ハリー・ポッターと東洋の魔剣士 作:キャン
「はい、先生」
悠太の返事が、地下教室へ落ちた。
セブルス・スネイプは、すぐには次の名前を読まなかった。
出席簿へ置かれた細い指も動かない。
黒い瞳だけが、教室の後ろに座る十一歳の少年を見ている。
悠太は目を逸らさなかった。
教師に名を呼ばれたのだから返事をした。それだけのはずだった。
けれど胸の奥には、まだ一度だけ強く鳴った何かの余韻がある。
知らない扉の向こうで、自分と同じ名を呼ばれたような感覚。
思い出そうとすると、何もない。
夢から覚めた時と同じだった。
顔も、声も、場所も残っていない。
スネイプの視線だけが、そこに答えがあると疑っているように見えた。
「……聞こえました、先生」
返事が足りなかったのかと思い、悠太は付け加えた。
教室の前で、ロンが肩を震わせた。
笑ったのではない。笑いそうになったのを我慢したのだ。
スネイプの目が、さらに細くなった。
「二度も返事をする必要はない、ミスター・ワタナベ。一度で理解できる程度には、私の耳は正常だ」
「失礼しました」
「かつて、グリフィンドールの卒業生にしては珍しく、優秀なお前の同じ名前の英雄がいた。せいぜい名前負けしないようにすることだ」
悠太は黙った。
しばらくして、細い指がようやく次の行へ移った。
「ロナルド・ウィーズリー」
「はい」
ロンの返事は、先ほどより少し真面目だった。
残りの名前が読み上げられる。
スネイプは出席簿を閉じた。
乾いた音が、授業の始まりを告げた。
*
「この教室に初めて入る者が一人いるからといって、五週間分の授業を最初から繰り返すつもりはない」
スネイプは教壇の前へ出た。
黒いローブが、足元で影のように広がる。
「ミスター・ワタナベ」
「はい、先生」
「日本魔法省からは、英国一年生課程の基礎を独学したと報告を受けている。交換留学生という肩書が、失敗を別の名に変えてくれるとは思わないことだ」
「分かりました」
「そして、残りの諸君」
黒い瞳が、グリフィンドールとスリザリンの一年生を順に通り過ぎた。
「一か月学んだという事実だけで、一か月分賢くなったと思わないことだ。過去の大鍋が証明している」
隣で、ネビルの肩が縮んだ。
九月の最初の魔法薬学で、火から下ろす前の大鍋へヤマアラシの針を入れた。
鍋は溶け、薬は床へ流れ、ネビルの腕と足には腫れものができたという。
昨夜、ロンから聞いた話だった。
どうしてスネイプを怒らせてはいけないかという説明の途中で、ロンは大鍋が溶けるところだけ少し楽しそうに話していた。
ネビル本人は、一度も笑わなかった。
今も机の上の黒い鍋を、噛みつく動物のように見ている。
「本日の課題は、忘れ薬」
スネイプが杖を振った。
黒板へ白い文字が現れる。
レテ川の水。
カノコソウの小枝。
ヤドリギの実。
その下へ分量と手順が一行ずつ加わった。
「この薬は、少量で直前の記憶を曖昧にする。正しく作れば、忘れたい小さな失敗を一時的に遠ざける程度だ」
スネイプは教室を見渡した。
「正しく作れば、だ。濃すぎれば、自分が何を忘れたかさえ分からなくなる。薄すぎれば、頭痛と不快な味だけが残る」
ロンが、小声でハリーへ言った。
「宿題を忘れるために飲んで、飲んだことだけ忘れたら便利かな」
「宿題そのものは残るよ」
「では、ミスター・ウィーズリー」
スネイプの声が飛んだ。
「君の将来設計はあとで聞くとして、レテ川の水を沸騰させてはならない理由を答えろ」
ロンの口が開いたまま止まった。
ハーマイオニーの手が、通路の向こうで勢いよく上がる。
「ええと……効きすぎるからですか」
「見事な推測だ。正解から遠いという点を除けば」
スリザリン側から笑いが起きた。
ドラコ・マルフォイが、クラッブの方へ顔を寄せている。
「ミスター・ポッター」
ハリーは背筋を伸ばした。
「レテ川の水を強く沸騰させると?」
「記憶へ働く成分が、湯気と一緒に抜けます」
ハーマイオニーの手が少し下がった。
答えは合っているらしい。
「少なくとも、前回の失敗まで忘れてはいないようだな」
スネイプの唇が、ほとんど笑わない形で曲がった。
ハリーの顔から、答えられた安堵が消える。
「五点を与えてほしいかね? 有名人が教科書を一行覚えた記念に」
「いいえ、先生」
ハリーは答えた。
声には、押し込めた怒りがあった。
「賢明だ」
スネイプの視線が、教室の後ろへ戻る。
「立て。ミスター・ワタナベ」
悠太は席を立った。
教室中の目が集まる。
昨日、大広間へ入った時ほどではない。
そう思うと、不思議と息がしやすかった。
「カノコソウを加える前に、レテ川の水を何度まで冷ます?」
黒板には温度が書かれていない。
ハーマイオニーから借りた一か月分のノートには、忘れ薬の予習頁があった。
「銀の匙を入れ、曇りが消える温度までです」
「温度を聞いた」
「教科書には数字ではなく、そのように書かれていました」
「質問を屁理屈で返すように、マホウトコロでは教わるのかね?」
悠太は考えた。
日本では摂氏を使う。
英国魔法界の古い教本では、炎の色や銀器の反応で温度を示すことが多い。数字を見た覚えはなかった。
「正確な数字は分かりません、先生」
「では、最初の答えも不完全だ」
「はい」
「ヤドリギの実を潰す時、銀の刃を使ってはならない理由は?」
「銀が果汁へ反応し、薬効を弱めるからです」
「どの成分と反応する?」
「分かりません」
「マホウトコロは分からないという言葉を多く使った者ほど評価されるようだ」
「いいえ。分かるようになるまで調べます」
「今は授業中だ」
「ですから、今は分からないと答えました」
敬語は崩していない。
それでも、教室の温度がさらに下がった気がした。
スネイプは教壇へ片手をついた。
「ならば、調べる価値のある問いを増やしてやろう。忘れ薬の過剰摂取に用いる解毒薬を三つ挙げ、それぞれが記憶のどの段階へ作用するか説明しなさい」
ハーマイオニーの手が、また高く上がった。
今度は彼女も、すぐには答えられないのかもしれない。指先が迷うように動いている。
悠太は頭の中で、日本の初歩魔法薬学と英国の教科書を探した。
解毒薬の名を二つまでは思い出せる。
だが、どの段階へ作用するかまでは読んでいない。
知っている部分だけを並べれば、答えたようには聞こえるだろう。
それをしたくなかった。
「分かりません、先生」
「優秀な留学生だと思っていが、期待外れだ」
スネイプは即座に言った。
「いくつかの文章を暗記し、質問が教科書の外へ出た途端に止まる。グリフィンドールから一点」
悠太は瞬きをした。
「理由を伺ってもよろしいですか」
「授業の時間を、君の知識の浅さを確認することに使ったからだ」
それは、自分から問いを重ねた教師が言うには、少し不思議な理由だった。
腹は立っている。
だが声を大きくすれば、正しいことまで聞こえなくなる気がした。
悠太は一度、息を吸った。
「そうですか。申し訳ありません。先生の考え方がよく分かりました」
スネイプの眉が、わずかに動いた。
「では、次からは、分からない部分も分かったように答えれば、授業時間を節約できるでしょうか」
ロンが机の下で何かを蹴った。
おそらく、ハリーの足だった。
ハーマイオニーは完全に手を下ろしている。
スネイプだけが動かなかった。
その言葉を知っていた。
正確には、言葉ではない。
分からないものへ勝手な答えを与えず、境界へ線を引く考え方。
礼儀を崩さないまま、理不尽だけを切り返す間。
黒い瞳の奥で、遠い記憶が一度だけ形を持ちかけた。
もっと低い声。
今より流暢な英語。
同じようにまっすぐこちらを見る、別の誰か。
スネイプは、その像を怒りで押し潰した。
「必要なのは、口を開く前に答えを知っておくことだ」
声が先ほどより低くなる。
「生意気な言い換えに、さらに一点。座れ」
「承知しました」
悠太は座った。
前の席から、ロンがほんの少し振り返る。
「今、スネイプに言い返したのか?」
声は、息だけでできていた。
「敬語は使ったよ」
悠太も小声で返した。
「そこが問題じゃない」
「僕も今、そう思った」
ハリーが俯いたまま、わずかに笑った。
「そこ。私語を続ける余裕があるなら、グリフィンドールから何点失えば静かになるか試してもよい」
スネイプの声が飛んだ。
「失礼しました、先生」
悠太は今度こそ口を閉じた。
同級生に話す時の言葉だけが、先ほどまでと少し変わっていた。
自分でも、口にしてから気づいた。
英語を間違えないことばかり考えていた昨日より、肩の力が抜けている。
たとえ少しくらいおかしな言い方をしても、ロンなら笑う。ハリーなら意味を待ってくれる。ハーマイオニーなら、その場で直すだろう。
それが分かったからかもしれなかった。
*
「手順を最後まで読んでから始めろ」
スネイプは杖を振り、黒板の下段を開いた。
細かな文字で、調合の順序が現れる。
「二人で一つの大鍋を使う。ミスター・ワタナベはミスター・ロングボトムと組め」
ネビルの顔が強張った。
「片方は今日が初めて、片方は一度鍋を溶かしている。互いの不足を補えるか、増やすか。興味深い組み合わせだ」
スリザリン側で笑い声がした。
ネビルは俯いた。
悠太はスネイプを見たが、何も言わなかった。
今ここで言い返せば、ネビルの失敗を教室中へもう一度見せることになる。
代わりに、黒板の手順を最初から読んだ。
一、レテ川の水を弱火で温める。
二、銀の匙の曇りが消えたら火を止める。
三、カノコソウの小枝を左回りに三度沈める。
四、木の器で潰したヤドリギの実を七粒加える。
五、右回りに二度、左回りに一度混ぜる。
六、青白い湯気が細い輪になれば完成。
悠太は、二と四へ線を引いた。
火加減と道具を間違えれば、戻せない部分だった。
「見た?」
ネビルへ小声で尋ねる。
「うん」
「最初から、一緒に確認しよう」
「僕がやると、また失敗するかもしれない」
「僕もさっき一点取られた」
「あれは失敗なの?」
「スネイプ先生の中では」
ネビルは少しだけ口元を緩めた。
「どっちをやりたい?」
「え?」
「水と火を見るか、材料を量るか。好きな方」
ネビルは迷った。
「材料を量る」
「じゃあ、僕が火を見る。量り終わったら二人で確認しよう」
「分かった」
ネビルは、それでよさそうだった。
「作業を始めろ」
スネイプの一声で、椅子が一斉に動いた。
材料棚の前へ生徒が集まる。
ハリーとロンが一組。
ハーマイオニーはパーバティと大鍋を共有した。
ドラコはゴイルへ材料を運ばせ、クラッブに火を起こさせている。
パンジーはミリセント・ブルストロードと、木の器を取り合っていた。
悠太は棚から小瓶を一つ取った。
中の水は、普通の水より僅かに白い。
揺らすと、表面に薄い霧が走った。
ラベルには、英語とラテン語らしい文字が並んでいる。
「レテ川の水で合ってる?」
ネビルが尋ねる。
「たぶん」
「たぶん?」
「待って。似た瓶がもう一つある」
隣には、無色の液体が入った小瓶があった。
どちらもLで始まり、その先の筆記体が飾り線の中で絡まって見える。
悠太は二つを並べた。
英語の筆記体は、活字体と別の言葉のようだった。
「それ、片方はレースウィングの保存液よ」
通路の向こうから、ハーマイオニーが言った。
「こっち?」
「白い霧が出る方。レテはL・e・t、レースウィングはL・a・cで始まるわ」
「ありがとう、ハーマイオニー」
名前を呼ぶと、彼女が一瞬だけ目を瞬いた。
「何?」
「いや。間違えるところだった」
「だから、最初から全部読まないと駄目なのよ」
「聞こえているぞ、ミス・グレンジャー」
スネイプが教室の反対側から言った。
「自分の鍋へ、その豊富な知識を使うことを勧める」
ハーマイオニーは唇を結んだ。
悠太は正しい方の水を大鍋へ注いだ。
五週間分を独学しても、瓶の字までは覚えられない。
失敗しなかったのは、自分が優秀だったからではなく、ハーマイオニーが見ていたからだった。
*
大鍋の下へ、青い火を灯す。
レテ川の水は、温まっても泡を立てなかった。
表面の霧だけが少しずつ薄くなり、代わりに甘い匂いが教室へ広がっていく。
雨に濡れた石。
古い羊皮紙。
火の消えかけた暖炉。
悠太は、杓子を持つ手を止めた。
知っている匂いだった。
初めて嗅いだはずなのに、知っている。
胸の奥へ、温かさと痛みが同時に広がる。
誰かと机を挟み、夜遅くまで話していたような気がした。
だが、向かい側の顔はない。
話した内容もない。
手を伸ばしても、霧の中には何も残らなかった。
「悠太?」
ネビルの声で、教室へ戻る。
銀の匙が、大鍋の中で曇っていた。
「火、止めなくていい?」
「今止める」
悠太は急いで火を消した。
銀の曇りは、ちょうど消え始めている。
間に合った。
「どうしたの?」
「匂いが、どこかで……」
そこまで言い、首を横へ振った。
「何でもない。初めての匂いに酔っただけだと思う」
何一つ思い出してはいない。
ならば、記憶ではない。
昨日から続く緊張と、地下教室の空気が見せた錯覚かもしれなかった。
「少し休む?」
「大丈夫。次はカノコソウだ」
ネビルは量った小枝を見せた。
「これで合ってると思う」
悠太は秤を確かめた。
針は指定の目盛りより、ほんの少し左にある。
「少し軽い」
「やっぱり?」
「小さいのを一本足そう」
ネビルは一番細い小枝を選び、慎重に載せた。
針が中央へ動く。
「合った」
「今度は大丈夫?」
「僕にも見せて」
前からロンが振り返った。
彼の秤には、小枝が山のように載っている。
「それは多いよ」
「同じ目盛りだ」
「受け皿を載せる前に、針を零へ戻した?」
ロンは秤を見た。
「戻してない」
「僕も今朝、同じことをした」
「じゃあ、先に言えよ」
「今、言った」
ハリーが笑いながら、小枝を皿から減らした。
「半分くらい戻さないと」
「高かったのに」
「使わなければ返せるよ」
「一度自分の皿へ載せた薬草を、棚へ戻すな」
黒い袖が、ロンの肩の向こうにあった。
ロンの顔から色が消えた。
「すみません、先生」
「謝罪で薬草は清潔にならない。余った分は廃棄箱へ。ミスター・ウィーズリーの秤へ目を配る暇があるなら、ミスター・ワタナベは自分の鍋を見ることだ」
「はい、先生」
スネイプは、悠太たちの大鍋を覗いた。
「火を止めるのが遅い」
「銀の曇りが消え始めたところで止めました」
「始めたところではない。半分消えたところだ」
黒板を見直す。
細い文字で、確かにそう書かれている。
「見落としました」
「独学の成果がよく表れている」
「やり直した方がよろしいですか」
「時間は戻らない。火も入れ直さずにそのまま続け、どの程度弱くなるかを自分で確かめることだ」
「分かりました」
スネイプは次の机へ進みかけ、足を止めた。
「先ほど、何を見ていた?」
「何も」
「何もない場所を見る癖があると?」
悠太は大鍋から立ち上がった甘い匂いを思い出した。
「どこかで嗅いだ匂いに似ていると思いました。ただ、場所は思い出せません」
スネイプの顔が、僅かに強張った。
「忘れ薬の湯気を吸って、思い出せないと騒ぐ。実に高度な冗談だ」
「冗談ではありません」
「ならば、ただの集中不足だ。次に火を止め損なえば、グリフィンドールから五点」
「はい、先生」
スネイプは離れた。
黒いローブの動きが、いつもより僅かに速い。
悠太はその背中を見た。
自分が匂いのことを話した瞬間、スネイプの目に怒りとは違うものが現れた気がした。
恐れ。
そう見えたのは、一瞬だけだった。
*
カノコソウの小枝を加える番になった。
「左回りに三度」
悠太が手順を読む。
「僕がやってもいい?」
ネビルが尋ねた。
「もちろん」
「失敗したら?」
「二人で直す。直せなかったら、二人で零点だ」
「零点は嫌だな」
「僕も嫌だ。だから一緒に数える」
ネビルは小枝を持った。
手が僅かに震えている。
大鍋へ沈め、一度目。
「一」
二度目。
「二」
三度目。
「三。止めて」
ネビルはすぐに手を上げた。
液体が、透明から薄い藤色へ変わる。
黒板どおりだった。
「できた」
ネビルの顔に、小さな笑みが浮かんだ。
「半分は」
悠太が言う。
「半分も、だよ」
今朝の言葉を返され、悠太は笑った。
「そうだね。半分もできた」
次はヤドリギの実だった。
木の器へ七粒を入れる。
潰すための小さな杵を握った瞬間、悠太の指が深く回り込んだ。
何かの柄を固定するような持ち方になる。
今朝、マクゴナガルに注意されたばかりだった。
悠太は手を緩めた。
「押し潰すだけでいいの?」
ネビルが聞く。
「皮が破れて、果汁が出ればいいみたいだ」
「細かくしすぎるな」
背後からスネイプの声がした。
悠太は杵を止めた。
「はい、先生」
「果肉まで粉にすれば、濾す前に薬が冷える。ミスター・ワタナベ。なぜ一粒ずつ同じ方向から潰した?」
「果汁の出る量を揃えたかったからです」
「見た目が同じ実なら、含まれる量も同じだと思うのか?」
「いいえ。正確には揃いません。ただ、潰し方まで変えるより誤差が減ると思いました」
「思った?」
「日本で習った初歩調合では、材料の大きさと切り方を揃えるよう教わりました。英国式でも同じかは、まだ分かりません」
スネイプは、木の器の中を見た。
一粒だけ指先で裏返す。
「考え方は間違っていない。だが、この薬では果汁の量より、潰してから加えるまでの時間を揃える方が重要だ。空気へ触れた果汁から効力が落ちる」
「では、全部を続けて潰し、すぐ入れるんですね」
「黒板の四行目を読める程度には、英語を学んできたと思っていたが」
四行目には、七粒を続けて潰し、十秒以内に加える、と書いてある。
悠太は見落としていた。
「失礼しました。教えていただき、ありがとうございます」
スネイプの目が、僅かに細くなる。
今の礼には皮肉はない。
正しいことを教えられたのだから、礼を言っただけだった。
それがかえって、スネイプを困らせたように見えた。
「礼を言う前に、手を動かせ」
「はい」
悠太とネビルは、残りを続けて潰した。
七粒目が割れた瞬間、すべてを大鍋へ入れる。
藤色の液体が、一度だけ白く光った。
「十秒以内だ」
ネビルが言った。
「できた」
「今度は、本当に?」
「黒板を見よう」
二人で最後の手順を確認する。
右回りに二度。
左回りに一度。
「僕が右をやる。ネビルが左をやる?」
「途中で人が変わってもいいのかな」
黒板には書いていない。
「同じ人がやった方がいいかもしれない」
「どっちがやる?」
「最後までネビルがやって」
「僕?」
「さっき三回、正確にできた」
ネビルは杓子を見た。
手の震えは、先ほどより小さい。
「分かった」
右へ一度。
二度。
左へ一度。
悠太は口に出して数えず、指だけで示した。
最後の一回が終わる。
大鍋から、青白い湯気が立ち上った。
最初は一本の細い線。
やがて先端が曲がり、輪になる。
完全な円ではない。
右側が薄く、少し開いている。
「輪になった」
ネビルの声が明るくなる。
「少し欠けてる」
「失敗?」
悠太は教科書の見本を見た。
「火を止めるのが遅かった分、弱いんだと思う。でも薬にはなってる」
「零点じゃない?」
「たぶん」
「たぶん、か」
「採点するのはスネイプ先生だから」
ネビルは黒いローブの背中を見た。
「急に零点って言われるかもしれない」
「その時は、理由を聞こう」
「悠太みたいに?」
「僕みたいに聞くと、さらに点を取られる」
ネビルは声を立てずに笑った。
*
教室のあちこちから、湯気の輪が上がり始めた。
ハーマイオニーとパーバティの鍋には、形の整った青白い輪が三つ浮かんでいる。
ハリーとロンの輪は、途中で二つに切れた。
ドラコたちの鍋からは、少し太いが途切れない輪が上がっていた。
パンジーは自分の鍋より、悠太たちの欠けた輪を見ている。
目が合うと、すぐに顔を背けた。
「完成した者は小瓶へ移せ」
スネイプが言った。
「一人一瓶。組んだ相手と同じ鍋でも、名札は別だ。失敗を共有することと、記録を省くことは違う」
悠太は杓子で薬を掬った。
液体は、ごく薄い藤色をしている。
ネビルの瓶へ先に注ぎ、自分の分を取る。
同じ量にしようとすると、最後の一滴が足りない。
「ユウタの方が少ないよ」
「同じ鍋だから、効き目は同じだと思う」
「でも、量が」
「じゃあ、半分ずつ戻して分け直そう」
二つを大鍋へ戻し、今度は目盛りを見ながら注いだ。
ほぼ同じ高さになった。
「最初からそうすればよかった」
「次はそうする」
名札を書く。
NEVILLE LONGBOTTOM。
YUTA WATANABE。
自分の名前を書いた瞬間、スネイプの視線を感じた。
顔を上げる。
黒い瞳は、すぐに別の生徒へ向いた。
提出された小瓶が、教壇へ並ぶ。
スネイプは一つずつ光へ透かした。
「濁っている。ミスター・ポッター。忘れ薬ではなく、飲んだ者に忘れたい味を与える薬なら成功だ」
ハリーの瓶が机へ戻される。
「ウィーズリー君。底の果肉まで提出する必要はない」
「同じ鍋です、先生」
「ならば失敗も共有できて結構」
ドラコの瓶を見た時だけ、スネイプの声から棘が少し減った。
「適切な濃さだ。少なくとも指示を読む者はいたらしい」
ドラコが得意そうにハリーを見た。
次に、ハーマイオニーとパーバティの瓶を取る。
液体は透明に近い藤色で、沈殿物もない。
スネイプは長く見た。
「……合格だ」
それだけだった。
ハーマイオニーの顔には、答えを知っていたのに一度も指名されなかった時と同じ不満が浮かんだ。
最後に、ネビルと悠太の瓶が残った。
スネイプはネビルの方を先に取った。
光へ透かす。
「薄い」
ネビルの肩が縮んだ。
「ただし、忘れ薬ではある。ミスター・ロングボトムにしては、大鍋も原形を保っている」
スリザリン側で、また笑いが起きた。
悠太は口を開きかけた。
ネビルが先に答えた。
「はい、先生」
声は小さい。
それでも、俯かなかった。
スネイプは悠太の瓶も確かめた。
「同じだ」
「同じ鍋ですから」
「見れば分かる」
「最後の湯気を判断したのはネビルです。混ぜる回数も間違えませんでした」
ネビルが悠太を見た。
スネイプの目が、二人の間を動く。
「君の功績を聞いてはいない」
「僕ではなく、ネビルの——」
「聞いていないと言った」
「失礼しました」
スネイプは小瓶を箱へ入れた。
「二人とも及第。火を止めるのが遅れなければ、もう一段上だった」
ネビルの顔に、安堵が広がった。
零点ではない。
大鍋も溶けなかった。
それだけで、今は十分だった。
悠太も息を吐いた。
自分一人なら、途中で火を止め損ねたあと、やり方を変えすぎていたかもしれない。
黒板どおりに続けられたのは、ネビルが何度も一緒に手順を確認したからだった。
優秀な者が失敗する者を助けた授業ではない。
二人とも失敗しそうになり、二人で最後まで作った授業だった。
*
鐘が鳴った。
「器具を洗い、材料棚を元へ戻せ。渡辺君は残れ」
ロンが、露骨に気の毒そうな顔をした。
ハリーは鞄へ教科書を入れながら、悠太を見る。
「外で待ってる」
「先に行ってていいよ」
「待ってる」
今度は言い切った。
ロンも溜め息をつく。
「帰ってこなかったら、昼食は僕が食べておく」
「助けを呼んでよ」
「食べてから呼ぶ」
「その頃には夕食になってる」
ハーマイオニーは、悠太の羊皮紙を指した。
「さっきの匂いのこと、書いておいた方がいいわ。何を感じたか忘れる前に」
「忘れ薬の授業らしいね」
「冗談を言ってないで」
「分かった、グレンジャー先生」
「同級生には敬語をやめたんじゃなかったの?」
「今のは先生として扱ったから」
パーバティが笑った。
ハーマイオニーは眉を寄せたが、口元は少し緩んでいた。
「廊下にいるから」
五人は教室を出た。
重い扉が閉じる。
地下教室には、悠太とスネイプだけが残った。
*
先ほどまで大勢の生徒がいた教室は、急に広くなった。
火の消えた大鍋から、僅かな湯気だけが上がっている。
スネイプは教壇へ戻り、提出された小瓶を箱へ並べた。
悠太は机の横で待った。
先生から話すまで、こちらから口を開くべきではない。
そのくらいの礼儀は、日本でも英国でも同じだろう。
「君は」
スネイプは小瓶を見たまま言った。
「教師へあのような口を利くことを、マホウトコロで認められていたのか?」
「いいえ、先生」
「では、なぜした?」
悠太は考えた。
ただ謝れば、早く終わるかもしれない。
だがスネイプが聞いているのは、謝罪ではなく理由だった。
「授業を止めたことは、申し訳ありませんでした」
「聞いているのは、なぜしたかだ」
「分からないことを、分かるとは答えられなかったからです」
「それだけなら、黙って座ればよかった」
「減点の理由が、分からなかったので」
「私の判断を採点するつもりか」
「いいえ。ただ、理由が分かれば次に直せます」
「皮肉を?」
「それは、努力します」
「やめるとは言わないのだな」
「できない約束はしない方がよいと思います」
敬語は使っている。
けれど、また皮肉に聞こえたかもしれない。
悠太は言い直そうとした。
「今のは——」
「分かっている」
スネイプの声が遮った。
分かっている。
その言葉は、叱責より奇妙だった。
黒い瞳が、ようやく悠太へ向く。
「その英語は、誰に教わった?」
「日本魔法省の先生方です」
「皮肉の方だ」
「それは、誰にも」
「両親は?」
「二人とも魔法使いではありません。島根で布団店を営んでいました。今は、二人とも亡くなっています」
言葉にすると、胸の奥へ小さな空白ができた。
悲しい記憶が浮かぶわけではない。
幼い頃の家も、両親の顔も、なぜかはっきりとは思い出せない。
教育局からは、事故の衝撃と幼少期の記憶だからだと説明されている。
悠太はそれを信じていた。
スネイプの顔には、何も現れなかった。
入学書類と同じ答えだった。
目の前の少年は、一九八〇年に島根県で生まれたマグル生まれの魔法使い。
書類には、そう記されている。
顔も違う。
声も違う。
年齢も違う。
同じなのは名前と、国籍と、いくつかの癖だけだ。
それだけで、二度と戻らないはずの者の影を一人の少年へ重ねる方が、どうかしている。
「マホウトコロで、英国の魔法薬学をどこまで学んだ?」
「基礎理論だけです。使う材料も、手順も違います」
「それにしては、知らないことを区切るのが上手い」
「知っているふりをして間違える方が、薬では危険だと教わりました」
まただ。
スネイプの指が、小瓶の首を強くつかんだ。
遠い昔、別の机を挟んで交わした議論。
未知の術式へ、推測だけで答えを与えることを拒んだ声。
自分が仮説を急ぎ、相手がそれを止めた夜。
そこから先を思い出せば、顔が出る。
顔が出れば、名前につながる。
その名前は、目の前の名と同じだった。
スネイプは記憶の扉を閉じた。
「先ほどの匂いで、何を思い出した?」
「何も思い出していません」
「どこかで嗅いだと言った」
「知っている気がしただけです。雨に濡れた石と、羊皮紙と、暖炉の匂いがしました」
「この城のどこにでもあるものだ」
「はい。だから、初めて来た時の印象が混ざったのかもしれません」
スネイプは答えなかった。
悠太自身が、最もありふれた説明を選んだ。
それでよいはずだった。
忘れ薬の湯気は、存在しない過去を作らない。
だが、初めての城で嗅いだありふれた匂いを、過去のものと取り違えることはある。そう説明できるはずだった。
「今日の薬は及第だ」
スネイプは言った。
「だが、次の授業で同じ見落としをすれば零点にする」
「はい、先生」
「それから、皮肉で薬は完成しない」
「覚えておきます」
「本当に?」
悠太は一瞬だけ考えた。
「努力します」
完全にやめるとは言わなかった。
スネイプの口元が、ごく僅かに動いた。
笑ったのか、怒ったのか、悠太には分からない。
「行け」
「失礼します」
悠太は一礼し、扉へ向かった。
取っ手へ手をかける。
「ミスター・ワタナベ……」
胸の奥で、あの感覚が微かに鳴る。
悠太は振り返った。
「はい?」
スネイプは何も言わなかった。
黒い瞳の奥で、問いだけが動いている。
「……次回は遅れるな」
「分かりました、先生」
扉を開ける。
冷たい廊下の空気が入ってきた。
*
ハリーたちは、本当に待っていた。
ハリーとロンは壁にもたれ、ハーマイオニーは教科書を読み、ネビルは自分の小瓶を何度も光へ透かしている。
パーバティは悠太が出てくる方向を見ていたらしい。扉が開くと、すぐに笑った。
「生きてる?」
ロンが尋ねた。
「たぶん」
「何を言われた?」
「皮肉では薬を作れないって」
ハリーが眉を上げた。
「スネイプも、ずっと皮肉を言ってたのに」
「だから詳しいんだと思う」
ロンが吹き出した。
扉の向こうへ聞こえないよう、慌てて口を押さえる。
「そう言えば、いつの間にかフランクな喋り方になってる」」
「ハーマイオニーにフランクな方がいいってアドバイスされたから。ただ、先生と上級生には使うよ。扉には使わない」
「僕たちには?」
「もう使わない。嫌なら戻すけど」
「戻すなよ」
ロンは即答した。
「昨日まで、十一歳なのに役所から届いた手紙みたいだった」
「役所の手紙よりは、もう少し笑ってたと思う」
「少しだけな」
ハリーが笑った。
「僕も今の方がいい」
ネビルも頷く。
「僕も。話しやすかった」
パーバティが続いた。
「私も。悠太って呼んでって言ったのに、自分だけずっと丁寧だったもの」
「言葉を間違えないことを第一優先にしてたからさ。言い間違いとかで変な空気になるのも嫌だとおもってたし」
悠太は言った。
「でも、少しくらい間違えても、たぶんみんなが笑って教えてくれるって分かったから」
「私は笑わないわ」
ハーマイオニーが本から顔を上げた。
「正しく直すだけ」
「それが一番怖いかもしれない」
「失礼ね」
そう言いながら、彼女も少し笑っていた。
ネビルは小瓶を悠太へ見せた。
「及第って言われた」
「聞いてたよ」
「前の授業では、鍋を溶かしたのに」
「今日は溶かさなかった」
「ユウタが一緒だったからだよ」
「火を止めるのが遅れたのは僕だ。最後に正しく混ぜたのはネビルだよ」
「でも——」
「次は、もっと濃く作ろう」
自分のおかげだと言うことも、全部ネビルのおかげだと言うことも、どちらも違う。
二人で作った。
それが一番正しかった。
ネビルは小瓶を大事そうに鞄へしまった。
「飲まないの?」
ロンが尋ねる。
「提出した薬を勝手に持ち帰って飲むな」
ハーマイオニーが言った。
「冗談だよ」
「あなたの場合、本当に飲みそうだから冗談に聞こえないの」
「宿題を忘れるか試せる」
「宿題をしたことがないなら、忘れるものもないでしょう」
ハリーが噴き出した。
ロンも反論しながら笑っている。
地下廊下に声が響いた。
悠太は、閉じた扉を一度だけ振り返った。
スネイプは苦手だった。
次の授業を考えるだけで、胃が少し重くなる。
ハリーへの態度は、どう考えても公平ではない。
悠太への質問も、一年生の範囲ではなかった。
それでも、完全には嫌いになれなかった。
見落とした手順を指摘した内容は正しかった。
ネビルの薬を、過去の失敗だけで零点にもしなかった。
黒い瞳は冷たい。
けれど、空っぽではない。
悠太には、なぜかそれが分かった。
「どうした?」
ハリーが尋ねた。
「何でもない」
悠太は扉から目を離した。
「昼食へ行こう」
「その前に図書館へ寄るわ」
ハーマイオニーが言った。
鞄の中には、悠太へ貸した一か月分のノートとは別に、厚い本が二冊入っていた。
「さっきの銀とヤドリギの反応。私も正確な成分までは分からなかったから調べる」
「手を上げてたよね」
「途中までは分かったの。でも、最後の問いは三つのうち一つしか知らなかった」
「全部分かってるように見えた」
「分からないことくらいあるわ」
「少し安心した」
「どういう意味?」
「人間だったんだなって」
「失礼ね。二回目よ」
今度は、はっきり笑っていた。
「図書館、来る?」
「行く」
「僕は行かない」
ロンが言った。
「聞かれてないわ」
「念のためだよ」
「僕も、今日はいいかな」
ハリーが続いた。
「魔法薬の本をこれ以上見たら、夢にスネイプが出てきそうだ」
「それは僕も嫌だな」
「じゃあ、悠太は来なくても——」
「調べたいことは別だよ」
ハーマイオニーは悠太を見た。
先ほどまで競う相手を測るようだった目に、少しだけ別の色がある。
知りたいものを見つけた者が、同じ方向を向く相手へ場所を空けるような色だった。
「昼食のあと、図書館で」
「分かった」
六人は地下牢を離れた。
階段を上がるにつれ、冷たい空気が少しずつ遠ざかる。
角を曲がる直前、悠太はもう一度だけ地下廊下を見た。
扉は閉じたままだった。
けれど、その向こうから黒い瞳が見ているような気がした。
*
誰もいなくなった教室で、スネイプは一枚の羊皮紙を拾った。
悠太の机の下に落ちていたものだった。
英語で書かれた手順の横に、日本語らしい文字で短い注記がある。
スネイプには読めない。
読めないはずだった。
その下には、英語で一文だけ書き直されている。
——分からない部分を、分かった部分へ混ぜない。
かつて、別の羊皮紙を挟んで何度も交わした考え方。
失敗を隠すな。
未知のものへ、都合のよい答えを与えるな。
同じ間違いを繰り返さないため、境界を記録しろ。
スネイプは紙を握り潰しかけた。
指が途中で止まる。
十一歳の少年。
マグル生まれ。
島根県出身。
一九八〇年生まれ。
顔も、声も違う。
十一歳だ。
いくつかの癖が似ているだけで、二度と戻らない者の面影を探すなど——
「あり得ない」
誰もいない教室で、スネイプは言った。
だが、羊皮紙を捨てることはできなかった。
黒いローブの内側へしまう。
教壇の上には、薄い藤色の小瓶が残っている。
札には、渡辺悠太と書かれていた。
忘れるための薬を光へ透かしながら、スネイプは忘れたはずの名を見ていた。
その黒い瞳は、長いあいだ小瓶から動かなかった。