ハリー・ポッターと東洋の魔剣士   作:キャン

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第9話 マルフォイの挑発

動く階段が、石造りの回廊へ重い音を立てて接続した。

 

 欄干と床の間に残っていた細い隙間が閉じる。

 

 けれど、ドラコ・マルフォイは道を空けなかった。

 

 淡い金髪の両側には、クラッブとゴイルが壁のように立っている。その少し後ろで、パンジー・パーキンソンが腕を組み、何か面白いものが始まるのを待つ顔をしていた。

 

 悠太の後ろにはハリーとロン。

 

 隣には、本を五冊抱えたハーマイオニー。

 

 四人と四人が、ちょうど階段の出口を挟んで向かい合った。

 

「何を確かめるの?」

 

 悠太は尋ねた。

 

 ドラコの口元に浮かんでいた笑みが、少し深くなる。

 

「どちらが本当に飛べるかさ」

 

「今、飛行確認は終わったけど」

 

「教師が旗を並べた芝地で、言われたとおりに飛んだだけだろう」

 

「言われたとおりに飛ぶ試験だったからね」

 

「それを腕前とは呼ばない」

 

「ごめん。ちょっと何言ってるか分からない」

 

 ドラコは回廊の窓へ顎を向けた。

 

 厚い硝子の向こう、灰色の空の下に、細長い塔が見える。

 

 梟塔だった。

 

 塔の上空では、いくつもの黒い点が旋回している。

 

「明日の朝、夜が明ける前に西の芝地へ来い。あの塔を回って、先に戻った方が勝ちだ」

 

 悠太は梟塔を見た。

 

 窓越しでも、翼の動きが分かる。

 

 喉の奥が僅かに狭くなった。

 

 今朝の急旋回を、ドラコは城から見ていた。

 

 旗だけではない。

 

 悠太が何から進路を変えたのかも、見ていたらしい。

 

「学校の箒を勝手に持ち出すつもり?」

 

 ハーマイオニーが言った。

 

「君には聞いてない、グレンジャー」

 

「一年生は原則として私物の箒を持てないし、備品庫には鍵がかかっているわ。それにユウタは条件付きで——」

 

「ハーマイオニー」

 

 悠太は静かに呼んだ。

 

 彼女はまだ言い足りない顔をしていたが、口を閉じた。

 

 ドラコが悠太へ目を戻す。

 

「どうした、ワタナベ。大きな鳥がいない場所でしか飛べないのか?」

 

「うん」

 

 あまりに早い返事だったため、ドラコの笑みが止まった。

 

 ロンも、何か言おうとして開けた口を閉じる。

 

「……認めるのか?」

 

「大きな鳥が怖いことなら、今朝もう認めたよ」

 

「それでよく、自分を飛行経験者なんて呼べたものだ」

 

「英国だとそういうもんなの?鳥が怖いから箒に乗って飛べないなんて仮説は生まれて初めて聞くんだけど?」

 

 ドラコは鼻で笑った。

 

「言い訳だけは上手いらしいな」

 

「英語はまだ勉強中なんだ。上手く聞こえたなら嬉しいよ」

 

 ハリーが、悠太の後ろで小さく息を漏らした。

 

 笑ったのだと分かった。

 

 ドラコにも分かった。

 

 灰色の目が冷たくなる。

 

「怖くて断るなら、そう言えばいい」

 

「怖いよ」

 

 悠太はもう一度言った。

 

「それと、断る理由は別だ」

 

「何が違う?」

 

「僕はさっき、鳥を見たら先生へ知らせること、高く飛ばないこと、勝手に進路を変えないことを約束した。明日の朝に君と梟塔を回ったら、全部破ることになる」

 

「教師との約束を盾にするのか」

 

「盾にするなら、もっと丈夫な約束を選ぶよ」

 

「じゃあ、僕から逃げるわけだ」

 

「君がマダム・フーチの許可を取ってくれるなら飛ぶ」

 

 ドラコの眉が動いた。

 

「先生が見ている場所で、同じ箒を使って、鳥のいないコースならね」

 

「それでは意味がない」

 

「どうして?」

 

「僕は、本当の腕前を確かめたいんだ」

 

「先生に見られると出せない腕前なの?」

 

 今度は、ロンがはっきり笑った。

 

 パンジーの口元も一瞬動いた。

 

 ドラコが振り返ると、彼女はすぐに真顔へ戻る。

 

「笑うな、パンジー」

 

「笑ってないわ」

 

「では、何だ」

 

「そこの猿の話し方がおかしかっただけよ」

 

 パンジーは悠太を見た。

 

「日本では、誰にでもそんなふうに頭を下げて、先生の言うことを全部聞くの?」

 

「先生と上級生には礼儀正しくするよ」

 

「同級生には?」

 

「相手による」

 

「私には?」

 

「まだ決めてない」

 

 パンジーは目を細くした。

 

「ずいぶん失礼ね」

 

「決めるために話してるんだ」

 

「あなた、日本の見世物みたいに皆に見られて、少し調子に乗ってるんじゃない?」

 

 見世物。

 

 悠太は、その英単語を頭の中で一度だけ日本語へ置き換えた。

 

 意味が落ちてくるまで、半呼吸遅れた。

 

「それなら、君もよく見てるね」

 

 パンジーが腕を組み直した。

 

「見てないわ」

 

「今朝、僕が先生へ頭を下げたところまで知ってた」

 

「ドラコが話していたからよ」

 

「マルフォイも、よく見てたんだね。嬉しいよ」

 

「僕を話へ入れるな」

 

 ドラコの声が鋭くなる。

 

「僕と勝負する資格があるか確かめているだけだ」

 

「資格?」

 

「ワタナベなんて家名は、英国の名家にはない」

 

「日本の家名なんだから、当たり前だろ」

 

「日本では、どんな家なんだ?」

 

 尋ね方は何気なかった。

 

 けれど、その目は悠太ではなく、悠太の背後を探っていた。

 

 名前の後ろにあるもの。

 

 両親。

 

 家系。

 

 受け継いだ財産や立場。

 

 それを見つければ、自分より上か下か決められると信じている目だった。

 

「古い家ではあるよ」

 

 悠太は答えた。

 

「でも、魔法使いの家じゃない。両親は二人とも非魔法族、英国風に言うならば、マグルだね」

 

 回廊の空気が変わった。

 

 クラッブとゴイルが顔を見合わせる。

 

 パンジーの眉が上がる。

 

 ドラコだけは、探していた答えをようやく見つけたように笑った。

 

「マグル生まれ」

 

 その言葉を、わざとゆっくり言う。

 

「なるほど。帽子があれほど迷ったのも、どこへ入れていいか困ったからかもしれないな」

 

「何が言いたいの?」

 

「きっとグリフィンドールへ入れたのも、ポッターとウィーズリー、それに——」

 

 ドラコの目がハーマイオニーへ動いた。

 

「もう一人のマグル生まれのそばへ」

 

 ハーマイオニーが抱えている本へ、指が強く食い込んだ。

 

「私の成績は、どの家に生まれたかと関係ないわ」

 

「また君には聞いてないと言ったはずだ」

 

「でも、君は彼女のことを話した」

 

 悠太の声が低くなった。

 

 怒鳴ってはいない。

 

 むしろ、さっきまでより静かだった。

 

 ハリーは、その変化に気づいた。

 

 悠太が半歩だけ前へ出ていることにも。

 

 ドラコとハリーたちの間へ、自分でも気づかないまま立っていた。

 

「僕のことなら、僕に言えばいい。関係のない人まで使わないで」

 

「関係はあるさ。同じ種類だろう」

 

「同じ種類?」

 

「魔法使いの家に生まれず、後からこの世界へ入ってきた」

 

「それは合ってる」

 

 悠太が認めたため、ドラコの方が僅かに戸惑った。

 

「なら——」

 

「でも、魔法は僕たちにも来た」

 

 悠太は、自分のローブの内側にある杖へ触れた。

 

 抜きはしない。

 

「君は魔法使いの血が何より正しいと言う。でも魔法そのものは、家系図を持たない僕たちも選んだ。魔法より、君の家の名簿の方が正しいの?」

 

「名簿じゃないわ。家系図よ?」

 

 ハーマイオニーが小声で訂正した。

 

 悠太は目だけを彼女へ向ける。

 

「今?」

 

「言葉は正確に使うべきよ」

 

「分かった。ありがとう」

 

 ロンが噴き出した。

 

 ハリーも、今度は隠さず笑った。

 

 ハーマイオニーだけは真面目な顔を保っていたが、耳が僅かに赤い。

 

 ドラコの頬から笑みが消えた。

 

「父上は、古い魔法族が——」

 

「君はどう思うの?」

 

 悠太が尋ねた。

 

「何?」

 

「君のお父さんではなく、君はどう思うのか聞いてる」

 

 ドラコは答えなかった。

 

 答えを持っていないというより、自分の言葉で答えるよう求められると思っていなかった顔だった。

 

 回廊の向こうから来た生徒たちが、通れずに足を止め始めている。

 

 視線が増える。

 

 囁きが重なる。

 

 ドラコはそれに気づいた。

 

「生まれの分からない人間を、信用できるわけがない」

 

「僕の生まれは分かってるよ。日本の島根県。実家は布団屋」

 

「そういう意味じゃない!」

 

 初めて、ドラコの声が回廊へ響いた。

 

 近くの肖像画で眠っていた老魔法使いが目を覚ます。

 

「廊下で叫ぶな!」

 

 額縁の中から怒鳴られ、ドラコが振り返った。

 

 その時、動く階段が再び軋んだ。

 

 後ろから急いで上がってきたネビルが、最後の一段でつまずく。

 

 抱えていた羊皮紙と本が、回廊へ散らばった。

 

「ご、ごめん」

 

 ネビルは反射的に謝り、床へ膝をついた。

 

 一枚の羊皮紙が、ゴイルの靴の下へ滑り込む。

 

 薬草学の課題だった。

 

 細い根の絵が何本も描かれ、脇には何度も書き直した跡がある。

 

 ゴイルは気づいていた。

 

 それでも足を退けない。

 

「それ……僕のだ」

 

 ネビルが言った。

 

 声は小さい。

 

 ゴイルは聞こえないふりをした。

 

 ドラコがネビルを見下ろす。

 

「ほら、ワタナベ。ロングボトムは古い魔法族の生まれだ。それでも箒から落ちて、授業のたびに失敗する。血があっても、全員が役に立つとは限らない」

 

 ネビルの顔が赤くなる。

 

 悠太はドラコを見た。

 

「今、君が自分で反対の証拠を出したんだよ」

 

「何の話だ」

 

「生まれだけでは、飛べるかどうかも成績も決まらない」

 

「僕は、役に立たない純血もいると思ってる。誰かとは言わないけどね。逆に、役に立つマグル生まれもいるかもしれない」

 

「僕が役に立たない純血で君自身は役に立つマグルだとでも言いたいのか?」

 

「まだ二日目だから分からない」

 

 悠太は答えた。

 

「でも、君も僕のことを知らない。それなのに生まれだけで決めた」

 

 ドラコの唇が薄くなる。

 

 悠太は視線をゴイルの靴へ移した。

 

「それから、ネビルが返してほしいと言った」

 

「聞こえなかったな」

 

 ゴイルが答えた。

 

「僕には聞こえたよ」

 

「僕も聞いた」

 

 ハリーが言う。

 

「僕もだ」

 

 ロンが一歩前へ出た。

 

「私も」

 

 ハーマイオニーが続く。

 

 ネビルは床に膝をついたまま、四人を見上げた。

 

 ゴイルは周りへ集まり始めた生徒たちを見た。

 

 舌打ちし、足を退ける。

 

 羊皮紙の端には、黒い靴跡がついていた。

 

 ネビルが手を伸ばすより早く、クラッブがそれを拾った。

 

 渡すのかと思った。

 

 けれど、太い指が紙の両端を持ち、破るように開く。

 

「返して」

 

 今度のネビルの声は、さっきより大きかった。

 

 震えてはいた。

 

 それでも、クラッブの手が止まる程度には届いた。

 

 悠太はネビルを見た。

 

 すぐには口を挟まなかった。

 

 ネビルは立ち上がる。

 

 膝についた埃を払うことも忘れ、クラッブへ手を差し出した。

 

「僕の課題だ。返して」

 

 クラッブはドラコを見る。

 

 自分で決めるのではなく、指示を待っていた。

 

 ドラコの目が、悠太とネビルの間を動く。

 

「返してやれ」

 

「でも——」

 

「もういい」

 

 クラッブは不満そうに紙を押し返した。

 

 ネビルは両手で受け取る。

 

 破れてはいない。

 

「覚えておけ、ワタナベ」

 

 ドラコが言った。

 

「ホグワーツに二日いたくらいで、何か分かったつもりになるな」

 

「それは同感だよ」

 

「何?」

 

「だから、君のことも二日で決めない」

 

 ドラコは目を細めた。

 

「僕を馬鹿にしているのか?」

 

「馬鹿にされるようなことをした自覚でもあるの?」

 

 また、後ろで誰かが笑った。

 

 今度はロンではない。

 

 通れずに集まっていた上級生の一人だった。

 

 ドラコの顔が白くなる。

 

 怒りで赤くなるより先に、人前で負けたと感じた時の色だった。

 

「この話は終わっていない」

 

「うん。正式な飛行勝負の日も決まってない」

 

「誰が君なんかと——」

 

 ドラコは言いかけて止まった。

 

 自分から挑戦したことを思い出したらしい。

 

 パンジーが横を向く。

 

 肩が僅かに揺れていた。

 

「行くぞ」

 

 ドラコはクラッブとゴイルを従え、回廊の奥へ歩き出した。

 

 パンジーは二歩遅れてついていく。

 

 悠太の横を通る時、一度だけ足を止めた。

 

「本当に、変な奴。大嫌い」

 

「今ので決まった?」

 

「何が?」

 

「僕へ礼儀正しくするかどうか」

 

 パンジーは鼻を鳴らした。

 

「しないわ」

 

「分かった。なら、僕も同じにするよ」

 

「勝手にすれば」

 

 そう言って歩き去る。

 

 五歩ほど進んだところで、パンジーは一度振り返った。

 

 悠太がまだ見ていることに気づくと、今度こそ前を向いた。

 

     *

 

 回廊に集まっていた生徒たちが散るまで、少し時間がかかった。

 

 話が終われば、昼食へ向かうと思っていた。

 

 だが誰も、すぐには歩き出さなかった。

 

「正式な飛行勝負?」

 

 最初に口を開いたのはロンだった。

 

「本当にやるつもりなのか?」

 

「マダム・フーチが許可すれば」

 

「許可するわけないだろ」

 

「だから言ったんだよ」

 

 ロンは数秒、悠太を見た。

 

「お前、断ったのか、受けたのか、どっちなんだ?」

 

「条件を変えた」

 

「それは受けたって言うんだ」

 

「鳥のいない場所ならね」

 

 ハリーが梟塔を見た。

 

「本当は、かなり怖かった?」

 

「うん」

 

「見えなかったよ」

 

「窓が閉まってたから」

 

「そういう意味じゃなくて」

 

 悠太は笑った。

 

「でも、怖いことはマルフォイも知ってた。隠しても仕方ないよ」

 

「僕なら、あそこで絶対に認めない」

 

 ロンが言う。

 

「あいつ、一年中言い続けるぞ。大きな鳥が怖いって」

 

「事実だから、覚えてもらう手間が省ける」

 

「気にしないの?」

 

 ハリーが聞いた。

 

「気にはするよ」

 

 悠太は梟塔から目を離した。

 

「でも、怖くないふりをしてバレたら余計にあとで何か言ってきそうだから」

 

 言いながら、自分でも少し不思議だった。

 

 十一歳の少年が人前で臆病だと思われることは、もっと恥ずかしいはずだった。

 

 実際、胸の奥には熱いものが残っている。

 

 梟塔を一周し、ドラコより先に戻れば黙らせられる。

 

 そう考えた瞬間もあった。

 

 けれど、そのためにマダム・フーチとの約束を破る自分は、どうしても想像できなかった。

 

 約束を守ることに、理由の分からない重さがあった。

 

「それより」

 

 ハーマイオニーが言った。

 

「さっき、私の代わりに答える必要はなかったわ」

 

 声は硬かった。

 

 抱え直した本が、彼女と三人の間に小さな壁を作っている。

 

「ハーマイオニー——」

 

「私だって、マルフォイの言っていることが間違いだと説明できるもの」

 

「知ってる」

 

「なら、どうして?」

 

「君の代わりに答えたんじゃない」

 

 悠太は言った。

 

「マルフォイが僕への答えに君を使ったから、僕が止めた。君が自分で言う時は、邪魔しないよ」

 

 ハーマイオニーは何か言おうとした。

 

 言葉が出る前に、悠太が続ける。

 

「それに、家系図も直してもらった」

 

「あれは、あのタイミングじゃなくてもよかったと思うぞ」

 

 ロンが言った。

 

「間違ったまま反論する方がよくないわ」

 

「マルフォイと口論してる途中だぞ」

 

「だからこそよ」

 

 ハーマイオニーの声から、少しだけ硬さが抜けた。

 

「名簿と家系図は違うもの」

 

「僕にはだいたい同じだった」

 

「違うわ」

 

「次から気をつけるよ」

 

「次も血統の口論をするつもり?」

 

「マルフォイが終わってないと言ってたから」

 

 ハーマイオニーの口元が僅かに動く。

 

「あなた、本当に腹が立っていたの?」

 

「立ってたよ」

 

「全然そう見えなかった」

 

「怒ると英語が短くなるんだ」

 

「普段からそうすればいい」

 

 ロンが言った。

 

「お前の丁寧な英語は、たまに先生みたいなんだよ」

 

「だからなるべくそうならないように努力してるつもり。それに僕は君に宿題を出したことはないはずだよ?」

 

「ハーマイオニーが二人になるだけで十分だ」

 

「どういう意味?」

 

 ハーマイオニーが尋ねた。

 

「何でもない」

 

 ロンはすぐに歩き出した。

 

 ハリーがその横へ並ぶ。

 

「昼食がなくなる前に行こう」

 

「まだ正午にもなってないわ」

 

「ロンには、空腹の時の体内時計だけは正確なんだ」

 

 悠太が言った。

 

「今のは上手い」

 

 ロンが振り返る。

 

「ありがとう」

 

「でも先生みたいだ」

 

「取り消すよ」

 

 三人が歩き始める。

 

 ハーマイオニーも、少し遅れてその後を追った。

 

 悠太は床へ散らばったままの本を拾った。

 

 ネビルは、靴跡のついた課題を見ている。

 

「破れてない?」

 

「うん」

 

 返事は小さかった。

 

 悠太は最後の一冊を渡した。

 

「さっき、自分で返してと言えたね」

 

「でも、君たちがいたからだよ」

 

「僕たちが来る前にも言った」

 

「聞こえてなかった」

 

「二回目は聞こえた」

 

「クラッブは、ドラコが返せと言ったから返しただけだ」

 

「それでも、君が最初に言わなかったら始まらなかったよ」

 

 ネビルは羊皮紙の端を撫でた。

 

 黒い靴跡は消えない。

 

「マルフォイの言ったこと、間違ってないんだ」

 

「血統のこと?」

 

「僕のこと。古い魔法使いの家なのに、何をやっても上手くできない」

 

 悠太はすぐに否定しなかった。

 

 飛行術で落ちたこと。

 

 魔法薬で材料を取り違えやすいこと。

 

 呪文が成功しないこと。

 

 それらを、なかったことにはできない。

 

「飛ぶのは苦手だね」

 

 ネビルの肩が落ちた。

 

「やっぱり」

 

「僕は鳥がいると飛べない」

 

「でも、鳥がいなければすごいじゃないか」

 

「条件をつけたら、そうだね。君にも条件があるかもしれない」

 

「僕に?」

 

「まだ全部の授業を受けたわけじゃない。得意なことが後から見つかるかもしれないよ」

 

「見つからなかったら?」

 

「その時は、失敗しても戻ってきた回数を数えればいい」

 

 ネビルが顔を上げた。

 

「回数?」

 

「箒から落ちたあとも、君は飛行術の授業へ戻った。大鍋の事故のあとも、次の魔法薬学へ来た。今日も、クラッブに二回言った」

 

「怖かったよ」

 

「怖くないなら、勇気はいらない」

 

 言葉が口から出たあと、悠太は一瞬黙った。

 

 どこかで聞いた気がした。

 

 誰かが自分へ言ったのか。

 

 自分が誰かへ言ったのか。

 

 何も浮かばない。

 

 ただ、その言葉だけが、ずっと前から胸の奥にあったように思えた。

 

「それ、誰かに教わったの?」

 

 ネビルが尋ねた。

 

「分からない」

 

 悠太は正直に答えた。

 

「今、思っただけかもしれない」

 

 ネビルはもう一度、汚れた課題を見た。

 

 少しして、丁寧に巻き直す。

 

「昼食、まだあるかな」

 

「ロンが全部食べてなければ」

 

「急いだ方がいいね」

 

「うん」

 

 二人は並んで大広間へ向かった。

 

 前を歩くハリーたちとの距離は、角を一つ曲がる前に縮まった。

 

     *

 

 ドラコが申し込んだ飛行勝負は、翌朝になっても始まらなかった。

 

 マダム・フーチへ許可を求めに来た者はいなかった。

 

 西の芝地へ箒が並べられることもなかった。

 

 ただし、挑戦そのものが消えたわけではない。

 

 話は、その日の夕食までに四つの寮へ広がっていた。

 

 スリザリンでは、マグル生まれの留学生が怖気づいて逃げたことになっていた。

 

 グリフィンドールでは、悠太が一言も怒鳴らずマルフォイを黙らせたことになっていた。

 

 レイブンクローでは、血統についての議論だけが妙に正確に再現された。

 

 ハッフルパフでは、なぜか梟塔の周りを二人で三周したことになっていた。

 

「飛んでないのに、もう三周したよ」

 

 夕食の席で悠太が言うと、ハリーが笑った。

 

「明日には五周になるかも」

 

「その前に鳥に食べられてる」

 

「梟は人を食べないわ」

 

 ハーマイオニーが言った。

 

「噂の中なら分からないよ」

 

「噂にも最低限の事実は必要よ」

 

「僕たちは、今朝それがなくても広がると確かめた」

 

「そこだけは証明できたな」

 

 ロンが鶏肉を取りながら頷く。

 

 その夜、悠太が談話室へ戻ると、パーバティがいつもより暖炉に近い席を取っていた。

 

 隣には一人分の空きがある。

 

「ここ、使う?」

 

「いいの?」

 

「課題の予定表を直したの。見せようと思って」

 

 悠太が座ると、パーバティは新しい羊皮紙を開いた。

 

 来週分の提出日に加え、授業で教師がよく使う言葉と、教科書には出てこない寮内の言い回しが小さく書かれている。

 

「これは?」

 

「今日、パンジーが言った言葉、すぐには分からなかったでしょう」

 

「見てたの?」

 

「話を聞いただけよ」

 

 パーバティは少し早口になった。

 

「廊下にいた人から。ラベンダーが聞いてきたの」

 

 少し離れた長椅子で、ラベンダーがこちらを見ないように本を逆さに持っている。

 

「助かる」

 

 悠太は羊皮紙を読んだ。

 

「でも、“pull someone’s leg”は知ってるよ」

 

「本当に?」

 

「誰かの邪魔をすることでしょう。日本語にも似た言い方がある」

 

「違うわ。誰かをからかう、という意味よ」

 

「脚を引っ張って?」

 

「本当に引っ張るわけじゃないの」

 

「昨日まで知っていた英語より危険になった」

 

 パーバティが笑った。

 

「冗談よ」

 

「今のが?」

 

「英国へ慣れるには必要でしょう」

 

「危険な国へ来た気がする」

 

「梟より?」

 

「少しだけ」

 

 パーバティはまた笑った。

 

 悠太が課題表へ目を戻すと、彼女はその横顔を見た。

 

 大広間へ入った夜は、顔立ちと、全員の視線の中で一人きりだった姿が気になった。

 

 けれど今は、それだけではなかった。

 

 ネビルの紙を拾ったこと。

 

 ハーマイオニーが自分で話す力を認めたこと。

 

 怖いものを笑われても、別の誰かを笑い返さなかったこと。

 

 皮肉を言う時でさえ、相手を傷つける場所を選んでいること。

 

 知りたいと思う理由が、二日前より増えていた。

 

「パーバティ?」

 

 呼ばれ、彼女は慌てて羊皮紙を指した。

 

「そこ、“監督生に見つかる”じゃなくて、“監督生の目に留まる”よ」

 

「同じ意味じゃないの?」

 

「少し違うわ」

 

「今日、少し違うものが多いね」

 

「英語はそういうものよ」

 

「日本語も同じだよ」

 

「なら今度、教えて」

 

「何を?」

 

「最初は……ありがとう、から」

 

「ありがとう」

 

 悠太は日本語で言った。

 

 パーバティも真似をする。

 

 音は少し違った。

 

 けれど、悠太には十分伝わった。

 

「上手だよ」

 

 パーバティの頬が赤くなる。

 

「一つ言っただけでしょう」

 

「最初から失敗しなかった」

 

「あなたより上手かも」

 

「僕の英語よりはね」

 

 向こうの長椅子で、ラベンダーが逆さの本から顔を上げた。

 

 パーバティは気づかないふりをした。

 

     *

 

 翌週の薬草学は、グリフィンドールとハッフルパフの合同授業だった。

 

 第一温室の硝子は朝露で曇り、外から見ると中にいる生徒たちの姿がぼやけている。

 

 扉を開けると、濡れた土と、甘いような苦いような葉の匂いが押し寄せた。

 

 棚には紫色の葉を持つ若い薬草が並んでいた。

 

 鉢の下から細い根が何本も伸び、近くを通る靴へ絡みつこうとしている。

 

「足首を出さないように」

 

 ポモーナ・スプラウト先生が、土のついた手袋を持ち上げた。

 

「この苗は、温かいものを支柱だと思って巻きつきます。鉢を替える時は、根の向きを見て、先回りして手を動かすこと。引っ張れば、さらに強く締まります」

 

「鳥よりは安全そうだな」

 

 ロンが悠太の隣で囁く。

 

「根は飛ばないからね」

 

「でも、脚は引っ張るぞ」

 

「この前覚えた意味と違う」

 

「実際に引っ張る方だ」

 

 悠太が足元を見ると、鉢から伸びた根が靴紐の近くまで来ていた。

 

 一歩下がる。

 

 ロンが笑う。

 

「鳥と同じ顔をした」

 

「してない」

 

「ミスター・ワタナベとミスター・ウィーズリー」

 

 スプラウト先生が呼んだ。

 

 二人は同時に前を向いた。

 

「植物は、話を聞いていない生徒をよく覚えますよ」

 

「失礼しました、先生」

 

 悠太はすぐに答えた。

 

 ロンも少し遅れて謝る。

 

「よろしい。二人一組になりなさい。厚手の手袋を忘れずに」

 

 ハリーとロンが一つの鉢へ向かう。

 

 悠太の隣には、ネビルが来た。

 

「よろしく」

 

「う、うん」

 

 ネビルは先週より新しい羊皮紙へ、根の絵を丁寧に写している。

 

 靴跡のついた課題は提出できたらしい。

 

 悠太は教科書を開いた。

 

「最初に土を湿らせる。次に、根が緩んだら——」

 

「待って」

 

 ネビルが言った。

 

「何?」

 

「それ、逆かもしれない」

 

「教科書には、先に水をやると書いてあるよ」

 

「葉の裏を見て」

 

 ネビルは苗へ顔を近づけた。

 

 紫色の葉を、根に触れないよう慎重に持ち上げる。

 

 裏側には、銀色の小さな斑点があった。

 

「この斑点が出ている時は、もう水を吸いすぎてる。ここで湿らせると、根が膨らんで鉢から抜けなくなるんだ」

 

「教科書の絵にはない」

 

「乾いている苗の手順だから」

 

「どうして知ってるの?」

 

「おばあちゃんの温室に、似たものがあるんだ。名前は違うけど、葉の裏で水の量を見るところは同じで……」

 

 話しているうちに、ネビルの声から震えが消えていく。

 

 悠太は水差しを置いた。

 

「じゃあ、先に古い土を崩す?」

 

「うん。でも根を真上へ持つと締まるから、こっちへ寝かせて」

 

 ネビルが手の位置を示す。

 

 悠太はそのとおりに動かした。

 

 根が手袋へ触れた瞬間、反射的に手首を返しかける。

 

「動かさないで」

 

 ネビルの声が飛んだ。

 

 悠太は止まった。

 

「逃げると追うんだ。ゆっくり鉢の縁へ寄せて」

 

「分かった」

 

 細い根は、手袋を支柱ではないと判断したらしい。

 

 力を緩め、土の方へ戻っていく。

 

 二人で鉢を傾けると、根の塊が崩れずに抜けた。

 

「見事です、ミスター・ロングボトム」

 

 いつの間にか、スプラウト先生が後ろに立っていた。

 

 ネビルの手が止まる。

 

「葉の斑点へよく気づきましたね。教科書の手順より、目の前の植物を優先した。薬草学では大切な判断です」

 

「あ、ありがとうございます、先生」

 

「ミスター・ワタナベも、相手の指示をよく聞きました」

 

「僕は最初に水をやるところでした」

 

「間違える前に止まれたなら、それも学習です」

 

 スプラウト先生は笑い、次の机へ移った。

 

 ネビルは、先生の背中が離れてからも動かなかった。

 

「褒められたね」

 

 悠太が言う。

 

「たまたまだよ」

 

「僕の鉢では、そのたまたまが必要だった」

 

「でも——」

 

「根の向きは?」

 

 悠太は次の作業を尋ねた。

 

 否定する時間を与えるより、知っていることをもう一度使ってもらう方がよい気がした。

 

 ネビルは苗へ目を戻す。

 

「新しい土の中央を少し低くして。根が自分から入るようにするんだ」

 

「分かった」

 

 二人は作業を続けた。

 

 授業の終わり、二人の苗は無事に新しい鉢へ収まった。

 

 ネビルの手袋は土だらけだった。

 

 顔にも泥が一筋ついている。

 

 それでも温室を出る時、背中は来た時より少しだけ伸びていた。

 

 扉の外には、次の授業を待つスリザリンの生徒たちがいた。

 

 パンジーは、ネビルが抱えている植え替え済みの鉢を見た。

 

 次に悠太を見る。

 

「ロングボトムが、あなたに教えたの?」

 

「うん。僕より知ってたからね」

 

「昨日まで何度も失敗してたのに?」

 

 ネビルの手が止まりかける。

 

「昨日までの失敗で、今日の答えが変わるの?」

 

「普通、恥ずかしいでしょう。あれだけ飛べるところを見せておいて」

 

「飛行の授業じゃないよ」

 

「そういう話じゃ——」

 

 授業開始の鐘が鳴った。

 

 パンジーは慌てて温室へ入り、入口に並んだ鉢から一つを持ち上げる。

 

 それでも悠太から目を離さなかった。

 

「ミス・パーキンソン」

 

 スプラウト先生が呼んだ。

 

 教師へ向ける敬意が、パンジーの姿勢をすぐに正す。

 

「はい、先生」

 

「あなたの苗がゴイル君の袖を支柱に決めたようですよ」

 

 パンジーが振り返る。

 

 伸びた根が、隣にいたゴイルのローブへ何重にも巻きついていた。

 

 ゴイルが引っ張るたび、さらに締まっていく。

 

「動かさないで!」

 

 パンジーが叫んだ。

 

「逃げると追うんだ」

 

 扉の外から悠太が言った。

 

 パンジーは睨み返した。

 

「知ってるわよ!」

 

「僕は今、ネビルから教わった」

 

 温室を出ようとしていた生徒たちが笑った。

 

 パンジーは唇を結んだが、今度は悠太へ言い返さなかった。

 

 悠太とネビルが歩き出したあとも、彼女は扉の硝子越しに二人を見ていた。

 

 悠太が振り返る。

 

 目が合うと、パンジーはすぐに自分の苗へ向き直った。

 

     *

 

 十月の後半は、城の壁を這う蔦より早く色を変えていった。

 

 緑だった葉が赤くなり、赤かった葉が風に落ちる。

 

 朝の廊下は日に日に冷え、暖炉の前の席は夕食が終わる前から取り合いになった。

 

 悠太がホグワーツへ来て、一週間が過ぎた。

 

 次に十日が過ぎた。

 

 最初は、英語を一度頭の中で日本語へ直してから答えていた。

 

 相手が話し終わる。

 

 意味を並べ替える。

 

 主語と動詞を確かめる。

 

 正しい形で返す。

 

 その短い間が、少しずつ消えていった。

 

 授業では、まだ知らない言葉を余白へ書いた。

 

 ビンズ教授の途切れない講義には、何度も置いていかれた。

 

 スネイプ先生の皮肉は、辞書へ載っている意味より鋭かった。

 

 けれど、ハリーとロンの冗談には、訳し終わる前に笑えることが増えた。

 

 ある日の魔法史で、ロンが机へ額をつけたまま囁いた。

 

「今日の授業、死ぬほど長い」

 

 悠太は教壇に浮かぶビンズ教授を見た。

 

「先生は、もう死んでるよ」

 

 ハリーが吹き出した。

 

 ビンズ教授は気づかず、一七〇九年の会議について話し続けた。

 

 ロンは顔を上げる。

 

「今のは先生みたいじゃなかった」

 

「褒めてる?」

 

「かなり」

 

「ありがとう」

 

「それを丁寧に言うから戻るんだよ」

 

 悠太は笑った。

 

 同級生へ向ける言葉は、もう考えなくても短くなった。

 

 先生と話す時には、自然と背筋が伸びた。

 

 廊下でパーシーと会えば、

 

「おはようございます、パーシー先輩」

 

 と挨拶する。

 

 その直後、隣を歩くロンには、

 

「今日も監督されてるね」

 

 と言う。

 

「お前が先輩なんて呼ぶからだ」

 

「呼ばなくても君のお兄さんだよ」

 

「そこを思い出させるな」

 

 城の道にも慣れた。

 

 パーバティからもらった地図は、何度も開いたため折り目が白くなった。

 

 金曜日に動く階段。

 

 昼食の前だけ近道になる肖像画。

 

 話を最後まで聞かなければ通してくれない鎧。

 

 ピーブズが水風船を溜め込む渡り廊下。

 

 覚えた道は増えたが、迷わなくなったわけではない。

 

 ホグワーツは、生徒が慣れた頃を見計らって階段の行き先を変えた。

 

「城に嫌われてるのかな」

 

 違う塔へ着いた悠太が言うと、ハリーが首を振った。

 

「僕たちも毎週迷うよ」

 

「それなら公平だね」

 

「迷うことが?」

 

「城が全員を同じくらい信用してないこと」

 

 二人で引き返す。

 

 ロンは一つ前の階段で待っていた。

 

「遅いぞ」

 

「階段が逃げた」

 

「階段は言い訳をしないんじゃなかったか?」

 

「それを言ったのはハーマイオニーだよ」

 

「最近、似てきた」

 

「誰と誰が?」

 

「言わない」

 

 ハーマイオニーとは、図書館で続けていた勝負に決着がついた。

 

 忘れ薬に使える三つ目の解毒法を先に見つけたのは、彼女だった。

 

 月曜の朝、悠太の皿の横へ一冊の本を置き、該当する頁を開く。

 

「予防薬ではなかったわ」

 

 勝ち誇った声だった。

 

 悠太は本文と脚注を二度読んだ。

 

 反論できる場所はない。

 

「負けた」

 

「もう一度読まなくていいの?」

 

「三回読んでも答えは変わらないよ」

 

「案外、素直なのね」

 

「勝った人に言われたくない」

 

 ハーマイオニーは満足そうに本を閉じた。

 

「次は変身術よ」

 

「何を競うの?」

 

「まだ決めてないわ」

 

「先に決めてから挑戦して」

 

「マルフォイにも同じことを言えば?」

 

 少し前なら、彼女の冗談だと気づくまで時間がかかった。

 

 その日は、悠太もすぐに笑った。

 

 ハリーとロンとは、授業の席だけでなく、談話室でも同じ時間を過ごすことが増えた。

 

 雨の日曜日、ロンが暖炉の前へ魔法使いのチェスを広げた。

 

「飛行と魔法薬だけじゃないところを見せてやる」

 

「僕は魔法薬が得意だと言ったことはないよ」

 

「細かいことはいい」

 

 ロンの駒は、持ち主に似て少し古かった。

 

 白の騎士は鼻が欠け、片方の城には細い亀裂が入っている。

 

 それでも盤へ並ぶと、どの駒も胸を張った。

 

 悠太は黒を選んだ。

 

「最初に言っておくけど、僕は英国式の魔法使いのチェスをしたことがない」

 

「普通のチェスは?」

 

「あるよ」

 

「なら同じだ。駒が動いて、負けると壊れるだけ」

 

「大事な違いが最後にあった」

 

 ハリーは二人の間へ座った。

 

「悠太、ロンは強いよ」

 

「先に言うなよ」

 

「知ってた方が公平だろ」

 

「知らなくても負ける」

 

「そこまで言われると勝ちたくなるね」

 

 対局は、二十分もかからなかった。

 

 悠太は中央を取った。

 

 ロンは端の歩兵を一つ捨てた。

 

 悠太が取る。

 

 次に騎士が入り、逃げ道を塞ぐ。

 

 気づいた時には、黒の王は三方を自分の駒で囲まれていた。

 

「詰み」

 

 ロンが言った。

 

 白の女王が剣を振り下ろす。

 

 黒の王冠が盤の外へ飛んだ。

 

 悠太はしばらく盤面を見た。

 

「七手前から?」

 

「九手前」

 

「そんなに?」

 

「お前、相手の強い駒ばかり見てただろ。弱い歩兵を動かせば、そっちへ来ると思った」

 

「来たね」

 

「きれいにな」

 

 ロンの声には、隠しきれない得意さがあった。

 

「もう一回」

 

 悠太は倒れた王を立てた。

 

「負けたばかりだぞ」

 

「だから、次は八手前に気づく」

 

「一手しか増えてないじゃないか」

 

「九回負ければ追いつくよ」

 

「九回も勝たせてくれるの?」

 

「誰がそんなこと言った」

 

 ロンは笑いながら駒を並べ直した。

 

 二局目は一局目より長かった。

 

 それでも勝ったのはロンだった。

 

 三局目も同じだった。

 

「課題は?」

 

 別の机からハーマイオニーが言った。

 

「今、戦術の勉強をしてる」

 

「魔法史の羊皮紙に、チェスは出てこないわ」

 

「ゴブリン反乱にも、誰か一人くらいチェスをした奴はいる」

 

「書きなさい、ロン」

 

「また先生が来た」

 

「誰のこと?」

 

「何でもない」

 

 ロンは羽根ペンを取りに立った。

 

 悠太は壊れた黒の騎士を拾い上げる。

 

「ロンは、すごいね」

 

 ハリーが頷いた。

 

「うん。本人に言うと、一週間ずっと言うけど」

 

「聞こえてるぞ」

 

 ロンが向こうから叫ぶ。

 

「なら、今ので一週間分だ」

 

 悠太が返す。

 

 ロンは嬉しそうに鼻を鳴らした。

 

 飛行術で感じた小さな硬さは、まだ完全には消えていなかった。

 

 変身術で悠太の針が上手くできれば、ロンは少し黙る。

 

 スネイプが悠太だけへ難しい問いを投げれば、隣で苛立つ。

 

 けれどチェス盤の前では、誰とも比べる必要がなかった。

 

 ロンには、ロンにしか見えない道があった。

 

 悠太は負けるたび、その道を知ろうとした。

 

 ロンも、勝つたびに次の手を教えた。

 

 それはまだ、何でも話せる友人の時間ではなかった。

 

 けれど、負けを隠さず、勝ちを遠慮しない時間にはなり始めていた。

 

     *

 

 ドラコとの間だけは、日が経っても短くならなかった。

 

 廊下ですれ違えば、ドラコは悠太の飛び方を話題にした。

 

「今日も鳥のいない道を選んだのか?」

 

「君がいる道を選んだから、確認中」

 

 大広間では、家系の話を持ち出した。

 

「日本には、本当に名のある魔法族がいないのか?」

 

「いるよ。僕の家が違うだけ」

 

「なら、どうして君が選ばれた?」

 

「選んだ人に聞いて」

 

「自分でも分からないわけだ」

 

「君は、理由が分からないことを全部下だと思うの?」

 

 言い争いは、たいていドラコが先に背を向けて終わった。

 

 けれど負けたとは認めない。

 

 次の日には、別の言葉を持ってくる。

 

 悠太も、ドラコを分かったとは思わなかった。

 

 高慢だった。

 

 弱い相手を選んで笑った。

 

 家名を盾にした。

 

 許せないことは多かった。

 

 同時に、ドラコが父親の言葉を口にするたび、自分の言葉が少なくなることにも気づいていた。

 

 皆に見られるほど、声が大きくなる。

 

 答えに詰まるほど、クラッブとゴイルを前へ出す。

 

 強いというより、強く見えなくなることを恐れているようだった。

 

 だからといって、いじめや差別を許す理由にはならない。

 

 ただ、十一歳のドラコを、最初から変わらない悪人だと決める理由にもならなかった。

 

 悠太はまだ決めなかった。

 

 ドラコは、その態度を一番嫌った。

 

 パンジーは、以前より悠太へ突っかかるようになった。

 

「今日のネクタイ、少し曲がっててカッコ悪い」

 

「見てたの?」

 

「目に入っただけ」

 

「ありがとう。直すよ」

 

「親切で言ったんじゃないわ」

 

「曲がったままの方がよかった?」

 

「そういうところが気に入らないのよ」

 

「どこ?」

 

「怒らないところ」

 

「今、怒る話だった?」

 

 パンジーは答えられず、いつも先に歩き去った。

 

 そのくせ、次に会えばまた何かを見つけて話しかけた。

 

 敵なのだと態度で示しながら、反応を確かめずにはいられないらしい。

 

 悠太には、その理由が分からなかった。

 

 ハリーへ聞くと、

 

「僕にも分からない」

 

 と言われた。

 

 ロンへ聞くと、

 

「分からない方が安全だ」

 

 と言われた。

 

 パーバティへ聞こうとした時だけ、ラベンダーが遠くから大きく首を振った。

 

 悠太は聞くのをやめた。

 

     *

 

 十月三十日の夕方、大広間へ続く廊下に、巨大な南瓜が運び込まれていた。

 

 いくつもの南瓜が魔法で宙へ浮き、列になって扉の向こうへ消えていく。

 

 まだ彫られていないものでも、悠太の腰ほどの高さがあった。

 

「明日には、全部顔がつくよ」

 

 ハリーが言った。

 

「南瓜に?」

 

「去年は見てないけど、フレッドとジョージがそう言ってた」

 

「信用できる情報?」

 

「半分くらい」

 

「なら、半分だけ顔がつくね」

 

 ロンが南瓜の列を避けながら歩く。

 

「明日のご馳走はすごいぞ。兄さんたちが、入学してからずっとハロウィーンの話をしてた」

 

「料理のことしか聞いてないだろ」

 

「食べられない飾りの話を聞いて、何になるんだ?」

 

「英国のハロウィーンは初めて?」

 

 ハリーが悠太へ尋ねた。

 

「うん。日本でも知ってはいたけど、学校中に南瓜を浮かせたりはしないよ」

 

「僕も、魔法使いのハロウィーンは初めてだ」

 

「ロンだけ経験者だね」

 

「任せろ」

 

「何を?」

 

「一番いい菓子を見つける」

 

「それは頼もしい」

 

 三人は、南瓜の間を抜けた。

 

 後ろからハーマイオニーの声がした。

 

「明日の呪文学の予習はしたの?」

 

 腕には、いつものように本がある。

 

 十月の初めよりも三人へ近い位置を歩くようにはなった。

 

 しかし、声をかける理由はたいてい授業か規則だった。

 

「ハロウィーンの話をしてるんだ」

 

 ロンが答える。

 

「明日の授業もハロウィーンにあるでしょう」

 

「だから?」

 

「フリットウィック先生は、浮遊呪文へ入るとおっしゃったわ。杖の動きと発音を、先に覚えておくべきよ」

 

「授業で教わるから授業なんだ」

 

「予習をすれば、教わる内容をもっと理解できるわ」

 

「予習で全部分かったら、授業で何をするんだよ」

 

「確認よ」

 

「先生が二人いる」

 

 ロンが悠太へ言った。

 

「僕を入れないで」

 

「最近、ハーマイオニーと同じことを言うだろ」

 

「ロンも予習した方がいいと思うよ」

 

「ほら」

 

「でも、明日の朝でいい」

 

「少し違った」

 

 ハリーが笑った。

 

 ハーマイオニーは呆れたように息を吐く。

 

「発音だけでも、今夜確認した方がいいわ。教科書の三章に——」

 

「分かったよ」

 

「本当に?」

 

「分かったから、夕食の前に本を開かないでくれ」

 

「あなたが分かったと言って、本当に分かっていたことは少ないもの」

 

「まだ知り合って二か月にもなってないだろ。全部数えたのか?」

 

「必要なら数えられるわ」

 

 ハーマイオニーは三人を追い越し、大広間へ入っていった。

 

 扉の向こうで、浮かんだ南瓜を避けて席へ向かう。

 

 ロンはその背中を見た。

 

「何でも知ってるみたいに言うんだ」

 

 声は小さかった。

 

 ハーマイオニーには届いていない。

 

 けれど、悠太にはすぐ意味が分かった。

 

 頭の中で日本語へ直す必要もなかった。

 

「本人の近くでは言わない方がいいよ」

 

「聞こえてないだろ」

 

「今日はね」

 

「君まで始めるなよ」

 

「始めてない。終わる前に言ってる」

 

 ロンの顔に、僅かな苛立ちが残った。

 

 ハリーは二人を見比べる。

 

「早く行こう。南瓜に席を取られる」

 

「南瓜は食べないだろ」

 

「ロンなら食べるかもしれない」

 

「僕が南瓜を?」

 

「逆だよ」

 

 三人は大広間へ入った。

 

 ハーマイオニーは、少し離れた席ですでに本を開いている。

 

 悠太はその隣へ行こうとした。

 

 だがロンが、いつものようにハリーの向かいの席を引いた。

 

「悠太、こっち」

 

 呼ばれて足を止める。

 

 ハーマイオニーも一度だけ顔を上げた。

 

 四人分の席が自然に並ぶには、まだ何かが足りなかった。

 

 悠太はハリーの隣へ座った。

 

 パーバティとラベンダーが、その近くへ来る。

 

 ネビルも、空いている席を見つけて座った。

 

 夕食が現れる。

 

 話題は南瓜と、明日の菓子と、浮遊呪文へ移った。

 

 少し離れた場所で、ハーマイオニーの羽根ペンだけが休まず動いていた。

 

 ホグワーツへ来た最初の夜、悠太は英語が通じることを何より心配していた。

 

 言い間違えないこと。

 

 聞き落とさないこと。

 

 正しい言葉を選ぶこと。

 

 二十日が過ぎ、言葉は以前よりずっと早く届くようになった。

 

 冗談も、皮肉も、囁きも。

 

 悠太は、分かるようになることは、いいことばかりだと思っていた。

 

 翌日までは。

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