ハリー・ポッターと東洋の魔剣士 作:キャン
十月十二日、土曜日。
午前七時になる少し前、悠太はもう制服へ着替え終えていた。
グリフィンドール男子寮の丸い窓には、朝の薄い光が滲んでいる。
空は曇っていた。
雨は降っていない。
風も、窓硝子を揺らすほどではない。
飛ぶには悪くない朝だった。
少なくとも、空に箒しかいなければ。
悠太は寝台の上へ、飛行用ローブ、手袋、マダム・フーチからの封筒を順番に並べた。
封筒を開く。
時刻を読む。
閉じる。
少しして、また開く。
「九時だろ」
天蓋の向こうから、眠そうな声がした。
ロンが赤い髪だけを枕から出している。
「起きてたの?」
「君が三回も封筒を開ける音で起きた」
「紙の音で?」
「静かな奴が落ち着かない時は、うるさいんだよ」
隣の寝台で、ハリーも眼鏡を探していた。
「まだ二時間あるよ」
「分かってる」
「なら、どうしてもう着替えてるの?」
「遅れないために決まってる」
「二時間前に着替える必要はないだろ」
ロンが毛布から顔を出した。
「飛行確認だぞ。処刑じゃない」
悠太は封筒を閉じた。
「空に何がいるかによる」
ハリーが眼鏡をかける。
まだ眠そうだった目が、少し笑った。
「昨日の梟?」
「今日は休みかもしれない」
「梟に休日はないだろ」
「それは知りたくない情報だ」
ロンが枕へ顔を埋めて笑った。
向かいの寝台では、ネビルが寝返りを打った。
シェーマスとディーンはまだ眠っている。
悠太は声を落とした。
「二人とも、本当に見に来るの?」
「行くよ」
ハリーが答えた。
「クィディッチ競技場の近くだし」
「僕も行く」
ロンも続く。
「学校の箒は、乗る前に確かめないと危ないからな」
「マダム・フーチは、私物の箒に触るなって書いてた」
「見るだけだよ」
「昨日と違う言い方になった」
「一晩寝て、慎重になったんだ」
「寝た人はね」
ハリーが言った。
ロンは枕を投げた。
ハリーが避ける。
枕は二人の間を抜け、きれいに整えられた悠太の寝台へ落ちた。
飛行用ローブと手袋と封筒が、一度に崩れる。
悠太はそれを見下ろした。
「ロン」
「何だよ」
「あとで箒を選んでくれるんだよね」
「そのつもりだけど」
「一番曲がる箒を勧めたら、今の仕返しだと思うから」
「僕はそんなことしない」
ロンは胸を張った。
「二番目に曲がるやつにする」
*
土曜日の大広間は、平日の朝より静かだった。
早起きをした生徒は少ない。
四つの長卓には空席が目立ち、天井の魔法の空には、城の外と同じ灰色の雲が低く垂れ込めている。
悠太はグリフィンドールの卓で、焼いたトマトを一つ、卵を半分、トーストを一枚取った。
いつもより少ない。
向かいに座ったロンが、自分の皿へソーセージを積みながら見ていた。
「緊張してる?」
「してない」
「食べないの?」
「飛ぶ前に食べすぎないだけ」
「毎日飛んで学校へ行ってたんだろ?」
「毎日、朝食のあとだったとは言ってない」
「いつ食べたんだ?」
「着いてから」
「どのくらい飛んだの?」
ハリーが尋ねた。
悠太は蜂蜜を薄く塗った。
「日によって違うよ。風と、鳥がどこにいるかで」
「道じゃなくて、鳥で決めるのか?」
「道は動かないから」
「鳥も、普通はお前を追わないぞ」
「それを鳥から聞いた?」
ロンはソーセージを刺したまま黙った。
「聞いてない」
「なら、まだ信用できない」
ハリーが笑う。
その隣へ、ハーマイオニーが三冊の本を抱えて座った。
昨日より四冊少ない。
「朝食へ本を持ってくる必要がある?」
悠太が聞く。
「食べたらすぐ図書館へ行くの」
「今日は休みだよ」
「図書館は開いているわ」
「そういう意味じゃない」
「あなたこそ、飛行確認は九時でしょう。どうしてもう飛行用ローブなの?」
「朝食のあとすぐ行けるから」
「一時間以上、芝地で待つつもり?」
「城の外に慣れておこうと思って」
「鳥を数えるため?」
「危険を先に把握するために」
「梟は危険じゃないわ」
「昨日、僕の方へ飛んできた」
「梟塔へ戻っただけでしょう」
「進路の途中に僕がいた」
ハーマイオニーは反論しようとした。
けれど、悠太の皿がほとんど減っていないことに気づいたらしい。
声が少しだけ柔らかくなる。
「マダム・フーチへ、先に言うのよ」
「何を?」
「大きな鳥が苦手だって」
「昨日、四人に言っただけでも多いと思ってる」
「空で急に分かるよりいいわ」
「先生に言ったら、飛ばせてもらえないかもしれない」
「隠して事故を起こす方が悪いでしょう」
「事故は起こさないよ」
「苦手なのに?」
「苦手だから、避けるのは得意なんだ」
それは悠太にとって、矛盾した言葉ではなかった。
鳥が怖い。
だから、誰より早く見つけた。
近づく前に進路を読んだ。
風向きと翼の傾きを見て、相手が来ない空を選んだ。
箒へ乗り始めてから、その繰り返しだった気がする。
どれだけ繰り返したのかは、うまく数えられなかった。
「避けるのが得意でも、先生には言うの」
ハーマイオニーは譲らなかった。
「分かった」
「本当に?」
「マダム・フーチが来たら、一番に言う」
「約束よ」
「先生みたいだね」
「あなたが生徒みたいなことをするからよ」
「生徒だよ」
ハーマイオニーは一瞬、言葉に詰まった。
ロンが笑い、ハリーも口元を押さえた。
「何がおかしいの?」
「何でもない」
三人の声が重なった。
そこへ、パーバティとラベンダーがやってきた。
パーバティは悠太の飛行用ローブを見て、すぐに気づく。
「今日なのね」
「うん。九時から」
「眠れた?」
「よく眠れたよ」
ロンが咳払いをした。
ハリーはかぼちゃジュースを飲んだ。
ハーマイオニーは本を開いた。
「何?」
悠太が三人を見る。
「別に」
ロンが答えた。
「封筒を三回読んだだけだ」
「四回だよ」
ハリーが訂正する。
「数えなくていい」
パーバティは心配そうに眉を寄せた。
「飛ぶのが怖いの?」
「飛ぶのは平気なんだ」
「鳥が怖いんだって」
ロンが言った。
「本人が答える前に言わないでよ」
「昨日、もうみんなの前で言っただろ」
「みんなじゃない。四人だけ。それと鳥じゃなくて、大きな鳥ね」
「私もいたわ」
パーバティが小さく言った。
「五人だった」
悠太は訂正した。
「ごめん」
その一言で、パーバティはなぜか少し嬉しそうになった。
ラベンダーが隣から彼女を見る。
パーバティは気づかないふりをして、パンへ手を伸ばした。
遠くで、羽ばたきが聞こえた。
悠太の背筋が固くなる。
大広間の扉の上から、朝の郵便を運ぶ梟たちが入ってきた。
白、茶、灰色。
何十羽もの翼が、魔法の天井の下を旋回する。
土曜日にも、梟は休まなかった。
「来たぞ」
ロンが言った。
「見れば分かる」
悠太は椅子を卓の下へ半歩引いた。
「まだかなり上だよ」
ハリーが梟を見上げる。
「高い方が落ちてくる時間が長い」
「落ちてこないわ」
ハーマイオニーが言った直後、一羽の小さな茶色い梟が、グリフィンドールの卓へ急降下した。
悠太の肩が動く。
梟は彼の頭上を抜け、三席向こうの上級生の前へ新聞を落とした。
新聞の端が、水差しに当たる。
銀の水差しが倒れた。
悠太の右手が伸びた。
卓へ触れる寸前で取っ手を掴み、元の位置へ戻す。
水は一滴だけ、皿の横へ落ちた。
考えるより先に、身体が動いていた。
近くにいた上級生が目を丸くする。
「ありがとう」
「いえ」
悠太は丁寧に答えた。
梟が離れたのを確かめてから、椅子を元へ戻す。
ロンは水差しと悠太を交互に見た。
「怖いのに、よく取れたな」
「水差しには翼がないから」
「そういう問題か?」
「僕には大事な違いだよ」
パーバティが笑った。
ハリーも笑う。
ハーマイオニーは、天井を飛ぶ梟と悠太の白くなった指先を見比べた。
「約束を忘れないで」
「忘れてない」
悠太は残っていたトーストを口へ入れた。
朝食を無駄にするほど、鳥に負けるつもりはなかった。
*
八時四十二分。
悠太、ハリー、ロンの三人は、城の東側にある扉を出た。
空気は冷たかった。
夜露に濡れた芝が、朝の光を細かく返している。
遠くには禁じられた森が黒く続き、その反対側にはクィディッチ競技場の高い輪が見えた。
城の石壁には蔦が絡まり、赤くなった葉が風に揺れている。
悠太は空を見上げた。
雲。
煙突から流れる煙。
城壁の上に二羽の小鳥。
ずっと遠く、梟塔の周りに小さな点がいくつか。
「数えてるの?」
ハリーが聞いた。
「何を?」
「鳥」
「見てるだけ」
「七羽いた」
ロンが空を見上げる。
「小さいのを入れれば十一羽」
「数えてるじゃないか」
「危険じゃない鳥も区別してる」
「大きさは、どこから危険になるんだ?」
「僕より翼が大きく見えたら」
「遠近法を考えろよ」
「近くに見えた時点で、考える時間は終わってる」
ロンは笑った。
ハリーは笑いながらも、悠太が梟塔から遠い側の道を選んだことには気づいていた。
何も言わず、その隣を歩く。
東の芝地には、十五本ほどの古い箒が一列に並べられていた。
曲がった枝先。
擦れた柄。
穂の束が左右で違うものもある。
九月の飛行術で一年生が使った学校備品だった。
列の向こうに、マダム・フーチが立っている。
短い灰色の髪。
風に揺れない姿勢。
黄色い目が、近づく三人を見た。
「八分前」
彼女は懐中時計を閉じた。
「悪くない」
「おはようございます、マダム・フーチ」
悠太は頭を下げた。
「おはようございます」
ハリーも続く。
ロンは箒を見ていたが、少し遅れて挨拶した。
「見学を希望しているのは、ポッターとウィーズリーか」
「はい」
「授業ではない。箒へ触れない。線の内側へ入らない。私が帰れと言ったら帰る」
「分かりました」
二人が答える。
マダム・フーチは悠太へ向き直った。
「ワタナベ。日本で飛行経験があると報告を受けている」
「はい。マホウトコロへ通う時に箒を使っていました」
「マホウトコロの生徒は、巨大ウミツバメに乗るのではなかったか」
約束した言葉が、喉の途中で一度止まった。
ハーマイオニーの顔が浮かぶ。
空で急に分かるよりいい。
悠太は姿勢を正した。
「原則はそうです。僕は大型の鳥がひどく苦手なので、許可を得て箒で通っていました」
ロンが口元を押さえた。
マダム・フーチの黄色い目が細くなる。
彼女自身も、遠目には猛禽類を思わせる目をしていた。
悠太は目を逸らさなかった。
「どの程度だ」
「近づかれると、平静ではいられません」
「飛行中に進路を失うほどか?。それから、日本人は大きな鳥が苦手な人が多いのか?」
「進路を変えることはあります」
「質問へ答えなさい」
低い声だった。
「はい。状況によっては、失うと思います。それと鳥が苦手なのは人によるかと。僕くらい苦手な人は珍しいかもしれません」
認めると、胸の奥が少し軽くなった。
飛ばせてもらえないかもしれない。
そう思っていた。
マダム・フーチは手元の羊皮紙へ何かを書いた。
「なるほど。よろしい」
「よろしい、のですか」
「恐怖そのものを採点するつもりはない。空で恐怖を隠す判断は採点する。それに昔、大きな鳥が苦手な生徒を指導したことがある」
羽根ペンの先が止まる。
「先に申告したことは正しい。今日は鳥との距離を含めて、安全に飛べるか確認する」
「ありがとうございます」
「礼を言うのは、地上へ戻ってからにしなさい」
マダム・フーチは箒の列を指した。
「まず、英国式の合図を確認する。一度の短い笛でその場に停止。二度で直ちに着陸。長い笛は飛行中止だ。聞こえなければ、聞こえる高さまで下がる」
「はい」
「着陸地点は白い旗の内側。赤い旗は入ってはならない区域を示す。競技場側へ出ない。城の塔より高く上がらない」
「承知しました」
「復唱」
悠太は順番どおりに答えた。
短い笛。
二度の笛。
長い笛。
白い旗。
赤い旗。
許可された高度と範囲。
マダム・フーチは一度だけ頷く。
「箒を選べ」
ロンがすぐに列の中央を指した。
去年の汚れが残った、少し太い柄の一本だった。
「あれがいい」
「ウィーズリー」
マダム・フーチの声が飛ぶ。
「触れないだけでなく、選ばせもしない」
「僕は何も——」
「指が話していた」
ロンは手を背中へ隠した。
悠太は箒を一本ずつ見た。
新しさだけでは決められない。
柄の反り。
穂先の揃い方。
地面へ置かれた時の傾き。
中央から二本右にある箒の前で止まった。
見た目は古い。
けれど、柄は真っ直ぐで、穂先の束も左右へ偏っていない。
「これをお借りします」
「理由は」
「置いた時に、柄が地面とほぼ平行です。穂先の締め直しも、ほかより新しく見えます」
「磨かれた箒ではなく、それを選ぶか」
「よく使われる箒ほど、柄は磨かれると思います」
マダム・フーチの眉が僅かに上がった。
「正解とは限らない」
「はい。乗らなければ分かりません」
「なら、確かめろ」
悠太は箒の左側へ立った。
右手を柄の上へ伸ばす。
「上がれ」
箒は一度も転がらなかった。
乾いた音を立てて地面を離れ、悠太の手の中へ真っ直ぐ収まる。
ハリーの目が明るくなった。
ロンは腕を組む。
「あれは当たりだって言おうとしたんだ」
「別の箒を指してたよ」
「似てたんだよ」
マダム・フーチが二人を見る。
すぐに静かになった。
「跨がれ」
悠太は箒へ跨がった。
日本で使っていたものより、柄が太い。
前方へ重心を置くと、穂先が僅かに沈む。
手を半インチ後ろへずらす。
「誰にその握り方を教わった」
「マホウトコロの先生です」
「英国の学校用箒は、もう少し後ろへ座る。長距離用より先端が軽い」
「はい」
言われたとおり腰を移す。
箒の傾きが戻った。
「まず三フィート。私が合図するまで上げない」
「分かりました」
「始め」
悠太は地面を蹴った。
箒が静かに浮いた。
靴底と芝の間に、朝の空気が入る。
一フィート。
二フィート。
三フィート。
そこで、ぴたりと止まった。
ローブの裾が風に揺れる。
腕にも、肩にも力は入っていない。
箒の柄を強く引く必要もなかった。
地面を離れた瞬間、身体の中心が、そこにあるべき場所へ戻った。
怖くない。
むしろ、地上にいた時より呼吸が楽だった。
「前へ十ヤード」
マダム・フーチが命じる。
悠太はわずかに身体を倒した。
箒が動く。
速すぎない。
遅すぎない。
十ヤード先で止まり、指示を待つ。
「後退」
今度は、身体を後ろへ引いた。
箒が同じ線を戻る。
穂先が少しだけ右へ流れた。
悠太は膝で柄を挟み、左手の力を弱める。
ずれが消えた。
「今、何をした」
「この箒は、後ろへ進むと穂先が右へ流れます。左手で戻そうとすると揺れたので、握る力を変えました」
「一度で分かったのか」
「一度、流れましたから」
マダム・フーチは羊皮紙へ書く。
羽根ペンの音だけが、芝地へ落ちた。
「着陸」
悠太は高度を下げた。
靴底が芝へ触れる。
前へ一歩も出ず、箒を止めた。
「もう一度」
二度目も同じだった。
三度目は、風が横から吹いた。
箒の穂が流される前に、悠太は身体を傾けた。
それでも、着地点が白い線から靴一足分ずれる。
マダム・フーチは見逃さなかった。
「線の外だ」
「はい」
「理由は」
「風を早く読んだつもりで、強さを読み違えました」
「箒のせいにはしないのか」
「箒が古いことは、乗る前から分かっていました」
「よろしい。だが、正直な説明で線が内側へ動くわけではない」
「次は入れます」
「言葉ではなく、飛んで示せ」
四度目。
風はまだ横から吹いていた。
悠太は前と同じだけ身体を傾けなかった。
箒が白い旗の中央へ下りる。
今度は、両方の靴が線の内側へ収まった。
ロンが小さく口笛を吹く。
「ウィーズリー」
「僕じゃありません」
「今、この芝地に口笛を吹く鳥はいない」
「鳥じゃないです」
「知っている」
ハリーが下を向いた。
肩が震えている。
悠太も笑いそうになったが、マダム・フーチの前なので堪えた。
「次は直線飛行。白い旗を回り、ここへ戻る。高度は十フィート。速度は自分で決めてよい。ただし、私が笛を吹いたら停止する」
「はい」
悠太は再び地面を蹴った。
十フィートまで上がる。
今度は、少しだけ前へ深く身体を倒した。
冷たい風が頬へ当たる。
黒い前髪が額から離れた。
箒の振動が、両手から腕へ伝わる。
古い箒だった。
加速は鈍い。
左へ曲がる時だけ、柄が小さく震える。
けれど、癖が分かれば怖くない。
悠太は白い旗へ向かった。
地上の一点だけを見ない。
旗。
城壁。
競技場の輪。
雲の動き。
ハリーとロン。
マダム・フーチ。
空にあるものを、視界の端へ一度に置く。
なぜそうするのか、考えたことはなかった。
そうしなければ飛べないような気がした。
白い旗の手前で身体を起こす。
速度を落とす。
柄を引きすぎず、半円を描いて方向を変える。
帰りの風は向かい風だった。
高度を一フィートだけ落とし、抵抗の弱いところを選ぶ。
短い笛が鳴った。
悠太はその場で止まった。
箒が前へ半ヤード滑る。
完全には止まらない。
「遅い」
マダム・フーチが言う。
「すみません」
「謝る前に原因を」
「日本で使った合図より、笛が短かったです。聞いてから判断しました」
「ここでは私の笛が基準だ」
「はい。次は最初の音で止まります」
「続けろ」
もう一度、笛が鳴る。
悠太はほとんど同時に身体を起こした。
古い箒が、空中で一本の線になって止まる。
マダム・フーチの羽根ペンが動いた。
悠太は飛びながら、その音までは聞こえなかった。
けれど、黄色い目が自分の手元だけでなく、顔の向きと肩の動きまで追っているのは分かった。
「着陸」
二度の笛。
今度は合図と同時に高度を落とす。
白い旗の間へ戻った。
「どうだった?」
ハリーが線の外から聞く。
「左に曲がる時、少し機嫌が悪い」
悠太は箒の柄を軽く叩いた。
「学校の箒はみんなそうだ」
ロンが言った。
「右に曲がる時に機嫌が悪いのもある」
「機嫌がいいのは?」
「先生が見てない時」
「聞こえているぞ、ウィーズリー」
「褒めたんです」
「箒は褒めても、点は増えない」
ロンは口を閉じた。
マダム・フーチは三本の細い棒を芝へ立てた。
杖を一度振る。
棒の先から、緑、青、黄の細長い旗が開いた。
「次は旋回を見る。緑の外側、青の内側、黄の外側を通り、最初の位置へ戻れ。高度は五フィート以上、十五フィート以下」
「速度は?」
「自分で決めろ」
「分かりました」
「速さを見せる試験ではない」
「はい」
言葉とは逆に、マダム・フーチの目は、速さを抑えられるかどうかを見ているようだった。
悠太は箒へ跨がる。
一本目の緑の旗までは、真っ直ぐ。
外側を大きく回る。
二本目の青い旗は、内側へ鋭く入る。
三本目の黄色い旗を、もう一度外から回る。
簡単な順番だった。
けれど、旗の間隔は均等ではない。
緑から青までは長く、青から黄は短い。
最初の直線で速く飛びすぎれば、二つ目の旋回が間に合わない。
悠太は緑の旗まで加速しなかった。
外側を回りながら、次の青い旗へ箒の先を向ける。
旗を通過してから曲がるのではなく、通過する時には次の進路へ身体を置く。
青の内側へ入る。
膝を締める。
身体を低くする。
黄色い旗の外側へ、箒が弧を描いた。
穂先が芝を撫でるほど低くなる。
土と草の匂いが上がった。
そこから身体を起こし、白い旗の間へ戻る。
着地。
一連の動きに、迷いはなかった。
ハリーが目を輝かせている。
ロンは、最初に指そうとした箒を足元で見ながら言った。
「通学って、もっと真っ直ぐ飛ぶものじゃないのか」
「真っ直ぐ飛べる日はね」
「毎日、あんな曲がり方をしてたの?」
「鳥がいれば」
「やっぱり鳥のおかげじゃないか」
「本人たちに言わないでよ。恩返しに来るかもしれない」
ハリーが笑った。
ロンも笑ったが、さっきより少しだけ短かった。
悠太の箒が一度で手へ上がった時。
緑の旗を滑らかに回った時。
マダム・フーチの羽根ペンが止まらず動いた時。
ロンの顔には、感心と一緒に別の色も浮かんでいた。
ハリーはすでに一年生でただ一人、寮代表のシーカーになっている。
今度は、遅れて来た留学生が、箒でも教師に評価されている。
七人きょうだいの六番目として、いつも誰かのあとにいたロンには、それが小さく胸へ刺さった。
悪意ではない。
悠太を落としたいわけでもない。
ただ、自分が立てる場所が、また一つ狭くなったように感じただけだった。
悠太は、その理由までは分からなかった。
けれど、ロンの笑いが少し違ったことには気づいた。
「ロンが選んだ箒なら、もっと速かったかも」
「当たり前だ」
ロンはすぐに言った。
「あれは、前へ飛ぶのだけは速い」
「曲がるのは?」
「乗った奴の責任だ」
「勧めなくてよかった」
「速さを怖がったのか?」
「箒より、勧めた人を怖がった」
今度のロンの笑いは、いつもの長さへ戻った。
マダム・フーチは、三人のやり取りが終わるのを待たなかった。
「ワタナベ」
「はい」
「最後に、高度三十フィートで芝地を一周する。白い旗を四隅と考え、その外へ出るな。途中で二度、停止の合図を出す」
三十フィート。
城壁よりは低い。
けれど、さっきまでより空が広くなる。
遠くのものも、同じ高さに見えやすくなる。
悠太は梟塔を見た。
黒い点は、塔の周りにまだいくつかある。
「不安なら、高度を下げても構わない」
マダム・フーチが言った。
「ただし、その場合は履修確認を別日に続ける」
からかいではなかった。
試す声でもない。
選べるように告げただけだった。
悠太は空と、箒と、白い旗を見た。
鳥が怖いことは変わらない。
九時までに、その恐怖をなくす方法も知らない。
それでも、飛べないわけではなかった。
「三十フィートでお願いします」
「理由は」
「できることまで、できないことにしたくありません」
「無理をしているなら、それは理由にならない」
「無理はします。でも、無茶はしません」
「違いを説明できるか」
「戻る方法を残しているかどうかです」
答えは、考えるより先に出た。
マダム・フーチの黄色い目が、悠太の黒い目を真っ直ぐ見る。
一瞬だけ、彼女の表情から厳しさとは別のものが消えた。
「誰に教わった」
「分かりません」
「マホウトコロの教師ではないのか」
「たぶん、そうだと思います」
昨日、ハーマイオニーに何度も指摘された言葉。
また、たぶん。
自分の記憶なのに、自分のものではない答えを聞いているようだった。
けれど、顔も名前も浮かばない。
胸の奥を何かが通り過ぎただけで、掴めるものは残らなかった。
マダム・フーチはそれ以上聞かなかった。
「まぁいい。飛べ」
「はい」
悠太は地面を蹴った。
十フィート。
二十フィート。
三十フィート。
芝地が一枚の緑の布のように広がる。
ハリーとロンの顔が小さくなった。
マダム・フーチの白い旗が上がる。
悠太は前へ出た。
最初の角。
外へ膨らまず、風上から回る。
二つ目の角へ向かう途中で、短い笛が鳴った。
最初の音で身体を起こす。
箒が止まる。
今度は、前へ滑らなかった。
白い旗が下がる。
再び進む。
風が耳元を流れた。
冷たく、澄んでいる。
箒の上では、城の大きさが違って見えた。
塔と塔の間。
回廊の屋根。
中庭の四角い石畳。
初めて上から見るはずなのに、どこへ抜ければ風が弱いのか、なぜか分かる気がした。
あの煙突の右。
西塔の影。
競技場へ向かう低い斜面。
視線が、自然に道を作っていく。
悠太は首を振った。
今は、白い旗の内側だけを飛べばいい。
三つ目の角を回る。
地上で、ハリーが何か言った。
風に消えて聞こえない。
ロンが空を指していた。
悠太はすでに見ていた。
梟塔の周りにいた黒い点が、一つの群れになって動き始めている。
十羽。
二十羽。
もっといる。
茶色と灰色の翼が重なり、朝の空に大きな影の塊を作っていた。
群れは城の北側へ向かっている。
悠太の飛行範囲からは遠い。
白い旗の内側へ来る進路でもない。
頭では分かった。
それでも、翼が一斉に傾いた。
群れ全体が、こちらへ向きを変えたように見えた。
胸の奥が冷たくなる。
指が箒の柄へ食い込む。
羽ばたきの音は聞こえないほど遠い。
なのに、昨日の窓辺で聞いた翼の音が、すぐ頭上で鳴った。
大きな翼。
急に変わる進路。
落ちてくる影。
嫌だ。
近づくな。
短い笛が鳴った。
止まる合図だった。
悠太の身体は、止まらなかった。
左手が柄を引く。
右膝が箒を押す。
直前までの進路から、鋭く右へ外れた。
白い旗の内側を離れる。
「悠太!」
ハリーの声がした。
箒が急降下する。
落ちたのではない。
身体を低く伏せ、風の下へ潜った。
芝が近づく。
三十フィート。
二十。
十。
穂先が草へ触れる寸前で、柄を起こす。
今度は左へ曲がる。
古い箒が激しく震えた。
左へ曲がる時に出る癖。
悠太の手は、それを知っていた。
握りを半分緩め、膝で進路を支える。
白い旗と赤い旗の狭い間を抜けた。
長い笛が鳴った。
飛行中止。
今度は聞こえた。
けれど、すぐには止まれなかった。
背後に鳥がいる気がした。
振り返れば、近づいているかもしれない。
振り返らなければ、もっと怖い。
悠太は飛びながら首を巡らせた。
群れは、まだ城の北側にいた。
こちらへ来ていない。
進路も交わっていない。
遠い。
あまりにも遠い。
自分だけが、空の反対側まで逃げていた。
息を吸う。
箒を起こす。
速度を落とす。
白い旗の外側、芝地の端で着陸した。
靴が地面へ触れる。
一歩。
二歩。
三歩目で止まった。
転ばなかった。
箒も離さなかった。
けれど、息は速かった。
顔から血の気が引いているのが、自分でも分かる。
マダム・フーチが歩いてくる。
走ってはいない。
その方が、怒っているように見えた。
ハリーとロンも線の内側へ入りかける。
「そこで止まれ」
マダム・フーチの一声で、二人の足が止まった。
彼女は悠太の前まで来た。
「怪我は」
「ありません」
「目眩は」
「ありません」
「箒を手放せ」
悠太は、自分が柄を強く握り続けていたことに気づいた。
指を一本ずつ開く。
マダム・フーチが箒を受け取った。
「私の最初の笛を聞いたか」
「はい」
「なぜ止まらなかった」
「梟の群れが、こちらへ向いたように見えました」
「実際の進路は」
悠太は遠くを見る。
梟たちは北側の塔を回り、そのまま湖の方へ飛んでいる。
「交わっていませんでした」
「距離は」
「かなりありました」
「それでも試験区域を外れ、停止の合図を無視した」
「はい」
「理由を言い換えるな」
黄色い目から逃げず、悠太は答えた。
「怖くなりました」
風が芝を撫でた。
遠くの梟は、もう一羽ずつを見分けられないほど小さい。
ロンが何かを堪えるように口を結んでいる。
ハリーは笑っていなかった。
マダム・フーチは、手の中の箒を一度見た。
「今の飛行には、二つの評価がある」
「はい」
「回避操作、降下、速度制御、箒の癖への対応。どれも一年生の水準を大きく超えている」
悠太は黙って聞いた。
「一方で、状況確認の前に恐怖へ従い、教員の合図より自分の判断を優先した。安全評価としては不合格だ」
胸の奥が沈む。
「申し訳ありません」
「謝罪を採点しているのではない」
「はい」
「技術が高い者ほど、規則を破った時に遠くまで行く。今のお前がそうだ」
厳しい言葉だった。
否定できなかった。
止まれない生徒が三フィートしか進めなければ、教師はすぐに掴める。
自分は、数秒で白い旗の外まで出た。
うまく飛べることと、安全に飛べることは同じではない。
昨日、ハーマイオニーが言っていたことを、今になって理解した。
「今日は、これで終わりでしょうか」
「終わりたいか」
悠太は梟の消えた空を見た。
怖さは残っている。
指先も、まだ冷たい。
「いいえ」
「理由は」
「不合格のままにしたくありません」
「それは、お前の都合だ」
「はい」
「もう一度飛べば、鳥が怖くなくなると思うか」
「思いません」
「では、何が変わる」
「怖くなった時に、先に先生の合図を聞くようにします」
「できるという根拠は」
悠太はすぐには答えなかった。
根拠はない。
一度失敗したばかりだった。
「ありません」
正直に言う。
「だから、低いところから確認したいです」
マダム・フーチは、しばらく悠太を見た。
「恐怖を消す必要はない」
やがて言った。
「消えたふりをする必要もない。空では、自分が何を見失うかを知っている者の方が生き残る」
箒を悠太へ返す。
「高度十フィート。白い旗の内側を一周。鳥が見えたら、進路を変える前に声へ出せ。私の笛が聞こえたら停止。無理なら着陸を申告しろ」
「はい」
「これは、鳥に慣れる訓練ではない」
「分かっています」
「自分の状態を隠さず飛ぶ訓練だ」
悠太は箒を受け取った。
「お願いします」
「始めろ」
再び跨がる。
手は少し震えていた。
箒へ伝わる前に、握りを緩める。
地面を蹴った。
十フィート。
さっきよりずっと低い。
芝の一本一本は見えないが、白い旗の影ははっきり見える。
マダム・フーチの声も届く。
ハリーとロンも近い。
「空を見すぎるな」
マダム・フーチが言った。
「飛ぶ場所を見ろ」
「はい」
悠太は最初の角へ向かった。
視界の端に、梟塔がある。
完全には外さない。
けれど、そこだけを見ない。
白い旗。
芝地。
マダム・フーチ。
ハリー。
ロン。
逃げる先ではなく、今いる空を見る。
二つ目の角。
小さな影が、城壁から飛び立った。
心臓が跳ねる。
「鳥、一羽」
悠太は声へ出した。
「位置」
「城壁の上。こちらから見て左。小型です」
「進路」
「城の内側へ向かっています。交わりません」
「なら、飛べ」
「はい」
箒は曲がらなかった。
白い旗の内側を進む。
鳥の影は、城壁の向こうへ消えた。
三つ目の角。
短い笛が鳴る。
悠太は止まった。
「続けろ」
四つ目の角。
今度は、風で枯れ葉が一枚舞い上がった。
茶色い影が視界を横切る。
肩が固くなる。
けれど、翼はない。
「葉です」
地上で、ロンが吹き出した。
「報告しなくても分かる」
マダム・フーチが言う。
「すみません」
「だが、見分けたことは悪くない。続けろ」
最後の直線。
二度の笛が鳴った。
悠太は高度を落とす。
白い旗の内側へ着地した。
今度は、どちらの靴も線を踏まなかった。
箒から降りる。
足の裏に芝の硬さが戻った。
息を吐く。
空にいる間、鳥が怖くなくなった瞬間は一度もなかった。
それでも、飛ぶ場所を見失わずに戻れた。
マダム・フーチは羊皮紙へ長く書き込んだ。
最後に、羽根ペンで一本の線を引く。
「履修確認は合格とする」
「ありがとうございます」
「ただし条件付きだ」
悠太は姿勢を正した。
「大型鳥の多い区域では、飛行前に教員または上級生へ申告。単独で高高度へ上がらない。恐怖で進路を外した場合は、その日の飛行を中止する」
「はい」
「そして、合図より先に逃げない」
「気をつけます」
「気をつける、では弱い」
「守ります」
「よろしい」
マダム・フーチは箒を列へ戻した。
それから、もう一度悠太を見る。
「一つ聞く。マホウトコロへ入学して、どのくらい箒で通った」
「マホウトコロは7歳から入学できるので約4年ほどです」
「その前の経験は」
「家の近くで練習していました。でも、正式に習ったのは入学してからです」
「ほう」
黄色い目が細くなる。
「今の回避は、非常に高度だ。少なくとも、ホグワーツでは十一歳で教える動きではない」
悠太は箒を見た。
右へ切った時の手。
急降下で風の下へ潜った身体。
左へ曲がる古い箒の震えを、考えずに逃がした指。
どう動いたかは覚えている。
いつ覚えたかは分からない。
「鳥から逃げているうちに、できるようになったのだと思います」
「思う?」
「それ以外に、覚えがありません」
嘘ではなかった。
けれど、完全な答えにも思えなかった。
マダム・フーチは、手元の報告書へ新しく一行を加えた。
何を書いたのか、悠太の位置からは見えない。
「マクゴナガル先生へ報告する」
「何をですか」
「履修確認の結果をだ」
それ以上は答えなかった。
「今日は終わり。箒を片づけるまでが飛行術だ」
「はい」
悠太は十五本の箒を、柄の向きが揃うように並べ直した。
ロンが線の外から言う。
「それも試験なのか?」
「上級生と先生には礼儀正しくするんだ」
「箒は上級生じゃないぞ」
「僕より長く学校にいる」
「ほとんど全部そうだろ」
「だから忙しい」
マダム・フーチの口元が、ごく僅かに動いた。
笑ったのかどうかは、黄色い目からは分からなかった。
*
飛行確認が終わると、ハリーが最初に白い線を越えてきた。
「すごかった」
「どっちが?」
「最初の回り方。旗のすぐ横を抜けたところ」
「鳥から逃げたところじゃなくてよかった」
「あれも速かった」
「褒めないで」
ハリーは箒の並んだ芝地を見た。
「僕は、初めて飛んだ時、行きたいところだけ見てた」
「それで飛べたの?」
「うん」
「すごいね」
「でも、ユウタは違った。飛ぶ前から、旗も風も僕たちも、全部見てた」
「鳥もな」
ロンが追いつく。
「城の反対側にいる鳥まで見てた」
「反対側なら安全とは限らない」
「限るよ」
「鳥は飛ぶんだよ」
「君も飛ぶだろ」
「だから逃げた」
ロンは我慢できずに笑った。
声は大きかった。
けれど、そこに悪意はなかった。
悠太も、少し遅れて笑った。
「笑っていいよ」
「もう笑ってる」
「聞く前に笑わないで」
「だって、あんな遠くの梟から、競技用みたいな曲がり方で逃げるなんて思わないだろ」
「あれは競技用なの?」
悠太が聞くと、ロンの笑いが止まった。
「知らないでやったのか?」
「曲がっただけだよ」
「普通は、あの高さから芝すれすれまで下りて、すぐ逆へは曲がれない」
「古い箒だったから、あれ以上は危なかった」
「あれ以上を考えてたのか?」
「鳥が近づいてきたら」
「近づいてない」
「今は分かってる」
ロンは両手で顔を覆った。
「おかしい。そんなに怖がりなのに、僕よりずっと飛べるなんて」
言ったあと、声に僅かな硬さが戻った。
悠太は返事を急がなかった。
ロンが飛べないとは思っていない。
九月の授業で、ネビルが落ちたあとも箒へ乗り、ハリーとマルフォイの飛行を下から見続けたと聞いている。
兄たちの古い箒で育ったことも、クィディッチの選手と戦術を誰より多く知っていることも知っていた。
「僕は、怖いから飛べるようになったんだと思う」
「どういう意味?」
ハリーが聞く。
「鳥に乗らないと学校へ行けなかった。だから箒を選んだ。箒で行くなら、鳥を避けないといけなかった。毎朝避けてたら、曲がるのだけは速くなった」
「巨大ウミツバメって、どのくらい大きいんだ?」
ロンの声から、硬さが少し薄くなる。
「翼を広げたら、この箒を何本か並べたくらい」
「何本?」
「近くで数えたことはない」
「だろうな」
「背中に何人も乗れるよ」
「本当に?」
ハリーが驚く。
「うん。マホウトコロの生徒は、それで島まで渡るから」
「君は?」
「最初の日に、乗り場までは行った」
「それで?」
「鳥を見た」
「それから?」
「泣いて帰ろうとした」
ロンがまた笑い始めた。
「入学初日に?」
「箒を借りるまで、学校へ着けなかった」
「よく交換留学に選ばれたな」
「運良く選考に鳥が苦手かどうかはなかったから」
ハリーは、巨大な鳥を見て荷物ごと帰ろうとする悠太を想像したらしい。
声を出して笑った。
悠太も笑った。
自分の弱点を知られたことは、思ったほど苦しくなかった。
完璧に見せようとする方が、息をするのに力が必要だった。
「でも、乗れって言われなかったの?」
ハリーが聞く。
「先生は、飛べるなら箒でいいって言った。ただし、ほかの生徒の進路を邪魔しないことと、一人で無理をしないことが条件だった」
「今日と同じだな」
「場所が変わっても、先生の言うことは似てるね」
「ハーマイオニーも同じことを言ってた」
ロンが言う。
「あれは先生じゃない」
「本人に言ってやれよ」
「昨日言った。ノートを返すって脅された」
ロンが同情するように頷いた。
「それは先生より怖い」
「聞こえていますよ」
背後から声がした。
三人が振り返る。
マダム・フーチが箒の束を浮かせ、城へ運ぼうとしていた。
「すみません」
悠太はすぐに頭を下げた。
「僕たち、ハーマイオニーの話を——」
「言い訳は、飛行より下手らしいな」
マダム・フーチは箒を従えたまま、三人の横を通り過ぎた。
ロンが小声で言う。
「スネイプみたいだ」
「減点されなかっただけ、優しいよ」
悠太も小声で返した。
「先生には敬語なのに、聞こえなくなると急に言うな」
「聞こえてたけどね」
ハリーが言った。
三人は、マダム・フーチから少し距離を空けて城へ戻り始めた。
*
東の芝地から城へ続く石段の前で、一枚の羽根が風に乗ってきた。
灰色で、悠太の手のひらより少し長い。
どこかの梟が落としたものだった。
羽根はゆっくり回りながら、悠太の肩へ近づいた。
悠太が横へ一歩避ける。
羽根は地面へ落ちた。
ロンがそれを見る。
ハリーも見る。
二人とも何も言わなかった。
ロンは代わりに、羽根を靴の先で道の脇へ寄せた。
「踏むと滑るからな」
「ありがとう」
「別に、お前のためじゃない」
「羽根のため?」
「僕が転びたくないんだよ」
「三歩離れてたけど」
「細かいな」
ハリーが笑った。
悠太も笑い、三人で石段を上った。
城の扉を入る直前、箒の束を運ぶマダム・フーチが、別の廊下へ曲がっていくのが見えた。
彼女の手には、細く巻かれた報告書がある。
宛名は見えない。
ただ、羽根ペンで書かれた一番上の文字だけが、遠くから一瞬見えた。
M。
マクゴナガル先生へ報告すると言っていた。
履修確認の結果だけなら、あれほど長く書く必要があるのだろうか。
「どうした?」
ハリーが扉を押さえた。
「何でもない」
悠太は城の中へ入った。
理由の分からないことは、昨日だけで十分増えていた。
*
午前十時を少し過ぎた頃、三人はグリフィンドールの談話室へ戻った。
ハーマイオニーは暖炉に近い机で本を開いていた。
図書館へ行くと言っていたはずなのに、まだ談話室にいる。
机の上には、『英国の飛行規則と学校教育』があった。
悠太は題名を見た。
ハーマイオニーはすぐに本を閉じた。
「遅かったわね」
「図書館は?」
「これを読み終えてから行くの」
「どうして飛行規則?」
「昨日、予定を見たからよ」
「僕のため?」
「交換留学生の履修条件に興味があっただけ」
「そうなんだ」
悠太はそのまま受け取った。
ハーマイオニーは、なぜか不満そうに眉を寄せた。
「それで、合格したの?」
「条件付きで」
「条件?」
ロンが先に長椅子へ倒れ込む。
「鳥がいたら、先生に言う。高く飛ばない。勝手に逃げない」
「勝手に逃げたの?」
ハーマイオニーが悠太を見る。
「少し、進路を変えた」
「芝地の反対側までな」
「反対側ではないよ」
「白い旗の外は、試験では反対側みたいなものだ」
「何があったの?」
ハリーが、笑いを堪えながら説明した。
梟塔の近くを飛んだ群れ。
交わっていない進路。
突然の急旋回。
芝すれすれの降下。
長い笛のあとで、ようやく着陸したこと。
話が進むほど、ハーマイオニーの顔が険しくなる。
「先生の合図を無視したの?」
「一度だけ」
「一度で十分でしょう」
「二度目は止まったよ」
「最初から止まりなさい」
「同じことをマダム・フーチにも言われた」
「当然よ」
「先生が二人いる」
「ノート、返してもらおうかしら」
「合格したことから話そう」
ロンが長椅子で笑った。
ハーマイオニーはまだ怒っていたが、悠太の手や顔を確かめるように見た。
「怪我は?」
「ないよ」
「箒から落ちなかった?」
「落ちてない」
「本当に?」
「見てた僕が保証する」
ハリーが言った。
「むしろ、落ちる前より速くなった」
「落ちる前はないよ」
「鳥を見る前」
「言い方を選んで」
ハーマイオニーは息を吐いた。
閉じた本の表紙を指で一度撫でる。
「だから、見ているだけでも危ないって言ったのよ」
「見に来てないのに、心配してた?」
「一般論よ」
「ありがとう」
「一般論だと言ったでしょう」
ハーマイオニーは本を三冊まとめて抱えた。
「図書館へ行くわ」
「一緒に行こうか?」
「今日は一人で調べるの」
「昨日の競争?」
「そうよ。忘れ薬の解毒薬を先に三つ見つけるから」
「飛行確認があった分は待ってくれない?」
「競争は待たないわ」
言いながら、ハーマイオニーの口元は僅かに笑っていた。
彼女が肖像画の穴を抜けると、暖炉の近くからパーバティが立ち上がった。
ラベンダーと一緒に課題をしていたらしい。
「合格したのね」
「うん。心配かけた」
「別に、心配してたわけじゃ——」
パーバティは途中で止まった。
ハーマイオニーと同じ言葉になることに気づいたらしい。
ラベンダーが隣で笑いを堪えている。
「心配してたわ」
パーバティは言い直した。
「だから、よかった」
「ありがとう、パーバティ」
悠太が笑う。
パーバティは頬を赤くして、羊皮紙へ目を落とした。
「次に飛ぶ時も、気をつけて」
「鳥がいない日にするよ」
「そんな日はないと思う」
ラベンダーが言った。
「やっぱり、英国の学校を選び間違えたかな」
「今さら帰るのか?」
ロンが尋ねる。
悠太は談話室を見た。
赤い長椅子。
燃える暖炉。
窓辺に積まれた課題。
笑っているハリー。
長椅子を半分占領したロン。
肖像画の穴の向こうへ消えたハーマイオニー。
頬を赤くしたまま、課題へ戻ろうとしているパーバティ。
来てから、まだ二日しか経っていない。
それでも、帰るという言葉は、冗談以外では浮かばなかった。
「帰らないよ」
悠太は答えた。
「鳥より、ここにいたい理由の方が多いから」
ハリーが少しだけ目を見開いた。
ロンは照れたように鼻を鳴らす。
「二日で決めるなよ」
「じゃあ、三日目にもう一度考える」
「明日じゃないか」
「その時もたぶん同じだよ」
パーバティは何も言わなかった。
ただ、さっきより長く、悠太を見ていた。
*
昼食へ向かうため、悠太、ハリー、ロンが談話室を出ると、動く階段の前でハーマイオニーと再び会った。
抱えていた本は五冊へ増えている。
「三つ、見つけた?」
悠太が聞く。
「二つよ。三つ目は、解毒薬ではなく予防薬かもしれないの」
「なら、まだ僕にも時間がある」
「飛行の次は魔法薬?」
ロンが呆れる。
「土曜日くらい休めばいいのに」
「朝食を二回食べるのが休みなの?」
ハーマイオニーが返す。
「今日は一回だけだ」
「昼食を早く食べるつもりでしょう」
「それは昼食だ」
「時間はまだ十一時半よ」
「早い昼食だ」
四人は階段が来るのを待った。
昨日と同じだった。
ハリーとロン。
悠太とハーマイオニー。
まだ、いつも四人で並ぶ形にはなっていない。
それでも、階段が止まると、全員が同じ段へ乗った。
階段が動き出す。
下の階へ向かう途中、石造りの回廊が見えた。
緑と銀のネクタイ。
淡い金髪。
ドラコ・マルフォイが、クラッブ、ゴイル、パンジー・パーキンソンと一緒に歩いている。
ドラコは階段の上にいるハリーを見つけた。
次に、その隣の悠太を見る。
灰色の目が細くなる。
「ポッター」
下から声が飛んできた。
ハリーの顔から笑いが消える。
「何?」
「朝からずいぶん楽しそうだったな」
ドラコは、悠太へ目を移した。
「東の芝地まで見えたよ。交換留学生は、箒にも乗れるらしい」
ロンが一段前へ出る。
「見てたなら分かるだろ」
「君には聞いてない、ウィーズリー」
「僕に何か用?」
悠太が尋ねた。
同級生へ向ける声は、丁寧すぎず、荒くもなかった。
ドラコの口元に、薄い笑みが浮かぶ。
「少し興味が出ただけだ、ワタナベ」
動く階段が、二つの回廊を近づけていく。
「教師が旗を立てた安全な場所なら、誰だって上手に見える」
ハリーの手が欄干を握った。
ロンが何か言おうとする。
悠太は、ドラコから目を逸らさなかった。
灰色の目にあるのは、ただの好奇心ではない。
自分より上か、下か。
味方にできるか、敵にするか。
十一歳の少年が、自分の立つ場所を確かめるために、相手を測ろうとする目だった。
階段が回廊へ着く。
ドラコは道を空けなかった。
「だったら今度は、僕と確かめてみないか?」
その言葉は、挨拶ではなかった。
挑戦だった。