ハリー・ポッターと東洋の魔剣士 作:キャン
扉の向こうの沈黙は、駅の静けさよりも重かった。
数百人分の視線が、一度に悠太へ降りそそいでいた。
四つの長いテーブル。色の異なるネクタイと寮章。磨き上げられた金色の皿。宙に浮かぶ無数の蝋燭。そのさらに上には、天井の代わりに、雨雲の切れ間から覗く夜空が広がっていた。
教科書では読んでいた。
大広間の天井には魔法がかけられ、外の空と同じように見える、と。
知識としては知っていたはずなのに、実際にその下へ立つと話が違った。石造りの城の中に星がある。そのあり得なさに目を奪われ、悠太は入って早々、立ち止まりそうになった。
前を行くダンブルドアの歩みは止まらない。
置いていかれる。
そう気づいて慌てて足を出すと、背後で二枚の大扉が静かに閉じた。
逃げ道までなくなったような音がした。
「日本から来た子だ」
「一か月も遅れて?」
「見て、ネクタイが黒い」
「まだ組分けされていないんだよ」
「ユウタ・ワタナベだっけ? 東洋の魔剣士と同じ名前だな」
抑えた囁きが、四方から波のように寄せてくる。
悠太は前だけを見た。
英語そのものは聞き取れる。けれど、大勢が同時に話すと、教科書に載っていない短い言葉や、聞き慣れない音がいくつも混じった。自分のことを話しているのは分かるのに、すべては分からない。
分からない言葉ほど、悪口に聞こえるものである。
肩に力が入りかけた時、ダンブルドアがほんの少しだけ歩調を緩めた。
振り返りはしなかった。
それでも悠太には、それが待ってくれたのだと分かった。
半歩ぶんの距離を詰める。
すると今度は、別のことが気になった。
この広間を、自分はどこかで知っている。
もちろん、本や写真で見たからだ。左右に四寮のテーブルが並び、最も奥に教師たちの席があることも読んでいた。天井の魔法も、幽霊が食事へ顔を出すことも知識のうちだ。
だが、知っているのは配置だけではなかった。
蜜蝋の匂い。
雨の日の石壁が含む冷たさ。
何百もの声が高い天井へ上り、わずかに遅れて戻ってくる響き方。
食事の前に人々が椅子を引く音。
その一つ一つが、初めて触れるものではなく、長いあいだ忘れていたもののように胸へ落ちてきた。
どこかで、少年たちの笑い声がした。
悠太は思わず左を見た。
赤と金のネクタイを着けた生徒たちの席で、赤毛の双子が同時に身を乗り出している。その周りから笑いが起きたところだった。
知らない二人である。
聞こえた声も、たぶん彼らのものだ。
それなのに胸の奥では、今の笑い声ではない別の笑い声が、ほんの一瞬だけ重なった気がした。
追いかけようとした時には、もう消えていた。
「前を向いた方がいいよ」
誰かの小さな声が聞こえた。
同じ赤と金のテーブルだった。
丸い眼鏡をかけた、痩せた黒髪の少年が悠太を見ていた。額へ落ちた髪の間から、稲妻のような傷痕が少しだけ覗いている。
ハリー・ポッター。
日本の魔法新聞にも名前が載っていた。額の傷痕を見れば間違えようがない。けれど記事の中の「生き残った男の子」は、もっと遠い存在に思えていた。
実際の彼は、悠太と変わらない十一歳の少年だった。
ハリーは自分の頭を指し、それから広間の奥を示した。どうやら、前方に何かあると教えてくれたらしい。
悠太が視線を戻すと、あと一歩で石段につまずくところだった。
足を止める。
危なかった。
全校生徒の前で転ぶという、留学初日の伝説を作るところである。
悠太は誰にも分からないほど小さくハリーへ頭を下げた。
ハリーの口元に、ほっとしたような笑みが浮かんだ。
「今の、ポッターに礼をしたのか?」
ハリーの隣で、背の高い赤毛の少年が囁いた。
「たぶん」
「ずいぶん堅そうなやつだな。歩くだけで礼をしてる」
「転びそうなのを教えたからよ」
向かい側から、縮れた茶色い髪の少女が口を挟んだ。彼女の前には、食事の席とは思えないほど几帳面に本が重ねられている。
「それに、あれはお辞儀でしょう。日本では普通の挨拶だと読んだわ」
「誰も君には聞いてないよ、ハーマイオニー」
「間違っているから訂正しただけよ」
赤毛の少年は、また始まったという顔をした。
ハリーは二人の間で困ったように肩をすくめ、それからもう一度、悠太へ目を向けた。
ハーマイオニーも、すぐに悠太へ視線を戻した。
一か月遅れて入る交換留学生が、どこまで授業へ追いついているのか。マホウトコロでは何を、どんな順番で学ぶのか。興味はあったが、それ以上に、同じ一年生として実力を確かめたい気持ちがあった。
いずれ授業で分かる。
そう考え、彼女は目の前の本の角をきちんとそろえた。
一か月前の自分も、ああして広間中に見られた。
知らない魔法界へ放り込まれ、何も分からないまま帽子の前へ立った。あの時の喉の渇きは、まだ忘れていない。
だからハリーには、悠太が落ち着いているのではなく、落ち着こうとしているのだと何となく分かった。
悠太の方は、その視線の意味までは知らなかった。
ただ、最初に助けてくれた顔として、眼鏡の少年を覚えた。
石段を上がると、教師たちの長いテーブルが近づいてきた。
中央の席の前で、ダンブルドアがようやく振り返る。
その右手には、背の高い魔女が立っていた。深緑のローブ。きっちりと結い上げられた黒髪。四角い眼鏡の奥の目は鋭く、広間にいる全生徒の襟の乱れを一度に見つけられそうだった。
ミネルバ・マクゴナガル副校長。
その人だと、説明されなくても分かった。
彼女の前には三本脚の丸椅子が置かれ、その上に、継ぎの当たった古い帽子が載っている。
組分け帽子だった。
悠太の胃が、国際移動門をくぐった時とは別の理由で縮んだ。
ダンブルドアが教師席の前へ立つと、残っていた囁きも消えた。
「食事を待たせてすまんのう」
穏やかな声なのに、大広間の隅々までよく通った。
「今夜から、ホグワーツに新しい仲間が加わる。日本のマホウトコロ魔法学校より来た、一年生の交換留学生じゃ」
悠太は両手を体の横へそろえた。
「名は、渡辺悠太」
その名が広間へ響いた瞬間、教師席の左端近くで、銀の食器がかすかな音を立てた。
黒いローブをまとった痩せた男が、手を止めていた。
肩まで届く黒髪。蝋燭の光を拒むように青白い顔。細長い指の間には、持ち上げかけた杯がある。
男の黒い目が、まっすぐ悠太を射抜いた。
好意ではない。
驚きとも違う。
初めて聞いたはずの名前を、決して聞きたくなかった場所で聞かされたような目だった。
悠太の背筋に、冷たいものが走る。
魔法薬学教授、セブルス・スネイプ。
送られてきた教師一覧の写真より、実物の方がずっと不機嫌そうだった。
悠太は何か失礼をしただろうかと、今日一日の行動を素早く振り返った。英国へ着いてから、魔法薬学の教師に迷惑をかけるほどの時間はなかったはずである。
目をそらすべきか迷っていると、スネイプの表情から、わずかな揺れが消えた。
残ったのは、冷えきった無関心だった。
杯が静かに卓上へ戻される。
ほんの一瞬の出来事で、気づいた生徒はほとんどいなかった。
だが、ダンブルドアは見ていた。
マクゴナガルもまた、スネイプではなく悠太を見つめていた。
「ミスター・ワタナベ」
副校長に呼ばれ、悠太はそちらへ向き直った。
「こちらへ」
「はい、先生」
悠太は一礼した。
顔を上げると、マクゴナガルの目がわずかに細くなっていた。
礼の仕方を間違えただろうか。
日本魔法省では、相手との関係や場面によって礼の角度が違う。英国ではそこまで細かくないと教わったが、癖で深くなりすぎたかもしれない。
「その椅子に腰かけなさい」
マクゴナガルは帽子を示した。
「組分けの方法は聞いていますね?」
「帽子が寮を決める、とだけ」
「それで十分です」
彼女の口調は事務的だった。けれど帽子を持ち上げる指先が、ほんの少しだけ止まった。
十一歳の少年は、 マクゴナガルが知る青年とは似ていない。
顔立ちも、背丈も、声も違う。
それでも、背筋を伸ばす時の肩の引き方。目上の者へ敬意を示しながら、必要以上に萎縮しない立ち姿。そして先ほどの、正確すぎる礼の角度。
マクゴナガルの記憶の底で、遠い昔の大広間が一瞬だけ重なった。
あり得ない。
そう判断するまでに、一秒もかからなかった。
「どうかしましたか、先生?」
悠太が尋ねた。
「いいえ」
マクゴナガルはいつもの厳格な顔へ戻った。
「帽子を落とさないよう、まっすぐ座りなさい」
「帽子をかぶるだけでも、姿勢の採点があるんですね」
「ミスター・ワタナベ」
「失礼しました」
また頭を下げかけた悠太へ、マクゴナガルの片方の眉が上がった。
「今度は結構です」
教師席のどこかで、小さく咳払いを装った笑い声がした。背の低いフリットウィック教授が口元を隠している。大柄なハグリッドは、隠すことも忘れて嬉しそうに笑っていた。
張りつめていた広間の空気が、ほんの少しだけ緩んだ。
悠太自身も、耳が熱くなるのを感じた。
完璧な留学生でいる必要はない。
扉の前でダンブルドアに言われた言葉を思い出す。
どうやら、完璧でないことを証明する最初の機会には、早くも恵まれたらしい。
広間の右側、緑と銀のテーブルでは、淡い金髪の少年が冷ややかに口を歪めた。
「ずいぶん手厚い歓迎じゃないか。遅刻してきただけなのに」
ドラコ・マルフォイは、隣のクラッブとゴイルに聞かせるように言った。
「日本から来たってだけで、みんな珍しがってるのよ」
パンジー・パーキンソンがすぐに同意した。
だが彼女の目は、ドラコではなく悠太を追っていた。
緊張しているはずなのに、教師へ口答えすれすれの冗談を言う。叱られれば素直に引き下がる。そのちぐはぐさが、少し気になった。
赤と金のテーブルでは、黒い髪の少女が、悠太から目を離せずにいた。
パーバティ・パチルは、彼が大広間へ入ってきた時から、まだ一言も隣のラベンダーへ話していなかった。
柔らかく分かれた焦げ茶色の髪。幼さを残した細い顔立ち。大勢に見られても逃げずに上げられた、静かな黒い瞳。
きれいな顔だと思った。
けれど、それだけではなかった。
先ほど石段を踏み外しかけた時、悠太は恥ずかしそうに笑った。教師に注意された今も、取り繕って他人のせいにはしなかった。
堂々として見えるのに、完璧ではない。
そのことが、なぜかパーバティには嬉しかった。
「ねえ」
ラベンダーが肘でそっとつついた。
「さっきから見すぎじゃない?」
「見てないわ」
パーバティは即座に答えた。
「まだ何も言ってないけど」
頬が熱くなる。
パーバティは慌てて金色の皿へ目を落とした。空の皿には、自分の顔がぼんやり映っているだけだった。
その隣では、ネビル・ロングボトムが悠太を尊敬するように見つめていた。
全員の前を一人で歩き、転びそうになっても、そのあと普通に冗談を言えた。
ネビルには、それだけで十分すごいことに思えた。
「座ってよろしい」
マクゴナガルの声に、悠太は丸椅子へ向き直った。
椅子まで、あと六歩。
なぜか、そう思った。
一歩。
二歩。
三歩目の先、床石の端がわずかに浮いている。
見るより先に足がそれを避けた。
四歩。
五歩。
六歩。
手を伸ばせば、椅子の縁へちょうど指が触れた。
悠太は動きを止めた。
初めて歩いたはずなのに、身体は距離も、床の小さな傷みも知っていた。
偶然だ。
古い城なら、床石の一つくらい浮いていてもおかしくない。
そう考えたものの、心臓は先ほどより速く打っていた。
椅子へ腰を下ろし、大広間を見渡す。
今度は、逃げずに顔を上げた。
青と青銅のテーブルからは、好奇心に満ちた視線が集まっていた。黄色と黒のテーブルでは、何人かが励ますように微笑んでいる。緑と銀の席からは値踏みするような目。赤と金の席には、眼鏡の少年と赤毛の少年、山ほどの本を置いた少女、目が合った途端に慌てて伏せた黒髪の少女がいた。
四つの寮。
四つのまったく違う居場所。
どこへ行くのかは、まだ分からない。
それでも不思議と、どの席にも見覚えがあるような気がした。
そこで笑ったことがある。
そこで議論したことがある。
そこで誰かと喧嘩し、誰かと仲直りしたことがある。
何一つ思い出せないのに、感情だけが古い染みのように残っている。
悠太は膝の上で手を握った。
怖い。
城が怖いのではない。
この城を知っているかもしれない自分が、怖かった。
その時、赤と金の席にいるハリーと目が合った。
ハリーは何も言わず、自分の頭へ両手を載せ、帽子をかぶる真似をした。それから、心配するなとでもいうように小さく笑った。
悠太も、ほんの少し笑い返した。
知らない過去ではなく、今ここにいる同い年の少年を見る。
それだけで、呼吸が少し楽になった。
マクゴナガルが組分け帽子を持ち上げる。
古びた布の影が、悠太の視界へ降りてきた。
最後に見えたのは、半月形の眼鏡の奥から自分を見守る、ダンブルドアの青い目だった。
帽子が髪へ触れる。
大広間の光が消えた。
暗闇の中で、何百年も生徒の心を見てきた帽子が——驚いたように、息を呑んだ。