「よかった」

 

「君は?」

 

「見てる方が怖かった」

 

「飛んでる方も、かなり怖かったよ」

 

「じゃあ、次は交代する?」

 

「僕の代わりには入れないだろ。君はビーターの控えだ」

 

「残念」

 

「本当に?」

 

「嘘」

 

 ハリーが笑う。

 

 その横顔へ、また別の笑い声が重なりかけた。

 

 今度は、形になる前に消えた。

 

 悠太は何も言わなかった。

 

 右手首の赤と金の糸が、冬の近い風に揺れている。

 

 試合は終わった。

 

 ハリーは自分の手で勝っ

 

 けれど、箒を呪った者は見つかっていない。

 

 落とし戸の下にあるものも。

 

 ニコラス・フラメルが誰なのかも。

 

 城の窓へ夕日が映り、遠くから見ると、縦に長い金色の鏡のように光っていた。

 

 悠太は一度だけ、その光へ目を細めた。

 

 鏡が何を映すのかを、まだ知らなかった。

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