ハリー・ポッターと東洋の魔剣士 作:キャン
朝、悠太が最初に見たのは、赤と金のネクタイだった。
枕元へ置いた時と同じ形で、まだ薄暗い光の中に横たわっている。
夢の中にいた四人の少年も、赤毛の少女もいなかった。
名前を呼べなかった自分の声さえ、目を開けた途端に遠ざかっていた。
残っているのは、泣いたあとの重い瞼と、胸の奥に沈んだ理由のない寂しさだけだった。
悠太は天蓋を見上げた。
初めての朝だった。
その言葉を、心の中でもう一度繰り返す。
初めての城。初めての寮。初めての寝室。
昨日会ったばかりの同級生たち。
夢は、長い移動と慣れない場所に疲れた頭が見せたものだ。そう考えれば説明はつく。
説明がつかないのは、目が覚めた時に頬が濡れていたことだけだった。
けれど、夢のために泣くことくらい、十一歳にもあるのかもしれない。
悠太はそれ以上考えるのをやめ、音を立てないように起き上がった。
丸い寝室には、五人分の寝息が残っていた。
ロンは掛け布団の半分を床へ落とし、ネビルは枕を抱えている。ディーンのカーテンの隙間からは片足だけが出ていた。シェーマスは眠ったまま何かを呟き、ハリーの枕元には丸眼鏡が畳んで置かれている。
昨夜まで、自分のいない部屋だった。
今は窓際に六つ目のベッドがある。
その事実を確かめるように、悠太は足元へ下りた。
制服の白いシャツへ袖を通し、黒いズボンを穿く。ローブは問題なかった。マホウトコロの制服と形は違っても、羽織ればよいことに変わりはない。
問題は、ネクタイだった。
細い方をどちらへ回し、どこから通せば、見本のような結び目になるのか。
昨夜、畳まれていた時には気づかなかった。
悠太は鏡の前で一度結んだ。
結び目が、喉の横へ来た。
ほどいて、もう一度試す。
今度は深紅と金の縞が裏返った。
三度目には、結び目そのものが途中で消えた。
「何と戦ってるの?」
背後から声がした。
ハリーがベッドのカーテンを開け、眼鏡をかけている。黒髪は、ロンが予告したとおり昨夜よりひどい方向を向いていた。
「英国の布です」
悠太は首から下がったネクタイを見せた。
「こちらの魔法抵抗力が予想以上に高い」
ハリーは目を細めた。
「魔法はかかってないと思う」
「それなら、僕の負けです」
ハリーは笑いながら近づいた。
「貸して。前の学校でも着けてたから」
「できるんですか」
「雷は出せないけど、ネクタイなら」
昨日の冗談を返され、悠太は少し驚いてから笑った。
ハリーは自分のネクタイを手早く結び、悠太のものを指で示した。
「太い方をこっちへ回して、その輪の下から通すんだ」
見ようとすると、鏡の中では左右が反対になる。
悠太は一度間違え、もう一度やり直した。
「そう。それで前から抜く」
「できました」
形は少し不格好だったが、少なくとも喉の正面に結び目がある。
「昨日より、グリフィンドールらしく見える」
「ネクタイ一本で寮生になれるなら、帽子もずいぶん長く考えましたね」
「何をそんなに話してたの?」
ハリーが尋ねた。
悠太の指が、結び目の上で止まった。
四つの寮のことなら話せる。
だが、心の奥で帽子が見つけたものについては、自分にも説明できなかった。
十一歳では説明できない深さ。
答えの出ぬものを、無理に暴きはしない。
言葉にすれば、昨夜の夢まで現実の謎へつながってしまいそうだった。
「候補が多かったそうです」
「候補?」
「四つとも」
「全部?」
ハリーの声で、向かいのベッドからロンが起き上がった。
赤い髪が片側だけ潰れている。
「何が全部?」
「ユウタの組分け。四つの寮、全部が候補だったんだって」
ロンは眠そうな顔のまま、悠太を見た。
「それであんなに時間がかかったのか。僕は、帽子の中で日本語の辞書を探してるんだと思ってた」
「帽子は言葉に困っていませんでした。僕の冗談には困っていたかもしれませんが」
「帽子にも言ったの?」
「少し」
「何て?」
「秘密です」
「そこまで言ったなら教えろよ」
「ロン」
ハリーが、悠太ではなくロンを見た。
ほんの小さな動きだった。
自分も帽子の中で、誰にも話していない言葉を聞いたことがある者の顔だった。
ロンは二人を見比べ、肩をすくめた。
「分かったよ。帽子と二人だけの秘密なんだな」
「三人です」
「誰が増えたんだ?」
「僕の頭です」
「朝から面倒な数え方をするなよ」
ロンはあくびをし、床の掛け布団へ足を取られた。
ベッド柱へつかまって倒れるのを免れる。
「まず、服を着た方がいい」
ハリーが言った。
「分かってる」
「今のところ、靴下しか履けてないよ」
「それも二つともだ」
悠太は窓の外を見た。
湖の上には薄い霧が浮かび、遠くの山の輪郭が朝の光に滲んでいる。
胸の中に残っていた夢の赤い炎が、少しだけ遠くなった。
今ここにいるのは、名前の分からない少年たちではない。
ネクタイを教えてくれたハリーと、靴下だけで威張っているロンだった。
*
談話室へ下りると、ハーマイオニーが暖炉の前で待っていた。
膝の上には、昨夜見せかけた羊皮紙が教科ごとに揃えられている。
悠太を見るなり立ち上がった。
「遅いわ」
「おはようございます」
「おはよう。朝食が始まってから、もう十分たってるの」
「ネクタイの入寮試験に時間がかかりました」
ハーマイオニーは悠太の首元を見た。
「少し曲がってる」
「合格点は?」
「まだ」
細い指が伸びたが、触れる直前で止まる。
「自分で直して。そこを左へ少し」
悠太が結び目を動かす。
「反対」
「鏡がないと、さらに難しいですね」
「これでいいわ」
ハーマイオニーは満足そうに頷き、羊皮紙の束を差し出した。
「約束した一か月分のノート。上から変身術、呪文学、魔法史。魔法薬学は別にしてあるわ。濡らさないで。端を折らないで。書き込みもしないで」
「読み終わったら、同じ順番で返します」
「それと、分からないところへ小さな紙を挟んで。直接書かないで」
「命に代えても」
「だから、そこまでしなくていいって昨日言ったでしょう」
ハリーが横で笑った。
ハーマイオニーは一瞬だけ怪訝な顔をし、それからようやく冗談だと気づいたらしい。
「毎回それを言うつもり?」
「通じるまで続けようかと」
「今、通じたから終わりにして。それと言葉の使い方が丁寧すぎるから、もっとフランクにした方がいいと思うわ」
「努力しま、あ、、、するね」
言葉は厳しかったが、ハーマイオニーの口元がほんの少し緩んでいた。
「ユウタ」
女子寮の階段から、パーバティが下りてきた。
ラベンダーも一緒だった。
「地図、見た?」
「はい、あ、、、うん。今日の階段が東へ動くところまで」
「金曜日の朝だけよ。お昼には戻るから気をつけて」
「階段にも時間割があるんだね」
「でも、守らないこともあるわ」
「時間割の意味は?」
「だいたい合ってる、という安心」
パーバティが笑った。
昨夜より自然に名を呼ばれたことが、悠太にはありがたかった。
ラベンダーは二人を交互に見ている。
「地図を一晩、枕の下へ入れてたのよ」
「入れてないわ」
「じゃあ、どうして朝一番に確認したの?」
「ちゃんと使えたか心配だっただけ」
「優しいんだね」
悠太が言うと、パーバティは急に地図の説明へ戻った。
「と、とにかく、四階の騎士の絵を右だから。左へ行くと音楽室よ」
「覚えたよ。ありがとう」
パーバティは頷き、先に肖像画の穴をくぐった。
そのあとをラベンダーが追いながら、何かを耳元で囁く。
パーバティの歩く速さが少し上がった。
悠太には、また聞き取れなかった。
「行きましょう」
ハーマイオニーが言った。
「このままだと、本当に遅れるわ」
ロンがようやく男子寮から駆け下りてきた。
ネクタイは曲がり、ローブの留め具が一つ外れている。
「待ってくれ!」
「十分待ったわ」
「僕は悠太みたいに、夜明け前から制服と戦ってないんだ」
「勝ったようには見えないけど」
悠太が言うと、ロンは自分のネクタイを見下ろした。
「これはわざとだよ」
「では、英国の流行として覚えておくよ」
*
朝の大広間は、昨夜とは違う音で満ちていた。
皿と杯が触れる音。授業の予定を確かめる声。眠そうな生徒のあくび。四つの長いテーブルの上では、焼いたパン、卵、粥、腎臓料理、黄金色のかぼちゃジュースが湯気を立てている。
そして天井近くには、何十羽ものフクロウがいた。
悠太は入口で止まった。
昨夜、一羽が頭上を横切っただけでも不意打ちだった。
今朝は、不意打ちが群れになって旋回している。
「毎朝?」
悠太が尋ねた。
「郵便の時間だから」
ハリーは何でもないことのように答えた。
「あれが全部、下りてくるのか……」
「たぶん」
「先に教えてよ」
「今、教えたよ」
「いや、下りてくる前にってことだよ」
ロンは笑いをこらえながら、グリフィンドールの席へ向かった。
「大丈夫だ。手紙を落とすだけで、人は食べない」
「そういう問題じゃない」
悠太はできるだけ天井を見ないように席へ着いた。
ハリーが右、ロンが向かいに座る。ハーマイオニーは一つ空けた正面の席へノートを置いた。
パーバティが近くへ座ろうとした時、青と青銅のネクタイを着けた少女がレイブンクローのテーブルからやってきた。
パーバティとよく似た顔立ちをしている。
「ユウタ、妹のパドマ」
「パドマ・パチルよ。よろしく」
「こちらこそ。パドマ。ユウタ・ワタナベだよ。よろしく」
悠太が頭を下げると、パドマも軽く返した。
「昨日、帽子がずいぶん長くかかったでしょう。レイブンクローでも話題になってるの」
「朝食の前に、それを聞きに来たの?」
パーバティが眉を寄せた。
「あなたが地図を二枚も写した理由を聞きに来たわけじゃないわ」
「一枚よ」
「元の地図と、渡した地図で二枚でしょう」
ラベンダーが笑いを噛み殺した。
悠太は姉妹の間へ入らない方がよいと判断し、焼いたパンを一枚取った。
「四つの寮が候補だったらしいよ」
ハリーが代わりに答えた。
パドマの目が輝いた。
同時に、ハーマイオニーも身を乗り出した。
「本当に全部?」
「帽子はそう言ってた」
「何を見て?」
ハーマイオニーが尋ねる。
「勇気。知性。勤勉と誠実。それから、野心と戦略性」
「それなら、どうしてグリフィンドールだったの?」
パドマの質問は、純粋な興味から出たものだった。
だがパーバティが、少しだけ心配そうに悠太を見る。
もし彼が別の寮を望んでいたなら、と考えたらしい。
悠太は昨夜、帽子から置かれた問いを思い出した。
「危険が来た時、どう動くか考えさせられた」
「それで?」
「動けない人を先に逃がして、自分は最後に行く、と」
ロンが腎臓料理を取る手を止めた。
「そんなこと、本当にするの?」
「う〜ん……。帽子の中で考えただけだから何とも」
「考えるだけでも、ずいぶん疲れそうだ」
「僕もそう思います」
悠太はパンへバターを塗った。
「でも、何も考える前に、そうしてた。だから帽子は、それが一番強いと思ったんじゃないかな」
「勇気ね」
ハーマイオニーが納得したように言う。
「自己犠牲とも言ってた」
「それは、いつも良いこととは限らないわ」
すぐに返ってきた言葉に、悠太は顔を上げた。
「どうして?」
「自分を最後にすることだけが正しいなら、全員が最後に残ろうとして、誰も逃げられなくなるでしょう」
ロンが顔をしかめた。
「朝食の話とは思えないな」
「帽子の話よ」
「帽子は朝食を食べない」
「関係ないでしょう」
悠太はハーマイオニーの言葉を考えた。
帽子は、自己を差し出す覚悟を褒めた。
けれど、ハーマイオニーの言うことも正しい。
誰かを守るために残る者が二人いれば、どちらが先に逃げるかで争うことになる。
「なら、その時は順番を決める人が必要になる」
「それが戦略性じゃない?」
パドマが言った。
「スリザリンの資質も使うことになるわ」
「勇気だけでは足りない、ということか」
「どの資質だって、一つだけでは足りないと思う」
パドマは自分の青いネクタイへ触れた。
「レイブンクローだからって、勇気がなくていいわけじゃないもの」
「グリフィンドールだからって、勉強しなくていいわけでもないわ」
ハーマイオニーが言い、ロンを見た。
「どうして僕を見るんだよ」
「別に」
「今、絶対に理由があった」
ハリーが笑った。
悠太も笑いかけた時、頭上で羽音が大きくなった。
郵便の群れが降りてくる。
手紙。新聞。細長い包み。小さな箱。
何十もの荷物が、それぞれの宛先へ落ちていく。
悠太は椅子の背を引いた。
「来たよ」
ハリーが親切に告げた。
「見れば分かる」
大きな茶色のフクロウが、グリフィンドールのテーブルへ急降下した。
悠太は反射的に身を伏せる。
手に持っていたパンが飛び、ロンの皿へ着地した。
「僕の朝食が増えた」
「あげる」
フクロウは悠太の前へ厚い封筒を落とし、翼を一度大きく広げた。
風でハーマイオニーの羊皮紙がめくれる。
悠太はさらに椅子を引いた。
フクロウは黒い目で彼を見た。
悠太も見返した。
数秒の沈黙のあと、フクロウが嘴を鳴らす。
「何か怒ってない?」
「餌を待ってるんじゃない?」
パーバティが言った。
ロンが悠太の皿からベーコンを一切れ取り、フクロウへ差し出した。
鳥は素早く咥えると、何事もなかったように飛び去った。
悠太は姿が天井近くへ戻るまで見送った。
「怖くないんじゃなかった?」
ロンが尋ねる。
「怖いわけではないよ」
「今、机の下へ入るところだったよ」
「英国の郵便制度に敬意を表して、道を譲っただけ」
「ずいぶん広く譲るんだな」
ハリーが笑っている。
パドマまで口元を隠していた。
昨夜と同じだった。
珍しい留学生を見る笑いではない。
大きな鳥が来るたびに言い訳を増やす同級生を見る笑いだった。
悠太も椅子を戻し、封筒を取った。
表には日本語で、渡辺悠太殿。裏には、日本魔法省教育局国際教育課の赤い印がある。
中身は無事な到着を確認したという通知と、英国式課程の補習予定、それから緊急時の連絡方法だった。
三枚の羊皮紙は、細い赤い組紐で一つにまとめられている。
どの文字も整い、用件は明確で、間違いはない。
ただ、そこに悠太の朝を尋ねる言葉は一つもなかった。
当然だった。
役所からの手紙なのだから。
悠太は丁寧に折り直した。
ハリーの前にも、手紙は落ちていなかった。
周りでは家から届いた包みを開ける生徒がいる。母親からの注意書きを読み上げられ、嫌そうな顔をする者もいた。
ハリーはそれを少し眺めたあと、かぼちゃジュースを飲んだ。
二人とも何も言わなかった。
けれど、言わないまま同じ卓上へ視線を戻したことを、悠太は覚えていた。
「つまり」
ロンが、悠太のパンを食べ終えてから言った。
「四つの寮の資質があっても、大きな鳥には勝てないわけだ」
「帽子は五つ目の資質を見落としました」
「何?」
「鳥恐怖症」
今度はパーバティが、声を立てて笑った。
*
変身術の教室へ着いた時、鐘が鳴るまで二分しか残っていなかった。
パーバティの地図は正しかった。
ただし、金曜日に東へ動くはずの階段が、今朝に限って途中で止まっていた。
「守らないこともあるって言ったでしょう」
パーバティは悪びれずに言った。
「地図の注意書きが正確でした」
「だから使えるのよ」
途中、ネビルが羽根ペンを談話室へ忘れたことに気づき、戻ろうとした。
ロンは、一本くらい誰かに借りればいいと言った。ハーマイオニーは、予備を持つべきだと言いながら自分の鞄を探した。
悠太が日本から持ってきた一本を渡すと、ネビルは何度も礼を言った。
「返すのは、今日の授業が全部終わってからでいいから」
「でも、君が使う分は?」
「もう一本あるから大丈夫」
「二本も持ってるの?」
「三本ある」
ロンが呆れた。
「ハーマイオニーが二人になった」
「予備は必要でしょう」
本人が後ろから言った。
「ほら」
「一人で十分だよ」
教室の扉は、最後の一言と同時に閉まりかけた。
六人は急いで滑り込み、指定された席へ着いた。
教壇にはミネルバ・マクゴナガルが立っている。
深緑のローブ。きっちりと結い上げた髪。四角い眼鏡の向こうの目は、遅刻しなかったことを褒めるつもりがまったくないように見えた。
「席へ」
全員が急いで座った。
「鐘が鳴る前であれば遅刻ではありません。しかし、扉に挟まれながら入室することを、時間厳守とは呼びません」
ロンがローブの裾を扉から引き抜いた。
「はい、先生」
「返事は結構。次は行動で示しなさい」
マクゴナガルの視線が悠太へ移った。
「ミスター・ワタナベ」
「はい」
「本日から、あなたも同じ課程へ加わります。一か月の遅れは、事情としては考慮しますが、言い訳としては考慮しません」
「分かりました」
「結構」
彼女は杖を一振りした。
教卓の上にあった木の箱が開き、細いマッチ棒が一人につき三本ずつ机へ飛んでくる。
悠太の前にも三本が並んだ。
「今日も、マッチ棒から針への変身を続けます。外見だけを銀色にするのではありません。木材という性質、燃焼する用途、脆さ、繊維の向きまで変える必要があります」
マクゴナガルは教室を見渡した。
「先週までに針を作れた者は、細さと針穴の精度を上げなさい。まだ完全な変身に至っていない者は、どこまで変化させたかを自分で説明できるように」
ハーマイオニーはすでに杖を構えている。
ロンはマッチ棒を指で転がし、ハリーは教科書の該当頁を開いた。
悠太も縄文杉の杖を取り出した。
黒褐色の木肌が、朝の光を鈍く返す。
杖を握った瞬間、右手の小指と薬指が先に締まった。
親指は、杖の上ではなく脇へ沿う。
細い木を持つには、少し深すぎる握り方だった。
「ミスター・ワタナベ」
教壇から声が飛ぶ。
「それは杖です。柄ではありません」
悠太は自分の手を見た。
「失礼しました」
握りを浅く直す。
教室の何人かがこちらを見た。
マクゴナガルは、すぐに授業へ視線を戻した。
だが胸の内では、今の指の形が消えていなかった。
杖を短い刀のように構え、術式を組み立てる癖。
かつて教室の最前列で、同じ注意を何度しても直さなかった生徒がいた。
顔立ちも年齢も違う。
そもそも、その生徒はもう戻らない。
同じ国で剣術を学んだ者なら、似ることもあるのだろう。
マクゴナガルはそう結論づけ、感情を授業の外へ締め出した。
悠太は何も知らず、マッチ棒を観察していた。
形を変える。
材質を変える。
用途を変える。
三つを同時に思い描こうとすると、像がぼやける。
日本で読んだ変身術の教本は、対象の「在り方」を一つのまとまりとして捉えるように書かれていた。英国の教科書は、変化させる性質を分け、それぞれを正確に指定する。
どちらが正しいのか。
あるいは、見ている方向が違うだけなのか。
悠太は教科書の図を確かめ、杖を動かした。
マッチ棒の表面を、銀色が走った。
両端が細く伸び、机の上に一本の針らしいものが現れる。
「できた」
隣のハリーが小声で言った。
だが悠太は答えなかった。
銀色の針を指で持ち上げる。
軽すぎた。
少し力を入れると、中央から折れた。
中には木の繊維が残っている。
「外側だけですね」
「でも、僕のより針に見えるよ」
ハリーのマッチ棒は、先端だけが灰色に変わっていた。
「見えることと、変わっていることは違います」
悠太は折れた二片を並べた。
マクゴナガルが机の間を歩いてくる。
「そのとおりです、ミスター・ワタナベ。変身術は飾りつけではありません」
折れた断面を杖先で示す。
「外観へ意識を向けすぎています。対象の内部まで像を維持しなさい」
「はい、先生」
「ポッターは、色の変化に頼らないこと。まず形を安定させなさい」
「はい」
マクゴナガルは次の机へ進んだ。
悠太は二本目を前へ置いた。
今度は銀色を思い浮かべなかった。
硬さ。重さ。曲がりにくさ。細くても折れない金属の密度。
杖を振る。
マッチ棒は短く縮み、机へ重い音を立てた。
色は茶色のままだった。
持ち上げると、金属の重さがある。
「木に見える金属?」
ハリーが首を傾げる。
「結果だけ見たらそういうことになる」
「針から遠ざかったようにも見えるけど」
「気のせいだよ」
前の席では、ハーマイオニーのマッチ棒が細い銀の針へ変わっていた。
真っすぐで、先端も鋭い。針穴だけが、まだ少し楕円に歪んでいる。
マクゴナガルが持ち上げ、光へかざした。
「よくできています、グレンジャー。針穴の内側に木目が残っていますが、変身はほぼ完全です。グリフィンドールに五点」
ハーマイオニーの頬が輝いた。
悠太は素直に拍手をした。
「アイツ、調子に乗るぞ」
「でも凄く上手くできてるから、凄いよ」
ハーマイオニーがこちらを見た。
褒められると思っていなかったのか、一瞬だけ目を丸くした。
「あなたの二本目も、考え方は悪くないわ」
「見た目はマッチ棒ですが」
「内部から変えようとしたんでしょう。次に形を——」
ハーマイオニーは言いかけて、口を閉じた。
「ん?どうした?」
「自分で考えたいんじゃない?」
「助言を断って失敗するほど、競争心は強くないから」
「なら、材質と形を別々に考えたあと、最後の瞬間に一つの像へ重ねて。最初から全部を同時に保とうとすると、焦点が散るの」
「ありがとう。やってみま、、、やってみる」
悠太は三本目を置いた。
金属の内部。
細い形。
布を通り抜ける鋭い先端。
糸を通す小さな穴。
一つずつ像を作り、最後に重ねる。
杖を動かした。
マッチ棒が縮み、銀色へ変わる。
今度は木目がない。
先端も尖っている。
ただし、長さは縫い針の半分ほどしかなく、針穴は開いていなかった。
「小さい」
ロンが言った。
「聞こえてるよ〜」
「針穴もない」
「分かってる」
マクゴナガルが戻ってきた。
短い針を指先で転がし、机へ置く。
「完全ではありません。しかし、表面だけを変えた最初の試みより、はるかに良い」
「ありがとうございます」
「礼を言う前に、次は自力で同じところまで到達しなさい。偶然でないことを示す必要があります」
「はい、先生」
「それから、グレンジャーの助言を受けたことは正しい判断です。教室で他者から学ぶことは、敗北ではありません」
ハーマイオニーの背筋が、さらに少し伸びた。
マクゴナガルはネビルの机へ移った。
彼のマッチ棒は、片側だけ針のように尖り、反対側は黒く焦げている。
「ロングボトム。燃焼させる必要はありません」
「すみません」
「謝罪で変身は進みません。何を変えるつもりだったか、もう一度整理しなさい」
ネビルの耳が赤くなる。
マクゴナガルが離れたあと、彼は焦げたマッチ棒を見つめたまま動かなかった。
「先は変わっています」
悠太が小声で言った。
「でも、半分は失敗だよ」
「半分は、前より針に近い」
「君は三本目でそこまでできたのに」
「僕の一本目は、中身が木のままで折れた」
折れた二片を見せる。
「それに二本目は、針のふりをやめたマッチ棒だった」
ネビルは茶色い金属の棒を見て、少し笑った。
「本当だ」
「だから、先が変わったなら、その部分で何をしたか覚えておけばいいと思うよ」
ネビルの杖が何をしたのか正確には分からない。
ただ、失敗したものの中に、前より進んだところがある。それは本当だった。
ネビルは焦げていない二本目を前へ置いた。
今度は先端だけを見つめ、ゆっくり杖を動かした。
鐘が鳴る直前、その先に銀色の小さな点が生まれた。
針には遠い。
けれどネビルは、先ほどより明るい顔でそれを見た。
*
「ミスター・ワタナベは残りなさい」
授業が終わると、マクゴナガルが言った。
ロンが同情するような目を向けた。
ハリーは扉の外で待とうとしたが、ハーマイオニーに次の教室まで時間がないと引かれていった。
悠太は短い針と折れた失敗作を机の上へ残し、教壇の前に立った。
「何か問題がありましたか」
「問題があるかどうかを確認するために呼びました」
マクゴナガルは教室の扉が閉じたことを確かめた。
「あなたは剣術を学んでいるそうですね」
「マホウトコロで授業があるので」
「先ほどの握り方は、その癖ですか」
悠太は杖を取り出し、指の位置を確かめた。
「たぶん。自分では気づきませんでした」
「呪文を使う時、いつも同じ握り方を?」
「いいえ。少なくとも、そう教わってはいません」
「では、直しなさい」
「はい」
「ただし、忘れろとは言っていません」
悠太は顔を上げた。
マクゴナガルの口調は変わらず厳しい。
「剣術で身につけた集中や姿勢まで捨てる必要はありません。英国式の杖へ、別の道具の癖を無意識に持ち込むなと言っているのです。何を残し、何を変えるか、自分で区別しなさい」
「分かりました」
「本当に?」
「今度は、返事だけでなく行動で示します」
朝の言葉をそのまま返すと、マクゴナガルの片方の眉がわずかに上がった。
「結構」
叱られたのか、少し評価されたのか。
やはり判断は難しかった。
悠太は机へ戻り、三本の結果を片づけようとした。
「先生。僕からも質問があります」
「何です」
「組分け帽子は、僕に四つの寮すべての資質があると言いました」
マクゴナガルの手が止まった。
昨夜の長い沈黙。
帽子の下で、見えない柄へ伸びた右手。
今朝、教室で同じ形を作った指。
「それを、なぜ私へ?」
「四つに向いているなら、どこにも向いていないのと同じではないかと思って」
自分で口にしてから、悠太は考えすぎかもしれないと思った。
だがマクゴナガルは笑わなかった。
「帽子があなたを四つの寮に不適格だと考えたのなら、四つの資質を見いだしたとは言わないでしょう」
「では、四つあってもいいんですか」
「寮は、生徒の人格を四等分するための箱ではありません」
彼女は教壇から下り、悠太の机に残った三つの失敗作を見た。
「レイブンクロー以外の生徒が考えることを禁じられているわけではない。ハッフルパフ以外の生徒が努力を免除されるわけでも、スリザリン以外の生徒が目標を持たないわけでもありません」
「グリフィンドール以外の生徒にも、勇気はある」
「当然です」
答えは即座だった。
「組分け帽子は、あなたがどこで成長するか、何を重んじるかを見ます。あなたの中から、ほかの資質を取り上げるわけではありません」
悠太は短い銀の針を見下ろした。
考え、繰り返し、やり方を変え、誰かの助言を受けた。
今朝使ったものが、どの寮の資質だったのか、一つには決められない。
「野心も、悪いものではないんですか」
「何を望み、そのために何をしてよいと考えるかによります」
マクゴナガルの目が鋭くなる。
「大きな目標を持つことと、他者を踏み台にすることは同じではありません。勇気と無謀が同じでないのと同様です」
悠太は、朝食でハーマイオニーに言われたことを思い出した。
自分を最後にすることが、いつも正しいとは限らない。
資質は、持っているだけでは答えにならない。
何のために使うかで、形が変わる。
マッチ棒と針のように。
「少し分かった気がします」
「気がする、で終わらせず考え続けなさい」
「はい」
マクゴナガルは短い針を一つ、悠太の前へ押した。
「これは持っていなさい」
「失敗作を?」
「次にどこから始めるかを忘れないためです」
悠太は針を掌へ載せた。
銀色の小さな形は、見た目ほど軽くなかった。
「ありがとうございます」
「次の授業へ急ぎなさい。フリットウィック先生は、身体は小さくとも遅刻へ寛大とは限りません」
悠太は針をローブの内ポケットへしまい、教室を出た。
扉が閉じる。
マクゴナガルは誰もいない机を見た。
四つあってもいいのですか。
言葉の選び方まで同じだったわけではない。
それでも、遠い昔に別の少年から聞いた問いが、記憶の底で重なった。
異なる伝統を一つの杖で扱ってよいのか。
剣の集中を魔法へ持ち込んでよいのか。
問いを向ける時の、黒い瞳の真っすぐさ。
マクゴナガルは眼鏡を外し、布で一度だけ拭いた。
あり得ない。
似た癖を持つ者が、同じ国から来ただけだ。
そう考えれば済む。
だが机の上には、木の外見を残した金属の棒があった。
見た目と中身が同じとは限らない。
つい先ほど、自分が教えたばかりだった。
*
呪文学の教室へ駆け込むと、フィリウス・フリットウィックは本の山の上から顔を出した。
「おお、ミスター・ワタナベ! 間に合いましたね」
「お待たせしました」
「待ってはいません。まだ鐘の途中です」
最後の一打が鳴り終わる。
「今、終わりました。席へどうぞ」
ハリーが空けていた隣の席へ座る。
「怒られた?」
小声で尋ねられた。
「半分くらい」
「残り半分は?」
「宿題になった」
前の席から、ハーマイオニーが振り返った。
「何の?」
「考えることの」
「それは宿題じゃなくてもするべきでしょう」
「それは否定できない」
フリットウィックが小さく咳払いした。
三人は前を向いた。
机の上には、手のひらほどの木箱が一つずつ置かれている。どの箱にも真鍮の錠がつき、鍵穴が朝の光を反射していた。
「先週から練習している解錠呪文を続けます」
フリットウィックは高い声で言った。
「アロホモラ。重要なのは、錠へ力をぶつけることではありません。閉じている仕組みに、正しい順序で解くよう働きかけることです」
教卓の錠へ杖先を向ける。
「アロホモラ」
澄んだ音がして、錠が開いた。
「発音は一音ずつ明確に。杖先は鍵穴の上で小さく円を描き、最後に引く。力を込めすぎれば、錠はかえって固くなります」
生徒たちが一斉に杖を取り出した。
教室のあちこちで呪文が聞こえ、金属の鳴る音が重なる。
ハーマイオニーの錠が、三度目で開いた。
「よろしい、ミス・グレンジャー!」
フリットウィックが喜んだ。
「円をもう少し小さくすれば、さらに滑らかになります。グリフィンドールに二点!」
ロンの箱は沈黙している。
ハリーの錠は一度だけ震え、元へ戻った。
悠太は自分の箱を観察した。
日本で習った初歩の解錠術は、閉じている結び目を想像し、端からほどいていく。英国式の呪文は、鍵の機構へ直接働きかける。
似ているが、同じではない。
悠太は鍵穴の上に円を描いた。
「アロホモラ」
錠の中で何かが動いた。
だが開かない。
もう一度。
今度は、蓋だけがわずかに浮き、錠は閉じたままだった。
「反対」
ハリーが言った。
「そうみたいだね」
三度目は何も起きなかった。
四度目には、箱が机の上で半回転した。
ロンが笑う。
「逃げたぞ」
「持ち主に似たのかも」
五度目。
錠は開かない。
悠太は杖を置き、羊皮紙へ一から五まで数字を書いた。
一、内部だけ動く。
二、蓋だけ浮く。
三、反応なし。
四、箱が逃げる。
五、反応なし。
「失敗を記録してるの?」
ハリーが覗き込む。
「同じ失敗を二度するのは、時間がもったいないからさ」
「三と五は同じだよ」
「もう二度しちゃった」
悠太は三と五へ線を引いた。
六度目は、杖の円を小さくした。
錠が一度鳴る。
七度目は、発音を遅くした。
何も起きない。
八度目は、日本式の像を捨て、真鍮の中にある留め金だけを考えた。
かちり、と音がした。
悠太は蓋へ手をかけた。
開かなかった。
「今の音は近かった」
ハーマイオニーが、前から見ていた。
「でも、最後の杖の引き方が逆よ」
「教科書の図では、こちらへ」
「あなたの席から見ると反対なの。先生の動きを正面から見たでしょう」
悠太は図とフリットウィックの位置を見比べた。
「また鏡か」
「何が?」
「なんか今朝から、左右に負け続けてるから」
ハーマイオニーは呆れたように息を吐いた。
「私の手を見て」
自分の開いた箱を一度閉め直す。
杖先で、ごく小さな円を描いた。
最後に手首を返し、身体の方へ引く。
「アロホモラ」
錠が滑らかに開いた。
「円を描く間は仕組みを探る。最後の動きで留め金を外すの。二つの動きを混ぜないで」
「分かりました」
悠太は九度目を試した。
円。
発音。
最後に引く。
錠が鳴り、半分だけ浮いた。
「あと少し」
ハリーが言う。
十度目は、最初から力を入れすぎた。
錠が固くなる。
十一度目。
箱が小さく震えた。
十二度目。
「アロホモラ」
かちり。
真鍮の錠が持ち上がった。
蓋を開けると、中には小さな青い羽根が一本入っている。
悠太は息を吐いた。
「勝った?」
ロンが尋ねる。
「十二回目。勝敗を数えるなら、一勝十一敗。大敗だね」
「最後に勝てばいいんだよ」
「その考え方は、少し気に入った」
フリットウィックが本の山から下り、悠太の箱を覗いた。
「見事です。もっと早く開けた生徒はいますが、あなたは失敗を一つずつ分類していましたね」
「英国式の動きに、日本式の考え方を混ぜてしまいました」
「ええ。二つの文法で、一つの文を同時に話そうとしていたようなものです」
フリットウィックの目が好奇心に輝く。
「ですが、片方を捨てる必要はありません。まず、それぞれを正しく話せるようになりなさい。混ぜるのは、それからです」
マクゴナガルに言われたことと、よく似ていた。
何を残し、何を変えるか。
悠太は頷いた。
「覚えておきます」
「よろしい。なお、箱が逃げた四度目の方法も、別の呪文としてなら面白いかもしれません」
教室に笑いが起きた。
フリットウィックは次の机へ移った。
ロンはまだ閉じた箱を睨んでいる。
「僕のは、逃げもしない」
「音は?」
「何の?」
「呪文をかけた時、錠の中で鳴った?」
「分からない」
「では、次は開けようとせず、音だけ聞いてみたらどうかな?」
「開ける授業なのに?」
「閉じたままの箱を睨む授業でもないよ」
ロンは反論しかけ、もう一度杖を構えた。
今度は声を少し小さくし、呪文のあとで耳を澄ませる。
錠の中から、かすかな金属音がした。
「鳴った」
「なら、中までは届いてるはず」
ロンの顔に、最初の手がかりを見つけた者の笑みが浮かんだ。
その次の試みで箱は開かなかった。
だが、もう睨むだけではなかった。
*
魔法史の教室には、眠気を誘う魔法がかけられているのではないか。
授業が始まって十五分で、悠太は本気でそう疑った。
カスバート・ビンズ教授は、黒板の前へ歩いて入ってきたのではない。
壁を通り抜けてきた。
自分が死んだことに気づかないまま授業へ来た、ホグワーツでただ一人の幽霊の教師だと、ロンが教えてくれた。
それだけなら、十分に興味深い。
問題は、ビンズが話し始めてからだった。
声に高低がない。
間もない。
質問をするために息を吸う隙さえない。
一六一二年のゴブリン反乱、その背景となった杖の携帯制限、ホッグズ・ヘッド旅籠周辺での衝突、魔法使い評議会の対応が、一本の長い糸のようにつながって流れていく。
悠太は必死に羽根ペンを動かした。
英語の教科書なら、分からない文章を戻って読める。
ビンズ教授は戻らない。
固有名詞を一つ聞き逃すと、次の三つが何を指すのか分からなくなる。
羊皮紙には、途中から日本語が混ざり始めた。
一六一二年。
ゴブリン反乱。
杖の所持? 携帯? 禁止の範囲を確認。
旅籠——場所の名前を聞き落とした。
魔法使い評議会。代表者の名、不明。
横を見る。
ハリーも眉間に皺を寄せ、教科書と黒板を交互に見ている。
ロンは羽根ペンを握ったまま、目を閉じていた。
完全に眠っている。
前の席では、ハーマイオニーだけが途切れずに書き続けていた。
耳で聞いた言葉を、そのまま整った文章へ変えている。
悠太は対抗しようとした。
三分で諦めた。
勝てないものへ正面から挑み続けるのは、勇気ではなく時間の浪費かもしれない。
要点だけを拾う方針へ変える。
ところが、ビンズ教授の話では、どの言葉も同じ重要さに聞こえた。
税率の変更と、反乱軍が橋を占拠したことと、評議会の書記官が会議へ遅れたことが、まったく同じ調子で語られる。
悠太の羊皮紙には、やがて大きく一文だけが残った。
——あとでハーマイオニーに聞く。
その下に、念のため二本の線を引いた。
鐘が鳴っても、ビンズ教授はしばらく話し続けた。
生徒が立ち上がり始めてから、ようやく頁を閉じる。
「では次回、反乱後の杖規制と、一六一四年の補足決議について続ける」
壁の向こうへ消えていった。
ロンが目を開けた。
「終わった?」
「あなたの授業は、始まってもなかったようだけど?」
ハーマイオニーが言った。
「聞いてたよ」
「最後に覚えている言葉は?」
ロンは考えた。
「一六一二年」
「最初の一分じゃない」
「年は合ってる」
ハリーが自分の羊皮紙を見せた。
前半は文字が並び、後半は同じ単語が何度か重なっている。
「僕も途中から分からなくなった」
「悠太は?」
ロンが覗き込む。
日本語と英語の混ざった断片、その最後に大きく書いた一文を見て笑った。
「何でもできる交換留学生じゃなかったのか?」
声には昨夜の小さな棘が、ほんの少しだけ残っていた。
悠太は羊皮紙を隠さなかった。
「いや、英語の魔法史は難しい」
「あっさり認めるんだな」
「素直な優等生を目指してるから」
ハリーが噴き出した。
ロンも笑った。
小さな棘が、今度は少しだけ丸くなった。
「ハーマイオニー」
悠太は自分の羊皮紙を持って、前へ行った。
「ノートを見せてもらえる?」
「昨夜、全部読んできたんじゃなかったの?」
「教科書は、壁を通り抜けながら休まず話さない」
ハーマイオニーは笑いそうになり、真面目な顔を保とうとした。
「私のノートが必要だって、最初から書いてあるわね」
「授業で最も確実に理解できたところの一つ」
羊皮紙の最後の一文を指す。
「仕方ないわ。朝に渡した分と一緒に貸す。でも、写すだけじゃなくて、分からなかったところは自分で調べて」
「うん」
「それと、教授が言ったのはホッグズ・ヘッド旅籠。書記官の名前を聞き落としているけど、それは教科書の二百七頁にあるわ」
「そこまで聞き取れたの、さすが」
「聞いていれば分かるわ」
背後でロンが、聞こえないように口だけ動かした。
ハーマイオニーは振り返った。
「何?」
「何も」
悠太は借りた羊皮紙を丁寧に自分の束へ重ねた。
帽子は、自分に知性があると言った。
それは、何でも最初から知っているという意味ではないらしい。
分からないと認め、知っている者へ尋ねるところから始まる知性もある。
少なくとも今朝は、それがなければ昼食までたどり着けなかった。
*
大広間へ戻る途中、ネビルの鞄が開いた。
階段の踊り場で留め具が外れ、教科書、羊皮紙、インク壺が石床へ散らばる。
「まただ」
ネビルはしゃがみ込んだ。
前を歩いていた生徒たちは、その横を避けて通っていく。昼食を逃したくないロンも二段下りたが、ハリーが戻ったのを見て足を止めた。
悠太とハリーは教科書を拾い、ハーマイオニーは転がるインク壺を靴で止めた。
「留め具が曲がってるわ」
ハーマイオニーが鞄を調べた。
「閉めても、また開くと思う」
「僕、直す呪文を知らない」
ネビルの声が沈む。
「呪文でなくても、昼までは持たせられるはず」
悠太は、日本魔法省から届いた封筒を取り出した。
朝の書類をまとめていた細い赤い組紐をほどき、鞄の留め具へ通す。
二度巻き、引けば締まる形に結んだ。
「これだと開けない。ほどく時は、ここを引いて」
「手紙の紐、使ってよかったの?」
「用件はもう読んだから」
「ありがとう」
ネビルは鞄を背負い、何度か揺らした。
今度は開かない。
ロンが二段上へ戻ってきた。
「終わった?」
「うん」
「急がないと、ソーセージがなくなる」
「朝も食べていたでしょう」
「朝の分と昼の分は別だ」
五人で階段を下り始める。
ハーマイオニーは一緒に歩いていたが、まだ輪の中心には入っていなかった。半歩前で時間割を確認し、時折、後ろの三人の会話へ振り返る。
ハリーとロンは一か月を共に過ごした友人だった。
悠太は、昨日その隣に席をもらったばかりだった。
ハーマイオニーとはノートを借り、授業の答えを教わっただけだ。
四人を一つの名で呼べるほどの何かは、まだ起きていない。
それでも、ネビルの荷物を拾うため、五人が同じ階段で足を止めた。
今は、それで十分だった。
*
昼食のあとには、魔法薬学が待っていた。
時間割を見たロンが、露骨に嫌な顔をした。
「初日の最後がスネイプか。運が悪いな」
「セブルス・スネイプ先生?」
悠太は、昨夜の教師席を思い出した。
蝋燭の光さえ吸い込むような黒いローブ。
自分の名を聞いた瞬間だけ止まった手。
こちらを見つめ、先に目をそらした黒い瞳。
「知ってるの?」
ハリーが尋ねる。
「名前だけ。昨日、紹介された」
「あの人、ハリーを嫌ってるんだ」
ロンが声を低くした。
「入学して一か月で?」
「最初の授業からだよ」
「何かしでかしたの?」
「何もしてない」
ハリーの返事は短かった。
怒っているというより、考えたくないことへ触れられた顔だった。
悠太はそれ以上聞かなかった。
「スリザリンの寮監でもあるわ」
ハーマイオニーが説明した。
「魔法薬学には、グリフィンドールとスリザリンが一緒に出る。授業は地下牢よ」
「地下牢で薬を作るんですか」
「鍋が爆発しても、城の上まで飛ばないように」
ロンが言った。
「嘘でしょう」
「半分は」
昨夜の悠太の言葉を返し、ロンが笑った。
地下へ下りるほど、空気は冷たくなった。
石壁から湿気が滲み、窓はなく、松明の火だけが長い影を作っている。
パーバティの地図も、地下牢の近くでは線が少なかった。
「ここからは、誰も好んで探検しないの」
彼女は昼食の席でそう言っていた。
廊下の先には、すでにスリザリンの一年生たちが集まっている。
ドラコ・マルフォイがクラッブとゴイルを両側に立たせ、悠太たちが来るのを見た。
薄い唇が、わずかに曲がる。
パンジー・パーキンソンも隣にいる。
悠太と目が合うと、すぐにドラコの方へ顔を向けた。
まだ言葉は交わさなかった。
ただ、昨日大広間で向けられた視線と同じものが、冷たい廊下で待っていた。
教室の扉が開いた。
中には二人掛けの机と、黒い大鍋が並んでいる。壁際の棚には、色の失せた植物、瓶詰めの根、動物の一部らしいものが液体の中に浮かんでいた。
悠太は一つの瓶と目が合った気がして、見なかったことにした。
生徒たちが席へ着く。
ハリーとロンが並び、悠太はその後ろの席へ座った。隣にはネビルが来る。
ハーマイオニーは通路を挟んだ机で、教科書と羽根ペンを準備している。
私語が少しずつ消えた。
奥の扉から、セブルス・スネイプが現れた。
歩くというより、黒い影が床を滑ってくるようだった。
教壇へ立つ。
細い手が出席簿を開いた。
悠太は、理由もなく背筋を伸ばした。
スネイプは名前を一人ずつ読み上げた。
返事が続く。
「ハリー・ポッター」
「はい」
黒い目が、ハリーの顔へ長く止まった。
教室の空気が一段冷えたように感じられる。
やがて視線が出席簿へ戻った。
細い指が、次の行で止まる。
スネイプはそこに書かれた名を見ていた。
昨夜、全校生徒の前で一度聞いた名。
そして、それよりはるか昔、忘れたと決めた記憶の底に残っている名。
あり得ない。
紙の上にあるのは、同姓同名の十一歳にすぎない。
スネイプは顔を上げた。
教室の後ろで、少年がまっすぐこちらを見ている。
顔は違う。
記憶の中に残る人物とは、何もかも違う。
だが黒い瞳は、問いを投げる時だけ妙に静かだった。
スネイプの唇が開く。
その名が、低い声で地下教室へ落ちた。
「ユウタ・ワタナベ」
悠太の胸の奥で、何かが一度だけ強く鳴った。
痛みではない。
懐かしさでもない。
扉の向こうから、自分の知らない誰かが同じ名を呼んだような感覚だった。
けれど次の瞬間には消えている。
記憶は戻らない。
何一つ、思い出さない。
悠太はただ、初めて授業を受ける教師へ返事をした。
「はい、先生」
その声を聞いた瞬間、スネイプの黒い瞳が、わずかに細くなった。
組分け帽子は、悠太の中に四つの寮の資質を見た。
だが今、地下教室で彼を見つめている男が探しているのは、そのどれでもなかった。
存在するはずのない面影を、十一歳の少年の中から探していた。