ハリー・ポッターと東洋の魔剣士 作:キャン
暗闇の中で、組分け帽子はしばらく何も言わなかった。
悠太は待った。
耳のすぐ外には大広間があるはずなのに、帽子の厚い布に覆われた途端、何百人もの気配が遠くなった。聞こえるのは、自分の呼吸と、胸の奥で速く打つ心臓の音だけだった。
帽子が驚いたように息を呑んだ——そう感じたのは、気のせいだったのだろうか。
そもそも帽子が息をするのかどうかも、悠太は知らない。
念のため、頭を動かさずに小声で尋ねた。
「あの……」
『聞こえておるよ』
声は耳から入ってこなかった。
古びた布を何枚も重ねたようなしゃがれ声が、頭の内側へ直接響いた。英語とも日本語ともつかない。だが意味だけは、最初から自分の中にあった言葉のようにはっきり分かった。
悠太の肩が跳ねた。
『そこまで驚くことはなかろう。話すはずはないと思ったかね?』
「いえ。帽子に話しかけられた経験が、今日まで一度もなかったものですから」
『ほう。今日からは経験者というわけだ』
「日本へ帰ったら、履歴書に書けますね」
帽子は返事をしなかった。
冗談が通じなかったらしい。
それとも、組分け帽子には履歴書が何か分からないのかもしれない。
悠太が言い直すべきか迷った時、頭の中で布が擦れるような音がした。
『いや。少し見ていた』
「何をですか?」
『お前をだ、渡辺悠太』
自分の名を呼ばれた瞬間、帽子がほんの少し重くなった気がした。
額の内側へ、目に見えない指が触れる。
痛くはない。
けれど、引き出しを一つずつ開けられているような、落ち着かない感覚だった。
島根の海。夏の朝。店先に積み上げられた布団。両親の顔。白い雲の下に浮かぶ南硫黄島。マホウトコロの校舎。日本魔法省から届いた留学許可証。何度も読み直した英国式呪文学の教科書。
そして今日、ホグズミード駅へ降り立った時の冷たい雨。
思い出そうとしているわけでもないのに、ここまで歩いてきた十一年が、窓の外を流れる景色のように次々と通り過ぎていった。
「全部、見えるんですか」
『全部ではない。人の心は屋根裏部屋より広い。本人でさえ、どこへ何をしまったか忘れておる』
「それを、勝手に探すんですか?」
『組分けられたいのならね』
「ずいぶん強引な入寮面接ですね」
『文句を言いながら逃げ出さぬ。なるほど』
帽子の声に、わずかな愉快さが混じった。
『勇気はある』
悠太は返事に困った。
勇気がある者は、こんなに手のひらへ汗をかかないのではないかと思った。
すると帽子は、考えを聞き取ったように鼻を鳴らした。
『怖れぬことと、勇気があることは違う。お前は怖れておる。知らぬ国も、途中から入る学校も、大勢の目も——そして、初めてのはずの城を知っているように感じる自分自身も』
悠太の指先が、膝の上で強く組み合わされた。
『それでも扉をくぐった』
「くぐらないと、日本へ帰るしかありませんでしたから」
『理由を小さく言う癖があるようだ』
「自分を大きく言うよりは、安全です」
『安全か。だが、お前は安全だけを選ぶ子ではない』
声が少し近づいた。
『グリフィンドールの火がある。恐怖を抱えたまま前へ出る力。誰かが危険にさらされた時、自分の足を止められぬ性分。名誉を欲しがらぬくせに、責任だけは拾い上げる』
グリフィンドール。
悠太は帽子の下で、赤と金のテーブルを思い浮かべた。
石段を教えてくれた、丸い眼鏡の少年。
ハリー・ポッターが、心配するなというように笑った顔。
『だが、それだけではない』
浮かびかけた像が消えた。
『問いを放っておけぬ頭をしておる。答えを覚えるだけでは満足せず、なぜそうなるかを確かめたがる。日本式と英国式で呪文理論が違えば、優劣を決める前に仕組みを比べる。分からぬものを恐れながら、同時に知りたいとも思う』
今度は、青と青銅の色が暗闇に浮かんだ。
『レイブンクローも、お前を歓迎するだろう』
「授業へ一か月遅れています。歓迎された次の日に、追い出されるかもしれません」
『そのために、どこにいても本を離さなかったのだろう?』
「見ていたなら聞かないでください」
『勤勉でもある』
今度は黄色と黒。
『できぬことを、できるふりで済ませない。近道があっても、自分のものになるまで繰り返す。受けた恩を覚え、約束を軽んじず、置いていかれる者がいれば足を緩める。ハッフルパフなら、その誠実さを大切に育てるはずだ』
悠太は、ダンブルドアが歩調を緩めてくれた廊下を思い出した。
自分はまだ、誰かのために足を緩めた覚えなどほとんどない。帽子は、今の自分ではなく、そうなりたいと思っている自分まで見ているのだろうか。
『そして——』
声が低くなる。
『望みも強い』
緑と銀の色が、細い光のように差し込んだ。
悠太の胸がわずかに固くなった。
マホウトコロで聞いた話を思い出す。スリザリン。純血を重んじる者が多く、闇の魔法使いを何人も出した寮。
『聞きかじった評判だけで、すべてを決めるつもりかね?』
「……心を読むのは、反則では?」
『今さらだな』
帽子は乾いた笑い声を立てた。
『野心は悪ではない。どこまで行きたいかを知る力だ。お前は選ばれた留学生で終わるつもりがない。学ぶなら誰より深く。戦うなら負けたくない。自分の力が足りず、守れるはずのものを失うことを、何より嫌う』
最後の言葉だけが、妙に重かった。
守れるはずのものを失う。
その響きが胸の奥へ落ちた途端、理由のない痛みが走った。
誰を、と考えても、顔は浮かばない。
何を、と考えても、答えはない。
ただ、取り返せないものを前にしたような悲しみだけが、行き先を持たずに胸を通り過ぎた。
悠太は息を詰めた。
「今のは——」
『待て』
帽子の声から、笑いが消えた。
額へ触れていた気配が、慎重に奥へ進む。
悠太が知っている十一年なら、すでに帽子の前を通り過ぎていた。両親を失った悲しみも、魔法を知った驚きも、マホウトコロで過ごした日々も、日本を離れると決めた夜も。
けれど、そのさらに奥に、もう一つ深さがあった。
壁のようなものがある。
石でも、鉄でもない。
幾重もの光が、隙間なく編み上げられている。内側にあるものを閉じ込めるだけではなく、外側にいる少年を守るための壁だった。
帽子が触れると、壁の向こうから途方もない重みが返ってきた。
長い年月。
磨き抜かれた魔力。
数え切れない選択。
喜びと後悔。
命を奪う恐怖を知りながら、それでも誰かの前へ立ち続けた者の覚悟。
どれも、十一歳の少年の中にあるはずがなかった。
『これは……』
帽子の声が、初めて迷った。
「何があるんですか?」
悠太は心の中で問いかけた。
返事はない。
帽子の意識が、光の壁に沿ってゆっくりと動いた。綻びを探しているのではない。どこまでなら触れても少年を傷つけないか、境を確かめていた。
悠太には、壁も、その向こう側も見えなかった。
何かを考えようとするたび、白い空白へ行き当たる。ただ、自分の心の中で帽子が立ち止まっている、その奇妙な感覚だけが伝わってきた。
『静かに』
短い声だった。
その向こうで、一度だけ、金属の触れ合う音がした。
鞘から剣が抜かれるような、澄んだ音。
次の瞬間、光の壁は何事もなかったように閉じた。
帽子は、それ以上触れなかった。
*
大広間では、最初の囁きが広がり始めていた。
「長くない?」
ロンが、悠太の頭にかぶさった帽子を見つめたまま言った。
「僕の時も、少し考えてたよ」
ハリーは答えたが、自分の時より長い気がしていた。
帽子のつばの下から見える悠太の口元は、先ほどまでより固い。膝の上に置かれた両手にも力が入っている。
「もしかして、日本語に訳すのに時間がかかってるのかな」
「帽子は声に出して質問しているわけじゃないでしょう」
ハーマイオニーがすぐに言った。
「だったら、言葉を訳す必要があるとは限らないわ。思考そのものを——」
「君も帽子の中へ入ったことがあるんだから、それは知ってるよ」
「なら、変なことを言わなければいいでしょう」
「ちょっと考えただけだよ」
「考えること自体は止めてないわ」
ハリーは二人の間で口を閉じた。
何か言えば、どちらからも返事が来そうだった。
代わりに、悠太を見た。
一か月前、帽子はハリーにも選択肢を示した。自分が何者なのかも分からない時に、心の中を覗かれ、行き先を決められるのは気持ちのよいものではなかった。
まして悠太は、今日この城へ来たばかりだ。
ハリーは、早く帽子を取ってやればいいのにと思った。
少し離れた席で、パーバティも同じことを思っていた。
「大丈夫かしら」
ほとんど独り言だった。
「帽子をかぶってるだけよ」
ラベンダーが、面白そうに横顔を覗き込んだ。
「分かってるわ」
「誰の心配かは聞いてないけど」
パーバティは答えず、椅子に座る少年を見つめた。
さっきまで教師へ冗談を言っていたのに、今はひどく遠いところへ一人で置いていかれたように見える。
帽子の下から覗く指先が白くなるほど、手を握っている。
声をかけても届かないと分かっていながら、パーバティは胸の中で、大丈夫、と繰り返した。
スリザリンのテーブルでは、ドラコが退屈そうに頬杖をついた。
「帽子まで困らせてる。ずいぶん面倒な留学生だ」
「入れる寮がないんじゃない?」
パンジーが言うと、クラッブとゴイルが笑った。
ドラコも口元を上げたが、目は笑っていなかった。
全校生徒の食事を止め、校長自らに案内され、組分け帽子まで長考している。外国から来たマグル生まれに、これ以上注目が集まることが気に入らなかった。
「ハッフルパフでいいだろ。あそこなら何でも引き取る」
黄色と黒のテーブルから、何人かの上級生が険しい目を向けた。
ドラコは気づかないふりをした。
パンジーは笑いながらも、また丸椅子へ目を戻した。
悠太の顔は帽子に隠れている。
どんな顔をしているのか見えないことが、なぜか気になった。
教師席では、マクゴナガルが帽子を見つめていた。
長い組分けは珍しいが、前例がないわけではない。二つの寮の間で帽子が迷い、五分以上かかった生徒もいる。
それでも今夜の沈黙には、単なる迷いとは違うものがあった。
帽子の裂け目は動かない。
どの寮名も口にしかけていない。
まるで寮を選ぶ前に、見つけてはならないものを見つけたように、完全に止まっている。
マクゴナガルは無意識に、ダンブルドアへ視線を送った。
校長は穏やかな表情を崩していなかった。
だが、組み合わせた両手の親指だけが、先ほどから動いていない。
ダンブルドアだけは、この沈黙が起こり得ると知っていた。
組分け帽子は、生徒を傷つけて秘密を暴く道具ではない。幾千もの心を見てきた存在だからこそ、越えてはならない境も知っている。
それでも、悠太の中にある不自然な深さへ気づかずに済むとは、校長も考えていなかった。
ダンブルドアは丸椅子へ歩み寄らなかった。
声もかけなかった。
ここで助けるような動きを見せれば、悠太を不安にさせるだけでなく、スネイプの疑念まで深める。
何より、これは今の悠太が、自分の居場所を選ばれる時間だった。
校長にできるのは、帽子が越えてはならない境を守ると信じて待つことだけだった。
スネイプは、待ってはいなかった。
黒い瞳を細め、悠太の一挙一動を観察していた。
帽子が長く迷うこと自体はどうでもよい。四寮すべてに半端な適性がある生徒など、いくらでもいる。
だが、帽子が沈黙した直前、少年の右手が動いた。
握った指がわずかに開き、膝の脇へ下がった。
何も持っていない手で、そこにあるはずの柄へ触れるように。
たったそれだけだった。
偶然と言えば、偶然で済む。
スネイプはそうしなかった。
杯へ伸ばした手を止め、記憶の底を横切った別の右手を追った。
煙に霞む暗がり。
細い杖を一度だけ回し、刀の柄を握るように構えた人影。
顔を確かめる前に、像は消えた。
スネイプは唇を強く結んだ。
同じ名前と、似た癖。
どちらも、偶然で説明できる。
二つが重なったからといって、あり得ない結論を選ぶ理由にはならなかった。
*
『すまなかった』
帽子の声が戻ってきた。
悠太は、自分が息を止めていたことに気づいた。
ゆっくり息を吐く。
「何が見えたんですか」
『お前を、簡単な子だと思ったわしの見込み違いだ』
「それだけですか?」
『人の心には、本人にもまだ名づけられぬところがある。わしは組分けのために心を見るが、答えの出ぬものを無理に暴きはせぬ』
「この城を知っている気がすることと、関係がありますか」
帽子はすぐには答えなかった。
『それを決めるのは、組分けではなく、お前がこれから生きる時間だ。わしが今ここで当て推量を語れば、答えではなく鎖になる』
やはり、答えになっていない。
けれど悠太は、それ以上聞けなかった。
帽子の沈黙には、知らないという曖昧さではなく、今は言わないという意志があった。
城への懐かしさも、正しい廊下を知っていたことも、浮いた床石を避けたことも、依然として説明はつかない。
ただ、説明のつかない自分を、今夜すぐに異常だと決めなくてもよい。帽子の言葉から、悠太が受け取れたのはそれだけだった。
『お前の中には、十一歳の少年だけでは説明できない深さがある』
帽子の声は、先ほどまでより静かだった。
『だが、それがお前のすべてではない』
「十一歳の僕が、ですか」
『今ここで緊張し、分からぬものを怖れ、それでも知ろうとしているお前だ。深さの理由が何であれ、今のお前が自分で選ぶことまで消えはせぬ』
悠太は膝の上の力を少しだけ抜いた。
「あなたは、ずいぶん親切なんですね」
『長考して食事を遅らせた責任を感じておる』
「やっぱり、外では長いんですか」
『かなり』
悠太は顔を覆いたくなった。
だが帽子に覆われているので、その必要はなかった。
「明日から、“帽子を困らせた日本人”と呼ばれますね」
『呼び名の心配をする余裕が戻ったなら、そろそろ決められそうだ』
「まだ決まっていなかったんですか?」
『候補が多いのでね』
帽子は、もう一度悠太の心を見渡した。
今度は壁の奥へ触れようとはしなかった。
十一歳の悠太が、自分で手を伸ばせる場所だけを見た。
『どの寮でも、お前は学べる。どの寮でも友を得られる。知性を磨くならレイブンクロー。誠実さを土台にするならハッフルパフ。野心と戦略を力に変えるならスリザリン。そして勇気を選ぶなら、グリフィンドール』
「僕が選ぶんですか」
『選びたいかね?』
悠太は考えた。
四つのテーブルを思い浮かべようとして、まだ名前と色しか知らないことに気づいた。どの寮の生徒とも話していない。良いところも悪いところも、学校案内や人から聞いた評判しか知らない。
そんな自分が選べば、知っているものではなく、先入観を選ぶことになる。
「分かりません」
正直に答えた。
「僕はまだ、この学校のことを何も知らない。自分が何を知らないのかさえ、よく分かっていません」
『うむ』
「ただ——」
暗闇の中に、もう一度大広間が浮かんだ。
青と青銅の席。黄色と黒の席。緑と銀の席。そして、赤と金の席。
石段を教えてくれた少年。
その隣でこちらを見ていた赤毛の少年と、本を積み上げた少女。
目が合うと急いで顔を伏せた、黒髪の少女。
「知らない場所で、一人にならずに済む寮がいいです」
『どの寮にも仲間はいる』
「そうですよね」
『だが、お前が“誰の隣なら一人ではないか”を、すでに考え始めているのは興味深い』
悠太は答えなかった。
帽子は急かさなかった。
代わりに、一つの問いを心へ置いた。
『もし今、この大広間へ危険が入ってきたら、お前はどうする?』
「危険?」
『たとえば、扉の向こうから何かが襲ってくる』
考えるより早く、景色が組み上がった。
大扉が開き、生徒たちが一斉に立ち上がる。
教師がいる。上級生もいる。自分より強い者に任せて逃げるのが、きっと正しい。
けれど、すぐそばで誰かが転んだら。
怖くて動けない一年生がいたら。
悠太の手は、考えるより先にその子へ伸びた。立たせ、逃げる方角を示し、それから自分の杖を抜く。
自分が逃げるのは、そのあとだった。
悠太は我に返った。
なぜ、そんなことまで考えられたのか分からなかった。
帽子は何も言わない。
ただ、答えを見つけたように静かに笑った。
「今のは、あなたが見せたんですか?」
『問いを置いただけだ。答えたのはお前だよ』
「でも、僕は——」
『名誉のためではない。勝ちたいからでもない。お前が最初に考えたのは、動けぬ者を置いていかないことだった。そして自分が逃げる順番を、最後へ回した』
赤と金の色が、今度は炎のように広がった。
『力を、自分の栄達よりも誰かを守るために使う。怖れを知らぬ者ではなく、怖れを知ってなお前へ出る。騎士道、勇気、そして自己を差し出す覚悟——お前の中で最も深く根を張っているのは、それだ』
悠太は、胸の奥が熱くなるのを感じた。
褒められた嬉しさとは少し違う。
自分でも知らなかった自分を、見つけてもらったような感覚だった。
『だが今のお前が選ぶべき場所は、過去ではなく、これから守りたい者の隣だ』
「これから守りたい者……」
『まだ顔も名も知らぬかもしれぬ。それでよい。居場所とは、最初から懐かしい場所のことではない。これから誰かと作る場所でもある』
悠太は、もう一度ハリーの笑顔を思い浮かべた。
有名な生き残った男の子ではない。
転びそうになった留学生へ、黙って前を教えてくれた同い年の少年。
「決まったんですね」
『ああ』
帽子の声が、頭の内側から少しずつ遠ざかる。
『東から来た迷子よ。まずは、赤い旗の下で仲間を知るがよい』
「迷子は余計です」
『では、皆にも聞こえるように言おう』
帽子の裂け目が大きく開いた。
「グリフィンドール!」
*
大広間へ、声が響き渡った。
一拍遅れて、赤と金のテーブルが沸き立った。
拍手と歓声が、一気に悠太へ押し寄せる。
「やった!」
ハリーが立ち上がりかけ、慌てて椅子へ腰を戻した。
ロンは両手を大きく打ち鳴らした。
「帽子を壊さずに済んだぞ!」
赤毛の双子の片方が叫ぶ。
「一か月遅れでも、歓迎は一か月分だ!」
もう片方が続ける。
意味を完全には聞き取れなかったが、悪意がないことだけは分かった。
帽子が持ち上げられ、蝋燭の光が戻ってきた。
眩しさに目を細める。
最初に見えたのは、マクゴナガルの四角い眼鏡だった。
彼女は組分け帽子を手に持ち、悠太をまっすぐ見ていた。
「グリフィンドールです、ミスター・ワタナベ」
「はい」
「あちらの席へ」
厳しい口調だった。
けれど、帽子を椅子へ戻す彼女の手からは、先ほどまでのわずかな緊張が消えていた。
悠太は立ち上がった。
帽子の中で長く話していたせいか、足が少し痺れている。
一歩目で膝が危うく折れそうになり、何事もなかったように姿勢を直した。
今度こそ転べば、帽子に寮だけでなく平衡感覚まで置いてきたと思われる。
赤と金のテーブルから笑いが起きた。
見られていたらしい。
悠太は諦めて、少しだけ笑った。
それから大広間へ向き直り、もう一度、丁寧に頭を下げた。
拍手が一瞬弱まり、すぐに前より大きくなった。
ロンがハリーへ顔を寄せる。
「やっぱり、歩くだけで礼をするんだな」
「今のは歩いてないよ」
「そういう問題じゃないでしょう」
ハーマイオニーが言いながら拍手を続けていた。
その目は、悠太ではなく組分け帽子へ一度向けられた。
四寮すべての資質を持っていたのか。それとも、帽子が判断に迷う別の理由があったのか。
あとで本人へ聞けば、どこまで答えてくれるだろう。
知りたい気持ちが湧く一方で、組分け帽子との会話は心の中のものだと気づき、質問の仕方を考え直した。
少なくとも、全員の前で尋ねるべきではない。
その判断ができる程度には、ハーマイオニーも一か月でホグワーツへ慣れ始めていた。
パーバティは、誰より強く手を叩いていた。
悠太と同じ赤い寮章が、これから彼の胸につく。
同じ談話室へ帰り、同じ時間割で授業を受ける。
その事実が嬉しくて、頬が緩むのを止められなかった。
「よかったわね」
ラベンダーが耳元で囁いた。
「グリフィンドールに新しい生徒が来て、でしょ?」
「私は何も言ってないけど」
「……拍手していただけよ」
「もちろん」
パーバティは前を向いたまま、少しだけ拍手を弱めた。
ネビルは、弱めるのを忘れていた。
自分と同じ寮だと分かっただけで、何かが誇らしかった。悠太は全校生徒の前で長い時間を待ち、立ち上がって笑い、それから皆へ礼をした。
ネビルには、組分け帽子が長く迷ったことさえ、四つの寮から選ばれるほどすごい証拠に思えた。
悠太がこちらへ歩き出すと、ネビルは席を詰めようとして隣の水差しへ肘をぶつけた。
ハーマイオニーが倒れる前に押さえる。
「気をつけて」
「ご、ごめん」
「でも、そこを空ければ座れるわ」
ハリーとロンも横へずれ、ベンチに一人分の場所ができた。
緑と銀のテーブルからは、形だけの拍手がいくつか聞こえた。
ドラコは手を動かさなかった。
「グリフィンドールか」
予想どおりだと言いたげに鼻を鳴らした。
「ポッターの隣が、よほど気に入ったらしい」
「目立ちたがり同士、お似合いなんじゃない?」
パンジーはドラコへ合わせた。
けれど、悠太の黒いネクタイがやがて赤と金へ替わるのだと思うと、なぜか少しだけ面白くなかった。
理由は分からない。
分からないから、考えないことにした。
教師席では、ダンブルドアも穏やかに拍手をしていた。
悠太が視線を向ける。
校長は微笑んだ。
ほかの生徒へ向けるものと、何一つ違わない微笑みだった。
それでよい。
帽子は、越えてはならない境を越えなかった。
そして、十一歳の悠太自身が持つ資質を選んだ。
ダンブルドアの胸には、安堵と痛みが同時に広がっていた。
十一歳の渡辺悠太として、新しい友人を得て、新しい時間を生きなければならない。
そのための最初の席が、今夜ようやく決まった。
ダンブルドアは拍手を止め、何も知らない校長の顔で食事の開始を待った。
隣では、スネイプだけが一度も手を叩いていなかった。
黒い目が、赤と金のテーブルへ向かう悠太の右手を追っている。
少年の手は今、何も握っていない。
それでもスネイプには、見えない柄がそこに残っているように思えた。
悠太が一度こちらを見た。
視線がぶつかる。
少年の黒い瞳にあるのは、警戒と戸惑いだけだった。
初めて会う厳しい教師を見る、まっさらな目だった。
スネイプは先に目をそらした。
違う。
そう結論づけたはずなのに、同じ名と、柄へ伸びた右手が胸の底へ残った。
*
赤と金のテーブルまでの距離は、それほど長くなかった。
それでも悠太には、大広間へ入ってきた時よりずっと歩きやすく感じられた。
行き先が決まっているからだ。
四つの寮から視線を浴びていることに変わりはない。帽子が長く黙っていた理由を知りたそうな顔も、外国人の実力を測ろうとする顔もある。
けれど今は、その中に自分を迎えようとしている顔が見えた。
ハリーが、空いた場所を手で示す。
「ここ」
短い言葉だった。
今度は、きちんと聞き取れた。
悠太はベンチの前で立ち止まった。
ハリー。ロン。ハーマイオニー。ネビル。
少し離れた場所には、先ほどから何度も目が合う黒髪の少女がいる。悠太がそちらを見ると、少女はまた急いで杯へ視線を落とした。
理由は分からない。
自分の顔に何かついているのかもしれない、と悠太は思った。
「ありがとう」
ハリーへ言い、空けてもらった席へ腰を下ろす。
赤と金の生地をまとった生徒たちの間で、黒いネクタイだけがまだ少し浮いていた。
それでも、先ほどまでのように居場所がないとは感じなかった。
目の前には空の金皿がある。
右には、有名人ではなく一人の同級生として笑うハリーがいる。
左では、ロンが聞きたいことをいくつも我慢できずにいる顔をしている。その向こうで、ハーマイオニーが質問の順番をすでに決めたように姿勢を正していた。
ネビルは水差しを両手で慎重に持ち直している。
知らない者ばかりだった。
何一つ思い出したわけでもない。
頭の奥にあるという扉も、その向こう側も、依然として白い霧の中に閉ざされている。
けれど、帽子の最後の言葉だけは残っていた。
過去ではなく、これから守りたい者の隣。
今はまだ、その意味を理解できない。
守ると決めた相手など、一人もいない。
ただ、初めて来たはずの城で、初めて会った少年たちが自分のために場所を空けてくれた。
それだけで十分だった。
悠太は大広間へ入ってから初めて、肩の力を抜いた。
遅れてきた留学生に、ようやく一つの席ができた。
そしてその席は偶然にも——命を懸けて守ることになる少年の、すぐ隣にあった。