黄金色の研究   作:名主権兵衛

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一章「響くは蹄鉄」

 朝から、ロンドンには細い雨が降っていた。

 降るというより、街そのものに雨が染み込んでいるようだった。

 空は低く垂れこめ、煤煙を吸った雲が街の屋根を押し潰さんばかりに覆っている。軒を連ねる煉瓦造りの建物は黒く湿り、煙突から吐き出された煙は雨に叩かれ、行き場を失って路地へ沈んでいた。

 黒い車が道路を横切る。

 車輪が濁った水溜まりを裂き、泥水を跳ね上げる。その音が遠ざかれば、あとには雨の音と、どこからともなく響く鐘の音だけが残った。

 そんな灰色の街を、ひとりのウマ娘が歩いていた。

 コツリ。

 濡れた石畳に踵が落ちる。

 また、コツリ。

 尻尾まで覆いつくす赤いレインコートは雨粒を弾き、その裾から細い雫を絶え間なく落としている。彼女のウマ耳はコートのフードに備え付けられた専用のポケットに収まっているが、それでも雨粒が落ちるたび、耳は鬱陶しそうにピクリと動く。

 

 ──ウインバリアシオン。

 スコットランド・ヤードに警部として籍を置くウマ娘である。

 やがて彼女は、見慣れた建物の前で足を止め、既に開かれた鉄門をくぐる。

 途端に、雨音が遠くなった。

 しかし、外の陰鬱さから逃れられたわけではない。むしろヤードの内部には、ロンドンの憂鬱をそのまま煮詰めたような重苦しさがあった。

 濡れた外套の臭い。古びた紙とインク。昨夜から居残っている刑事が燻らせる煙草の残り香。

 磨かれてなお黒ずんだ床の上を、刑事や巡査が忙しなく行き交っている。誰かが書類を運び、誰かが低い声で証言を読み上げ、その向こうではタイプライターが乾いた音を絶え間なく刻んでいた。

 犯罪と、それを追う人間たちの澱が、建物そのものに染みついている。

 雨の日のヤードは、いつにも増して息苦しい。

 レインコートから滴る水をさほど気にも留めず、歩き慣れた廊下を進んでいく。

 自分のデスクまで、あと少し。

 

「おはようございます、シオン警部」

 

 声を掛けられた。ブロンドの男が書類を小脇に抱え、湿った朝によく似合う、なんとも煮え切らない顔で立っていた。

 

「おはようございます」

 

「……早速ですが、お電話が」

 

「あたしに?」

 

「ええ」

 

「誰からです?」

 

 男は答えなかった。

 代わりに、人差し指をそっと上へ向けた。

 天井。いや──その上。

 

「…………」

 

 シオンの耳が、わずかに伏せられた。

 

「なるほど」

 

 誰なのか、聞くまでもなかった。

 小さく息を吐き、首筋をほぐすように一度だけ首を傾ける。そのまま自分のデスクまで歩いていくと、置かれていた黒電話の受話器を取り上げた。

 

「ウインバリアシオン警部」

 

 予想通りの声だった。

 

「トーマス署長。おはようございます」

 

「挨拶はいい」

 

 ずいぶんと機嫌が悪い。

 

「昨夜の事件について聞いた」

 

「早いですね」

 

「私の耳に入らないと思っていたのか?」

 

「いいえ。遅くとも昼までには呼び出されると思っていました」

 

 電話口の向こうで、返答の代わりに大きな、まさしくシオンに聞こえるように吐かれたため息の音がした。

 

「捜査に一般人を関わらせたそうだな」

 

 シオンは答えなかった。否定するつもりがないからだ。

 

「それも、現場に入れたと聞いている」

 

「……はい」

 

 声が一段低くなる。

 

「何を考えている」

 

 その言葉に、シオンはほんの少し目を伏せた。

 昨夜の光景が脳裏をよぎる。

 あの部屋。

 あの奇妙な痕跡。

 そして──そこにいた、一人のウマ娘。

 

「捜査上、必要だと判断しました」

 

「必要?」

 

「はい」

 

「相手は警察官ではない。探偵ですらない。事件とは何の関係もない一般人だろう」

 

「承知しています」

 

「承知していて巻き込んだのか」

 

 今度こそ、シオンは口を閉ざした。

 そこを問われれば、反論はできなかった。自分の判断が間違っていたとは思っていない。あの場で彼女の力を借りなければ、事件はおそらく別の結末を迎えていた。その確信は、今も揺らいでいない。

 だが、その考えと、警察官として一般人を事件へ巻き込んだ責任とは、別の話だった。

 

「……申し訳ありません」

 

 シオンは静かに言った。

 

「あたしの判断で、無関係だった人物を危険に晒しました。それについて言い訳をするつもりはありません」

 

 受話器の向こうで、わずかな沈黙があった。

 

「だが?」

 

 さすがに長年署長を務めているだけはある。

 シオンは苦笑した。

 

「ですが、あの場で彼女の助力を受けたこと自体が誤りだったとは思っていません」

 

「…………」

 

「同じ状況に置かれれば、あたしはおそらく──」

 

 言いかけて、やめた。どのような言いつくろいをしても意味がないというのは、とうにわかり切っていたからだ。

 

「次は、一般人を巻き込まずに済む方法を探します」

 

「そうしてくれ」

 

 署長の声には、呆れが混じっていた。だが、話はまだ終わっていないらしい。

 

「それで?」

 

「はい?」

 

「その一般人だ」

 

 シオンのウマ耳が、ぴくりと動いた。

 

「報告書を読んだ。どうにも腑に落ちん」

 

「どの辺りがでしょう」

 

「全部だ」

 

 即答だった。

 

「現場に居合わせただけの一般人が、我々より先に事件の異常性に気づいた。お前が見落としていたものを指摘し、その後も捜査に関与した。挙げ句の果てには──」

 

 署長はそこで言葉を切った。

 

「……あの結末だ」

 

 シオンは窓へ目を向けた。

 ガラスを雨粒が伝っている。一筋の雫が、ゆっくりと下へ落ちていった。

 

「ウインバリアシオン」

 

「はい」

 

「いったい、何者なんだ。そのウマ娘は」

 

 シオンはすぐには答えなかった。

 何者。そう問われてみれば、自分もまだ、その答えを持っていない。ただ──。

 あの日。

 初めて彼女と出会った瞬間のことなら、はっきりと覚えている。

 

「……署長」

 

「なんだ」

 

「少し、長い話になります」

 

「構わん」

 

 シオンは椅子を引いた。腰を下ろし、受話器を持ち直す。

 窓の向こうの、その灰色を眺めているうちに、意識はゆっくりと数日前へ遡っていく。

 まだ、自分が彼女の名さえ知らなかった頃へ。

 

「では──最初からお話しします」

 

 シオンは静かに目を細めた。

 

────黄金色の研究────

 

 ──あの日も、捜査はいつもと変わらない手順で、順当に進んでいくはずだった。

 午前中に数件の雑務を片づけた私は、小休止がてら給湯室で紅茶を淹れた。紙コップから立ちのぼる湯気を眺めながらデスクへ戻り、ようやく一口含んだ、その時だった。

 ポケットの中でスマートフォンが震えた。

 私用のものだ。

 勤務中にこちらへ電話をかけてくる人間は限られている。そして、その限られた人間がわざわざ私用の番号を使う時は、たいてい碌なことが起きていない。

 画面に表示された名前を確認する。

 フィリップ。

 私は通話ボタンを押した。

 

「シオン」

 

 自分の名だけを告げる。

 

『フィリップです』

 

 電話口からは、低い、落ち着いた声が流れた。

 

『確認していただきたい現場があります』

 

 私は紙コップへ視線を落とした。つい今しがたまで湯気を立てていた紅茶が、ひどく場違いなものに見えた。

 

「すぐ行く」

 

 それだけ告げて通話を切った。

 飲みかけの紅茶をデスクに置き去りにして、私はコートを掴んだ。

 

◇ ◇ ◇

 

 現場へ着いた頃にも、雨はまだ降っていた。ロンドンでは珍しくもない、傘を差すべきか迷う程度の小雨だった。けれど、濡れた煉瓦と灰色の空、それに青白く明滅する警光灯が揃うと、街は途端に陰気な顔を見せる。

 すでに規制線が張られていた。

 その向こうには、何が起きたのかを一目見ようと野次馬が群がっている。スマートフォンを頭上へ掲げて撮影している者までいた。

「通してください。警察です」

 警察手帳を見せながら人垣を抜ける。

 それでも道を譲らない者には肩を差し入れ、半ば強引に押し退けた。

 ようやく規制線の内側へ入る。

 

「警部!」

 

 聞き覚えのある声に顔を向けると、規制線の内側からフィリップがこちらへ歩いてくるところだった。茶色い無精髭に脂ぎった髪、普段なら死んだ魚を思わせる気怠げな目をした男だが、この時ばかりは珍しく瞼がしっかりと開いている。

 

「見てください、警部。またありましたよ」

 

 挨拶もそこそこに、彼は透明な証拠袋をこちらへ掲げた。中に入っていたのは、小さな瓶だった。

 瓶そのものに、これといって目を引く特徴はない。問題は、その外周に巻きつけられた金色の紙だった。ラベルと呼ぶにはいささか粗雑で、商品名も製造元も記されておらず、金色の用紙を適当な大きさに切って貼りつけただけのように見える。

 私はそれを知っていた。

 

「……また、これっすか」

 

「ええ。どうも最近、縁がありますね」

 

 最初に見たのは二週間ほど前だった。

 夜明け前、テムズ川沿いの遊歩道で男性が死亡しているのが発見された。目立った外傷も争った形跡もなく、検視の結果、死因は薬物の服用による中毒死。遺体の傍らには金色の紙を巻いた小瓶が転がっており、捜査本部はその中に入っていた薬物を自ら服用したものと判断した。

 その一週間後には、別の場所で女性が死亡した。閉店後の雑居ビル、その非常階段で発見され、こちらも死因は服毒によるものだった。そして、その傍らにも同じような金色の瓶が残されていた。

 二人には何の接点もない。年齢も職業も生活圏も違えば、死亡した場所も離れており、それぞれを担当した捜査班さえ異なっている。

 服毒による自殺。

 その手段が同じだったことを除けば、二つの死を結びつけるものは何もない。

 ──いや。

 もう一つだけある。

 金色の瓶だ。

 そして今、三本目が私の目の前にあった。

 

「…………」

 

 私は証拠袋越しに瓶を見つめた。

 

「やっぱり、変じゃないっすか」

 

「何がです?」

 

「これですよ。前の二件にもあったでしょう」

 

「ああ……」

 

 フィリップはようやく得心したようだったが、それでも大して気に留めた様子はない。

 

「最近、闇市で流行ってる薬か何かじゃないですかね」

 

「闇市?」

 

「出所のわからない鎮静剤とか、睡眠薬とか、そういう類ですよ。見てください、このラベル。商品名も製造元もない。まともな流通品には見えないでしょう」

 

「だから三人とも、たまたま同じものを?」

 

「むしろ、そう考える方が自然じゃないですか?」

 

 フィリップは証拠袋を軽く持ち上げた。

 

「仮にこれが闇で出回ってる薬だとすれば、三人とも同じものを手に入れて、それを使った。それだけの話でしょう。自殺に使われた薬が同じだったからって、それだけで三件全部を殺人にはできませんよ」

 

 言われてみれば、その通りだった。

 同じ薬物が市場に出回っているのなら、それを複数の人間が手にしていても不思議ではない。三人とも服毒死しているという事実さえ、瓶の中身が自殺に用いられる類の薬物だったと考えれば、むしろ自然に説明できてしまう。

 それに、過去二件では第三者の関与を示す証拠が見つかっていない。争った形跡もなければ、無理やり薬を飲まされたと判断できる痕跡もない。少なくとも、殺人事件として扱うだけの材料はなかった。

 それはわかっている。

 捜査官としてなら、私だってフィリップと同じ結論を出すべきなのだろう。

 それでも、どうにも引っかかった。

 

「……三人とも、同じ薬で?」

 

「今回のはこれから鑑識ですよ。前の二件は同系統だったはずですけど」

 

「瓶も同じ。死に方も同じ……」

 

「だから、その薬がそういう用途で出回ってるんでしょう」

 

 フィリップはあっさりと言った。

 理屈は通っている。

 それなのに私は、金色の瓶から目を離すことができなかった。

 一度なら偶然で済む。二度なら、同じ薬を手にした人間が同じ選択をしたのだと考えることもできる。だが三度目となれば、その金色がどうしても単なる偶然には思えなかった。

 もっとも、そんなものは勘でしかない。

 何が不自然なのかと問われても、まだ説明できない。三人に接点があるわけでもなければ、誰かに薬を飲まされた証拠があるわけでもない。

 ただ、別々の場所で、互いに何の関係もない人間が、同じように毒を飲んで死に、その傍らに同じ金色の瓶を残している。

 その出来すぎた一致だけが、喉に刺さった小骨のように取れなかった。

 

「それで、今回も?」

 

「ええ。今のところは自殺で見ています」

 

 フィリップは証拠袋を下ろすと、背後にある建物を親指で示した。

 

「ガイシャは中です。こっちへ」

 

 その先に建っているのは、古い煉瓦造りの倉庫だった。周囲では新しいオフィスビルや集合住宅への建て替えが進んでいるというのに、そこだけが時代に取り残されたように佇んでいる。雨に濡れた赤黒い壁には黒ずんだ染みが広がり、錆の浮いた鉄扉の向こうは昼間だというのに薄暗い。窓のいくつかは内側から塞がれ、中の様子を窺うこともできなかった。

 

「自殺、か……」

 

 私は誰に聞かせるでもなく呟いた。

 この時の私には、それを覆すだけの証拠など何一つなかった。

 ただ、三度目の金色だけが妙に目に焼きついたまま、私はフィリップの背中を追って倉庫へ足を踏み入れた。

 ギィ、と重い音を立てて鉄扉が動いた。開いた隙間から外の光が差し込み、薄暗い倉庫の床を細長く照らしていく。その光が奥まで伸びた時、ようやく被害者の姿が浮かび上がった。

 彼女は椅子に座っていた。

 もっとも、座っていたという表現が適切なのか、一瞬迷ったほどだった。机に腹がつかんばかりに椅子を引き寄せ、その上半身を力なく突っ伏している。両腕は机の上へ投げ出され、横を向いた顔の口元には乾きかけた白い泡がこびりついていた。

 私はその場で足を止めた。

 服毒死。

 もちろん、司法解剖も済んでいない段階で断定することはできない。それでも、その有様には嫌というほど見覚えがあった。先の二件でも、被害者は同じように口元へ泡を残して死亡しており、検視の結果、いずれも薬物による中毒死と判明している。

 金色の紙を巻いた小瓶だけではない。死に方まで同じなのだ。

 

「……やっぱり」

 

 思わず口から漏れた言葉に、隣のフィリップが反応した。

 

「何がです?」

 

「いや……前の二件と、似てるなって」

 

「ああ」

 

 私が何を言い出すのか察したらしい。フィリップは被害者へ目を向けたまま、さほど驚いた様子もなく頷いた。

 

「でも、これは自殺でしょう」

 

「……どうして、そう言い切れるんすか?」

 

「だって、見てくださいよ」

 

 フィリップは室内を指した。

 

「まず出入口。鍵こそ掛かってませんでしたけど、こじ開けられた跡はない。窓も全部内側から閉まってるし、床にも争った形跡はありません。それにガイシャの服も乱れてない。ここまで見た限りじゃ、誰かに無理やり連れ込まれたようには見えないでしょう」

 

 確かにそうだった。

 倉庫の内部は埃こそ積もっているものの、大きく荒らされた形跡はない。机も椅子も所定の位置にあり、床に何かが倒れたり引きずられたりした跡も見当たらなかった。

 

「それに──」

 

 フィリップは机の上を示した。

 被害者の右手の近くには水の入ったペットボトルがあり、その傍らには蓋の開いた小さな容器が置かれている。例の金色の瓶が発見されたのも、この机の上だったという。

 

「毒物は手元、水も用意されてる。身体を押さえつけられた跡もなければ、口の周りに無理やり何かを押し込まれたような傷もない。ここまで見る限り、自分の意思で飲んだと考えるのが一番自然でしょう」

 

「でも、誰かに飲まされた可能性は?」

 

「可能性だけならありますよ。でも、その誰かがいた痕跡がない」

 

 フィリップは室内を見渡した。

 

「入口にこじ開けられた跡はない。窓は閉まってる。室内にも争った形跡はないし、ガイシャの服にも目立った乱れはない。財布もスマホも残ってるから、物盗りとも考えにくい。それで毒物の容器が本人のすぐ傍にある」

 

 一つ一つ並べられると、確かに筋は通っていた。

 

「前の二人だって、ほとんど同じだったでしょう?」

 

 それが、一番引っかかっているのだ。

 先の二件でも、被害者はいずれも服毒によって死亡していた。第三者に毒を飲まされたと考えるだけの痕跡はなく、傍らには金色の瓶が残されていた。それぞれの現場だけを見れば、自殺という判断にさほど不自然なところはない。

 けれど、それが三度続いている。

 

「三人とも同じ薬を手に入れて、自分でそれを飲んだ。それだけの話じゃないですかね」

 

「……三人とも?」

 

「警部があの瓶を気にしてるのはわかりますよ。俺だって三回も見れば気味が悪いとは思います。でも、闇で同じ薬が出回ってるなら、同じものを使って自殺する人間が何人か出たって不思議じゃないでしょう」

 

 フィリップはそう言って、もう一度被害者へ目を向けた。

 

「少なくとも、この現場には殺人を疑う理由がない。今回も自殺で間違いないですよ」

 

 ──カツン。

 鋭い音が響いた。

 私は反射的に口を閉じ、フィリップもまた言葉を止めてこちらを見た。

 

「……今の、聞きました?」

 

「聞いた」

 

 何か硬いもの同士を打ちつけたような音だった。それも、古い建物が軋んだにしては妙に澄んでいる。例えるなら、静まり返った法廷でガベルを一度だけ振り下ろしたような、短く、それでいて耳に残る音だった。

 二人してしばらく耳を澄ませてみたものの、その後に続くものはない。フィリップは天井を見上げ、それから古びた壁へ目をやった。

 

「……まあ、こんな建物ですからね。どっかで何か落ちたんでしょう」

 

 ──カツン。

 

 また鳴った。

 

「…………」

 

 今度は私の耳がぴくりと動いた。

 一度目は不意を突かれたが、二度目なら聞き逃さない。私は意識を集中させ、ウマ耳をゆっくりと音のした方角へ向けた。

 倉庫の中ではない。

 壁や鉄扉に反響しているせいで距離までは掴めないが、少なくとも音の発生源はこの室内にはなかった。もっと向こう──開け放たれた鉄扉を抜けた先から聞こえている。

 

「……外?」

 

 私は踵を返した。

 

「え?」

 

「今の音。外からです」

 

 フィリップを残し、来た道を戻る。鉄扉へ近づくにつれて雨上がりの湿った空気が入り込み、外にいる警官たちの話し声も次第にはっきりしてきた。

 そして扉を抜けたところで、私は妙なことに気づいた。

 規制線の周囲に立つ警官たちが、揃って同じ方向を見ていた。

 野次馬たちも、同じだった。

 スマートフォンを掲げる者、何事かと声を潜めて囁き合う者。その誰もが事件現場ではなく、なぜか一つの方向へ視線を集めている。

 私はそれを辿った。

 そして──見つけた。

 規制線の向こう、野次馬の最前列に、一人のウマ娘が立っていた。

 黄金の髪は、左右で色を違える耳のあいだから豊かに流れ、頬を縁取る房の向こうには、青紫を帯びた菫色の瞳が覗いている。伏せ気味のまぶたに、わずかに持ち上げられた顎。笑み一つ浮かべていないにもかかわらず、その整った目鼻立ちには近寄りがたいほどの気品があった。

 私服に包まれた細身の身体はすらりと背筋を伸ばし、胸元では両腕をゆったりと組んでいる。肩にも指先にも余計な力はなく、片脚へ僅かに重心を預けただけの立ち姿さえ妙に堂々としていた。規制線のこちら側にいるのは私たちで、向こう側にいる彼女はただの野次馬のはずなのに、なぜかこちらの方が一段低い場所から見上げているような錯覚さえ覚える。

 そして何より異様だったのは、その眼差しだった。

 彼女は事件現場をただ眺めているのではない。

 倉庫の入口を見たかと思えば、窓へ移り、濡れた路面へ落ち、壁をなぞり、最後には規制線の内側を行き交う捜査官たちへ向けられる。その視線は忙しなく動いているわけではないのに、一度として同じ場所に留まっていなかった。

 周囲の野次馬がスマートフォンの画面越しに少しでも現場を覗き込もうとしている中、彼女だけは端末を取り出してすらいない。

 ただ、見ていた。

 いや──観察していた、と言うべきなのかもしれない。

 そして時折、右足の踵が僅かに浮いている。

 私はその仕草を見て、先ほどから聞こえていた音の正体を悟った。

 あいつだ。

 私は規制線へ近づき、彼女の前で足を止めた。

 

「……あの、申し訳ありませんが、捜査に支障をきたしますので、もう少し後ろへ──」

 

「三件目か」

 

 まるでこちらの言葉など初めから存在しなかったかのように、彼女は呟いた。

 

「あの……はい?」

 

「言葉がわからんのか。三件目か、と訊いた」

 

 こちらを一瞥することさえなく、彼女は規制線の向こうにある倉庫を見据えたまま言葉を紡いでいる。

 

「何のことを言ってるんすか」

 

「惚けるな。これで三人目なのだろう」

 

 その横柄な態度に腹が立つより先に、妙な引っかかりを覚えた。

 三人目。

 確かにそうだ。

 二週間前と一週間前、そして今日。いずれの現場にも金色の瓶が残され、被害者は服毒によって死亡している。

 けれど、それはあくまで私が勝手に気にしている共通点にすぎない。

 スコットランド・ヤードは三件を別々の自殺として扱っている。少なくとも、同一犯による連続事件などという発表はしていないはずだ。

 

「……何で、三件だと?」

 

 初めて彼女の視線が動いた。

 ほんの一瞬だけ、菫色の瞳がこちらを捉える。

 しかし、すぐに興味を失ったように倉庫へ戻された。

 

「毒殺だ」

 

 私は足を止めた。

 

「……何を」

 

「聞こえなかったか?」

 

 彼女は腕を組んだまま、さも退屈そうに続けた。

 

「今回のも、前の二人と同じだ。毒を呷って死んだ。そして貴様らは──」

 

 そこで初めて、その口元が僅かに歪んだ。

 

「──それを自殺だと思っている」

 

 ぞくり、と背筋を冷たいものが這った。

 違う。

 こいつは「服毒死だ」と言っているのではない。

 毒殺だと言っている。

 三人とも、自ら毒を飲んで死んだのではない。

 何者かに殺されたのだと。

 

「……殺されたって言いたいんすか」

 

「他に何と聞こえた?」

 

「でも、前の二件は自殺で──」

 

「そう結論づけたのは貴様らだろう」

 

 淡々と返された。

 私は言葉に詰まった。

 確かに服毒死であること自体は公になっている。新聞にも載ったし、調べようと思えば一般人でも知ることはできる。

 だが、三件を結びつける金色の瓶についてはどうだった。

 少なくとも私は、警察がその共通点を公表した記憶がない。

 ましてや三件目の被害者は、つい先ほど発見されたばかりなのだ。

 なのに、この女は最初から三件を一つのものとして数えている。

 そして──殺人だと断定した。

 額に冷たい汗が滲んだ。

 ──まさか、目の前にいる彼女自身が犯人なのではないか。

 そう考えた途端、それまで不可解だったものが妙に筋の通った形を取り始めた。スコットランド・ヤードは、まだ三人の死を一つの事件として扱っていない。過去二件は服毒による自殺として処理され、今回も同じ見立てで捜査が始まったばかりだというのに、この女は現場を遠巻きに眺めただけで「三件目」と言い、あまつさえ三人とも自殺ではなく、何者かに毒殺されたのだと断言している。

 あまりにも知りすぎている。

 実行犯は現場へ戻る、とはよく言われる話だ。まして同じ手口による犯行が三件目にまで及んでいるにもかかわらず、我々はいまだ事件同士の関連性にさえ気づいていないのだから、犯人がそこに優越感を覚え、自分を捕まえられない警察を嘲笑うために姿を現したとしても不思議ではない。そう考えれば、この全能者じみた態度にも説明がつく。何もかも見通しているのではなく、自分で仕掛けた犯罪なのだから知っていて当然であり、それを知らない私たちが右往左往する姿を、こうして特等席から眺めているだけなのだ。

 私は生唾を飲み込んだ。もし本当にそうなら、ここで取り逃がすわけにはいかないが、だからといって今すぐ周囲の警官を動かすのは愚策だ。相手はウマ娘である。本気で逃走を図られれば、こちらが包囲を完成させるより先に規制線を飛び越え、人混みへ紛れ込まれる可能性がある。ならば、まずは警戒させずに会話を続け、その間にさりげなく周囲へ合図を送って──。

 そこまで考えたところで、それまで倉庫へ注がれていた菫色の瞳が、すっと私を捉えた。

 正確には、その瞳はまず私の顔を見て、それからほんの一瞬だけ、私が先ほど視線を送った警官の方へ流れた。何も言わないまま彼女の右足がゆっくりと持ち上がり、その踵が石畳へ振り下ろされる。

 ──カツン!

 間近で聞くその音は、倉庫の中で反響していた時とはまるで違った。硬く澄んだ響きが耳の奥まで突き抜け、鼓膜にひびでも入ったのではないかと思うほどの衝撃に、私は思わず肩を震わせた。

 

「違う」

 

「は……? 何が……」

 

「余を犯人だと決めつけただろう」

 

 心臓が跳ねた。何を馬鹿な、と否定するより先に、先ほど倉庫で聞いた二度の音が頭の中で蘇る。フィリップが今回も自殺で間違いないと結論づけた時、そして最初の音を古い建物から何かが落ちたのだと片づけた時にも、同じ音が鳴っていた。

 そこでようやく気づいた。あれは苛立ちに任せて踵を鳴らしていたのではない。誰かの考えが間違っている時、それを正すように彼女はああして踵を打ちつけるのだ。まるで教師が出来の悪い生徒の答案に、赤いペンで大きなバツ印でもつけるように。

 そして、それ以上にまずいことにも気づいた。

 ──私の考えを読まれている。

 もちろん、本当に頭の中を覗いたわけではないだろう。私が周囲の警官へ目をやったことや、知らず知らずのうちに身体を強張らせていたことから察したのかもしれない。だとしても、勘が良いなどという言葉で済ませられるものではなかった。

 疑惑が晴れたわけではない。むしろ、この女をこのまま帰すわけにはいかないという思いは強くなっていた。ただし、先ほど考えた通り、相手はウマ娘だ。本気で逃げられれば追いつける者はそういない以上、強引に身柄を押さえるより、どうにか刺激せず、自分から署まで同行するよう仕向けた方がいい。

 

「き、決めつけただなんて、とんでもないっすよ。それに、毒殺だなんて何の根拠があって……」

 

 我ながら、白々しいにもほどがあった。

 彼女も同じことを思ったのだろう。今度は踵を鳴らすことさえせず、菫色の瞳を細めると、心底呆れたように短く息を吐いた。

 

「見ればわかる」

 

 彼女は、まるでそれが世界で最も当然の答えであるかのように言うと、再び規制線の向こうへ視線を戻した。その菫色の瞳は倉庫の入口から窓、雨に濡れた石畳、半ば錆びついた鉄扉へと静かに移っていく。野次馬たちが事件そのものに興味を寄せているのに対し、彼女だけは建物そのものを読んでいるようだった。

 

「まず、被害者がここで死ぬために自らこの倉庫を選んだという考えが不自然だ」

 

「……不自然?」

 

「見たところ、この建物は被害者の所有物ではない」

 

 思わず眉をひそめる。

 確かにそうだ。しかし、その事実はまだ現場へ来たばかりの私たちですら詳細を確認している最中である。

 

「この倉庫は、随分前からヘンダーソンの持ち物だ」

 

 彼女は何気なくそう言った。

 ヘンダーソン、とは誰のことなのか。私は一瞬だけ言葉を失ったが、彼女はそんな疑問に答える気など毛頭ないらしく、そのまま話を続ける。

 

「被害者がここを借りていたという話も聞かんし、少なくとも住居でも職場でもない。では訊こう。貴様なら自ら命を絶つ時、わざわざ見知らぬ老人の倉庫を選ぶか?」

 

「それは……」

 

「もっとも、自宅では家族に見つかる。職場なら騒ぎになる。人目を避けたいという心理自体は理解できる。だが、それでも自分と何の縁もない建物へ入り込み、そこで毒を呷るというのは妙だ。しかも鍵の掛かっていない古い倉庫だぞ。誰が出入りするかもわからん。静かに死を選ぶ者が、そんな不確かな場所を選ぶ理由は薄い」

 

 彼女は腕を組み直し、わずかに顎を持ち上げた。その仕草は、こちらを言い負かしたことを勝ち誇っているようにも見えて、私はなんだか無性に腹が立ってきた。

 だが、腹が立つことと、言っていることが間違っているかどうかは別の話だった。

 確かに一理ある。私自身、三人が同じように服毒して死亡し、その傍らに同じ金色の瓶が残されていることを、単なる偶然として片づけきれずにいたのだ。フィリップの言うように、闇市で出回っている薬を三人が偶然手にしただけなのかもしれない。それでも胸の片隅には、三件の自殺の裏に何か別の意図が潜んでいるのではないかという疑念が、ずっと小さなしこりのように残っている。

 そして、私が何も言い返せなくなったと見るや、彼女は規制線の向こうにある倉庫を見据えたまま、さも当然のことのように言った。

 

「もっと中を調べたい」

 

「……は?」

 

 あまりにも平然と大きな要求をしてくるものだから、一瞬、返事が遅れた。

 当然、認められるはずがない。事件現場はまだ鑑識による検証すら終わっておらず、まして目の前にいるのは警察関係者でもなければ、身元すら明かしていない一般人である。そんな人間を規制線の内側へ入れるなど、捜査官として考えるまでもなく却下すべき要求だった。

 ところが、私はすぐに「駄目だ」と言えなかった。

 もし、この女を中へ入れたら。

 外から眺めているだけで、私たちが三件を関連づけていないことを見抜き、被害者が殺された可能性までたどり着いた女が、実際の現場を間近で見たら何を見つけるのだろう。そんな好奇心とも探求心ともつかない衝動が腹の底でぐるぐると渦を巻き、警察官としての常識とせめぎ合っていた。

 

「……いや、でも──」

 

 どう答えたものかと決めあぐねていた、その時だった。

 

「──警部」

 

 背後から呼ばれて振り返ると、現場に出ていた警官の一人が立っていた。彼はまず私を見て、それから規制線の向こうにいる金色のウマ娘へちらりと目をやると、何やら言いにくそうに眉を寄せながら近づいてきた。

 

「どうしたんすか?」

 

「目撃情報が取れました。早朝、この近くで不審な人物を見たという証言です」

 

 それまで腹の中で渦巻いていた好奇心が、すっと鳴りを潜めた。

 

「不審な人物?」

 

「はい。時間帯から考えて、今回の件と関係している可能性があります」

 

「特徴は?」

 

 尋ねると、警官はすぐには答えなかった。一瞬だけ躊躇するように私の肩越しへ目をやり、それから一歩近づいてくる。その仕草だけで、なぜ彼がこんなにも言いにくそうにしているのか、なんとなく察してしまった。

 私も自然と耳を寄せる。

 警官は周囲に聞こえないよう、ほとんど囁きに近い声で告げた。

 

「……金色の長い髪に、茶色のパンツを穿いていたそうです」

 

 その瞬間、私は目を見開いた。

 まさかと思いながら、ゆっくりと視線だけを横へ動かす。

 そこには、先ほどと何一つ変わらない姿で、あのウマ娘が立っていた。

 雨上がりの鈍い空の下でもひときわ目を引く、豊かな金色の長髪。その下へ視線を落とせば、細身の脚を包んでいるのは茶色のパンツだった。

 一致している。

 あまりにも、綺麗に。

 

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