ハリー・ポッターと東洋の魔剣士 作:キャン
悠太が席へ着くと、空だった金色の皿に夕食が現れた。
音も、煙もなかった。
ほんの一度瞬きをしただけで、目の前に大皿が並んでいた。皮を飴色に焼いた鶏肉。湯気を立てるマッシュポテト。艶のあるソーセージ。緑の豆。丸く膨らんだ、料理なのか菓子なのか分からないもの。銀の器からは濃い色のソースが今にもあふれそうになっている。
悠太は思わず、大広間の入口を振り返った。
料理を運んできた者は見当たらない。
「どうかした?」
右隣のハリーが尋ねた。
「いえ。英国では、食事も組分けされるのかと思って」
「何に?」
「皿にです」
ハリーは一度目を瞬き、それから笑った。
その向こうで、ロンが大皿からソーセージを三本まとめて取っている。
「下の厨房で作ってるんだ。料理が勝手に生まれるわけじゃないよ」
「ロン、口に物を入れたまま話さないで」
向かい側のハーマイオニーが眉を寄せた。
「まだ入れてない」
「これから入れるでしょう」
「それなら今は問題ないじゃないか」
ロンは反論しながら、宣言どおりソーセージを口へ入れた。
悠太は笑うべきか迷った。
同じ寮に決まってから、まだ一分もたっていない。三人がいつもこの調子なのか、それとも今夜だけなのかも分からない。
するとハリーが、銀の盆を悠太の方へ押した。
「取らないとなくなるよ。特に、ロンの近くにあるものは」
「人を飢えたトロールみたいに言うなよ」
「トロールなら、たぶん噛む回数が少ないわ」
ハーマイオニーが言った。
今度こそ、悠太は笑った。
「貴重な助言をありがとう」
鶏肉を一切れ取り、ポテトと豆を皿へ載せる。
長い移動の間に食べたのは、固いパンと、国際移動門を抜ける前に教育局の職員から持たされた握り飯だけだった。緊張で忘れていた空腹が、料理の匂いを嗅いだ途端に戻ってきた。
それでも最初の一口を運ぶ前に、悠太は姿勢を正した。
「改めまして、ユウタ・ワタナベです。よろしくお願いします」
三人の目が集まる。
ロンが急いで飲み込んだ。
「じゃあ、ユウタって呼べばいいの?」
「それで構いません」
「分かった。ユウタ。僕はロン・ウィーズリー」
「ハリー・ポッター」
「あなたは知っています」
答えた途端、ハリーの笑みが少しだけ固くなった。
額へ落ちた黒髪の隙間で、傷痕が隠れる。
悠太は、自分の言い方がまずかったことに気づいた。
「日本でも名前を聞いたことがある、という意味です」
「やっぱり、日本でも有名なの?」
「魔法新聞に載っていました。英国で闇の魔法使いが倒れ、生き残った赤ん坊がいた、と」
周りの声が、ほんの少し遠くなったように感じた。
ハリーは皿の端へ目を落とした。
悠太は続けようとして、やめた。
どんな呪文を受けたのか。傷痕は痛むのか。本当に何も覚えていないのか。
聞きたい者は、これまでいくらでもいたはずだ。
今、自分まで加わる必要はなかった。
「記事より、本人の方が普通ですね」
「普通?」
「はい。新聞では、もっとこう……椅子に座るだけで雷が鳴るような人を想像していました」
ロンが噴き出した。
ハーマイオニーが素早く身を引き、飛んできたパン屑を避ける。
ハリーも、今度は肩の力を抜いて笑った。
「残念だけど、雷は出せない」
「安心しました。初日から隣の席で落雷に遭うところでした」
「僕も、魔法界のことはほとんど知らなかったんだ」
ハリーは声を少し低くした。
「夏まで、自分が魔法使いだってことも知らなかった」
悠太は驚いて彼を見た。
「本当に?」
ハリーは頷いた。
「だから、君が一か月遅れたことを気にしてるなら——僕は全部に十一年遅れてきたようなものだよ」
その言葉には、自分を笑うような響きがあった。
けれど悠太には、それがありがたかった。
ハリー・ポッターも、初めからこの世界を知っていたわけではない。
大広間へ入る前まで、ここにいる全員が自分より一か月先へ進んでいると思っていた。今もその差がなくなったわけではない。それでも、同じように知らない場所へ入ってきた者が隣にいる。
「では、分からない時は先輩に聞きます」
「一か月だけの?」
「一か月でも先輩は先輩です」
「その言い方なら、悪くないかも」
ハリーが笑った。
悠太も笑い返し、ようやく鶏肉を口へ運んだ。
香草と塩の味がした。
よく知っている日本の夕食とは違う。けれど温かかった。
*
「日本の魔法学校って、本当に島にあるの?」
悠太が三口食べ終えるまで、ロンは待った。
おそらく本人としては、かなり辛抱した方なのだろう。
「南硫黄島という場所にあります」
「暖かい?」
「夏は。冬は魔法で雪が降ることもあります」
「城なの?」
「城に近いですが、こことは造りが違います。屋根も壁も、日本の古い建物に似ています」
「幽霊は?」
「います」
「鎧は歩く?」
「歩くものもあります」
「ドラゴンは?」
「学校の廊下には、普通いません」
「じゃあ——」
「ロン」
ハーマイオニーが止めた。
「一度に聞いたら答えられないでしょう」
「ちゃんと一つずつ聞いてるよ」
「間が短すぎるの」
「大丈夫です」
悠太は銀の器を指した。
「ただ、その前にこれが何か教えてもらえますか」
ロンが見た。
「ヨークシャー・プディング」
「甘いものですか?」
「甘くないよ」
悠太は丸く膨らんだ生地と、ロンを交互に見た。
「英国では、料理の名前も信用してはいけないんですね」
ハリーがまた笑った。
「食べれば分かる」
「留学初日に必要な勇気は、組分けで使い切ったつもりでした」
そう言いながら一つ取る。
割ってみると中は空洞で、ロンの言ったとおり菓子ではなかった。肉汁のソースをつけて食べると、外側は香ばしく、中は柔らかい。
「どう?」
「名前以外は信用できます」
ロンは満足そうに頷いた。
「日本じゃ毎日、魚を生で食べるの?」
「毎日ではありません」
「箒には乗る?」
「乗ります」
「クィディッチも?」
「練習なら。打つ役をやっていました」
「ビーター?」
ロンの声が一段高くなった。
近くにいた上級生まで振り返る。
「そうですね」
「一年生で?」
「入ったばかりなので、正式な選手ではありません。箒に乗るのだけは、その前から練習していました」
「家で?」
「学校へ行くために」
今度はハリーも首を傾げた。
「箒で通うの?」
「本来は、巨大なウミツバメに乗せてもらう決まりです」
「それなら、どうして箒を?」
悠太は真顔で答えた。
「巨大なウミツバメだからです」
ハリーは意味を理解するまで二秒かかった。
ロンは一秒だった。
「怖いの?」
「怖くありません」
悠太は言い切った。
その時、高窓から入ってきた大きな灰色のフクロウが、教師席の上を横切った。脚に結ばれた巻紙を落とすと、翼を広げて再び天井近くへ舞い上がる。
悠太の肩が跳ねた。
ロンが口元を押さえた。
ハリーは俯いた。
向かいのハーマイオニーまで、唇を固く結んでいる。
「……あれは、不意打ちです」
三人が同時に笑った。
馬鹿にする笑いではなかった。
悠太には、その違いが分かった。
大広間へ入った時、何百人もの視線は自分を外国から来た珍しい生徒として見ていた。今、目の前の三人が見ているのは、大きな鳥が苦手なくせに認めようとしない一人の同級生だった。
その方が、ずっと楽だった。
「でも、箒で島まで飛べるって、かなりうまいんじゃない?」
ロンが言った。
「途中で落ちると海なので、上達は早かったです」
「基礎呪文も、もう使えるの?」
「マホウトコロで習ったものなら、少し。英国式は同じ呪文でも動かし方が違うので、まだ練習中です」
「一か月分の授業は、どうするつもりなの?」
ハーマイオニーが会話へ入った。
先ほどまで笑っていた目が、急に真剣になっている。
「どこまで準備してきたの?」
「送られてきた授業予定の範囲までは」
「全部?」
「教科書は。実技は一人では確認できないものもありました」
「変身術の基礎理論も?」
「読みました」
「呪文学史の第一章から第三章は?」
「二章の最後は、英語版と日本語版で説明が少し違いました」
ハーマイオニーの背筋が伸びた。
「どこが?」
「杖の軌道と意志の関係です。日本語版は、術者の意志を先に置いています。英語版は、正しい軌道が意志を整えるように読めました」
「原文では、軌道と意志は相互に作用する、という意味よ」
「そうかもしれません。英語の読み方を間違えた可能性もあります」
悠太は素直に答えた。
ハーマイオニーは、用意していた次の言葉を一度飲み込んだ。
知ったかぶりをして押し通すと思っていたらしい。
「交換留学の選考は、どんな試験だったの?」
「魔法理論と基礎実技、それから面接です」
「何を評価されたの?」
「分かりません。合格の理由は教えてもらえませんでした」
「日本独自の魔法も試験に出た?」
「初歩だけは。でも、日本魔法について全部説明してと言われたら困ります。僕はまだ一年生ですから」
「知らないの?」
「知らないことの方が多いです」
ハーマイオニーは、今度はわずかに頷いた。
「明日、該当箇所を見せて」
「見てくれるんですか?」
「あなたの版と、こっちの版を比べれば分かるわ」
「助かります」
「それと、一か月分の授業内容も確認した方がいいでしょうね。予定表どおりに進んでいない科目もあるから」
ハーマイオニーは足元の鞄から、羊皮紙を何枚か取り出した。
食事の席にまで持ってきていたらしい。
細かな文字が、余白をほとんど残さず整然と並んでいる。
「これは今週の呪文学。こっちが変身術。魔法史は——」
「待って」
ロンが呆れた声を出した。
「入ってきた初日の夕食くらい、勉強を忘れさせてやれよ」
「心配してあげてるの。遅れているんだから」
「心配と、食事中に宿題を増やすのは別だよ」
ハーマイオニーの目が細くなった。
「宿題を増やしているんじゃないわ。追いつくのを手伝っているの」
「どちらも正しいと思います」
悠太が言った。
二人が同時にこちらを見た。
「今夜は食べたい。明日はノートを見せてほしい」
ハーマイオニーは少し考え、羊皮紙を戻した。
「分かったわ。でも、端を折らないで」
「命に代えても」
「そこまでしなくていいわ。きれいに返してくれれば」
冗談だと気づいていないらしい。
悠太がハリーを見ると、ハリーは小さく首を横へ振った。
今は説明しない方がよい、という意味に見えた。
ロンは再び料理を取りながら言った。
「飛べて、基礎呪文もできて、一か月分も読んできたのか。交換留学生って、ずいぶん何でもできるんだな」
声は軽かったが、最後の一言だけが少し硬かった。
悠太はロンを見た。
自慢したつもりはなかった。
けれど、できることだけを並べれば、そう聞こえても仕方がない。
「何でもできるかどうかは、明日になれば分かります」
「どういう意味?」
「動く階段の乗り方を知りません。英国式の発音も、先生が速く話せば半分くらい落とします。それに今、豆だと思って口へ入れたものが、豆なのかも自信がない」
「それは豆だよ」
「一つ解決しました」
ロンの口元が緩んだ。
「城で迷ったら、僕たちも迷うから安心しろ」
「安心できる情報が一つもありません」
「一人じゃないってこと」
ロンはそう言い、最後のソーセージを半分に切った。
片方を自分の皿へ載せ、もう片方を悠太の皿へ置く。
「新入りの分」
「ありがとう」
小さな棘は、完全に消えたわけではない。
それでも、ロンが分けてくれたソーセージは温かかった。
*
食事が進むにつれ、近くにいた生徒たちも次々に声をかけてきた。
最初はネビルだった。
「ネビル・ロングボトム」
水差しを置きながら名乗ろうとして、肘が杯へ当たった。
杯が倒れるより早く、悠太の手が伸びた。
金色の縁を指先で受け止める。
中の水が一滴だけ卓上へこぼれた。
「ご、ごめん」
「謝るのは僕の方です。すいません」
悠太は杯を立て直した。
「勝手に受け止めました」
ネビルが困った顔をしたあと、ふっと笑った。
「君、すごく落ち着いてたね。組分けの時も」
「帽子の中で、逃げ道を探していました」
「本当に?」
「半分は」
「帽子から逃げられるの?」
「残念ながら、出口が見つかる前に寮が決まりました」
ネビルはまた笑った。
「僕は、自分の時、ずっとハッフルパフにしてくれって頼んでたんだ。グリフィンドールなんて無理だと思って」
「でも、帽子はここを選んだ」
「間違えたのかもしれない」
ネビルの声が小さくなる。
悠太は古い帽子が告げた言葉を思い出した。
怖れぬことと、勇気があることは違う。
「あの帽子は、ずいぶん長く働いているようでした」
「うん」
「長年の専門家が決めたなら、少なくとも最初の一か月は信じてもいいんじゃないですか」
「一か月だけ?」
「その先は、ネビルが自分で証明すればいい」
ネビルは答えなかった。
けれど、先ほどより少しだけ背筋を伸ばして水差しを持ち直した。
「それから、僕もユウタでいいです」
「分かった。ユウタ」
今度は何も倒さずに言えた。
その向こうから、黒い髪の少女がそっと身を乗り出した。
「私はパーバティ・パチル。こちらはラベンダー・ブラウンよ」
紹介された少女が、楽しそうに手を振る。
「よろしく」
悠太も二人へ頭を下げた。
「よろしくお願いします」
「そんなに丁寧にしなくてもいいのよ」
パーバティが言った。
「同じ一年生なんだから」
「努力します。今日だけで、礼の回数が多いと二度注意されました」
「二度?」
「三度目は、注意される前に止めました」
パーバティが笑った。
その笑顔につられて、悠太も笑う。
黒い瞳がまっすぐ自分へ向いた途端、パーバティは次に言おうとしていたことを忘れた。
「寮のこと、何か分からなかったら……」
「はい」
「私に聞いて」
横でラベンダーの眉が上がった。
「私たちに、でしょう?」
「そう言ったわ」
「今は“私に”って聞こえたけど」
「聞き間違いよ」
パーバティの頬が赤くなった。
悠太は二人の間で視線を往復させた。
英国の女子同士には、本人たちにしか分からない言葉の省略があるらしい。
「では、二人に聞きます」
そう答えると、ラベンダーはますます面白そうに笑い、パーバティは手元のナプキンをたたみ直した。
「ほらね」
「何が?」
「別に」
分からなかった。
悠太は明日、英会話の勉強時間を増やそうと決めた。
*
やがて大皿の料理が消え、代わりに菓子が並んだ。
林檎のタルト。糖蜜のかかった菓子。器いっぱいのアイスクリーム。見たことのない色のゼリー。
悠太がどれから取るか迷っていると、ロンが糖蜜タルトを勧めた。
「甘い?」
「これは名前どおり甘い」
「ようやく信用できる料理が出ました」
一口食べる。
歯が驚くほど甘かった。
けれど、長旅の疲れた身体には悪くなかった。
教師席の中央で、ダンブルドアが生徒たちを見渡していた。
半月形の眼鏡の向こうの青い目が、一度だけ悠太のところで止まる。
悠太は糖蜜タルトを持ったまま、小さく頭を下げた。
ダンブルドアは、わずかに微笑んだ。
その表情は、駅で出迎えた校長のものだった。
だが悠太が隣のハリーへ向き直ったあと、笑みの奥に別の感情が沈んだ。
かつて同じ席で笑っていた青年は、今はいない。
いるのは、甘すぎる菓子に顔をしかめ、それでももう一口食べている十一歳の少年だった。
失われた時間を返すことはできない。
ならばせめて、今夜得た時間まで、過去の使命だけで埋めてはならない。
ダンブルドアは何も告げず、静かに視線を外した。
長い教師席の端では、スネイプが一度も悠太を見ていないような顔で食事を終えていた。
ただ、その細い指は、空になった杯の脚をいつまでも離さなかった。
*
夕食が終わると、マクゴナガルがグリフィンドールのテーブルへ来た。
「ウィーズリー」
ロンが肩を跳ねさせた。
「僕ですか?」
「あなたではありません。パーシー・ウィーズリー」
少し離れた席から、赤毛の上級生がすぐに立ち上がった。
胸には銀色の監督生章が光っている。
「一年生を塔へ連れて戻りなさい。渡辺君には、寮内の決まりも説明するように」
「はい、先生」
「渡辺君」
悠太も立った。
「あなたの制服と時間割は、寮の部屋へ届けてあります。明朝、授業へ出る前に確認しなさい」
「ありがとうございます」
頭を下げかけて、途中で止める。
マクゴナガルの眉が、ほんのわずかに下がった。
「よろしい」
褒められたのかどうか、判断は難しかった。
「一年生、こっちだ」
パーシーが呼びかけた。
ハリー、ロン、ハーマイオニー、ネビル、パーバティ、ラベンダー、ディーン、シェーマスが席を立つ。
悠太もその最後へ加わった。
赤と金のテーブルを離れる時、誰かが後ろから肩を叩いた。
振り向くと、よく似た赤毛の双子が立っていた。
「フレッド・ウィーズリー」
右側が名乗る。
「ジョージ・ウィーズリー」
左側が続いた。
「逆じゃない?」
ロンが言った。
「弟が兄の名前を忘れた」
「家族として由々しき問題だ」
二人は深刻そうに顔を見合わせた。
悠太はどちらがどちらか分からないまま、二人へ向き直った。
「よろしくお願いします。フレッドとジョージ」
「信じた」
「素直な新入りだ」
「信じてはいません」
悠太が答えると、二人は同時に眉を上げた。
「名前が逆でも、二人とも振り向くと思っただけです」
一拍置いて、双子が笑い出した。
「気に入った」
「日本から面白いやつが来た」
「二人とも!」
先頭からパーシーの厳しい声が飛んだ。
「一年生を遅らせるな!」
「あれがパーシー」
「僕らの兄で、規則を食べて育った」
「聞こえているぞ!」
双子は笑いながら上級生の列へ戻っていった。
悠太はロンの隣へ追いついた。
「兄弟が多いんですね」
「多すぎるんだ」
ロンはそう言ったが、声には少しだけ誇らしさが混じっていた。
*
大広間を出ると、城は急に広くなった。
来る時はダンブルドアの背中だけを追っていた。今は黒いローブの列が、階段を上り、角を曲がり、動く肖像画の間を抜けていく。
「道を覚えるように」
先頭のパーシーが言った。
「階段は百四十二あり、曜日や時間によって行き先を変えるものがある。扉のふりをした壁や、壁のふりをした扉もある。近道のいくつかは——」
「今の説明で、覚えるのを諦めました」
悠太が小声で言うと、隣のハリーが笑った。
「僕もまだ迷うよ」
「先輩への信頼が、早くも揺らいでいます」
「一か月ぶんしかないから」
階段の途中で、先頭の列が止まった。
上へ続いていたはずの階段が、軋みながら横へ動き出したのだ。石段ごとゆっくり回転し、別の踊り場へつながっていく。
悠太は手すりにつかまった。
足元が動く感覚には覚えがない——はずだった。
それなのに身体は、階段が止まる直前に重心を移していた。
揺れをほとんど感じず、一歩目を踏み出す。
後ろでネビルがよろめき、シェーマスが腕をつかんだ。
「慣れてるみたいだな」
ロンが言った。
「日本の階段も動くの?」
「動きません」
悠太は自分の足元を見た。
「少なくとも、僕が見ている時は」
「見てない時は?」
「確認したことがありません」
冗談で答えたが、胸の奥には小さな違和感が残った。
大広間の浮いた床石と同じだった。
考えるより先に、身体が城の動きへ合わせた。
旅の疲れのせいだ。
あるいは、箒で重心を動かすことに慣れているからだろう。
今夜は、偶然にできるだけ多くの仕事を任せるしかなかった。
いくつもの廊下を抜けた先で、一行は丸い穴の前にたどり着いた。
入口を塞いでいるのは扉ではなく、桃色のドレスを着たふくよかな婦人の肖像画だった。
「合言葉は?」
婦人が尋ねる。
「カプート・ドラコニス」
パーシーが答えた。
肖像画が前へ開き、壁の中の通路が現れる。
「合言葉は決して他寮の者へ教えないこと。変更された時は、掲示で確認するように」
悠太は頭の中で繰り返した。
カプート・ドラコニス。
竜の頭。
日本へ置いてきた英単語帳には載っていなかった。
丸い穴をくぐると、火の燃える暖炉と、柔らかな肘掛け椅子が並ぶ部屋へ出た。
赤い絨毯。金色の装飾。壁際の本棚。使い込まれた机。窓の外には、夜の校庭と黒い湖が遠く見えている。
大広間より小さく、駅舎より温かかった。
「ここがグリフィンドールの談話室だ」
パーシーが胸を張った。
「男子寮は左、女子寮は右。学年ごとに部屋が分かれている。消灯後に他の階を歩き回らないこと。暖炉へ危険物を入れないこと。肖像画に無礼な言葉を——」
「パーシー、全部今夜言ったら、明日から話すことがなくなるよ」
ロンが言った。
「必要な決まりだ」
「僕、もう半分忘れた」
「ウィーズリー!」
「だから、どっちの?」
談話室に笑いが起きた。
パーシーの耳が赤くなる。
「明日の朝、時間割を必ず確認すること。朝食に遅れないように」
最後だけ早口で言い、上級生たちの方へ去っていった。
その途端、一年生の周りへ何人かが集まった。
交換留学生を近くで見ようと待っていたらしい。
日本の魔法使いは刀でも魔法を使うのか。東洋のドラゴンは翼がないのか。マホウトコロの校舎は本当に海の上からしか見えないのか。質問があちこちから飛んでくる。
悠太は分かるものへは答え、知らないものには知らないと言った。
「刀で魔法を使うっていうのは?」
上級生の一人に聞かれ、悠太はローブの内側にある杖へ触れた。
「そういう術者もいるとは聞いています。でも全員ではありません。少なくとも、僕が使うのは杖です」
そう答えると、なぜか右手が柄の長さを確かめるように動きかけた。
悠太は指を閉じ、何気ないふりで手を下ろした。
「日本の魔法使いが全員、刀を振り回していたら危ないでしょう」
周りから笑いが起きる。
疑問を持った者はいないようだった。
ただ、暖炉の炎を見つめた瞬間、悠太の耳の奥で金属音がした。
組分け帽子の中で聞いた、鞘から何かが抜かれる音。
すぐに消えた。
「悠太」
呼ばれて振り返る。
パーバティが、二枚の羊皮紙を持って立っていた。
「これ、談話室と教室の簡単な地図。私も最初の週に作ったの」
線はいくつも曲がり、階段の横には小さく注意書きがある。
月曜は西。雨の日は二階へ。肖像画が眠っていたら別の道。
「城の地図というより、生き物の飼い方に見えます」
「そのくらいでちょうどいいのよ」
「借りても?」
「あなたのために写したの。持っていて」
悠太は驚いて顔を上げた。
「いつの間に?」
「食事が終わる前に、少しだけ」
実際には、パーバティは大広間を出る直前まで地図の一枚を慌てて写していた。文字がいつもより右へ傾いている。
「助かります。ありがとう、パーバティ」
名を呼ばれ、パーバティは一瞬返事を忘れた。
「どういたしまして」
それだけ言うと、ラベンダーの腕を引いて女子寮の階段へ向かった。
「急にどうしたの?」
「眠いの」
「さっきまで全然——」
二人の声が階段の上へ消えていく。
悠太は地図を見下ろした。
同じ寮になったばかりの相手へ、ここまでしてくれる。親切な少女なのだろう。
そう結論づけ、大切に折りたたんだ。
暖炉のそばで見ていたハーマイオニーが、何か言いたそうに口を開き、結局閉じた。
「明日の朝、ノートを渡すわ」
「はい。端は折りません」
「地図は折ったのに?」
「これは最初から、折りたたむための大きさです」
ハーマイオニーは地図と悠太を見比べた。
「そうね」
なぜか少しだけ納得していない顔で、女子寮へ上がっていった。
*
一年生男子の寝室には、六つの天蓋付きベッドが並んでいた。
ハリー、ロン、ネビル、ディーン、シェーマスが使ってきた五つに加え、窓に近い場所へ新しいベッドが一つ増えている。
深紅のカーテン。白い枕。赤と金の刺繍が入った掛け布団。
その足元には、駅から運ばれた悠太のトランクが置かれていた。
「昼には、そこは壁だった気がする」
ディーン・トーマスが言った。
背の高い少年で、ベッド脇の台にはマグルのサッカーチームの写真が飾られている。
「城が部屋を広げたんだろ」
シェーマス・フィネガンが、新しい壁を拳で軽く叩いた。
「たぶん、爆発はしない」
「“たぶん”をつける必要があるんですか」
「僕が魔法を使わなければ大丈夫」
「それは、覚えておきます」
ディーンが笑い、改めて手を差し出した。
「ディーン」
「悠太です」
握手を交わす。
「シェーマス」
隣から手が伸びる。
「ネビルとは、さっき話したよな」
ロンが言った。
「僕だけ紹介係の仕事がない」
「では、ハリーを紹介してください。まだ“雷は出せない”ことしか知りません」
「こいつはハリー。寝る時は眼鏡を外す」
「重要な情報をありがとう」
「それから、朝は髪がもっとひどい」
「ロン」
ハリーが枕を投げた。
ロンが避け、枕はシェーマスの顔へ当たった。
「なぜ僕に?」
今度はシェーマスが投げ返す。
枕はロンではなく、ベッド柱へぶつかって落ちた。
ネビルが拾おうとして自分の靴につまずき、ディーンが腕を支える。
六人分の笑い声が、丸い部屋へ広がった。
悠太は、自分も笑っていることに少し遅れて気づいた。
トランクの上には、制服がきれいに畳まれていた。
黒一色だったネクタイは、深紅と金の縞へ替わっている。ローブの胸には、獅子の寮章が縫いつけられていた。その上に、翌日の時間割が載っている。
悠太は赤と金のネクタイを持ち上げた。
ほんの数時間前まで、自分にはどの色もなかった。
今は一つ、選ばれている。
「似合うと思うよ」
ハリーが言った。
「まだ着けていません」
「黒よりは」
「それなら、かなり広い意味で褒められていますね」
ネクタイを枕元へ置く。
見慣れない色なのに、不思議と落ち着いた。
「明日は何から?」
ロンが時間割を覗き込む。
「変身術。次が呪文学。そのあと魔法史です」
「最初からマクゴナガルか。遅刻するなよ」
「道案内をお願いします、一か月先輩」
「任せろ」
「ロンもよく迷うよ」
ハリーが言った。
「それは余計だ」
「パーバティの地図もあります」
「なら、地図を信じた方がいい」
ロンはあっさり前言を撤回した。
*
やがて灯りが消え、深紅のカーテンが閉じられた。
長い一日だった。
島根を出た朝が、何日も前のことに思える。
悠太は仰向けになり、天蓋の暗い布を見つめた。
初めて横になるベッドだった。
初めて見る天井だった。
それなのに、どの角度へ顔を向ければ窓から月明かりが差すのか、知っているような気がした。
右を向く。
カーテンの隙間から、細い銀色の光が枕元へ落ちていた。
胸の奥が、また痛んだ。
向かいのベッドから、小さな声がした。
「起きてる?」
ハリーだった。
「はい」
「今は先生じゃないんだから、“はい”じゃなくてもいいよ」
「では、起きてる」
暗闇の向こうで、ハリーが笑った気配がした。
「今日、本当に怖くなかった?」
「何が?」
「全員の前に、一人で入ってくるの」
悠太は少し考えた。
「怖かった」
「そう見えなかった」
「見えないように、列車の窓で練習しました」
「練習?」
「落ち着いている顔の」
ハリーが声を立てないように笑った。
「それも練習するんだ」
「できないことは、練習するしかありません」
少しの沈黙が落ちた。
隣ではロンが、すでに小さないびきをかいている。ネビルの寝返りでベッドが軋み、窓の外から遠い風の音が聞こえた。
「僕も、最初の日は怖かった」
ハリーが言った。
「帽子が何を言うか分からなかったし、自分だけ、どこにも入れないような気がした」
「僕は、どの寮を望めばいいのかも分からなかった」
「それで、グリフィンドールはどう?」
悠太は、今日一日を思い返した。
石段を教えてくれたハリー。
最後のソーセージを半分にしたロン。
明日ノートを貸すと約束したハーマイオニー。
杯を倒して笑ったネビル。
地図を写してくれたパーバティ。
名前を入れ替えた双子と、六人分に広がった寝室。
「まだ、数時間しかいません」
「うん」
「でも、悪くないと思う」
「僕も」
それきり、ハリーの声はしなくなった。
悠太も目を閉じた。
眠りは、すぐに訪れた。
*
誰かが笑っていた。
赤い布のかかった、丸い部屋。
今夜の談話室に似ている。だが暖炉の前にいる生徒たちは、今夜会った誰とも違った。
四人の少年がいる。
一人は、ひどく乱れた黒髪。
一人は、肩へかかる黒髪。
一人は、穏やかな色の髪をして、本を膝に置いている。
もう一人は、小柄な身体で、三人の話を追うように目を動かしていた。
顔は見えない。
蝋燭の光が届くはずなのに、輪郭の内側だけが薄い霧に覆われている。
それでも悠太には、誰が次に何を言うのか分かるような気がした。
乱れた黒髪の少年が、椅子の背へ腕をかける。
長い黒髪の少年が笑う。
本を持った少年が呆れたように首を振る。
小柄な少年が少し遅れて笑い声を重ねる。
懐かしかった。
胸が苦しくなるほど、懐かしかった。
その輪の向こうに、赤毛の少女が立っていた。
炎の色を映した長い髪。
彼女がこちらを振り向く。
横顔が見える直前、暖炉の火が大きく揺れた。
赤い光が、すべてを呑み込んだ。
笑い声が消える。
あとに残ったのは、誰かを呼ぼうとする自分の声だけだった。
けれど、名前が出てこない。
一人も。
*
悠太は暗闇の中で目を覚ました。
胸が速く上下していた。
男子寮は静かだった。暖炉も、四人の少年も、赤毛の少女もいない。深紅のカーテンの向こうから、同級生たちの寝息だけが聞こえる。
夢だ。
長旅と、知らない城と、大勢の顔が混ざっただけの夢。
そう思おうとした。
だが頬へ手を当てると、指先が濡れた。
誰の顔も知らない。
誰の名も思い出せない。
失ったものなど、何もないはずだった。
それなのに悠太は、二度と戻らない時間を見送った者のように泣いていた。
枕元には、赤と金のネクタイが置かれている。
悠太は暗闇の中でそれへ触れた。
夢の中の赤い部屋と、今いる赤い部屋。
過去なのか、ただの想像なのかは分からない。
けれど布の感触は確かだった。
今夜、自分のために空けられた席も。
分けてもらった食事も。
暗闇の向こうで眠っている五人の同級生も。
悠太はネクタイから手を離し、もう一度目を閉じた。
知らない笑い声は戻ってこなかった。
それでも夜が明ければ、赤と金の色を身につけて、今度は自分の足でこの城を歩くことになる。
グリフィンドールの新入りとして。