ハリー・ポッターと東洋の魔剣士   作:キャン

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第16話 みぞの鏡

十一月十日、日曜日。

 

 ニコラス・フラメルついて書かれた本は図書館のどの棚にもいなかった。

 

 少なくとも、四人が最初に探した棚には。

 

「著名な現代魔法使いには載ってない」

 

 ハリーが、分厚い本を閉じた。

 

「近代魔法史にもいないわ」

 

 ハーマイオニーは、閉じる前に索引をもう一度確認した。

 

「偉大な魔法使いの失敗には?」

 

 ロンが尋ねる。

 

「人を探す時に、最初から失敗した人の本を選ばないで」

 

「成功した人なら、ハグリッドが知ってるはずだろ」

 

「ハグリッドは知ってたよ」

 

 悠太が言った。

 

「名前を口から逃がしただけで」

 

「あれを知ってるって数えるの?」

 

「本人は数えたくないと思う」

 

 四人の前には、借りられる冊数を越えた本が積まれていた。

 

 魔法史。

 

 魔法界の名士録。

 

 呪文学者の系譜。

 

 古い発明品の目録。

 

 どの索引にも、ニコラス・フラメルの名はない。

 

 ハーマイオニーは羊皮紙を四つの欄に分けていた。

 

 人物。

 

 場所。

 

 品物。

 

 年代不明。

 

「名前なんだから、人物じゃないの?」

 

 ロンが言う。

 

「同じ名前の店や一族かもしれないでしょう」

 

「人の名前をつけた菓子かも」

 

「君は一度、本から離れて食事をした方がいい」

 

 悠太が言った。

 

「朝食は食べた」

 

「三時間前だよ」

 

「もう三時間?」

 

 ロンは窓の外を見た。

 

 十一月の灰色の空が、朝からほとんど変わらず浮かんでいる。

 

「名前の響きはフランス語に近いわ」

 

 ハーマイオニーが言った。

 

「だから英国の最近の名簿だけでは足りないのかもしれない」

 

「昔の人?」

 

 ハリーが尋ねる。

 

「可能性はある」

 

「どれくらい昔?」

 

「それを調べてるの」

 

 悠太は、日本から持ってきた薄い魔法史の教本を開いた。

 

 蓬莱。

 

 仙薬。

 

 丹を練る術。

 

 西洋の錬金術とは言葉も考え方も違うが、石や金属や薬へ、生命を越える力を求めた記録は日本にもある。

 

「守られてるものが大きくて、持ち運べないとは限らないよね」

 

 悠太が言った。

 

「どういう意味?」

 

 ハリーが顔を上げる。

 

「犬は落とし戸を守ってた。下にあるのは、人じゃなくて、その人が作った物かもしれない」

 

「たとえば?」

 

「分からない」

 

「分からないの?」

 

 ロンが言う。

 

「仮説は、答えの別名じゃないよ」

 

 ハーマイオニーが悠太の教本を覗き込んだ。

 

「錬金術を調べるのは悪くないわ。でも、ニコラス・フラメルが錬金術師だという証拠はない」

 

「うん。だから、この欄」

 

 悠太は羊皮紙の『年代不明』を指した。

 

「『根拠不足』という欄も作る?」

 

「それだけで一枚必要になるぞ」

 

 ロンが答えた。

 

「静かに!」

 

 マダム・ピンスの声が、本棚の向こうから飛んできた。

 

「すみません」

 

 四人は同時に小さくなった。

 

 その日の調査で分かったのは、ニコラス・フラメルが簡単には見つからない人物だということだけだった。

 

     *

 

 翌日も見つからなかった。

 

 その次の日も。

 

 十一月が終わっても、名前は羊皮紙の一番上に残っていた。

 

 四人は授業の間に本を読み、夕食後に索引を調べ、ロンが持っていた蛙チョコレートのカードまで一枚ずつ見直した。

 

 ロンは、フラメルという音に聞き覚えがある気がすると三度言った。

 

 三度とも、どこで聞いたのかは思い出せなかった。

 

 ハーマイオニーは調べた本へ番号をつけた。

 

 ハリーは、スネイプ先生が通るたびに会話を止めた。

 

 悠太は日本の錬金術と西洋の錬金術の違いを二枚の羊皮紙へまとめたが、最後の行には『フラメルとの関係は不明』と書くしかなかった。

 

 十二月に入ると、城の窓へ白い息がつくようになった。

 

 湖は縁から凍り、朝の芝には霜が残った。

 

 外を飛ぶ練習では、箒を握る指がすぐに動かなくなる。

 

 それでもハリーは空へ上がった。

 

 悠太も控えの練習へ参加した。

 

 フレッドとジョージは、凍ったブラッジャーの方が頭へ当たればよく冷える、と説明した。

 

 ウッドは、その説明を無視した。

 

 城の中では、休暇に帰る生徒の名簿が回り始めた。

 

「私は二十一日の列車で帰るわ」

 

 十二月二十日、金曜日。

 

 休暇前最後の昼食で、ハーマイオニーが言った。

 

「両親が駅まで迎えに来てくれるの」

 

「いいな」

 

 ハリーは、そう言ってから自分の皿を見た。

 

 ダーズリー家へ帰りたいわけではない。

 

 それでも、『迎えに来る』という言葉には、目を向けにくい何かがあった。

 

「僕は残るよ」

 

 ロンが言った。

 

「父さんと母さんが、休暇にチャーリー兄さんのところへ行くんだ。ルーマニアまで僕を連れていくと、旅費だけでドラゴンを一頭買えるらしい」

 

「本当に買えるの?」

 

 ハリーが尋ねる。

 

「たぶん買えない。でも、母さんがそう言った」

 

「僕も残る」

 

 悠太が言った。

 

「短い休暇で日本へ戻る許可は出てないんだ」

 

「帰りたい?」

 

 ハリーが尋ねる。

 

 悠太は少し考えた。

 

 島根の町。

 

 布団店の匂い。

 

 閉じた戸。

 

 もういない父と母。

 

 思い出せるはずの景色はある。

 

 そこへ自分を待つ人の姿だけがなかった。

 

「故郷は見たい」

 

 悠太は答えた。

 

「でも、帰っても一人だから。ここにいる方がいい」

 

 ハリーが顔を上げた。

 

 目が合う。

 

 どちらも、かわいそうだとは言わなかった。

 

「じゃあ、三人ね」

 

 ハーマイオニーが言った。

 

「私がいない間に、立入禁止の本棚を調べようなんて考えないで」

 

「考えてない」

 

 ロンが答える。

 

「今、考えた顔をしたわ」

 

「顔で減点するなよ」

 

「顔じゃない。これまでの行動で判断してるの」

 

「もっと悪い」

 

 悠太が言った。

 

「実績があるから、反論できないね」

 

「君も含まれてるぞ」

 

「分かってる」

 

 ハリーは三人の声を聞きながら、入口近くに立てられた大きな樅の木を見た。

 

 ハグリッドが運び込んだ木へ、フリットウィック先生が金色の泡を浮かべている。

 

 泡は枝の間で灯りに変わった。

 

 いくつもの窓が、誰かの帰りを待つ家のように光っていた。

 

     *

 

 その日のクィディッチ練習は、日が沈んでから終わった。

 

「休暇中は、雪が横から降っても練習する」

 

 ウッドが更衣室で言った。

 

「雪が下から降ったら?」

 

 フレッドが尋ねる。

 

「その時は中止だ」

 

「中止にする条件が見つかったぞ」

 

 ジョージが悠太へ囁いた。

 

「どうやって下から降らせるんですか?」

 

「君は雪を降らせる日本の魔法を使えないのか?」

 

「雪を逆に降らせる授業はありませんでした」

 

 双子は同時に残念そうな顔をした。

 

 ハリーは笑いながら、濡れた髪をタオルで拭いた。

 

 悠太は用具を倉庫へ戻すため、双子と別の扉から出た。

 

「先に戻ってて」

 

「うん」

 

 ハリーは一人で城へ向かった。

 

 雪は止んでいた。

 

 雲の切れ目から月が出て、白い地面に青い影を落としている。

 

 玄関広間へ入ると、城は普段より静かだった。

 

 帰省する生徒の荷物が壁際に並び、鎧には赤と金の飾り紐が結ばれている。

 

 ハリーは濡れた靴を鳴らしながら、大理石の階段を上った。

 

 二階で階段が動いた。

 

 いつもの廊下ではない場所へ着く。

 

「またか」

 

 ハリーは壁の肖像へ道を尋ねた。

 

 肖像の中の魔法使いは眠っていた。

 

 隣の騎士は、兜をかぶったまま鼾をかいている。

 

 仕方なく廊下を進む。

 

 角を二つ曲がったところで、猫の鳴き声がした。

 

 ミセス・ノリスだった。

 

 細い身体が廊下の中央に立ち、赤い目でハリーを見ている。

 

「僕は練習から戻るところだよ」

 

 猫は返事をしなかった。

 

 遠くから、フィルチの足音が近づいてくる。

 

「どこだ、かわいい子よ。何か見つけたのか?」

 

 許可された時間でも、フィルチに見つかって説明したいとは思わなかった。

 

 ハリーは一番近い扉を開けた。

 

 暗い部屋へ入り、音を立てずに閉める。

 

 ミセス・ノリスの爪が、扉の前で止まった。

 

 フィルチの足音も止まる。

 

 ハリーは息を殺した。

 

「誰もおらんか?」

 

 扉の下の隙間を、灯りが横切った。

 

 猫がもう一度鳴く。

 

「休暇前で浮かれた生徒だろう。見つけたら、鎖を磨かせてやる」

 

 足音と小さな爪の音が、ゆっくり遠ざかった。

 

 ハリーは息を吐いた。

 

 部屋の中は、使われていない教室のようだった。

 

 机は壁へ積まれ、椅子には白い布がかかっている。

 

 窓から入る月明かりの中で、一つだけ布のない物があった。

 

 鏡だった。

 

 人の背丈を越えるほど高く、左右に細い柱が立っている。

 

 上縁には、読めない文字が一列に刻まれていた。

 

 古い金色の枠には埃がない。

 

 誰にも使われていない部屋で、その鏡だけが待っていたように見えた。

 

 ハリーは近づいた。

 

 鏡の中にも、同じ部屋がある。

 

 積まれた机。

 

 白い布。

 

 月明かり。

 

 そして、自分。

 

 その後ろに、人が立っていた。

 

 ハリーは振り向いた。

 

 誰もいない。

 

 鏡へ戻る。

 

 赤い髪の女性が、鏡の中で微笑んでいた。

 

 その隣には、眼鏡をかけた黒髪の男性がいる。

 

 髪はハリーと同じように、後ろがどうしても寝ないらしい。

 

 男性は自分の眼鏡を指し、次にハリーの眼鏡を指した。

 

 いたずらを共有するような笑みだった。

 

「父さん……?」

 

 声が震えた。

 

 赤い髪の女性の目は、ハリーと同じ緑色だった。

 

「母さん」

 

 鏡の中で、二人はハリーの肩へ手を置いた。

 

 何も触れない。

 

 それでも、肩が温かくなった気がした。

 

 二人の後ろには、さらに大勢の人がいた。

 

 同じ目。

 

 同じ鼻。

 

 同じ髪。

 

 ポッター家の人々が、途切れず奥へ続いている。

 

 ハリーは鏡へ手を当てた。

 

 母の唇が動いたように見えた。

 

 音は聞こえない。

 

 もう一度、自分の名を呼んでほしかった。

 

 廊下のどこかで扉が閉まった。

 

 ハリーはようやく我に返った。

 

 もう一度だけ両親を見た。

 

「また来る」

 

 鏡の中の家族は、誰も止めなかった。

 

 誰も答えなかった。

 

 ただ、同じ場所で微笑んでいた。

 

     *

 

 ハリーが寝室へ戻った時、ロンはまだ起きていた。

 

「遅かったな」

 

「父さんと母さんを見た」

 

 ロンの欠伸が止まった。

 

「何?」

 

 ハリーは、鏡のことを最初から話した。

 

 階段。

 

 ミセス・ノリス。

 

 使われていない教室。

 

 鏡の中の両親。

 

 ロンは途中から毛布を下ろし、ベッドの端へ座って聞いていた。

 

「本当に、誰も後ろにいなかったのか?」

 

「いなかった」

 

「幽霊じゃなくて?」

 

「鏡の中にしかいなかった」

 

「明日、場所を教えて」

 

「今夜行こう」

 

「今夜はもう今夜だよ」

 

「だから行ける」

 

「君、箒から落ちかけた時より変なこと言ってるぞ」

 

 それでも、ハリーの目は冗談を言っていなかった。

 

 ロンは少し考えた。

 

「明日の夜だ。僕も行く」

 

 ハリーは頷いた。

 

 目を閉じても、鏡の中の緑の目だけは消えなかった。

 

     *

 

 翌朝、ハリーは同じ話をハーマイオニーと悠太にもした。

 

 大広間の周りでは、帰省する生徒が次々に立ち上がっている。

 

 ハーマイオニーの足元にも、小さな旅行鞄があった。

 

「魔法で作られた映像かもしれないわ」

 

 ハーマイオニーが言った。

 

「でも、どうして僕の両親を知ってるんだ?」

 

「分からない。だから、もう一度近づく前に調べるべきよ」

 

「本を探してる間に、部屋が動くかもしれない」

 

 ロンが言う。

 

「部屋は動かないだろ」

 

 ハリーが答える。

 

「この城では、部屋も疑った方がいい」

 

「それは少し分かる」

 

 悠太が言った。

 

「君はどう思う?」

 

 ハリーが尋ねる。

 

「見てないから分からない。でも、亡くなった人と話せる鏡なら、誰も使ってない部屋へ置かれてるのは変だと思う」

 

「話せてない。姿が見えただけだ」

 

「なら、もっと気をつけた方がいい」

 

「どうして?」

 

「返事をしないものへ、返事が来るまで通いたくなるから」

 

 ハリーの表情が固くなった。

 

 悠太は、言いすぎたと思った。

 

 けれど、撤回はしなかった。

 

「今夜、ロンと行く」

 

「それを今、ハーマイオニーへ言うの?」

 

「隠しても、ロンの顔で分かる」

 

「僕の顔、そんなに信用がないのか?」

 

「行動の実績よ」

 

 ハーマイオニーが言った。

 

「昨日も同じことを言われた」

 

「一日で実績は消えないわ」

 

 出発を知らせる声が玄関広間から響いた。

 

 ハーマイオニーは鞄を持つ。

 

「約束して。危険だと思ったら、すぐ先生へ知らせること」

 

「分かった」

 

 ハリーが答えた。

 

「それから、フラメルのことは、私が戻るまで立入禁止の棚で調べないこと」

 

「鏡と関係ないだろ」

 

 ロンが言う。

 

「二つ約束させてるの」

 

「分かったよ」

 

「ユウタは二人を見ていて」

 

「僕も実績のある側だよ」

 

「知ってる。でも、一番約束を守ろうとはするでしょう」

 

「守れなかった時に、正直に報告するだけかもしれない」

 

「それでも、この二人よりマシよ」

 

「ひどいな」

 

 ハリーとロンが同時に言った。

 

 ハーマイオニーは初めて少し笑った。

 

「新学期に会いましょう」

 

「うん」

 

「よいクリスマスを」

 

 悠太は手を振った。

 

 ハリーとロンも続く。

 

 大広間の扉を抜ける直前、ハーマイオニーは一度振り返った。

 

 三人が席にいることを確かめるように。

 

 それから、帰っていった。

 

     *

 

 その夜、ハリーとロンは鏡の部屋へ行った。

 

 悠太は誘われなかった。

 

 誘われても、行かないつもりだった。

 

 少なくとも、二人が寝室を抜ける音を聞くまでは、そう思っていた。

 

 けれど、ハーマイオニーに見ているよう頼まれたことと、自分まで出れば誰も戻る側に残らないことを、何度も考えた。

 

 結局、悠太は寝室に残った。

 

 一時間後、二人が戻ってきた。

 

 ハリーは黙っていた。

 

 ロンは、怒っているような、困っているような顔をしていた。

 

「何が見えた?」

 

 悠太が小声で尋ねる。

 

「僕」

 

 ロンが答えた。

 

「鏡だからね」

 

「今の僕じゃない。背が高くなってて、首席の記章をつけて、クィディッチの主将で、寮杯と優勝杯を持ってた」

 

「全部?」

 

「全部」

 

「兄さんたちは?」

 

「いなかった。僕だけだった」

 

 ロンは自分の寝台へ座った。

 

「ハリーには家族が見えた。僕には、僕が見えた。あれは死んだ人を映す鏡じゃない」

 

「でも、僕が見たのは父さんと母さんだ」

 

 ハリーが言った。

 

「君の見たいものが、それだったんだろ」

 

「君は自分が一番になりたいだけなのか?」

 

 言った瞬間、ロンの顔が赤くなった。

 

「悪いかよ」

 

「そういう意味じゃ——」

 

「兄さんたちは何でも先にやってる。首席も、監督生も、クィディッチも。僕が何かできても、家じゃ誰かの次なんだ」

 

 声は荒くなかった。

 

 だからこそ、長く隠していた言葉だと分かった。

 

 ハリーは何も返せなかった。

 

 悠太も、すぐには言わなかった。

 

「鏡の中では、誰かの次じゃなかったんだね」

 

 やがて、悠太が言った。

 

「うん」

 

 ロンが答える。

 

 それだけだった。

 

 ハリーは寝台の柱を見た。

 

「ごめん」

 

「もういいよ」

 

「明日も行く」

 

 ロンが顔を上げる。

 

「今の話を聞いてた?」

 

「聞いた。でも、もう一度だけ」

 

「昨日もそう言っただろ」

 

「明日で最後にする」

 

 悠太はハリーを見た。

 

 ハリーの声には、明日で終わりにできる人の響きがなかった。

 

     *

 

 十二月二十二日の夜。

 

 時計が十一時を打つ前に、ハリーは寝台を抜けた。

 

 悠太は起きていた。

 

「行くの?」

 

 ハリーの肩が跳ねた。

 

「起きてたのか」

 

「うん」

 

「ロンは?」

 

「今日は行かないって」

 

 隣の寝台から、眠ったふりをしているような大きさの寝息が聞こえた。

 

 悠太はローブを羽織った。

 

「僕も行く」

 

「止めるため?」

 

「一人で行かせないため」

 

「同じだろ」

 

「少し違うよ」

 

「見つかったら?」

 

「一緒に減点される」

 

「それは安心できない」

 

「僕も」

 

 ハリーはしばらく悠太を見た。

 

 やがて、音を立てないよう扉を開けた。

 

 二人は暗い談話室を抜けた。

 

 暖炉には赤い熾だけが残っている。

 

 廊下へ出ると、城は深く眠っていた。

 

 肖像画の鼾。

 

 風で窓が鳴る音。

 

 遠くで鎧が身じろぎする音。

 

 ハリーが先に歩いた。

 

 二階で一度迷った。

 

「たしか、こっちだ」

 

「そっちは階段が戻る」

 

 悠太が言った。

 

 ハリーが振り返る。

 

「来たことがあるの?」

 

「ない」

 

「じゃあ、どうして分かるんだ?」

 

 悠太は、右側の暗い廊下を見た。

 

 壁の向こうに、下へ折れる階段がある気がした。

 

 理由はなかった。

 

「分からない」

 

「また?」

 

「うん」

 

 確認すると、右の廊下の先には本当に階段があった。

 

 ハリーは何も言わず、悠太も説明しなかった。

 

 鏡の部屋へ着く。

 

 扉を開けた瞬間、ハリーの歩みが速くなった。

 

 鏡は同じ場所にあった。

 

 月明かり。

 

 金色の枠。

 

 読めない文字。

 

 ハリーは正面へ立った。

 

 表情が変わる。

 

 緊張が解け、同時に、泣くのを我慢するような顔になった。

 

「いる?」

 

 悠太が尋ねる。

 

「うん」

 

「何をしてる?」

 

「僕を見てる」

 

「話す?」

 

「話さない」

 

「動く?」

 

「母さんが笑ってる。父さんが、僕の肩に手を置いてる」

 

 現実のハリーの肩には、何もなかった。

 

 それでもハリーは、その手を落とさないように動かず立っていた。

 

 悠太は扉の近くで待った。

 

 一分。

 

 もう一分。

 

 時間が、鏡の前だけ止まっているようだった。

 

「悠太」

 

 ハリーが鏡を見たまま呼んだ。

 

「何?」

 

「君なら、何が見えると思う?」

 

「分からない」

 

「両親?」

 

「たぶん」

 

「見ないの?」

 

「今日は君を連れて帰るために来たんだ」

 

「僕は帰れる」

 

「今の君は、そう見えない」

 

 ハリーはようやく鏡から目を外した。

 

「一度だけ見て。そうしたら帰る」

 

 悠太は断ろうとした。

 

 鏡の中で、何かが動いた。

 

 赤い色だった。

 

 パーバティにもらった糸でも、グリフィンドールの旗でもない。

 

 人の髪だった。

 

 悠太は正面へ一歩近づいた。

 

 鏡の中に、十一歳の自分がいる。

 

 その後ろに、大勢の人々が立っていた。

 

 顔は見えない。

 

 光の中へ置かれた古い写真のように、目も口も曖昧だった。

 

 それでも、一人ずつ違っていた。

 

 赤い髪の女性。

 

 眼鏡をかけた黒髪の男性。

 

 大きく笑っている黒髪の青年。

 

 その笑い声を、知っている気がした。

 

 穏やかに頷く茶色い髪の青年。

 

 少し離れた場所には、黒い髪の少年がいる。

 

 ほかの人々へ近づかず、けれど背を向けてもいなかった。

 

 さらに奥には、甲冑をまとった者たちが並んでいた。

 

 西洋の鎧ではない。

 

 肩から垂れる札。

 

 腰の刀。

 

 顔を覆う面。

 

 日本の武者に見えた。

 

 誰の名も分からない。

 

 それなのに、胸の奥では、遅すぎた再会のような痛みが広がっていく。

 

 鏡の中の赤毛の女性が、手を伸ばした。

 

 悠太へ。

 

 眼鏡の男性が笑う。

 

 黒髪の青年が、早く来いと言うように片手を上げる。

 

 茶髪の青年は、ずっと待っていたように微笑んでいる。

 

 離れた黒髪の少年だけは、何も言わない。

 

 けれど、去らない。

 

「誰……?」

 

 鏡は答えなかった。

 

 悠太はもう一歩近づいた。

 

 父と母ではない。

 

 偽りではないはずの記憶にある顔と、誰一人同じではなかった。

 

 それでも、彼らの間へ帰りたかった。

 

 帰ったことのない場所へ。

 

「ユウタ」

 

 遠くから、ハリーの声がした。

 

 鏡の中の人々も、同じ名を呼んだように見えた。

 

 音はない。

 

 唇の形さえ分からない。

 

 それでも、確かに自分を待っている。

 

 悠太の右手が鏡へ上がる。

 

 指先が金色の枠へ触れる前に、袖を引かれた。

 

「ユウタ」

 

 今度は、すぐ隣だった。

 

 ハリーが悠太の袖を掴んでいた。

 

 緑の目が、鏡ではなく悠太を見ている。

 

 悠太は息を吸った。

 

 部屋の冷たさが戻る。

 

「ごめん」

 

「何が見えた?」

 

「知らない人たち」

 

「知らない?」

 

「うん。でも、家族みたいだった」

 

 悠太はもう一度、鏡を見た。

 

 大勢はまだいる。

 

「父さんと母さんがいないから、待ってくれる家族が欲しいのかもしれない」

 

「あの人たちは、君を待ってた?」

 

「そう見えた」

 

 ハリーは袖を放さなかった。

 

「君、僕を連れて帰るために来たんだろ」

 

「うん」

 

「今は僕が止めた」

 

「うん」

 

「じゃあ、同じだね」

 

「少し違うよ」

 

「どう違う?」

 

「僕の方が、さっきの君より帰れない顔をしてたと思う」

 

 ハリーが、ほんの少し笑った。

 

 その時、部屋の奥から声がした。

 

「二人とも、よく似た顔をしておったよ」

 

 ハリーと悠太は同時に振り向いた。

 

 積まれた机の上に、アルバス・ダンブルドアが座っていた。

 

 月明かりの中で、半月形の眼鏡が白く光っている。

 

「校長先生」

 

 悠太の背筋が伸びた。

 

「申し訳ありません。消灯後に寮を出ました」

 

「僕が連れてきたんです」

 

 ハリーが言った。

 

「僕が最初に見つけて、戻りたいと言いました」

 

「僕は自分で来ると決めました」

 

 悠太が続けた。

 

「責任を取り合うとは、たいへん忙しいことじゃな」

 

 ダンブルドアは机から降りた。

 

「今夜は、点数の計算より先に話すことがある」

 

 鏡の前へ立つ。

 

「これは、みぞの鏡と呼ばれておる」

 

「何を映す鏡なんですか?」

 

 ハリーが尋ねた。

 

「顔の形でも、背後の景色でもない。その人の心が、何より強く望んでいるものを映す」

 

「未来ですか?」

 

 悠太が尋ねる。

 

「未来ではない」

 

「では、過去?」

 

「過去とも限らん。真実を証明する道具でもない」

 

 ダンブルドアは、鏡の金色の枠へ指を置いた。

 

「ただ、胸のいちばん深い場所にある渇きを、姿へ変える」

 

 ハリーが鏡を見る。

 

 両親はまだそこにいるらしい。

 

「僕の父さんと母さんは、本物じゃないんですか?」

 

「君が二人を愛し、会いたいと願う気持ちは本物じゃ」

 

 ダンブルドアは答えた。

 

「だが、鏡の中の二人は君へ答えられない。明日の朝、君と食事をすることも、寒い日に外套を着ろと叱ることもできん」

 

 ハリーの目が伏せられた。

 

「見ることが、いけないんですか?」

 

「いけないのではない。愛する者を求める心を恥じる必要はない」

 

 ダンブルドアの声は静かだった。

 

「ただし、鏡の前に留まり続ければ、人はいつか、望むことと生きることを取り違える」

 

 悠太は、鏡の中の大勢を見た。

 

 彼らは動かない。

 

 待ち続けている。

 

 何年でも。

 

 こちらが去らない限り。

 

「僕には、知らない人たちが見えました」

 

 悠太が言った。

 

「両親ではありません。なのに、家族みたいに思えました。どうしてですか?」

 

 ダンブルドアはすぐに答えなかった。

 

 青い目が、半月形の眼鏡の奥から悠太を見ている。

 

 少年の顔ではなく、そのずっと奥を見ているようだった。

 

「心は、いつも理屈どおりに望みを並べるわけではない」

 

 やがて言った。

 

「なぜその姿を選んだのか、わしが決めつけるべきではない。鏡自身にも説明はできん」

 

「あの人たちは、実在するんでしょうか」

 

「それも、この鏡には証明できないことじゃ」

 

 真実を告げる声ではなかった。

 

 けれど、何も知らない声にも聞こえなかった。

 

 悠太の胸の奥が、また小さく痛んだ。

 

「では、どうすればいいんですか?」

 

「鏡の外にいる者を見ることじゃ」

 

 ダンブルドアは、ハリーへ目を移した。

 

「君を連れ戻そうと、夜の城を歩いた友人がおる」

 

 次に、悠太を見る。

 

「そして君の袖を掴み、名を呼んだ友人がおる」

 

 二人は互いを見た。

 

「鏡の中の者を忘れろとは言わん」

 

 ダンブルドアが続ける。

 

「だが、今そばにいる者を待たせてまで、答えない姿を追ってはならん」

 

 悠太は、鏡から一歩離れた。

 

 ハリーも続いた。

 

「この鏡は、明日のうちに別の場所へ移す」

 

 ダンブルドアが言った。

 

「探そうとせぬことじゃ」

 

「はい、校長先生」

 

 悠太が答えた。

 

 ハリーは少し遅れて頷いた。

 

「はい」

 

「よろしい。では、二人とも寮へ戻りなさい。フィルチに見つかれば、今夜の話より長い説教になる」

 

「先生は、僕たちがここへ来ると分かっていたんですか?」

 

 ハリーが扉の前で尋ねた。

 

「わしは、見えない時にもよく見ておる」

 

「答えになってません」

 

 悠太が言った。

 

「よい質問ほど、一晩では答えが足りんものじゃよ」

 

 ダンブルドアの目が笑った。

 

「おやすみ、ハリー。おやすみ、ユウタ」

 

「おやすみなさい、校長先生」

 

 二人は部屋を出た。

 

 扉が閉まる直前、悠太は一度だけ振り返った。

 

 鏡の中には、まだ赤い髪が見えた。

 

 その隣で、黒髪の青年が笑っている。

 

 離れた場所の少年も、そこにいた。

 

 顔は一つも見えない。

 

 名前も一つも分からない。

 

 扉が閉まった。

 

     *

 

 談話室へ戻ると、暖炉の前の椅子にロンが座っていた。

 

 毛布を肩まで巻き、眠っている。

 

 卓上には、冷えた飲み物が三つ並んでいた。

 

「待ってたみたいだ」

 

 ハリーが小声で言った。

 

「うん」

 

 鏡の中の人々も、悠太を待っていた。

 

 けれど、帰りが遅いからと飲み物を用意することはなかった。

 

 悠太は一つの杯を持った。

 

 冷たい。

 

 それでも両手で包むと、少しずつ温かくなる気がした。

 

「ロン」

 

 ハリーが肩を揺らす。

 

「戻ったよ」

 

 ロンが目を開けた。

 

「遅い」

 

「ごめん」

 

「鏡は?」

 

「明日、移される」

 

「先生に見つかったのか?」

 

「ダンブルドア先生に」

 

 ロンは毛布の中で頭を抱えた。

 

「ハーマイオニーに何て書けばいいんだ」

 

「正直に報告するしかないね」

 

 悠太が言った。

 

「やっぱり君も、実績のある側だ」

 

 三人は声を抑えて笑った。

 

 鏡の中では聞けなかった音だった。

 

     *

 

 翌朝、鏡の部屋は空になっていた。

 

 三人は確かめに行かなかった。

 

 朝食の途中、マクゴナガル先生がグリフィンドールの長卓へ来た。

 

「ワタナベ」

 

「はい、先生」

 

「日本魔法省教育局から、大きな荷物が届いています。国際便の確認が済み次第、あなたへ渡します」

 

「僕にですか?」

 

「宛名はそうなっています」

 

 マクゴナガル先生は、わずかに眉を上げた。

 

「かなり大きな荷物です」

 

「何を送ったんだ?」

 

 ロンが尋ねる。

 

「分からない」

 

「また?」

 

「うん」

 

 悠太は答えた。

 

 玄関広間の向こうで、木箱を運ぶ音がした。

 

 鏡の中の人々には、まだ名前がない。

 

 けれど現実では、ハリーとロンが自分の名を呼び、日本からは自分の名を書いた荷物が届いている。

 

 クリスマスまで、あと二日だった。

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