毘沙門天と逃げ上手───第二の軍神、旌旗堂堂! 作:伊勢守
建武二年(1335年)八月四日 相模国 旧足利直義邸
諏訪頼重を緊張が襲う。プレッシャーをかけているのは頼重の目の前にいる若武者、長尾景虎。数十年生き、経験を積んだはずの頼重がこの小童に気圧されているという異様な状況であった。
「景虎……?お前は……」
「頼重殿。これから我が申すことを偽りと断じることをしないように誓って下され。これより我は真のことしか言いませぬ」
景虎が頭を下げる。しかし今度はその意味が異なっていた。主従や上下の関係にある礼ではなく、同等の立場にある者としての礼。
景虎は、もはや隠すことはできないと考えて、頼重には全てを話す他ないと考えた。これ以上取り繕えば怪しさが増し、足利の間者として突き出されかねない。それゆえ、これより北条時行の若き郎党『長尾平三景虎』ではなく───
「我の名は上杉不識庵謙信。生まれは越後府中の長尾ですが、後に主君の上杉憲政様の養子となり、上杉の名跡を継ぎました。出家する以前は従五位下・弾正少弼に任ぜられておりました」
「ま、待て待て。出家?任官? どういうことだ」
謙信は己が素性を嘘偽りなく言った。それに頼重が混乱するのは無理もない話である。頼重にとっては、謙信は十いくつの若武者にしか見えないのだ。剃髪もしていない。そのような者の方から出家やら官位官職の話のは異常極まりない。
「混乱されるのも無理はないでしょうな。何しろ、これは前の生の話ですから」
「前の生だと?」
「どうか幼子の世迷言として切り捨てないで下されよ。……我が生まれたのは享禄三年(1530年)。この建武二年より二百有余年も離れた元号にございます。
それより向こうの世で大名として四十九年生き、我は死に申した。そうして次に目覚めると、何故だか黄泉ではなく、この後醍醐帝の時代に目覚めたので候」
時が止まる。
頼重は混乱していた。目の前の男が唐突に「二百年先に生まれた」と言い放ち、その未来からこの現在にやってきたなどと説明するのである。頼重の理解が追いつかないのも無理はない。
一方で謙信は、どうすればこの、自分でもよく判っていない事実を認めさせられるかを考えていた。
本来ならばここで謙信が未来からやってきた事を証明することは不可能に近い。たとえ二百年先に起こる事を言い当てたとしても確かめる手段がないためである。
「頼重殿。貴殿は聞くところによると未来が見えるとのこと。我としてはそちらも驚きだが……なればこそです。我が今から言う出来事を未来視で確かめてみてほしいのです」
しかし今回は未来の見える諏訪頼重が相手である。これならば、謙信が本当に未来を言い当てることができているのかを確かめることができる。もし当たっているのだとすれば、謙信が未来からやってきたということを示すことができるのだ。
「例えば二百三十年ほど先の京。六条に本圀寺という寺があり申す。そこへ、三階菱の下に釘抜きが五つの紋を掲げる者らが押し寄せているのが見えるはず」
「………ああ、確かに」
と、頼重は頷く。これは本圀寺の変。十五代将軍・足利義昭を三好三人衆が襲い、殺してしまおうと起こした争いである。戦国の世で将軍が如何に軽んじられているのかを如実に表しており、謙信もこの出来事をよく覚えていた。
確かにその光景を見た頼重であったが、やはり簡単には信じられず、心のどこかで偶然を疑った。その疑念を悟った謙信は、もう一度何かを言い当てて信じ込ませなければ、と考える。
「ではもう一つ。それより八年ほど遡り、信州・川中島の八幡原をご覧ざれ。竹に雀の紋と武田の四つ割菱が戦をしておりましょう。そして武田の本陣へ月毛に跨った武者が乗り込んでいるはず。それが前の生の我にございます」
「………ああ……見えた。その通りの状況だ」
頼重の驚きは計り知れない。どうやら本当に、この長尾景虎───いや、上杉謙信なる人物は未来に生きた存在であるようなのだ。この頼重の動転は、日本に生きる者なら当然だと言えた。
日本では時間というものは一本道なのである。弥勒の世や浄土、地獄といったように死の後が重く見られる。そして、それらを経た後に輪廻転生の理に従い、新たなものに産まれ直す。過去が先に作用する因果応報の考え方に深く関わっているのだ。
それ故に頼重であっても衝撃が隠せないでいるのだ。無論、これは謙信も同じである。今の謙信は自身が南北朝時代にやってきた事を受け入れているのではなく、考えても分からないなら仕方がないと吹っ切れているのに過ぎない。
「納得していただけたか」
「ああ………ここまで言い当てられては、信じるしかないが……」
頼重は諦めてこの奇天烈な謙信の発言を受け入れた。
それを受けて、謙信は口角を上げる。頼重は白黒になった頭の中を落ち着かせ、ため息をつく。
「頼重殿。今一度言うが、我は足利との関わりはございませぬ。この世に生まれ変わったと知覚したのは丁度、時行様と出会ったあの日なのです。
時行様の前で行った名乗りも半分は嘘。我が父・長尾為景も現在より二百年あとの人間でございます」
「ああ、それはもう判った。貴殿のことを信じよう」
謙信は内心で破顔した。事実上の大将である頼重にここまで信じ込ませることが出来れば、北条方の情報についての大半を知り得ることができると踏んだのだ。
そんな謙信に頼重がふっと問いをかける。
「しかし謙信殿。何故単身この屋敷に乗り込もうとしたのですか?五十年大名として生きたのならば、貴方の立場の危うさもその行動の無謀さも判っておいででは?」
これに謙信はたじろぐ。そう、謙信の行動はあまりにも分別のある人間がする行動ではなかった。嫌なところを突かれた謙信はその仏頂面をしかめて少し考える。
(……思えば、何故我は斯様な馬鹿げた真似をしたものか。時が無く焦っていたのは分かるが、時行様に相談するなりあったはず。新参者かつ敵方からの寝返りという事にした我の立場の危険性は、我も理解していたはずなのだがな)
なぜこんなことをしたのか自分でもよく判っていなかったのだ。
整理すると、『長尾景虎は敵方から北条に仕官した。その後に名越軍が嵐に襲われ、倒れるはずのない大仏殿が倒れた。その翌日に景虎は怪しい行動をとっていた』という状況。怪しくないわけがないのだ。
自分らしからぬ行動に頭を悩ませる謙信。そこで、謙信は今の自分と時行に支えていた際の自分について考えてみる事にした。そうすると、ひとつの仮説が生まれた。
「……実は我でもよく判っておらぬのですが、可能性がひとつ」
「可能性?」
「体に考えが引っ張られている可能性で御座る。思えば時行様に仕えての二日間、我の落ち着きが無かったように感じます。
前生の我、即ち、頼重殿の前にいるこの我と比べると明らかに気が緩んでおったと、今更ながら思い侍る次第」
「つまり、上杉謙信殿ならばしなかったが、長尾景虎ゆえしてしまった……そういうことだな」
「恐らくは」
謙信は、現在の己の肉体に原因があると考えた。現在の謙信の体は12〜3歳程度であり、この鎌倉−南北朝の時代でも未元服の方が多い年齢である。
謙信は今回の行動をその若さに求めた。若さゆえの無計画性と蛮勇、それに歴戦の戦国大名の記憶が噛み合い起きた事故のようなものだと。
「思慮深いが自制はない、か。難儀だな謙信殿」
「お恥ずかしい限りにて……もしこのような状況でなければ、腹でも切ってしまいたいと思いますな」
「謙信殿。時行様は切腹などで命を散らすことを嫌われる。そのようなことを言うと嫌われてしまいますよ」
「おっと。頼重殿の誤解が解けたのに主君に嫌われてしまっては元も子もありませぬな!」
「「はっはっはっは!!」」
二人が大仰に笑った。突然聞こえてきた笑い声に、その部屋の外を歩いていた小姓が身じろいだ。
だが笑ったのはお互い表面上のみで、二人の内心はまったく冷たいままであった。部屋の空気も依然冷えきっており、二人を熱帯夜の嫌な汗が襲っていた。
「では。何用でここに訪れたのか、改めてお聞かせ願います」
謙信という未来からの存在を受け入れるしかない。そう考えると、頼重の緊張もだんだんと薄れてきた。そうして頼重は、新たに芽生えた本題について尋ねる。謙信もようやく本題に入れる、と一層気を引き締めた。
「承知した。………頼重殿。はっきりと言いますぞ。この戦、我らの負けに御座る」
謙信は冷徹に言い切った。結果を知っているのもあるが、やはり現状を考えると、どうしてもこの戦いで勝利することは叶わないと謙信は判断する。
頼重もそこに驚きは無いのか、古拙な微笑みを崩さない。
「……未来では北条の負けと伝えられているのか」
「頼重殿!濁さないで下され。未来が見えるというのならば、この戦の先も知ろしめしておられるはず」
笑みを顔に貼り付け続け、どこか人ごとのような口ぶりの頼重に謙信は声を荒げる。ずいと身を乗り出し、眼光を鋭く突き刺す。されど頼重の表情は変わらない。
「見るべきはその後。鎌倉を失った後なのです。よもや頼重殿───貴殿は時行様を殺させるつもりはあるまい」
「当たり前だ。負けて死ぬのは私たち諏訪の者達だけでいい」
この謙信の発言には、頼重は笑みを消して言い返す。頼重にとって、もはや我が子同然となっている時行を殺させるなどというのは、頼重にとっても心外だったためである。
その言質に謙信は満足し、ようやく己が目的を頼重に告げ始める。
「時行様に天下を取らせるにはどうすればいいか───その施策を練るためには情報が必要。ならば情報を得るしかないと、この屋敷に訪れようと思った次第に」
「情報を得てどうするつもりで?」
「この乱が終われば皆、散り散りになり申す。その際、時行様に付き従うのは我ら僅かな郎党のみにございます」
「……謙信殿!……それ以上は」
謙信がそこまで言えば頼重もその真意を理解できたらしく、あまりに
「時行様が天下へ至る策を練るには、年長者たる我が適任では御座らんか」
「景虎!主従の分を弁えよ!時行様が天下を狙っているとはいえ、その道は時行様の物。お前がけして決められるものではないことだ。お前のその言い分は、時行様を己が野心の傀儡とすると取られてもおかしくはない!」
はっきりと言葉にした謙信。匂わすのみならば擁護できたものの、これには頼重も怒りを露わにする他なかった。だが頼重の怒りも謙信はそよ風のように受け流し、言葉を繋ぐ。
「ははッ。それは心得ております。しかしながら!かの郎党は皆子供で御座る。土地も銭も米も無く、実力も備わって御座らぬ。これで天下に挑めるなどとお思いか!」
「あの子たちは確かに子供だが、この乱れた世でも生きていける強い子らだ。貴殿が気にするようなことはない」
「強い子とは言えど子供であるぞ!何れかの後援を得ねば戦すらままならぬ。ならば我が経験で土地を、実力を得るしかなかろう。頼重殿がやったように時行様を支え、成長させるのと大差ありませぬ!」
「私と同じなどと言うところが自惚れだと言うんだ!私が……どのような気持ちで時行様に接してきたか、新参者には分からないだろう。
そもそも時行様の本領は逃げ。土地や民を持てば、優しい時行様はその逃げに迷いが出てしまう。逃げ上手が逃げを止めれば、尊氏には………勝てないのだ」
激しい口論が続く。頼重は時行の性質、謙信は道理で物を語っているため、互いの主張のそりは合わずに一歩も譲らない舌戦となる。
頼重は謙信の戦上手を知らないし、謙信は時行の逃げ上手を見たことがないため、『土地』というものの価値について認識の乖離があるのだ。
その口論は幾分にも続いた。逃げてこその時行と、逃げていては掴めない『天下』という代物。その矛盾が二人の主張の衝突を激化させた。本来なら戦上手の謙信の言うことの方が正しいのだが、立ち塞がるのがあの足利尊氏というのがネックとなっていた。
『軍神』と呼ばれた楠木正成でさえ、終ぞ敵わなかった足利尊氏。その強さの根幹、尊氏の肉体に巣食う【神】を知っている頼重だからこそ、時行が逃げを失うことを極端に恐れた。
逃げて逃げて逃げ続け、神が尊氏からいなくなるまで逃げる。それが尊氏に勝てる唯一の方法である。謙信がどれほど戦上手でもそれは揺るがないと頼重は考える。
「尊氏の強さは人の尺では測れない!幾ら戦が上手くとも、人が勝てるようなものではないのがアレなのだ」
「では何故!此度この乱を起こされた!尊氏に勝てぬ以上、負けは必定では御座らぬのか。時行様の本領が逃げなどと申すのならば鎌倉を取るなど目立つばかりの悪手ではあらんか」
「な………くッ」(しまった。余計なことを言ったか)
失言を突かれた頼重は、余計な追求をされないように押し黙る。
両者とも息があがり、服の裏には玉の汗をかいていた。口論を続けていた室内がようやく静かになり、揺れ動き続けていた灯りの炎のゆらぎも治る。
この束の間の静寂を破ったのは、謙信の方からだった。
「話が逸れておりますぞ頼重殿。今の問題は、我を信任するか否かであろう」
「………!」
その言葉を聞いた頼重は、ふっと自身の熱が冷めていくのを自覚した。
「………ふぅ」
白熱する内、気付けば尊氏や天下の話をしていた。頼重は冷静さを失っていたと自省する。
気付けば、顎に汗が集まって雫のようになっていた。汗が体温を奪っていく。熱帯夜だが、少し肌寒いと感じるほど身体が冷え切っていく。
二度目の静寂が訪れた。両者とも先ほどとは打って変わって、穏やかな表情をしていた。謙信は自慢げに
(……景虎は優秀そのものだな。何を言っても理に適った反論をしてくる────時行様を任せるならばこの上なく頼もしい)
と、いつからか頼重は心の中で負けを認めていた。
あれだけ意固地に謙信を否定していた頼重だったが、自らの主張が弱いことは重々承知していた。主従を控え、時行への尊重をすることなどで天下を取れたら苦労しないのだ。謙信の現実的な路線に論で打ち勝つなど初めから不可能に等しかった。
「謙信殿」
「ははッ」
頼重は
本音を言えば、今も頼重はそれを認めたくはない。時行には、もう誰にも縛られずに自身の道を歩んで欲しいと思う。我が子のように大切な時行をこんな男に任せる。それを許容しなければならない頼重の覚悟はなべてならない。
「………土地を持っても、時行様の『逃げ上手』は発揮できるのか」
ただひとつの懸念は、時行の『逃げ』が失われてしまうこと。逃げることを辞めれば、尊氏に追いつかれる。現に今、鎌倉に居座った途端、尊氏に追い詰められている最中なのだ。
「単身で逃げるというのは難しくなるでしょう」
「……そうか」
頼重が表情に影を落とす。
「されど」
対して謙信は、にやりと口角を上げる。
「逃げにも様々あり申す。退きながら戦うも逃げ、砦や城に籠ることも武士としては逃げで御座る。
御懸念の尊氏は所詮、攻めてくるとしても京からの遠征。おおよそ四ヶ月も城で耐えれば、尊氏は帰らざるを得なくなりましょう。要は、周囲の豪族どもには負けず、尊氏が来たら疾く疾く逃げて城に籠ればよろしい」
(全く、屁理屈を)
「屁理屈も理屈に御座る」
「やっぱり心の中読めてるよね?」
「……くふっ!はははは! どうでございましょうな」
頼重がツッコミを入れると、唐突に気が抜けたのか、謙信はカラカラと大笑した。小僧のように腹を抱える。頼重はそんな様子を頭を抱えながら「やれやれ……」と溢した。
頼重が立ち上がる。謙信は素早く平伏し、額を畳に擦り付ける。上杉謙信から長尾景虎に戻る時が来たのだ。謙信の纏っていた覇気はすっかり鳴りを潜めていた。
頼重は景虎に目もくれず、スタスタと歩いて出ていく。襖を開けて廊下に踏み出すと、ちらと振り返って
「景虎、此の武功次第だ。明日からまたこの時間にここに来い。私が情報を色々と纏めておいてやろう」
と独り言のように言った。景虎が頭を上げた時には、周囲に誰の気配もなかった。部屋を照らしていた灯りを吹き消して景虎も廊下に出る。今にも引っ付きそうな瞼をこれでもかと見開いて、一瞬の眠気を覚ます。
(
欠伸をしながら景虎はそう思った。