ハリー・ポッターと東洋の魔剣士   作:キャン

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第5話 四つの寮の資質

朝、悠太が最初に見たのは、赤と金のネクタイだった。

 

 枕元へ置いた時と同じ形で、まだ薄暗い光の中に横たわっている。

 

 夢の中にいた四人の少年も、赤毛の少女もいなかった。

 

 名前を呼べなかった自分の声さえ、目を開けた途端に遠ざかっていた。

 

 残っているのは、泣いたあとの重い瞼と、胸の奥に沈んだ理由のない寂しさだけだった。

 

 悠太は天蓋を見上げた。

 

 初めての朝だった。

 

 その言葉を、心の中でもう一度繰り返す。

 

 初めての城。初めての寮。初めての寝室。

 

 昨日会ったばかりの同級生たち。

 

 夢は、長い移動と慣れない場所に疲れた頭が見せたものだ。そう考えれば説明はつく。

 

 説明がつかないのは、目が覚めた時に頬が濡れていたことだけだった。

 

 けれど、夢のために泣くことくらい、十一歳にもあるのかもしれない。

 

 悠太はそれ以上考えるのをやめ、音を立てないように起き上がった。

 

 丸い寝室には、五人分の寝息が残っていた。

 

 ロンは掛け布団の半分を床へ落とし、ネビルは枕を抱えている。ディーンのカーテンの隙間からは片足だけが出ていた。シェーマスは眠ったまま何かを呟き、ハリーの枕元には丸眼鏡が畳んで置かれている。

 

 昨夜まで、自分のいない部屋だった。

 

 今は窓際に六つ目のベッドがある。

 

 その事実を確かめるように、悠太は足元へ下りた。

 

 制服の白いシャツへ袖を通し、黒いズボンを穿く。ローブは問題なかった。マホウトコロの制服と形は違っても、羽織ればよいことに変わりはない。

 

 問題は、ネクタイだった。

 

 細い方をどちらへ回し、どこから通せば、見本のような結び目になるのか。

 

 昨夜、畳まれていた時には気づかなかった。

 

 悠太は鏡の前で一度結んだ。

 

 結び目が、喉の横へ来た。

 

 ほどいて、もう一度試す。

 

 今度は深紅と金の縞が裏返った。

 

 三度目には、結び目そのものが途中で消えた。

 

「何と戦ってるの?」

 

 背後から声がした。

 

 ハリーがベッドのカーテンを開け、眼鏡をかけている。黒髪は、ロンが予告したとおり昨夜よりひどい方向を向いていた。

 

「英国の布です」

 

 悠太は首から下がったネクタイを見せた。

 

「こちらの魔法抵抗力が予想以上に高い」

 

 ハリーは目を細めた。

 

「魔法はかかってないと思う」

 

「それなら、僕の負けです」

 

 ハリーは笑いながら近づいた。

 

「貸して。前の学校でも着けてたから」

 

「できるんですか」

 

「雷は出せないけど、ネクタイなら」

 

 昨日の冗談を返され、悠太は少し驚いてから笑った。

 

 ハリーは自分のネクタイを手早く結び、悠太のものを指で示した。

 

「太い方をこっちへ回して、その輪の下から通すんだ」

 

 見ようとすると、鏡の中では左右が反対になる。

 

 悠太は一度間違え、もう一度やり直した。

 

「そう。それで前から抜く」

 

「できました」

 

 形は少し不格好だったが、少なくとも喉の正面に結び目がある。

 

「昨日より、グリフィンドールらしく見える」

 

「ネクタイ一本で寮生になれるなら、帽子もずいぶん長く考えましたね」

 

「何をそんなに話してたの?」

 

 ハリーが尋ねた。

 

 悠太の指が、結び目の上で止まった。

 

 四つの寮のことなら話せる。

 

 だが、心の奥で帽子が見つけたものについては、自分にも説明できなかった。

 

 十一歳では説明できない深さ。

 

 答えの出ぬものを、無理に暴きはしない。

 

 言葉にすれば、昨夜の夢まで現実の謎へつながってしまいそうだった。

 

「候補が多かったそうです」

 

「候補?」

 

「四つとも」

 

「全部?」

 

 ハリーの声で、向かいのベッドからロンが起き上がった。

 

 赤い髪が片側だけ潰れている。

 

「何が全部?」

 

「ユウタの組分け。四つの寮、全部が候補だったんだって」

 

 ロンは眠そうな顔のまま、悠太を見た。

 

「それであんなに時間がかかったのか。僕は、帽子の中で日本語の辞書を探してるんだと思ってた」

 

「帽子は言葉に困っていませんでした。僕の冗談には困っていたかもしれませんが」

 

「帽子にも言ったの?」

 

「少し」

 

「何て?」

 

「秘密です」

 

「そこまで言ったなら教えろよ」

 

「ロン」

 

 ハリーが、悠太ではなくロンを見た。

 

 ほんの小さな動きだった。

 

 自分も帽子の中で、誰にも話していない言葉を聞いたことがある者の顔だった。

 

 ロンは二人を見比べ、肩をすくめた。

 

「分かったよ。帽子と二人だけの秘密なんだな」

 

「三人です」

 

「誰が増えたんだ?」

 

「僕の頭です」

 

「朝から面倒な数え方をするなよ」

 

 ロンはあくびをし、床の掛け布団へ足を取られた。

 

 ベッド柱へつかまって倒れるのを免れる。

 

「まず、服を着た方がいい」

 

 ハリーが言った。

 

「分かってる」

 

「今のところ、靴下しか履けてないよ」

 

「それも二つともだ」

 

 悠太は窓の外を見た。

 

 湖の上には薄い霧が浮かび、遠くの山の輪郭が朝の光に滲んでいる。

 

 胸の中に残っていた夢の赤い炎が、少しだけ遠くなった。

 

 今ここにいるのは、名前の分からない少年たちではない。

 

 ネクタイを教えてくれたハリーと、靴下だけで威張っているロンだった。

 

     *

 

 談話室へ下りると、ハーマイオニーが暖炉の前で待っていた。

 

 膝の上には、昨夜見せかけた羊皮紙が教科ごとに揃えられている。

 

 悠太を見るなり立ち上がった。

 

「遅いわ」

 

「おはようございます」

 

「おはよう。朝食が始まってから、もう十分たってるの」

 

「ネクタイの入寮試験に時間がかかりました」

 

 ハーマイオニーは悠太の首元を見た。

 

「少し曲がってる」

 

「合格点は?」

 

「まだ」

 

 細い指が伸びたが、触れる直前で止まる。

 

「自分で直して。そこを左へ少し」

 

 悠太が結び目を動かす。

 

「反対」

 

「鏡がないと、さらに難しいですね」

 

「これでいいわ」

 

 ハーマイオニーは満足そうに頷き、羊皮紙の束を差し出した。

 

「約束した一か月分のノート。上から変身術、呪文学、魔法史。魔法薬学は別にしてあるわ。濡らさないで。端を折らないで。書き込みもしないで」

 

「読み終わったら、同じ順番で返します」

 

「それと、分からないところへ小さな紙を挟んで。直接書かないで」

 

「命に代えても」

 

「だから、そこまでしなくていいって昨日言ったでしょう」

 

 ハリーが横で笑った。

 

 ハーマイオニーは一瞬だけ怪訝な顔をし、それからようやく冗談だと気づいたらしい。

 

「毎回それを言うつもり?」

 

「通じるまで続けようかと」

 

「今、通じたから終わりにして。それと言葉の使い方が丁寧すぎるから、もっとフランクにした方がいいと思うわ」

 

「努力しま、あ、、、するね」

 

言葉は厳しかったが、ハーマイオニーの口元がほんの少し緩んでいた。

 

「ユウタ」

 

 女子寮の階段から、パーバティが下りてきた。

 

 ラベンダーも一緒だった。

 

「地図、見た?」

 

「はい、あ、、、うん。今日の階段が東へ動くところまで」

 

「金曜日の朝だけよ。お昼には戻るから気をつけて」

 

「階段にも時間割があるんだね」

 

「でも、守らないこともあるわ」

 

「時間割の意味は?」

 

「だいたい合ってる、という安心」

 

 パーバティが笑った。

 

 昨夜より自然に名を呼ばれたことが、悠太にはありがたかった。

 

 ラベンダーは二人を交互に見ている。

 

「地図を一晩、枕の下へ入れてたのよ」

 

「入れてないわ」

 

「じゃあ、どうして朝一番に確認したの?」

 

「ちゃんと使えたか心配だっただけ」

 

「優しいんだね」

 

 悠太が言うと、パーバティは急に地図の説明へ戻った。

 

「と、とにかく、四階の騎士の絵を右だから。左へ行くと音楽室よ」

 

「覚えたよ。ありがとう」

 

 パーバティは頷き、先に肖像画の穴をくぐった。

 

 そのあとをラベンダーが追いながら、何かを耳元で囁く。

 

 パーバティの歩く速さが少し上がった。

 

 悠太には、また聞き取れなかった。

 

「行きましょう」

 

 ハーマイオニーが言った。

 

「このままだと、本当に遅れるわ」

 

 ロンがようやく男子寮から駆け下りてきた。

 

 ネクタイは曲がり、ローブの留め具が一つ外れている。

 

「待ってくれ!」

 

「十分待ったわ」

 

「僕は悠太みたいに、夜明け前から制服と戦ってないんだ」

 

「勝ったようには見えないけど」

 

 悠太が言うと、ロンは自分のネクタイを見下ろした。

 

「これはわざとだよ」

 

「では、英国の流行として覚えておくよ」

 

     *

 

 朝の大広間は、昨夜とは違う音で満ちていた。

 

 皿と杯が触れる音。授業の予定を確かめる声。眠そうな生徒のあくび。四つの長いテーブルの上では、焼いたパン、卵、粥、腎臓料理、黄金色のかぼちゃジュースが湯気を立てている。

 

 そして天井近くには、何十羽ものフクロウがいた。

 

 悠太は入口で止まった。

 

 昨夜、一羽が頭上を横切っただけでも不意打ちだった。

 

 今朝は、不意打ちが群れになって旋回している。

 

「毎朝?」

 

 悠太が尋ねた。

 

「郵便の時間だから」

 

 ハリーは何でもないことのように答えた。

 

「あれが全部、下りてくるのか……」

 

「たぶん」

 

「先に教えてよ」

 

「今、教えたよ」

 

「いや、下りてくる前にってことだよ」

 

 ロンは笑いをこらえながら、グリフィンドールの席へ向かった。

 

「大丈夫だ。手紙を落とすだけで、人は食べない」

 

「そういう問題じゃない」

 

 悠太はできるだけ天井を見ないように席へ着いた。

 

 ハリーが右、ロンが向かいに座る。ハーマイオニーは一つ空けた正面の席へノートを置いた。

 

 パーバティが近くへ座ろうとした時、青と青銅のネクタイを着けた少女がレイブンクローのテーブルからやってきた。

 

 パーバティとよく似た顔立ちをしている。

 

「ユウタ、妹のパドマ」

 

「パドマ・パチルよ。よろしく」

 

「こちらこそ。パドマ。ユウタ・ワタナベだよ。よろしく」

 

 悠太が頭を下げると、パドマも軽く返した。

 

「昨日、帽子がずいぶん長くかかったでしょう。レイブンクローでも話題になってるの」

 

「朝食の前に、それを聞きに来たの?」

 

 パーバティが眉を寄せた。

 

「あなたが地図を二枚も写した理由を聞きに来たわけじゃないわ」

 

「一枚よ」

 

「元の地図と、渡した地図で二枚でしょう」

 

 ラベンダーが笑いを噛み殺した。

 

 悠太は姉妹の間へ入らない方がよいと判断し、焼いたパンを一枚取った。

 

「四つの寮が候補だったらしいよ」

 

 ハリーが代わりに答えた。

 

 パドマの目が輝いた。

 

 同時に、ハーマイオニーも身を乗り出した。

 

「本当に全部?」

 

「帽子はそう言ってた」

 

「何を見て?」

 

 ハーマイオニーが尋ねる。

 

「勇気。知性。勤勉と誠実。それから、野心と戦略性」

 

「それなら、どうしてグリフィンドールだったの?」

 

 パドマの質問は、純粋な興味から出たものだった。

 

 だがパーバティが、少しだけ心配そうに悠太を見る。

 

 もし彼が別の寮を望んでいたなら、と考えたらしい。

 

 悠太は昨夜、帽子から置かれた問いを思い出した。

 

「危険が来た時、どう動くか考えさせられた」

 

「それで?」

 

「動けない人を先に逃がして、自分は最後に行く、と」

 

 ロンが腎臓料理を取る手を止めた。

 

「そんなこと、本当にするの?」

 

「う〜ん……。帽子の中で考えただけだから何とも」

 

「考えるだけでも、ずいぶん疲れそうだ」

 

「僕もそう思います」

 

 悠太はパンへバターを塗った。

 

「でも、何も考える前に、そうしてた。だから帽子は、それが一番強いと思ったんじゃないかな」

 

「勇気ね」

 

 ハーマイオニーが納得したように言う。

 

「自己犠牲とも言ってた」

 

「それは、いつも良いこととは限らないわ」

 

 すぐに返ってきた言葉に、悠太は顔を上げた。

 

「どうして?」

 

「自分を最後にすることだけが正しいなら、全員が最後に残ろうとして、誰も逃げられなくなるでしょう」

 

 ロンが顔をしかめた。

 

「朝食の話とは思えないな」

 

「帽子の話よ」

 

「帽子は朝食を食べない」

 

「関係ないでしょう」

 

 悠太はハーマイオニーの言葉を考えた。

 

 帽子は、自己を差し出す覚悟を褒めた。

 

 けれど、ハーマイオニーの言うことも正しい。

 

 誰かを守るために残る者が二人いれば、どちらが先に逃げるかで争うことになる。

 

「なら、その時は順番を決める人が必要になる」

 

「それが戦略性じゃない?」

 

 パドマが言った。

 

「スリザリンの資質も使うことになるわ」

 

「勇気だけでは足りない、ということか」

 

「どの資質だって、一つだけでは足りないと思う」

 

 パドマは自分の青いネクタイへ触れた。

 

「レイブンクローだからって、勇気がなくていいわけじゃないもの」

 

「グリフィンドールだからって、勉強しなくていいわけでもないわ」

 

 ハーマイオニーが言い、ロンを見た。

 

「どうして僕を見るんだよ」

 

「別に」

 

「今、絶対に理由があった」

 

 ハリーが笑った。

 

 悠太も笑いかけた時、頭上で羽音が大きくなった。

 

 郵便の群れが降りてくる。

 

 手紙。新聞。細長い包み。小さな箱。

 

 何十もの荷物が、それぞれの宛先へ落ちていく。

 

 悠太は椅子の背を引いた。

 

「来たよ」

 

 ハリーが親切に告げた。

 

「見れば分かる」

 

 大きな茶色のフクロウが、グリフィンドールのテーブルへ急降下した。

 

 悠太は反射的に身を伏せる。

 

 手に持っていたパンが飛び、ロンの皿へ着地した。

 

「僕の朝食が増えた」

 

「あげる」

 

 フクロウは悠太の前へ厚い封筒を落とし、翼を一度大きく広げた。

 

 風でハーマイオニーの羊皮紙がめくれる。

 

 悠太はさらに椅子を引いた。

 

 フクロウは黒い目で彼を見た。

 

 悠太も見返した。

 

 数秒の沈黙のあと、フクロウが嘴を鳴らす。

 

「何か怒ってない?」

 

「餌を待ってるんじゃない?」

 

 パーバティが言った。

 

 ロンが悠太の皿からベーコンを一切れ取り、フクロウへ差し出した。

 

 鳥は素早く咥えると、何事もなかったように飛び去った。

 

 悠太は姿が天井近くへ戻るまで見送った。

 

「怖くないんじゃなかった?」

 

 ロンが尋ねる。

 

「怖いわけではないよ」

 

「今、机の下へ入るところだったよ」

 

「英国の郵便制度に敬意を表して、道を譲っただけ」

 

「ずいぶん広く譲るんだな」

 

 ハリーが笑っている。

 

 パドマまで口元を隠していた。

 

 昨夜と同じだった。

 

 珍しい留学生を見る笑いではない。

 

 大きな鳥が来るたびに言い訳を増やす同級生を見る笑いだった。

 

 悠太も椅子を戻し、封筒を取った。

 

 表には日本語で、渡辺悠太殿。裏には、日本魔法省教育局国際教育課の赤い印がある。

 

 中身は無事な到着を確認したという通知と、英国式課程の補習予定、それから緊急時の連絡方法だった。

 

 三枚の羊皮紙は、細い赤い組紐で一つにまとめられている。

 

 どの文字も整い、用件は明確で、間違いはない。

 

 ただ、そこに悠太の朝を尋ねる言葉は一つもなかった。

 

 当然だった。

 

 役所からの手紙なのだから。

 

 悠太は丁寧に折り直した。

 

 ハリーの前にも、手紙は落ちていなかった。

 

 周りでは家から届いた包みを開ける生徒がいる。母親からの注意書きを読み上げられ、嫌そうな顔をする者もいた。

 

 ハリーはそれを少し眺めたあと、かぼちゃジュースを飲んだ。

 

 二人とも何も言わなかった。

 

 けれど、言わないまま同じ卓上へ視線を戻したことを、悠太は覚えていた。

 

「つまり」

 

 ロンが、悠太のパンを食べ終えてから言った。

 

「四つの寮の資質があっても、大きな鳥には勝てないわけだ」

 

「帽子は五つ目の資質を見落としました」

 

「何?」

 

「鳥恐怖症」

 

 今度はパーバティが、声を立てて笑った。

 

     *

 

 変身術の教室へ着いた時、鐘が鳴るまで二分しか残っていなかった。

 

 パーバティの地図は正しかった。

 

 ただし、金曜日に東へ動くはずの階段が、今朝に限って途中で止まっていた。

 

「守らないこともあるって言ったでしょう」

 

 パーバティは悪びれずに言った。

 

「地図の注意書きが正確でした」

 

「だから使えるのよ」

 

 途中、ネビルが羽根ペンを談話室へ忘れたことに気づき、戻ろうとした。

 

 ロンは、一本くらい誰かに借りればいいと言った。ハーマイオニーは、予備を持つべきだと言いながら自分の鞄を探した。

 

 悠太が日本から持ってきた一本を渡すと、ネビルは何度も礼を言った。

 

「返すのは、今日の授業が全部終わってからでいいから」

 

「でも、君が使う分は?」

 

「もう一本あるから大丈夫」

 

「二本も持ってるの?」

 

「三本ある」

 

 ロンが呆れた。

 

「ハーマイオニーが二人になった」

 

「予備は必要でしょう」

 

 本人が後ろから言った。

 

「ほら」

 

「一人で十分だよ」

 

 教室の扉は、最後の一言と同時に閉まりかけた。

 

 六人は急いで滑り込み、指定された席へ着いた。

 

 教壇にはミネルバ・マクゴナガルが立っている。

 

 深緑のローブ。きっちりと結い上げた髪。四角い眼鏡の向こうの目は、遅刻しなかったことを褒めるつもりがまったくないように見えた。

 

「席へ」

 

 全員が急いで座った。

 

「鐘が鳴る前であれば遅刻ではありません。しかし、扉に挟まれながら入室することを、時間厳守とは呼びません」

 

 ロンがローブの裾を扉から引き抜いた。

 

「はい、先生」

 

「返事は結構。次は行動で示しなさい」

 

 マクゴナガルの視線が悠太へ移った。

 

「ミスター・ワタナベ」

 

「はい」

 

「本日から、あなたも同じ課程へ加わります。一か月の遅れは、事情としては考慮しますが、言い訳としては考慮しません」

 

「分かりました」

 

「結構」

 

 彼女は杖を一振りした。

 

 教卓の上にあった木の箱が開き、細いマッチ棒が一人につき三本ずつ机へ飛んでくる。

 

 悠太の前にも三本が並んだ。

 

「今日も、マッチ棒から針への変身を続けます。外見だけを銀色にするのではありません。木材という性質、燃焼する用途、脆さ、繊維の向きまで変える必要があります」

 

 マクゴナガルは教室を見渡した。

 

「先週までに針を作れた者は、細さと針穴の精度を上げなさい。まだ完全な変身に至っていない者は、どこまで変化させたかを自分で説明できるように」

 

 ハーマイオニーはすでに杖を構えている。

 

 ロンはマッチ棒を指で転がし、ハリーは教科書の該当頁を開いた。

 

 悠太も縄文杉の杖を取り出した。

 

 黒褐色の木肌が、朝の光を鈍く返す。

 

 杖を握った瞬間、右手の小指と薬指が先に締まった。

 

 親指は、杖の上ではなく脇へ沿う。

 

 細い木を持つには、少し深すぎる握り方だった。

 

「ミスター・ワタナベ」

 

 教壇から声が飛ぶ。

 

「それは杖です。柄ではありません」

 

 悠太は自分の手を見た。

 

「失礼しました」

 

 握りを浅く直す。

 

 教室の何人かがこちらを見た。

 

 マクゴナガルは、すぐに授業へ視線を戻した。

 

 だが胸の内では、今の指の形が消えていなかった。

 

 杖を短い刀のように構え、術式を組み立てる癖。

 

 かつて教室の最前列で、同じ注意を何度しても直さなかった生徒がいた。

 

 顔立ちも年齢も違う。

 

 そもそも、その生徒はもう戻らない。

 

 同じ国で剣術を学んだ者なら、似ることもあるのだろう。

 

 マクゴナガルはそう結論づけ、感情を授業の外へ締め出した。

 

 悠太は何も知らず、マッチ棒を観察していた。

 

 形を変える。

 

 材質を変える。

 

 用途を変える。

 

 三つを同時に思い描こうとすると、像がぼやける。

 

 日本で読んだ変身術の教本は、対象の「在り方」を一つのまとまりとして捉えるように書かれていた。英国の教科書は、変化させる性質を分け、それぞれを正確に指定する。

 

 どちらが正しいのか。

 

 あるいは、見ている方向が違うだけなのか。

 

 悠太は教科書の図を確かめ、杖を動かした。

 

 マッチ棒の表面を、銀色が走った。

 

 両端が細く伸び、机の上に一本の針らしいものが現れる。

 

「できた」

 

 隣のハリーが小声で言った。

 

 だが悠太は答えなかった。

 

 銀色の針を指で持ち上げる。

 

 軽すぎた。

 

 少し力を入れると、中央から折れた。

 

 中には木の繊維が残っている。

 

「外側だけですね」

 

「でも、僕のより針に見えるよ」

 

 ハリーのマッチ棒は、先端だけが灰色に変わっていた。

 

「見えることと、変わっていることは違います」

 

 悠太は折れた二片を並べた。

 

 マクゴナガルが机の間を歩いてくる。

 

「そのとおりです、ミスター・ワタナベ。変身術は飾りつけではありません」

 

 折れた断面を杖先で示す。

 

「外観へ意識を向けすぎています。対象の内部まで像を維持しなさい」

 

「はい、先生」

 

「ポッターは、色の変化に頼らないこと。まず形を安定させなさい」

 

「はい」

 

 マクゴナガルは次の机へ進んだ。

 

 悠太は二本目を前へ置いた。

 

 今度は銀色を思い浮かべなかった。

 

 硬さ。重さ。曲がりにくさ。細くても折れない金属の密度。

 

 杖を振る。

 

 マッチ棒は短く縮み、机へ重い音を立てた。

 

 色は茶色のままだった。

 

 持ち上げると、金属の重さがある。

 

「木に見える金属?」

 

 ハリーが首を傾げる。

 

「結果だけ見たらそういうことになる」

 

「針から遠ざかったようにも見えるけど」

 

「気のせいだよ」

 

 前の席では、ハーマイオニーのマッチ棒が細い銀の針へ変わっていた。

 

 真っすぐで、先端も鋭い。針穴だけが、まだ少し楕円に歪んでいる。

 

 マクゴナガルが持ち上げ、光へかざした。

 

「よくできています、グレンジャー。針穴の内側に木目が残っていますが、変身はほぼ完全です。グリフィンドールに五点」

 

 ハーマイオニーの頬が輝いた。

 

 悠太は素直に拍手をした。

 

「アイツ、調子に乗るぞ」

 

「でも凄く上手くできてるから、凄いよ」

 

 ハーマイオニーがこちらを見た。

 

 褒められると思っていなかったのか、一瞬だけ目を丸くした。

 

「あなたの二本目も、考え方は悪くないわ」

 

「見た目はマッチ棒ですが」

 

「内部から変えようとしたんでしょう。次に形を——」

 

 ハーマイオニーは言いかけて、口を閉じた。

 

「ん?どうした?」

 

「自分で考えたいんじゃない?」

 

「助言を断って失敗するほど、競争心は強くないから」

 

「なら、材質と形を別々に考えたあと、最後の瞬間に一つの像へ重ねて。最初から全部を同時に保とうとすると、焦点が散るの」

 

「ありがとう。やってみま、、、やってみる」

 

 悠太は三本目を置いた。

 

 金属の内部。

 

 細い形。

 

 布を通り抜ける鋭い先端。

 

 糸を通す小さな穴。

 

 一つずつ像を作り、最後に重ねる。

 

 杖を動かした。

 

 マッチ棒が縮み、銀色へ変わる。

 

 今度は木目がない。

 

 先端も尖っている。

 

 ただし、長さは縫い針の半分ほどしかなく、針穴は開いていなかった。

 

「小さい」

 

 ロンが言った。

 

「聞こえてるよ〜」

 

「針穴もない」

 

「分かってる」

 

 マクゴナガルが戻ってきた。

 

 短い針を指先で転がし、机へ置く。

 

「完全ではありません。しかし、表面だけを変えた最初の試みより、はるかに良い」

 

「ありがとうございます」

 

「礼を言う前に、次は自力で同じところまで到達しなさい。偶然でないことを示す必要があります」

 

「はい、先生」

 

「それから、グレンジャーの助言を受けたことは正しい判断です。教室で他者から学ぶことは、敗北ではありません」

 

 ハーマイオニーの背筋が、さらに少し伸びた。

 

 マクゴナガルはネビルの机へ移った。

 

 彼のマッチ棒は、片側だけ針のように尖り、反対側は黒く焦げている。

 

「ロングボトム。燃焼させる必要はありません」

 

「すみません」

 

「謝罪で変身は進みません。何を変えるつもりだったか、もう一度整理しなさい」

 

 ネビルの耳が赤くなる。

 

 マクゴナガルが離れたあと、彼は焦げたマッチ棒を見つめたまま動かなかった。

 

「先は変わっています」

 

 悠太が小声で言った。

 

「でも、半分は失敗だよ」

 

「半分は、前より針に近い」

 

「君は三本目でそこまでできたのに」

 

「僕の一本目は、中身が木のままで折れた」

 

 折れた二片を見せる。

 

「それに二本目は、針のふりをやめたマッチ棒だった」

 

 ネビルは茶色い金属の棒を見て、少し笑った。

 

「本当だ」

 

「だから、先が変わったなら、その部分で何をしたか覚えておけばいいと思うよ」

 

 ネビルの杖が何をしたのか正確には分からない。

 

 ただ、失敗したものの中に、前より進んだところがある。それは本当だった。

 

 ネビルは焦げていない二本目を前へ置いた。

 

 今度は先端だけを見つめ、ゆっくり杖を動かした。

 

 鐘が鳴る直前、その先に銀色の小さな点が生まれた。

 

 針には遠い。

 

 けれどネビルは、先ほどより明るい顔でそれを見た。

 

     *

 

「ミスター・ワタナベは残りなさい」

 

 授業が終わると、マクゴナガルが言った。

 

 ロンが同情するような目を向けた。

 

 ハリーは扉の外で待とうとしたが、ハーマイオニーに次の教室まで時間がないと引かれていった。

 

 悠太は短い針と折れた失敗作を机の上へ残し、教壇の前に立った。

 

「何か問題がありましたか」

 

「問題があるかどうかを確認するために呼びました」

 

 マクゴナガルは教室の扉が閉じたことを確かめた。

 

「あなたは剣術を学んでいるそうですね」

 

「マホウトコロで授業があるので」

 

「先ほどの握り方は、その癖ですか」

 

 悠太は杖を取り出し、指の位置を確かめた。

 

「たぶん。自分では気づきませんでした」

 

「呪文を使う時、いつも同じ握り方を?」

 

「いいえ。少なくとも、そう教わってはいません」

 

「では、直しなさい」

 

「はい」

 

「ただし、忘れろとは言っていません」

 

 悠太は顔を上げた。

 

 マクゴナガルの口調は変わらず厳しい。

 

「剣術で身につけた集中や姿勢まで捨てる必要はありません。英国式の杖へ、別の道具の癖を無意識に持ち込むなと言っているのです。何を残し、何を変えるか、自分で区別しなさい」

 

「分かりました」

 

「本当に?」

 

「今度は、返事だけでなく行動で示します」

 

 朝の言葉をそのまま返すと、マクゴナガルの片方の眉がわずかに上がった。

 

「結構」

 

 叱られたのか、少し評価されたのか。

 

 やはり判断は難しかった。

 

 悠太は机へ戻り、三本の結果を片づけようとした。

 

「先生。僕からも質問があります」

 

「何です」

 

「組分け帽子は、僕に四つの寮すべての資質があると言いました」

 

 マクゴナガルの手が止まった。

 

 昨夜の長い沈黙。

 

 帽子の下で、見えない柄へ伸びた右手。

 

 今朝、教室で同じ形を作った指。

 

「それを、なぜ私へ?」

 

「四つに向いているなら、どこにも向いていないのと同じではないかと思って」

 

 自分で口にしてから、悠太は考えすぎかもしれないと思った。

 

 だがマクゴナガルは笑わなかった。

 

「帽子があなたを四つの寮に不適格だと考えたのなら、四つの資質を見いだしたとは言わないでしょう」

 

「では、四つあってもいいんですか」

 

「寮は、生徒の人格を四等分するための箱ではありません」

 

 彼女は教壇から下り、悠太の机に残った三つの失敗作を見た。

 

「レイブンクロー以外の生徒が考えることを禁じられているわけではない。ハッフルパフ以外の生徒が努力を免除されるわけでも、スリザリン以外の生徒が目標を持たないわけでもありません」

 

「グリフィンドール以外の生徒にも、勇気はある」

 

「当然です」

 

 答えは即座だった。

 

「組分け帽子は、あなたがどこで成長するか、何を重んじるかを見ます。あなたの中から、ほかの資質を取り上げるわけではありません」

 

 悠太は短い銀の針を見下ろした。

 

 考え、繰り返し、やり方を変え、誰かの助言を受けた。

 

 今朝使ったものが、どの寮の資質だったのか、一つには決められない。

 

「野心も、悪いものではないんですか」

 

「何を望み、そのために何をしてよいと考えるかによります」

 

 マクゴナガルの目が鋭くなる。

 

「大きな目標を持つことと、他者を踏み台にすることは同じではありません。勇気と無謀が同じでないのと同様です」

 

 悠太は、朝食でハーマイオニーに言われたことを思い出した。

 

 自分を最後にすることが、いつも正しいとは限らない。

 

 資質は、持っているだけでは答えにならない。

 

 何のために使うかで、形が変わる。

 

 マッチ棒と針のように。

 

「少し分かった気がします」

 

「気がする、で終わらせず考え続けなさい」

 

「はい」

 

 マクゴナガルは短い針を一つ、悠太の前へ押した。

 

「これは持っていなさい」

 

「失敗作を?」

 

「次にどこから始めるかを忘れないためです」

 

 悠太は針を掌へ載せた。

 

 銀色の小さな形は、見た目ほど軽くなかった。

 

「ありがとうございます」

 

「次の授業へ急ぎなさい。フリットウィック先生は、身体は小さくとも遅刻へ寛大とは限りません」

 

 悠太は針をローブの内ポケットへしまい、教室を出た。

 

 扉が閉じる。

 

 マクゴナガルは誰もいない机を見た。

 

 四つあってもいいのですか。

 

 言葉の選び方まで同じだったわけではない。

 

 それでも、遠い昔に別の少年から聞いた問いが、記憶の底で重なった。

 

 異なる伝統を一つの杖で扱ってよいのか。

 

 剣の集中を魔法へ持ち込んでよいのか。

 

 問いを向ける時の、黒い瞳の真っすぐさ。

 

 マクゴナガルは眼鏡を外し、布で一度だけ拭いた。

 

 あり得ない。

 

 似た癖を持つ者が、同じ国から来ただけだ。

 

 そう考えれば済む。

 

 だが机の上には、木の外見を残した金属の棒があった。

 

 見た目と中身が同じとは限らない。

 

 つい先ほど、自分が教えたばかりだった。

 

     *

 

 呪文学の教室へ駆け込むと、フィリウス・フリットウィックは本の山の上から顔を出した。

 

「おお、ミスター・ワタナベ! 間に合いましたね」

 

「お待たせしました」

 

「待ってはいません。まだ鐘の途中です」

 

 最後の一打が鳴り終わる。

 

「今、終わりました。席へどうぞ」

 

 ハリーが空けていた隣の席へ座る。

 

「怒られた?」

 

 小声で尋ねられた。

 

「半分くらい」

 

「残り半分は?」

 

「宿題になった」

 

 前の席から、ハーマイオニーが振り返った。

 

「何の?」

 

「考えることの」

 

「それは宿題じゃなくてもするべきでしょう」

 

「それは否定できない」

 

 フリットウィックが小さく咳払いした。

 

 三人は前を向いた。

 

 机の上には、手のひらほどの木箱が一つずつ置かれている。どの箱にも真鍮の錠がつき、鍵穴が朝の光を反射していた。

 

「先週から練習している解錠呪文を続けます」

 

 フリットウィックは高い声で言った。

 

「アロホモラ。重要なのは、錠へ力をぶつけることではありません。閉じている仕組みに、正しい順序で解くよう働きかけることです」

 

 教卓の錠へ杖先を向ける。

 

「アロホモラ」

 

 澄んだ音がして、錠が開いた。

 

「発音は一音ずつ明確に。杖先は鍵穴の上で小さく円を描き、最後に引く。力を込めすぎれば、錠はかえって固くなります」

 

 生徒たちが一斉に杖を取り出した。

 

 教室のあちこちで呪文が聞こえ、金属の鳴る音が重なる。

 

 ハーマイオニーの錠が、三度目で開いた。

 

「よろしい、ミス・グレンジャー!」

 

 フリットウィックが喜んだ。

 

「円をもう少し小さくすれば、さらに滑らかになります。グリフィンドールに二点!」

 

 ロンの箱は沈黙している。

 

 ハリーの錠は一度だけ震え、元へ戻った。

 

 悠太は自分の箱を観察した。

 

 日本で習った初歩の解錠術は、閉じている結び目を想像し、端からほどいていく。英国式の呪文は、鍵の機構へ直接働きかける。

 

 似ているが、同じではない。

 

 悠太は鍵穴の上に円を描いた。

 

「アロホモラ」

 

 錠の中で何かが動いた。

 

 だが開かない。

 

 もう一度。

 

 今度は、蓋だけがわずかに浮き、錠は閉じたままだった。

 

「反対」

 

 ハリーが言った。

 

「そうみたいだね」

 

 三度目は何も起きなかった。

 

 四度目には、箱が机の上で半回転した。

 

 ロンが笑う。

 

「逃げたぞ」

 

「持ち主に似たのかも」

 

 五度目。

 

 錠は開かない。

 

 悠太は杖を置き、羊皮紙へ一から五まで数字を書いた。

 

 一、内部だけ動く。

 

 二、蓋だけ浮く。

 

 三、反応なし。

 

 四、箱が逃げる。

 

 五、反応なし。

 

「失敗を記録してるの?」

 

 ハリーが覗き込む。

 

「同じ失敗を二度するのは、時間がもったいないからさ」

 

「三と五は同じだよ」

 

「もう二度しちゃった」

 

 悠太は三と五へ線を引いた。

 

 六度目は、杖の円を小さくした。

 

 錠が一度鳴る。

 

 七度目は、発音を遅くした。

 

 何も起きない。

 

 八度目は、日本式の像を捨て、真鍮の中にある留め金だけを考えた。

 

 かちり、と音がした。

 

 悠太は蓋へ手をかけた。

 

 開かなかった。

 

「今の音は近かった」

 

 ハーマイオニーが、前から見ていた。

 

「でも、最後の杖の引き方が逆よ」

 

「教科書の図では、こちらへ」

 

「あなたの席から見ると反対なの。先生の動きを正面から見たでしょう」

 

 悠太は図とフリットウィックの位置を見比べた。

 

「また鏡か」

 

「何が?」

 

「なんか今朝から、左右に負け続けてるから」

 

 ハーマイオニーは呆れたように息を吐いた。

 

「私の手を見て」

 

 自分の開いた箱を一度閉め直す。

 

 杖先で、ごく小さな円を描いた。

 

 最後に手首を返し、身体の方へ引く。

 

「アロホモラ」

 

 錠が滑らかに開いた。

 

「円を描く間は仕組みを探る。最後の動きで留め金を外すの。二つの動きを混ぜないで」

 

「分かりました」

 

 悠太は九度目を試した。

 

 円。

 

 発音。

 

 最後に引く。

 

 錠が鳴り、半分だけ浮いた。

 

「あと少し」

 

 ハリーが言う。

 

 十度目は、最初から力を入れすぎた。

 

 錠が固くなる。

 

 十一度目。

 

 箱が小さく震えた。

 

 十二度目。

 

「アロホモラ」

 

 かちり。

 

 真鍮の錠が持ち上がった。

 

 蓋を開けると、中には小さな青い羽根が一本入っている。

 

 悠太は息を吐いた。

 

「勝った?」

 

 ロンが尋ねる。

 

「十二回目。勝敗を数えるなら、一勝十一敗。大敗だね」

 

「最後に勝てばいいんだよ」

 

「その考え方は、少し気に入った」

 

 フリットウィックが本の山から下り、悠太の箱を覗いた。

 

「見事です。もっと早く開けた生徒はいますが、あなたは失敗を一つずつ分類していましたね」

 

「英国式の動きに、日本式の考え方を混ぜてしまいました」

 

「ええ。二つの文法で、一つの文を同時に話そうとしていたようなものです」

 

 フリットウィックの目が好奇心に輝く。

 

「ですが、片方を捨てる必要はありません。まず、それぞれを正しく話せるようになりなさい。混ぜるのは、それからです」

 

 マクゴナガルに言われたことと、よく似ていた。

 

 何を残し、何を変えるか。

 

 悠太は頷いた。

 

「覚えておきます」

 

「よろしい。なお、箱が逃げた四度目の方法も、別の呪文としてなら面白いかもしれません」

 

 教室に笑いが起きた。

 

 フリットウィックは次の机へ移った。

 

 ロンはまだ閉じた箱を睨んでいる。

 

「僕のは、逃げもしない」

 

「音は?」

 

「何の?」

 

「呪文をかけた時、錠の中で鳴った?」

 

「分からない」

 

「では、次は開けようとせず、音だけ聞いてみたらどうかな?」

 

「開ける授業なのに?」

 

「閉じたままの箱を睨む授業でもないよ」

 

 ロンは反論しかけ、もう一度杖を構えた。

 

 今度は声を少し小さくし、呪文のあとで耳を澄ませる。

 

 錠の中から、かすかな金属音がした。

 

「鳴った」

 

「なら、中までは届いてるはず」

 

 ロンの顔に、最初の手がかりを見つけた者の笑みが浮かんだ。

 

 その次の試みで箱は開かなかった。

 

 だが、もう睨むだけではなかった。

 

     *

 

 魔法史の教室には、眠気を誘う魔法がかけられているのではないか。

 

 授業が始まって十五分で、悠太は本気でそう疑った。

 

 カスバート・ビンズ教授は、黒板の前へ歩いて入ってきたのではない。

 

 壁を通り抜けてきた。

 

 自分が死んだことに気づかないまま授業へ来た、ホグワーツでただ一人の幽霊の教師だと、ロンが教えてくれた。

 

 それだけなら、十分に興味深い。

 

 問題は、ビンズが話し始めてからだった。

 

 声に高低がない。

 

 間もない。

 

 質問をするために息を吸う隙さえない。

 

 一六一二年のゴブリン反乱、その背景となった杖の携帯制限、ホッグズ・ヘッド旅籠周辺での衝突、魔法使い評議会の対応が、一本の長い糸のようにつながって流れていく。

 

 悠太は必死に羽根ペンを動かした。

 

 英語の教科書なら、分からない文章を戻って読める。

 

 ビンズ教授は戻らない。

 

 固有名詞を一つ聞き逃すと、次の三つが何を指すのか分からなくなる。

 

 羊皮紙には、途中から日本語が混ざり始めた。

 

 一六一二年。

 

 ゴブリン反乱。

 

 杖の所持? 携帯? 禁止の範囲を確認。

 

 旅籠——場所の名前を聞き落とした。

 

 魔法使い評議会。代表者の名、不明。

 

 横を見る。

 

 ハリーも眉間に皺を寄せ、教科書と黒板を交互に見ている。

 

 ロンは羽根ペンを握ったまま、目を閉じていた。

 

 完全に眠っている。

 

 前の席では、ハーマイオニーだけが途切れずに書き続けていた。

 

 耳で聞いた言葉を、そのまま整った文章へ変えている。

 

 悠太は対抗しようとした。

 

 三分で諦めた。

 

 勝てないものへ正面から挑み続けるのは、勇気ではなく時間の浪費かもしれない。

 

 要点だけを拾う方針へ変える。

 

 ところが、ビンズ教授の話では、どの言葉も同じ重要さに聞こえた。

 

 税率の変更と、反乱軍が橋を占拠したことと、評議会の書記官が会議へ遅れたことが、まったく同じ調子で語られる。

 

 悠太の羊皮紙には、やがて大きく一文だけが残った。

 

 ——あとでハーマイオニーに聞く。

 

 その下に、念のため二本の線を引いた。

 

 鐘が鳴っても、ビンズ教授はしばらく話し続けた。

 

 生徒が立ち上がり始めてから、ようやく頁を閉じる。

 

「では次回、反乱後の杖規制と、一六一四年の補足決議について続ける」

 

 壁の向こうへ消えていった。

 

 ロンが目を開けた。

 

「終わった?」

 

「あなたの授業は、始まってもなかったようだけど?」

 

 ハーマイオニーが言った。

 

「聞いてたよ」

 

「最後に覚えている言葉は?」

 

 ロンは考えた。

 

「一六一二年」

 

「最初の一分じゃない」

 

「年は合ってる」

 

 ハリーが自分の羊皮紙を見せた。

 

 前半は文字が並び、後半は同じ単語が何度か重なっている。

 

「僕も途中から分からなくなった」

 

「悠太は?」

 

 ロンが覗き込む。

 

 日本語と英語の混ざった断片、その最後に大きく書いた一文を見て笑った。

 

「何でもできる交換留学生じゃなかったのか?」

 

 声には昨夜の小さな棘が、ほんの少しだけ残っていた。

 

 悠太は羊皮紙を隠さなかった。

 

「いや、英語の魔法史は難しい」

 

「あっさり認めるんだな」

 

「素直な優等生を目指してるから」

 

 ハリーが噴き出した。

 

 ロンも笑った。

 

 小さな棘が、今度は少しだけ丸くなった。

 

「ハーマイオニー」

 

 悠太は自分の羊皮紙を持って、前へ行った。

 

「ノートを見せてもらえる?」

 

「昨夜、全部読んできたんじゃなかったの?」

 

「教科書は、壁を通り抜けながら休まず話さない」

 

 ハーマイオニーは笑いそうになり、真面目な顔を保とうとした。

 

「私のノートが必要だって、最初から書いてあるわね」

 

「授業で最も確実に理解できたところの一つ」

 

 羊皮紙の最後の一文を指す。

 

「仕方ないわ。朝に渡した分と一緒に貸す。でも、写すだけじゃなくて、分からなかったところは自分で調べて」

 

「うん」

 

「それと、教授が言ったのはホッグズ・ヘッド旅籠。書記官の名前を聞き落としているけど、それは教科書の二百七頁にあるわ」

 

「そこまで聞き取れたの、さすが」

 

「聞いていれば分かるわ」

 

 背後でロンが、聞こえないように口だけ動かした。

 

 ハーマイオニーは振り返った。

 

「何?」

 

「何も」

 

 悠太は借りた羊皮紙を丁寧に自分の束へ重ねた。

 

 帽子は、自分に知性があると言った。

 

 それは、何でも最初から知っているという意味ではないらしい。

 

 分からないと認め、知っている者へ尋ねるところから始まる知性もある。

 

 少なくとも今朝は、それがなければ昼食までたどり着けなかった。

 

     *

 

 大広間へ戻る途中、ネビルの鞄が開いた。

 

 階段の踊り場で留め具が外れ、教科書、羊皮紙、インク壺が石床へ散らばる。

 

「まただ」

 

 ネビルはしゃがみ込んだ。

 

 前を歩いていた生徒たちは、その横を避けて通っていく。昼食を逃したくないロンも二段下りたが、ハリーが戻ったのを見て足を止めた。

 

 悠太とハリーは教科書を拾い、ハーマイオニーは転がるインク壺を靴で止めた。

 

「留め具が曲がってるわ」

 

 ハーマイオニーが鞄を調べた。

 

「閉めても、また開くと思う」

 

「僕、直す呪文を知らない」

 

 ネビルの声が沈む。

 

「呪文でなくても、昼までは持たせられるはず」

 

 悠太は、日本魔法省から届いた封筒を取り出した。

 

 朝の書類をまとめていた細い赤い組紐をほどき、鞄の留め具へ通す。

 

 二度巻き、引けば締まる形に結んだ。

 

「これだと開けない。ほどく時は、ここを引いて」

 

「手紙の紐、使ってよかったの?」

 

「用件はもう読んだから」

 

「ありがとう」

 

 ネビルは鞄を背負い、何度か揺らした。

 

 今度は開かない。

 

 ロンが二段上へ戻ってきた。

 

「終わった?」

 

「うん」

 

「急がないと、ソーセージがなくなる」

 

「朝も食べていたでしょう」

 

「朝の分と昼の分は別だ」

 

 五人で階段を下り始める。

 

 ハーマイオニーは一緒に歩いていたが、まだ輪の中心には入っていなかった。半歩前で時間割を確認し、時折、後ろの三人の会話へ振り返る。

 

 ハリーとロンは一か月を共に過ごした友人だった。

 

 悠太は、昨日その隣に席をもらったばかりだった。

 

 ハーマイオニーとはノートを借り、授業の答えを教わっただけだ。

 

 四人を一つの名で呼べるほどの何かは、まだ起きていない。

 

 それでも、ネビルの荷物を拾うため、五人が同じ階段で足を止めた。

 

 今は、それで十分だった。

 

     *

 

 昼食のあとには、魔法薬学が待っていた。

 

 時間割を見たロンが、露骨に嫌な顔をした。

 

「初日の最後がスネイプか。運が悪いな」

 

「セブルス・スネイプ先生?」

 

 悠太は、昨夜の教師席を思い出した。

 

 蝋燭の光さえ吸い込むような黒いローブ。

 

 自分の名を聞いた瞬間だけ止まった手。

 

 こちらを見つめ、先に目をそらした黒い瞳。

 

「知ってるの?」

 

 ハリーが尋ねる。

 

「名前だけ。昨日、紹介された」

 

「あの人、ハリーを嫌ってるんだ」

 

 ロンが声を低くした。

 

「入学して一か月で?」

 

「最初の授業からだよ」

 

「何かしでかしたの?」

 

「何もしてない」

 

 ハリーの返事は短かった。

 

 怒っているというより、考えたくないことへ触れられた顔だった。

 

 悠太はそれ以上聞かなかった。

 

「スリザリンの寮監でもあるわ」

 

 ハーマイオニーが説明した。

 

「魔法薬学には、グリフィンドールとスリザリンが一緒に出る。授業は地下牢よ」

 

「地下牢で薬を作るんですか」

 

「鍋が爆発しても、城の上まで飛ばないように」

 

 ロンが言った。

 

「嘘でしょう」

 

「半分は」

 

 昨夜の悠太の言葉を返し、ロンが笑った。

 

 地下へ下りるほど、空気は冷たくなった。

 

 石壁から湿気が滲み、窓はなく、松明の火だけが長い影を作っている。

 

 パーバティの地図も、地下牢の近くでは線が少なかった。

 

「ここからは、誰も好んで探検しないの」

 

 彼女は昼食の席でそう言っていた。

 

 廊下の先には、すでにスリザリンの一年生たちが集まっている。

 

 ドラコ・マルフォイがクラッブとゴイルを両側に立たせ、悠太たちが来るのを見た。

 

 薄い唇が、わずかに曲がる。

 

 パンジー・パーキンソンも隣にいる。

 

 悠太と目が合うと、すぐにドラコの方へ顔を向けた。

 

 まだ言葉は交わさなかった。

 

 ただ、昨日大広間で向けられた視線と同じものが、冷たい廊下で待っていた。

 

 教室の扉が開いた。

 

 中には二人掛けの机と、黒い大鍋が並んでいる。壁際の棚には、色の失せた植物、瓶詰めの根、動物の一部らしいものが液体の中に浮かんでいた。

 

 悠太は一つの瓶と目が合った気がして、見なかったことにした。

 

 生徒たちが席へ着く。

 

 ハリーとロンが並び、悠太はその後ろの席へ座った。隣にはネビルが来る。

 

 ハーマイオニーは通路を挟んだ机で、教科書と羽根ペンを準備している。

 

 私語が少しずつ消えた。

 

 奥の扉から、セブルス・スネイプが現れた。

 

 歩くというより、黒い影が床を滑ってくるようだった。

 

 教壇へ立つ。

 

 細い手が出席簿を開いた。

 

 悠太は、理由もなく背筋を伸ばした。

 

 スネイプは名前を一人ずつ読み上げた。

 

 返事が続く。

 

「ハリー・ポッター」

 

「はい」

 

 黒い目が、ハリーの顔へ長く止まった。

 

 教室の空気が一段冷えたように感じられる。

 

 やがて視線が出席簿へ戻った。

 

 細い指が、次の行で止まる。

 

 スネイプはそこに書かれた名を見ていた。

 

 昨夜、全校生徒の前で一度聞いた名。

 

 そして、それよりはるか昔、忘れたと決めた記憶の底に残っている名。

 

 あり得ない。

 

 紙の上にあるのは、同姓同名の十一歳にすぎない。

 

 スネイプは顔を上げた。

 

 教室の後ろで、少年がまっすぐこちらを見ている。

 

 顔は違う。

 

 記憶の中に残る人物とは、何もかも違う。

 

 だが黒い瞳は、問いを投げる時だけ妙に静かだった。

 

 スネイプの唇が開く。

 

 その名が、低い声で地下教室へ落ちた。

 

「ユウタ・ワタナベ」

 

 悠太の胸の奥で、何かが一度だけ強く鳴った。

 

 痛みではない。

 

 懐かしさでもない。

 

 扉の向こうから、自分の知らない誰かが同じ名を呼んだような感覚だった。

 

 けれど次の瞬間には消えている。

 

 記憶は戻らない。

 

 何一つ、思い出さない。

 

 悠太はただ、初めて授業を受ける教師へ返事をした。

 

「はい、先生」

 

 その声を聞いた瞬間、スネイプの黒い瞳が、わずかに細くなった。

 

 組分け帽子は、悠太の中に四つの寮の資質を見た。

 

 だが今、地下教室で彼を見つめている男が探しているのは、そのどれでもなかった。

 

 存在するはずのない面影を、十一歳の少年の中から探していた。

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