軍神と逃げ上手 作:伊勢守
謙信の見た目は信長の野望の若謙信とかのイメージ
建武二年(1335年)八月二日 相模国 鶴岡八幡宮前
「ここの鳥居をくぐった先が、流鏑馬の馬場だ。父上と兄上に隠れながら流鏑馬を見物した。右大将の頼朝公が作った馬場なんだ」
嬉しげに頬を紅潮させ、興奮気味に時行が話す。
一行は鶴岡八幡宮まで歩いてきた。鎌倉奪還の際に馬で一度訪れた場所ではあったが、今度は徒歩での落ち着いた参詣となり、穏やかな雰囲気で目に映る風景を楽しんでいた。
「皆も一度は見ただろうが、ここの階段を登った先は何度見ても美しいぞ!鎌倉の民と海が一望できる」
「すっごい綺麗だったなぁ、私もっかい見たいから登りたい!」
「元よりそのつもりだ。ここに来たならあの景色を見ずに帰らないわけにはいかない」
元気よく腕を捲ってみせた亜也子に、時行は自信に満ちた表情でそう言い切った。今度はあの時のように駆け上がるのではなく、皆とゆっくり階段を登っていく。
銀杏の若木を通り過ぎ、時行たちは階段を登りきった。彼らの背後には鎌倉の絶景が広がっている。
しかし、後ろに絶景が広がっているのにも関わらず、彼らは振り返らずに、登りきった先のあるものに視線が向いていた。
「なんか……人、倒れてね?」
「うん、倒れてる」
「倒れてるね」
「って、それ大丈夫!?介抱した方がいいんじゃない?」
手水舎の前である。時行たちは慌ててその人間の前に駆け寄る。
倒れているのは10歳より少し上ほどの年齢の人間だった。中性的な外見をしており、肩幅や体格は男性に見えたが、その端正な顔立ちを見ると女性の可能性を捨てきれない。
「この者、大丈夫なんでしょうか。我が君、この者白目をむいております」
「うん……そうだな……」
「腹壊して寝てるだけじゃねーの?水掛けたら起きるだろ、ほれっ」
「ゲンバくん!?神聖な御神水で何をしてるの」
吹雪と時行が倒れたその者を詳しく観察している間に、玄蕃が手水舎から柄杓で水を引っ掛ける。雫が止めに入るが、玄蕃が飛ばした水は勢いよくその者の顔に打たれた。
「──────
飛沫が当たった瞬間、その者は目を開いた。
「っ! 若、下がってろ!」
(なんだ?一瞬……もうひとり重なって見えた)
その者の雷同が場を圧倒する。緩みきった時行たちの雰囲気が一気に強張る。弧次郎は刀に手をかけながら、時行の前へ身体を捩じ込む。唯一時行のみが、呑気にその者の姿を見ていた。
特に頼重は逃若党の面々よりも一層警戒を強めた。その者の短声を上げた瞬間、別の人物が重なって見えたのだ。鶴岡八幡宮の神力によって見えたのかはどうか分からないが、先ほどの異常な一瞬を追想していた。
「……! ────」
目が覚めたその者は、意識がはっきりするや否や、手水舎に駆け寄って水面を凝視する。数秒そのままじっと水面を眺めていたが、何やら観念した様子で、時行らの前に向き直った。
「失礼致した。介抱していただいた貴殿らに礼を言わぬという無礼を働いたこと、お詫び致し候」
その者が膝をつき、手と額を地面に合わせた。直垂が土に汚れることも厭わず、時行に向かって真っすぐに。その所作は老練そのものであり、その者の外見通りの人間ができるような技ではなかった。頼重は(まるで貴族の礼を見ているようだ)と感じ、視線の鋭さを強める。
(何者だ?このような者、我が未来視には一度も……)
「頭を上げてください。我々は介抱なんて大層なことはしていません」
「はッ。忝く存じます」
顔を上げたその者は、やはり男であった。その男は上げた頭を時行の視線の位置まで合わせて、彼の瞳をまじまじと覗き込んでいる。彼の郎党はその不可思議な状況に首を傾げた。
(なんなのだ……この男の未来が見えない。視る未来全てにこの男の存在はない。それか、見ている部分が違うのか?若しくは、この男がこの瞬間に死ぬというのか?いや、それこそあり得ない)
「うっ……!」
「頼重殿!? どうかなさいましたか!」
「い、いえ……心配なさらないでください時行様。それにほら、頭を下げた者に背を向けるのは無礼でございますよ」
「よりしげ……、ときゆき……?」
(む、なんだ?男の表情が……)
◆◆◆◆◆◆
我は膝をつきながら、聞こえてきたその名に耳を疑った。
どうやら我はあの瞬間にまたも意識を失ったようで、我の目の前にいるこの一団がやって来るまで倒れていたようである。彼らに起こされたあと、今一度水面に映る自身を見てみたが、気絶する前と変わらず、我の若い姿のままであった。
若返りの秘術が実在したなどとは聞いたこともない。そのような世迷言は妖に化かされたとしても現実味のない話である。
「どうかなさいましたか?」
それは一度置いておくとして、今は別のことでいっぱいいっぱいであった。
我を介抱したであろうこの稚児と、後ろに控える神職のような男。我の耳が聞き違いでなければ、男は『頼重』、稚児は『時行』と言った。そのような者が鎌倉にいる。我が思い浮かべる人物が彼らと同一ならば、我はこの二人を知っていることになる。
しかし、それでは我の眼前にこの二人が存在すること自体が理に合わぬ。……直接聞いてみるしかないか。
「貴殿の名は、時行と言うのですか。そしてあの方は頼重と───」
「はい。申し遅れました。私は執権・北条高時が嫡子、北条時行と申します」
その名を聞いた途端、我は何度目か分からぬ絶句をした。
青ざめた顔で、その稚児の顔を見るが、至って正直に答えたという顔をしている。
「本当に北条時行と、諏訪頼重と言いますかッ!嘘偽りは申しておらぬでしょうな!」
「おい、一度黙れ。もう分かっただろ、この御方はアンタがそう易々と話せる奴じゃねーんだよ。もしこれ以上無礼な物言いするなら斬るぞ」
「弧次郎!私は大丈夫だ」
「それはいけません我が君。これから鎌倉を支配するのならば、上下の境を曖昧にしてはなりません」
「でも……!」
稚児の側に控えていた白髪の郎党が、刀を抜いて白刃を我に向ける。我は丸腰ゆえ斬られることはないだろうが、慌てて稚児に二度目の平伏をする。
しかしどうなっておるのだ。北条時行と諏訪頼重など、二百年も前の人ぞ。どうも嘘を言っている素振りもない。本当に北条時行と諏訪頼重ならば、我はここに存在するはずがないのだ。
「申し訳ありませぬ。時行様、某の御無礼をどうかご容赦下され。頼重様にも、重ねてお詫び奉りまする」
「こちらこそ申し訳ありません。私の郎党は血の気が多くて」
その稚児……時行公は、なんとも穏やかな人物のようで、頭を下げる我に対してもう一度頭を下げるという甘すぎるという姿勢を見せた。その様子を見て、脅しつけてきた郎党が武器を収める。
北条時行───その名は、関東を治めるために勉強したことがある。
滅ぼされた鎌倉から脱出し、信濃に潜伏。諏訪頼重に擁立されて足利直義公らを倒し鎌倉を奪取。のち尊氏公に敗れ南朝方として活動し、三度目の鎌倉攻撃後に捕えられ、処刑された。
齢三十にも満たぬ生のなか、中々に歴史に名を残しており、血筋だけでないさぞ面白き武士だとは思っておったが、斯様な優男のような男児だとは。残された文書のみでは分からぬものよ。
「ええと、貴殿は……なんとお呼びすればよろしいでしょうか」
時行公が気まずそうな表情で我に尋ねる。
我の名か。これは考えねばならん。下手な嘘をつくと面倒なことになる。町民の名を騙ろうかとも思ったが、おそらくすぐ見破られる。理由は明快で、ただの民草が我が時行公にしたような謙り方ができるはずがない。
……腹を括るしかあるまい。
「某の名は長尾平三景虎とぞ申しまする」
「長尾!?上杉の部下の?」
「亜也子。景虎殿がまだ話してる。長尾というだけで敵と決めつけるのはよくない」
「はッ。祖は桓武の帝が後胤、鎮守府将軍・平良文が曾孫、鎌倉景政のまた孫、長尾二郎景弘。その……………数えて七代目の、長尾弾正為景の子になりまする。
我ら長尾は宝治の戦で三浦泰村公とともに没落し、我が……叔父の景忠などのように上杉の走狗となるのが我慢できず、父の死後出奔し、この鎌倉に立ち寄りてどうするべきか思案しておりました次第にござる」
どうだ……?長尾の名を出した途端に殺気を向けられたが。郎党らの怪訝な目つきは刺さるが、問題は時行公と頼重公よ。急拵えにしては、上出来な名乗りだとは思うたが……。父上を勝手に景忠様の兄弟としたことは我が心のうちに謝っておこう。申し訳ありませぬ。
「……これからどうするのですか」
言葉を繋ぐということは、出まかせがバレた訳ではあるまい。
北条が上杉や長尾を敵対視しておるということは、鎌倉幕府が滅びた後のこと、即ち今は……建武二年。中先代の乱の最中ということになる。
己で言っておいて、現実味がない。
天正から建武、二百五十年の間が空いておる。それも過去に、である。もしや我は本当はこの建武の人間で、五十年に渡る胡蝶の夢を見ておったのかとも考えた。だが、我の感じてきた感情が、感覚が、思い出がそれを否定した。受けた苦しみ、感じた喜び、それらは全て偽りではなかったはずだ。
──────とすれば、死んだか。
輪廻転生の輪に組み込まれたのならば、まだ説明のつく。我の記憶はあるし、過去に生まれ変わっておるがな。胡蝶の夢よりかはまだ納得がいく。
そうか、我は死んだか。そう考えると合点がいった。そして押し寄せてくる孤独感。
もう皆には会うことはない、か。皆には悪いことをした。せめて後継者は決めておくべきだったな。今頃は、おおかた景勝と景虎が家督に揉めて互いに殺し合っておるところだろう。織田も黙ってはおらんだろうし、上杉は良くて越後一国、悪くて滅亡か。
「どう、するのでしょうな」
あれこれ後悔しても仕方がない。我が奴らにしてやれることはもうないのだ。ならば、家や土地などという足枷のないこの生を真っ当するしかあるまい。
────中先代の乱は、廿日先代の乱とも呼ばれ、北条時行の鎌倉支配が二十日しか続かなかったことからそう言われる。ならば、ここで時行公に従えど負け戦に付き従って、敗者となるのが必定。
少し待てば、尊氏公がこの鎌倉を奪い、南北朝の動乱が始まる。そこで何某かの土地で旗を揚げても、尊氏公の傘下となりて幕府で我が名を高めても、後醍醐帝に従い帝へ勝利を献上してもよい。
我が才ならば、新たな長尾の中興の祖となることも、幕府の重臣として幕政を主導することも能おう。南朝で力をつけ、足利の天下を脅かしてやることを能おう。
信玄も氏康も信長も存在せぬならば我を止められるものなどそういない。尊氏方につき功を上げれば、我が栄達を極めんとすることも容易いだろう。
………想像するだけでなんとも空虚よ。なにも楽しくはない、くだらぬ生よ。どこかで旗を揚げたところで、中興の祖とは為れようが精々次代に繋いで打ち止めよ。南朝方に味方したとて、結局は楠木・新田・北畠の下、貴族らの下よ。尊氏方についたところで、取ることの分かりきっておる天下。そのおこぼれをもらうなど、何ともすさまじき生き様よ。
ふむ。答えはもう決まっておるのではないか、虎千代よ。
「正直、行くところなど有りませぬ。差し出がましい事を申しますが、どうかこの縁をもってどこか良い仕官先を斡旋してはいただけませぬでしょうか」
時行公の瞳を見れば、我をどうしたいかひしひしと伝わってくる。
なんとなくこの郎党らが、頼重公がこの稚児に付き従うか、分かった気がする。『楽しそう』なのだ。気苦労や武士の誇り、累代の先祖から守ってきた土地。そのような煩わしい
そんなどこまでも駆けることのできる
『───余とともに天下を目指してはくれまいか。この乱れた世から民らを、武士らを救うには力が必要なのだ。輝虎よ─────』
…………決心はついた。あとは、
「行くところがないならば、私の郎党にならないか?」
時行様のそのお声がけに、深々と頭を下げる。思えば、これほど深々と頭を下げるのは久々である。しかし毛ほどの不快感も、劣等感もなかった。
「ありがたき幸せ!恐悦至極に存じます。不肖、平三景虎、命じられれば唐土にも天竺にも往き、我が身を時行様と天下に捧げる所存。命尽き果てるまで時行様の覇道をお支えいたしまする」
「若、正気か!?こいつは長尾。上杉やら直義やらと繋がっててもおかしくはないんッスよ」
我が同胞のひとり……白髪の、弧次郎と言ったか。弧次郎が時行様に意見する。時行様は難しい顔をした後に、頼重様に顔を合わせた。
「……悪い未来は見えませぬ。無論、裏切るという未来も」
「だそうだ。皆、頼む」
未来?何のことを言っているかさっぱりだが、頼重様は我の登用に反対はしないようだ。郎党の皆は微妙そうな顔をしながら互いに見合っていたが、狐面の少年が「こうなった坊は止められねぇよなぁ」とぼやくと、皆が皆高速で頷いた。
巫女装束の少女が「兄様、私たちは反対しないよ」と言うと、時行様は平伏する我の手を嬉々として取り、引っ張って立ち上がるように促した。幼子ならぬ品性だと思っておったが、こういうところは無邪気でうつくしきなりや。
「改めて景虎、よろしく頼む!」
「ははッ!よろしくお願いいたしまする」
時行様だけでなく、仲間となる郎党らに向かっても頭を下げる。皆少年・少女ではあるが、我が審美眼にはこの者らのただならぬ雰囲気を見通していた。一芸を持った猛者が、我が同輩となるのだ。心強いことこの上ない。
「若様……わかった!若様が信じたなら大丈夫でしょ!よろしくね、景虎!」
「景虎よぉ、なーんにもお前知らねえで坊に仕えるとか言ったのか?
ぎゃはははは!!お前これから苦労するぜ?なんせこいつは相当な変態だぞ。通り名で全裸ド変態稚児って呼ばれてんだからな」せめて『逃亡』はつけて!?
「よろしく景虎。………ところで、いきなりで申し訳ないんだが、何か食べ物を───」
「吹雪くん、初対面にもご飯をねだるのやめた方がいいよ。えっと、期待してるからよろしく、景虎。……ほら弧次郎も燻ってないで」
「ああ。あー…っと、悪かった。いきなり刃をむけたりしてスマン。でも若に仕えるなら俺たちは仲間だ、これからよろしく頼むぜ景虎」
この短いやり取りでも、皆が皆信頼し合った良き仲間だとわかる。
我の第二の生は決まった。我が主、時行様に天下を献上し、五百年続く北条の世を創る!我が四十九年の生で得たもので、天下万民に安寧をもたらす。────上様との叶うことのなかった約束を果たし、この第二の生を謳歌してみせる。
「………げに面白き生よ。薩婆訶、薩婆訶にござろう」